「中学受験社会/歴史/上巻」の版間の差分

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→‎はじめに: 旧石器時代 のみ査読。
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→‎はじめに: 査読(弥生時代まで):誤字訂正、読点の大幅削減、Rubyテンプレート統一、文体整理、漢字の使用。:全体的に見て読点が多かった。また、漢字の使用をやたらと避けているように感じた。
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*世紀
{{ruby|世紀|せいき}}」とは、100年ごとに区切って、年を数える単位です。イエス・キリストが生まれたとされる西暦1年から始まります。西暦1年から西暦100年までが1世紀です。西暦101年から西暦200年までが2世紀です。西暦2001年から西暦2100年までを21世紀と言います。たとえば、105年は2世紀、1853年は19世紀です。
 
== {{ruby|旧石器時代|きゅうせっきじだい}} ==
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=== {{ruby|氷河期|ひょうがき}} - 1万年前のくらし ===
 
大昔、 (具体的には1万年くらい前) までは、地球は'''{{ruby|氷河期|ひょうがき}}'''と言って、今よりもずっと冷えていたのです。その結果、海水面は今よりも低く、ユーラシア大陸と日本は陸続きだったのです。そのため、大陸の北の方から'''マンモス'''や'''オオツノジカ'''が、南の方から'''ナウマンゾウ'''などの陸上動物が日本にやってきました。これらの動物の化石が、日本列島でも発見されています。
 
[[File:Sinomegaceros yabei - National Museum of Nature and Science, Tokyo - DSC06925.JPG|thumb|left|200px|オオツノシカの{{ruby|骨格標本|こっかくひょうほん}}]]
 
古い時代の物が発掘される場所を '''{{ruby|遺跡|いせき}}''' と言います。長野県の {{ruby|[[w:野尻湖遺跡|野尻湖遺跡]]|のじりこいせき}} などから、ナウマンゾウの化石が見つかっています。この発見により、ユーラシア大陸と日本が陸続きで、ナウマンゾウやオオツノジカが渡って来たことが証明されました。
 
これらの動物達と同じくらいの時期か、しばらくあとに、人間もやってきたと考えられています。それが日本人の{{ruby|[[wikt:祖先|祖先]]|そせん}}です。
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=== {{ruby|旧石器時代|きゅうせっきじだい}} ===
[[ファイル:JapanesePaleolithic VariousChippedStoneTools.jpg|サムネイル|石同士を打って作った打製石器]][[File:National park stone tools.jpg|thumb|440px|外国での石器の例]]
'''{{ruby|石器|せっき}}'''といって、石をくだいて とがらせた物や、石をみがいて つくった物が見つかっています。おそらく、石器は動物の狩りをしたり、野菜や果物をとったりするときなどに利用されたのだろうと考えられています。
 
石を打ち砕いて作ったと思われる石器を'''<span style="color:red">{{ruby|打製石器|だせいせっき}}'''</span>と言います。打製石器を多く使っていた時代を '''{{ruby|旧石器時代|きゅうせっきじだい}}''' と言います。この旧石器時代は、後述する縄文時代よりも、さらに古い時代です。縄文時代の石器には、旧石器時代とは違い、{{ruby|磨製石器|ませいせっき}}という、石同士を磨き合わせて作った石器があります。旧石器時代には、まだ磨製石器はありません。また、土器が製造されてなかったため、この時代は、「'''先土器時代'''」や「'''無土器時代'''」とも呼ばれます
 
==== {{ruby|岩宿遺跡|いわじゅくいせき}} ====
[[ファイル:ObsidianOregon.jpg|thumb|250px|アメリカ合衆国オレゴン州レイク郡で採取された黒耀石]]
群馬県の '''岩宿遺跡''' からは、一万年以上前にできた地層から打製石器のかけらが見つかっています。岩宿遺跡の石器は、{{ruby|相沢 |あいざわ ただひろ}}という青年により19461949年に発見されました。
 
