「中学受験社会/歴史/中巻」の版間の差分
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=== 江戸時代初期の政治 ===
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江戸幕府で
大名の支配する領地は{{ruby|藩|はん}}とよばれました。徳川家の親族の大名や、関ヶ原の戦いよりも前に古くから徳川に仕えていた大名は重要な地域や江戸の近くへと配置されました。いっぽう、関ヶ原の戦いのあとに徳川に仕えた大名は、中国・四国や東北など、江戸から遠いところに配置されました。
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1615年、大名を取り締まるための法が作られました。これを{{ruby|武家諸法度|ぶけしょはっと}}といいます。この法に違反すると、領地の没収などの厳しい処分をうけました。また、それぞれの藩の大名の本拠以外の城を全て破壊させ、大名の居城を一つにかぎらせるという命令も
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[[File:Iemitu.jpg|thumb|徳川家光(いえみつ)]]
1635年、3代将軍の'''徳川家光'''のときには武家諸法度に、大名には一年ごとに江戸と領地に半数ずつ住まわせる
また、江戸に大名の妻や子が住まわせられました。
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一方で、参勤交代によって道路などの設備が整い、宿場町も出来ていきました。また、江戸の文化が地方にも広がるきっかけともなりました。
==== 朝廷などの統制 ====
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将軍の補佐をする'''老中'''
臨時に大老が置かれることがありました。大老の地位は老中よりも上で、江戸幕府の最高職ですが、
▲老中の下に、大名を取り締まる大目付と、江戸の町の政治や裁判をおこなう町奉行と、財政の管理をする勘定奉行があります。
このほか、神社や寺の管理を行う寺社奉行があります。
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==== 朱印船貿易 ====
[[File:Dutch-Japanese trading pass 1609.jpg|thumb|300px|right|徳川家康朱印状/オランダ国立公文書館蔵]]
徳川家康の時代のころから、東南アジア方面の国々と貿易をしていました。この貿易には、日本の船に幕府の許可を示す'''朱印状'''が必要でした。朱印状を持っている日本の船を朱印船と呼びました。この朱印船による東南アジアとの貿易を'''朱印船貿易'''といいます。キリスト教が禁止されたあとにも、朱印船貿易は続けられました。
東南アジアのルソン(今のフィリピン)やシャム(今のタイ)に日本人が集団で移り住み、日本町が出来た。
朱印船貿易は3大将軍の家光のときに終わります。
==== オランダとの貿易と鎖国 ====
家康は
スペインに遅れて貿易に参加することになったオランダやイギリスは、キリスト教の布教には関心が
一方、イギリスはオランダとの競争にやぶれ、日本をはなれ
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| 年 || おもなできごと
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| 1613 || 禁教令を全国に拡大適用する
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| 1616 || 外国船との貿易を長崎と平戸
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| 1624 || スペイン人の来日を禁止する
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| 1635 || 日本人の海外渡航の禁止。海外にいる日本人の帰国の禁止する
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| 1637 || 島原
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| 1639 || ポルトガル船の来航を禁止する
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| 1641 || 平戸(
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[[ファイル:Plattegrond van Deshima.jpg|thumb|300px|1824年、もしくは1825年に描かれた出島の鳥瞰図。扇形をしている。]]
このような、江戸幕府による外国人と日本人との交流を減らしていった対外政策は、1800年ごろから鎖国と言われはじめ、明治時代から「鎖国」という用語が広がります。
このよう
▲江戸幕府は長崎のオランダ商館に、外国のようすを幕府に報告書の提出を義務づけました。これを『'''オランダ'''{{ruby|'''風説書'''|ふうせつがき}}』といいます。
==== キリスト教の禁止 ====
当初、幕府は貿易による利益の方を重んじたため、キリスト教の布教を黙認していました。しかし、キリスト教徒(キリシタン)は増加する一方でした。また、神の前での平等を説くキリスト教の教えは、身分を重んじる幕府の方針と対立する可能性がありました。そのため、幕府は1612年にキリスト教を禁止する'''禁教令'''を出します。当初は幕府が直接支配する場所だけに適用されましたが、1613年に全国に適用されるようになりました。
[[Image:Jesus on cross to step on.jpg|thumb|300px|イエス・キリストの踏み絵]]▼
1629年のころから、隠れキリシタンを取り締まるため、幕府は人々にキリストやマリアなどが描かれた銅板の絵(踏み絵)を踏ませ、これを拒否した者はキリシタンであるとして処罰しました。これを絵踏みといいます。
すべての人を、寺院に所属させる制度を作った。これが宗門改め(しゅうもんあらため)である。寺院は、村人の宗派を証明する手続きをする義務を負った。この寺による宗派の証明の制度を{{ruby|寺請|てらうけ}}という。▼
▲また、すべての人を
1637年 九州の島原半島(長崎県)や天草島(熊本県)で、キリスト教の信者や農民3万人あまりによる大規模な一揆が起きます。一揆の理由は、禁教によるキリシタンへの弾圧、および、領主による重い年貢などでした。中心人物となったのは、天草四郎(益田時貞)という少年でした。彼を中心として一揆軍は島原半島の原上にたてこもりましたが、12万人ほどの幕府軍により、一揆は鎮圧されました。この出来事を'''島原・天草一揆'''(島原の乱)といいます。▼
▲1637年 九州の島原半島(長崎県)や天草島(熊本県)で、キリスト教の信者や農民3万人あまりによる大規模な一揆が起きます。一揆の理由は、禁教によるキリシタンへの弾圧、および、領主による重い年貢などでした。中心人物となったのは、天草四郎(益田時貞)という少年でした。彼を中心として一揆軍は島原半島の原
島原・天草一揆のあと、宗門改などが強化され、キリシタンの取り締まりはますます激しくなりました。
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==== 朝鮮との貿易 ====
徳川家康の時代に、{{ruby|対馬藩|つしまはん}}を通して朝鮮との貿易が行われます。秀吉の時代には朝鮮出兵により貿易が中断しましたが、江戸時代に入り日本と朝鮮との国交が回復し貿易が再開します。鎖国のあいだも朝鮮との貿易は幕府に許され、貿易が続きます。
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