相沢により、群馬県の関東ローム層の地層から、石器のような{{ruby|黒耀石|こくようせき}}の かけら 欠片が発見されます。相沢は、この破片を大学に調査してもらおうと思い、明治大学に石の破片の調査を依頼しました(※ 学校名の「明治大学」は、おぼえなくて良い)。学者の調査で、この遺跡が一万年以上前の遺跡であることが分かり、日本に今までなかったとされた旧石器時代があったことが証明されました
 
== {{ruby|縄文時代|じょうもんじだい}}――土器の使用 ==
[[File:Jomon Vessel with Flame-like Ornamentation, attributed provenance Umataka, Nagaoka-shi, Niigata, Jomon period, 3000-2000 BC - Tokyo National Museum - DSC05620.JPG|thumb|250px|縄文土器]]
地球の氷河期から数千年つと、氷河期が終わり、地球は暖かくなり、海面は上昇し、日本列島は海に周囲を囲まれた島になりました。
 
このころ、日本列島に住んでいる人々は土器 を作りだしました。その土器に縄の模様がついているので、この土器は {{ruby|'''縄文土器'''|じょうもんどき}} と呼ばれます。
 
今から約1万6,500年前 (紀元前145世紀) から、今から約3,000年前 (紀元前10世紀) あたりまでの時代を、{{ruby|<span style="color:red">'''縄文時代'''</span>|じょうもんじだい}}と言います。
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[[File:Yoshinogari-iseki tateanashiki-juukyo.JPG|thumb|250px|right|弥生時代の竪穴式住居 (復元、吉野ヶ里遺跡) 。]]
縄文時代の人の家の住居は、{{ruby|'''たて穴式住居'''|たてあなしきじゅうきょ}} (竪穴式住居) といって、地面に穴をほりさげたあとに、柱を立てて草ぶきの屋根をかけただけの住居にすんでいました。{{ruby|住居|じゅうきょ}}と(これ、家 (後述建物) のこと弥生時代す。も同じ)
 
[[File:Kasori midden preserve north.jpg|thumb|200px|{{ruby|加曽利貝塚|かそりかいづか}}の北貝層断面]]
縄文人の{{ruby|集落|しゅうらく}}があったと考えられる場所からは、貝がらなどを含む、生活ごみたく発掘んでてきした。この貝がらが多くあるような場所を <span style="color:red">'''{{ruby|貝塚|かいづか}}'''</span> と言います。
 
前述しましたが、縄文時代の石器には、打製石器の他に、石同士で表面を磨き合わせて作った {{ruby|<span style="color:red">'''磨製石器'''</span>|ませいせっき}} が見つかっています。磨製石器は、石の{{ruby|槍先|やりさき}}や、石の矢じり、{{ruby|斧|おの}}などに使われていました。
 
動物の骨でつくった <span style="color:red">'''{{ruby|骨角器|こっかくき}}'''</span> という{{ruby|刃物|はもの}}も、みつかっています。{{ruby|釣り針|つりばり}}や もり (水中の魚を突き刺す武器) などに使用されたと考えられています。
 
[[Image:JomonStatue.JPG|thumb|right|200px|亀ヶ岡遺跡で出土した土偶]]
縄文時代の遺跡から、{{ruby|<span style="color:red">'''土偶'''</span>|どぐう}}という、女性のような形の、土を焼きかためた人形が見つかる場合があります。土偶 (どぐう) は、食料が増えることを{{Ruby|ったり (|いの}}ったり) 、女性の安産 いのったものだと考えられていますが、本当なのかは不明です。
 
 
有名な貝塚として、{{ruby|大森|おおもり}}貝塚が知られています。明治時代にアメリカ人のエドワード・モースが大森貝塚を発見しました。この大森貝塚の発見がきっかけとなり、日本各地で貝塚の調査や発掘が始まりました。それ以外にも、福井県の{{ruby|鳥浜|とりはま}}貝塚や千葉県の{{ruby|加曽利|かそり}}貝塚があります。
 
=== {{ruby|三内丸山遺跡|さんない まるやま いせき}} ===
[}}ファイル:Reconstructed Pillar Supported Structure.jpg|right|thumb|300px|六本柱建物 (復元) ]]
青森県の '''三内丸山遺跡''' からは、栗の木を、{{ruby|栽培|さいばい}}した形跡が見つかっています。また、多くの土器や石器のかけらもみつかっています。大型の{{ruby|掘立て柱|ほったてばしら}} の穴も見つかっています。掘立て柱の用途はまだ分かっていません。ヒスイの玉や、黒曜石で出来た刃物のようなものも見つかっています。ところが、ヒスイはこの地ではとれず、新潟県の{{ruby|糸魚川|いといがわ}}などの他の土地で取れるので、他の地域と{{ruby|交易|こうえき}}があったと考えられています。
 
この三内丸山遺跡は、縄文時代を知る遺跡として代表的な遺跡です。
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[[ファイル:Oguruwa shell mounds-Flexed burial.jpg|300px|屈葬]]
 
縄文人の死者の骨は、手足を折り曲げて、{{ruby|葬|ほうむ}}られている遺体が多く見つかっています。このような葬り方を{{ruby|屈葬|くっそう}}と言います。この姿勢で葬った理由は、まだ分死者ら発生すると考えられていた悪霊を寄付けないようにするためと考えられています
 
{{clear}}
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〜'''米づくりがはじまる'''〜<br>
[[Image:YayoiJar.JPG|right|250px|thumb|弥生式土器 (やよいしき どき) 。<br>紀元1世紀から3世紀に製作されたもの。東京都 大田区 の 久が原 で出土。 (東京国立博物館所蔵) ]]
紀元前の5世紀ごろ、ユーラシア大陸の中国 (ちゅうごく) や朝鮮半島 (ちょうせんはんとう) あたりの人々から、米による稲作 (いねさく) が、日本につたわりました。
 
米作りは、まず西日本につたわり、西日本から東日本へと、米作りが広がっていき、東北地方まで広がりました。
 
この時代の農具 (のうぐ) の多くは、まだ、木製 (もくせい) です。ただし、米作りとともに鉄器 (てっき) の技術 (ぎじゅつ) も日本に伝わっているので、一部では鉄を用いた農具も見つかっています。
 
穂から米をとるのに、{{Ruby|石包丁 (|いしぼうちょう)}} が、使われました。
 
 
* 弥生式土器 (やよいしき どき)
また、このころ、土器は、縄文土器よりも うすくて かたい {{Ruby|<span style="color:red">'''弥生式土器'''</span> (|やよいしき どき) }} をつくるようになりました。'''弥生土器''' とも呼ばれます。「弥生」 (やよい) とは、学者が発見した場所が、東京の弥生町 (やよいちょう) で見つかったので、「弥生式」「土器」と、よばれています。
 
縄文土器と弥生土器のちがいは、弥生時代のころには、土器をつくる技術が進歩したので、土器の形が わったのだろうと考えられています。
 
* {{Ruby|高床式倉庫 (|たかゆかしき そうこ) }}
米の保管 (ほかん) には、{{Ruby|<span style="color:red">'''高床式倉庫'''</span> (|たかゆかしき そうこ) }}で保管されました。高床倉庫 (たかゆかそうこ) とも、言います。
 
高床式倉庫が高いのは、ねずみ などの動物が入りづらくするためというのが主な理由だろうと考えられています。風通しをよくし、湿気を逃ため、という理由もあるでしょう。ねずみの害をふせぐという理由の有力な根拠として、地面から床までの柱の、柱のてっぺん頂上「かえし」がついていて、動物などが登れないように工夫した高床式倉庫が見つかっています。
 
<gallery widths=200px heights=200px>
Image:Takayukasikisouko.JPG|高床式倉庫 妻側より (復元、神奈川県、大塚・歳勝土遺跡)
File:Yoshinogari-iseki takayukashiki-souko.JPG|高床式倉庫 (復元、吉野ヶ里遺跡)
</gallery>
 
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{{clear}}
 
* 金属器 (きんぞくき)
[[ファイル:DotakuBronzeBellLateYayoi3rdCenturyCE.jpg|thumb|銅鐸 (日本の青銅器) ]]
 
大陸や朝鮮半島から米作りがつたわると共 (とも) に、{{Ruby|青銅器 (|せいどうき)}} や鉄器 (てっき) などの金属器 が、伝わります。そして、日本でも弥生時代中に、金属器がつくられるようになります。
 
青銅 (せいどう) とは、銅 と すず とを、とかしてまぜあわせた金属でつくられた、合金 (ごうきん) です。
 
「すず」とは、金属の材質 (ざいしつ) のうちのひとつです。
 
青銅器には、銅剣 (どうけん) や、{{Ruby|銅矛 (|どうほこ)}}{{Ruby|銅鐸 (|どうたく)}}{{Ruby|銅鏡 (|どうきょう)}} などがあります。
<gallery widths=200px heights=200px>
File:Koujindani Remains 03.JPG|銅矛と共に出土した銅鐸 (島根県・出雲市の荒神谷遺跡) 。古墳時代の遺跡。
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青銅器は、おもに祭りに使われるようになります。
いっぽう一方、鉄器は、農具や武器などの実用品につかわれるようになります。
 
 
 
* {{Ruby|登呂遺跡 (|とろ いせき) }}
[[File:2004年08月25日竪02.JPG|thumb|240px|right|登呂遺跡 (とろ いせき) 。復元、竪穴式住居。]]
登呂遺跡 (とろ いせき) からは、たて穴式住居と、高床式倉庫 (たかゆかしき そうこ) が見つかっています。水田の、あともあります。水路やあぜ道は、矢板 (やいた) という板で、仕切られています。
 
 
* {{Ruby|吉野ケ里遺跡 (|よしのがり いせき) }}
[[File:Yoshinogari-iseki zenkei.JPG|thumb|440px|right|吉野ケ里遺跡,遠景]]
 
これは佐賀県吉野ヶ里町にあります
 
まわりを{{Ruby| (|ほり)}} でかこまれた {{Ruby|'''環壕集落''' (|かんごう しゅうらく) }} である。
 
人骨からは矢尻が刺さっているものも見つかっている。これらのことから、人々のあいだで争いがあったことが予想できる。
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堀の内側からは、多くの高床倉庫が見つかっています。
 
おそらくは、米作りによって、食料生産が増えたので人口が多くなって、それぞれの集落で、多くの人口を養うために米の生産量を増やす必要が生じて、そのため、土地や水が必要になり、なので、集落どうしで土地や水をめぐっての争いが起きたのだろうと思われています。
 
このような争いの中が、身分の差を作っていった理由の一つだとも思われています。
おそらくは、米作りによって、食料生産が増えたので人口が多くなって、
<br>それぞれの集落で、多くの人口を養うために米の生産量を増やす必要が生じて、
<br>そのため、土地や水が必要になり、
<br>なので、集落どうしで、土地や水をめぐっての争いが起きたのだろうと思われています。
 
このような争いの中が、身分の差を作っていった理由の一つだとも、思われています。
 
この吉野ケ里遺跡は、弥生時代を知る遺跡として、代表的な遺跡です。
 
 
=== {{Ruby|『漢書』地理誌|かんじょちりし}} ===
 
: (かんじょ ちりし)
 
〜中国大陸の歴史書に見る日本〜<br>
 
この頃の日本にはまだ文字がありません。ですが、中国大陸の王朝の国には、文字がありました。
その中国大陸の歴史書から、日本のようす様子も、分かります。
 
中国大陸の、今の中華人民共和国のあたりに、紀元前1世紀ごろの当時あった帝国の'''漢''' (かん) という国の歴史書の『漢書』の中の『地理誌』では、日本の弥生時代のころのようすについても、記述が書かれています。
: (漢書にかかれた漢は、前漢 (ぜんかん) である。前漢については後述。漢には、時代によって前漢と後漢がある。)
 
その頃、漢の人は日本を{{Ruby|<span style="color:red">'''倭'''</span> (|)}} と呼び、日本人を{{Ruby|<span style="color:red">'''倭人'''</span> (|わじん) }}と読んでいます。
 
漢書によると、そのころの、日本は、100あまりの国に分かれており、漢の王朝へ、定期的に貢物 (みつぎもの) を持って、あいさつ に やってくるそうです。
 
日本は、{{Ruby|楽浪郡 (|らくろうぐん)}} のむこうに、あるそうです。楽浪郡とは、今の朝鮮半島のことです。
漢書によると、そのころの、日本は、100あまりの国に分かれており、漢の王朝へ、定期的に貢物 (みつぎもの) を持って、あいさつ に やってくるそうです。
日本は、楽浪郡 (らくろうぐん) のむこうに、あるそうです。楽浪郡とは、今の朝鮮半島のことです。
 
 
ここで、中国大陸の漢の話がでたので、すこし、中国大陸の帝国や王朝について、話しておきましょう。
ここでいう「中国」とは、今でいう中華人民共和国 (ちゅうかじんみんきょうわこく) のある場所にあった国 (くに) や王朝 (おうちょう) のことです。ユーラシア大陸の東のほうにあった、国土の大きな、漢 (かん) などの帝国のことです。
日本国内の広島県や岡山県などの中国地方のことではありませんので、まちがえないでください
 
本書では、中国地方との混同をさけるため、必要に応じて「中国大陸」などの、「中国」以外の表現を用いることがあります。
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{{コラム|中国の王朝の変化|
だって、最初からあったわけではありません。
 
:{{Ruby| (|) }} :古代文明の黄河 (こうが) 文明があったあと、しばらくして{{Ruby| (|) }}という国がありました。
:{{Ruby| (|いん) }} :そのあと、紀元前1500年ごろに、殷 (いん) という国が出きました
:{{Ruby| (|しゅう) }} :つぎに、紀元前1100年ごろに、周 (しゅう) が殷 (いん) をほろぼします。
:紀元前8世紀に、その周が分裂しました
:{{Ruby| (|しん)}}  :紀元前221年に、秦 (しん) が統一します。した
:{{Ruby| (|かん)}}  :その秦 (しん) が漢 (かん) に滅ぼされました
 
漢は一度ほろびます。そのあと、ふたた漢の王朝になったので、前漢 (ぜんかん) と後漢 (ごかん) とに分けられました
 
:さらに後漢が分裂します。
:三国時代 :多くの諸国の中から有力な勢力が三つ勝ち残った三国時代になりました
 
三国時代とは、「三国志」などで有名な、{{Ruby| (|) }}{{Ruby| (|)}}{{Ruby| (|しょく)}} の三国の時代です。
 
三国の中で魏が、もっとも強く、最終的に魏が、三国を統一します。統一したあとの王朝の名は「魏」ではなく、別の名前なのですが、まだませんなくても良いです
 
ここまで、国名だけを、まとめると
 
「殷 (いん) 、周 (しゅう) 、秦 (しん) 、漢 (かん) 、三国時代 (さんごくじだい) 」となります。それぞれの王朝が出来た経緯 (けいい) は、おぼ今は覚えなくていです。
 
 
殷 (いん) の読みの「いん」とか、周 (しゅう) の読みの「しゅう」とかは、日本での読みであり、中国語の読みでは、ありません。小学校の社会科では、用語の読みは、日本語での読みを覚えれば、じゅうぶん十分ろう、と思います。
}}
 
 
後漢の歴史書の{{Ruby|『後漢書』東夷伝 (|ごかんじょ) の「東夷伝」 (とういでん) }}によると、倭の{{Ruby|奴国 (|なこく、なのくに) }}の王が、後漢に外交の使者をおくり、日本から漢に貢物を送ったことが記されています。
{{Ruby| (|) }}とは、100あまり、あった国のうちの一つだと、思われています。
 
[[File:King of Na gold seal.jpg|260px|thumb|left|金印 (きんいん) 。漢委奴国王印]]
[[File:King of Na gold seal imprint 1935.jpg|thumb|right|金印の印文。漢委奴國王印文]]
漢の皇帝の{{Ruby|光武帝 (|こうぶてい)}} は、日本の奴国王に<span style="color:red">'''金印'''</span> (きんいん) を授けたといいます。
 
金印は、江戸時代の1784年に、今の福岡県の博多湾の{{Ruby|志賀島 (|しかのしま) }}で、発見されています。金印の印の面には、文字がほられ、「漢委奴国王」と、ほられています。「漢委奴国王」の日本での読みは、「かん の わ のな こくおう」とか、「かん の わ の な の くに の おう」などと読みます。
 
 
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=== {{ruby|邪馬台国|やまたいこく}} ===
* {{Ruby|『魏志倭人伝 (|ぎし わじんでん) }}
中国大陸の3世紀ごろの歴史書の '''『魏志』倭人伝''' (ぎし わじんでん) では、日本の3世紀ごろは、国の数が30あまりになっていることが分かります。東夷伝では100あまりの国が、魏志倭人伝では30ほどの国まで減っているので、このあいだの長い年月に、統一が進んでいったことが分かります。
 
そして、これら30あまりの国をしたがえた <span style="color:red">'''邪馬台国'''</span> (やまたいこく) が、日本に ありました。邪馬台国で、代表的な地位にあった人間がいます。名を {{Ruby|<span style="color:red">'''卑弥呼'''</span> (|ひみこ) }} という人物で、女の人物です。
 
倭人伝によると倭 (わ) の国では、もともとは男の王をたてていたようですが、戦争が続いたので、卑弥呼を女王にしたようです。
 
 
 
邪馬台国の場所は、2019年現在まだ不明であり、近畿説と九州説があります。 (2014年に記述。)
もし、倭人伝の記述どおりの方向に場所を特定しようとすると、九州の南の太平洋の海の上に出てしまいますので、倭人伝の方向の記述が、あてになりません。
 
邪馬台国の場所の有力な説は、九州北部にあったという説と、奈良県の大和 (やまと) にあったという説です。
 
 
邪馬台国は、魏に、外交の使いを送ります。
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倭人伝によると、卑弥呼の政治は、まじないや占いによるものだそうです。卑弥呼は、宮殿にこもりきりで、人々の前には、ほとんど姿を見せなかったらしいです。卑弥呼の弟が、宮殿に出入りをしていて、卑弥呼からの指示を人々につたえていたらしいです。実務は、弟など、卑弥呼でない人物が行っていたようです。
 
卑弥呼が死ぬと、大きな墓が作られ、また、100人あまりの{{Ruby|奴隷 (|どれい)}} が、いっしょに埋められまし (うめられた) らしいです
 
 
倭人伝により、当時の日本の様子が分かります。
身分の差は、人々のあいだに、すでにありました。道端で身分の違う者どうしが出会うと、身分のひくい側のほうが道をゆずったといいます。
 
服装は、女{{Ruby| '''貫頭衣''' (|かんとうい) }} という、布のまんなかに、顔をだすための穴をあけただけの服を着ていたようです。
 
貫頭衣の画像がないので、外部のサイトなどでさがしてください。