「中学受験社会/歴史/中巻」の版間の差分

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椎楽 (トーク | 投稿記録)
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=== 江戸時代初期の政治 ===
==== 大名武士の統制 ====
江戸幕府ではとは、領地の石高が1万石以上の武士を大名と呼びました。そして、大名の支配す1万石に満たない武士で徳川家に直接つかえ領地もの{{ruby|藩|、旗本と御家人に分けられました。旗本ん}}直接将軍に会うこよばができ、幕府の高級官僚や武官に任ぜらました。御家人は直接将軍に会うことはできず、下級役人の職に就きました。
 
大名の支配する領地は{{ruby|藩|はん}}とよばれました。徳川家の親族の大名や、関ヶ原の戦いよりも前に古くから徳川に仕えていた大名は重要な地域や江戸の近くへと配置されました。いっぽう、関ヶ原の戦いのあとに徳川に仕えた大名は、中国・四国や東北など、江戸から遠いところに配置されました。
 
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1615年、大名を取り締まるための法が作られました。これを{{ruby|武家諸法度|ぶけしょはっと}}といいます。この法に違反すると、領地の没収などの厳しい処分をうけました。また、それぞれの藩の大名の本拠以外の城を全て破壊させ、大名の居城を一つにかぎらせるという命令もくだされました(一国一城令)。
 
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[[File:Iemitu.jpg|thumb|徳川家光(いえみつ)]]
1635年、3代将軍の'''徳川家光'''のときには武家諸法度に、大名には一年ごとに江戸と領地に半数ずつ住まわせるという'''参勤交代'''という決まりが付け加えられました。
また、江戸に大名の妻や子が住まわせられました。
 
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一方で、参勤交代によって道路などの設備が整い、宿場町も出来ていきました。また、江戸の文化が地方にも広がるきっかけともなりました。
 
 
==== 朝廷などの統制 ====
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将軍の補佐をする'''老中'''(ろうじゅう)が置かれました。ほかに老中の補佐をする若年寄がいます。老中は幕府による全国支配についての政策を担当し、若年寄は御家人と旗本を管理しました
 
臨時に大老が置かれることがありました。大老の地位は老中よりも上で、江戸幕府の最高職ですが、
さらに、老中の補佐をする若年寄(わかどしより)が、います。
 
老中の下に、大名を取り締まる大目付、江戸の町の政治や裁判をおこなう町奉行、財政の管理をする勘定奉行があります。
政務は、老中が担当します。
 
臨時に、大老が置かれれます。
 
老中の下に、大名を取り締まる大目付と、江戸の町の政治や裁判をおこなう町奉行と、財政の管理をする勘定奉行があります。
 
このほか、神社や寺の管理を行う寺社奉行があります。
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==== 朱印船貿易 ====
[[File:Dutch-Japanese trading pass 1609.jpg|thumb|300px|right|徳川家康朱印状/オランダ国立公文書館蔵]]
徳川家康の時代のころから、東南アジア方面の国々と貿易をしていました。この貿易には、日本の船に幕府の許可を示す'''朱印状'''が必要でした。朱印状を持っている日本の船を朱印船と呼びました。この朱印船による東南アジアとの貿易を'''朱印船貿易'''といいます。キリスト教が禁止されたあとにも、朱印船貿易は続けられました。
この貿易では、日本の船に幕府の許可を示す'''朱印状'''(しゅいんじょう)が必要だったので、そのような朱印状を持っている日本の船を朱印船と呼んだ。この朱印船による東南アジアとの貿易を'''朱印船貿易'''という。
 
2代将軍の秀忠の時代にも朱印船貿易は続き、キリスト教を秀忠が禁止したあとにも、朱印船貿易は続けられた。
 
東南アジアのルソン(今のフィリピン)やシャム(今のタイ)に日本人が集団で移り住み、日本町が出来た。
当時はスペイン人がルソンに進出していた。
 
朱印船貿易は3大将軍の家光のときに終わります。
 
==== オランダとの貿易と鎖国 ====
家康は、いったんイギリスとオランダ日本と貿易することを許し、平戸(長崎県)での貿易が始まりました。そのきっかけは、1600年に豊後(大分県)に流れ着いたオランダ船に乗っていたオランダ人のヤン・ヨーステン(Jan Joosten)とイギリス人のウィリアム・アダムス(william Adams)が幕府の外交の相談役としてつかえたことでした
きっかけは1600年に豊後(ぶんご)に流れ着いたオランダ船リーフデ号に乗っていたオランダ人のヤン・ヨーステン(Jan Joosten)とイギリス人のウィリアム・アダムス(william Adams)であり、この二人が幕府の外交の相談役になったからである。
 
スペインに遅れて貿易に参加することになったオランダやイギリスは、キリスト教の布教には関心がなかありませんでした。その上、オランダは日本との貿易を独占するために、スペインやポルトガルはキリスト教の布教を通じて日本を侵略しようとしている、と幕府につげていました。こうしたこともあて、1624年、幕府はスペイン人の来日を禁止しまし。さらに、1639年にはポルトガル船の来航を禁止します
オランダは日本との貿易を独占するため、スペインやポルトガルはキリスト教の布教を通じて日本を侵略しようとしている、と幕府に、つげていた。
 
一方、イギリスはオランダとの競争にやぶれ、日本をはなれて、イギリスの関心はインドでの貿易に変わっました。
 
けっきょくこうして、ヨーロッパの国のなかで日本と貿易をできる国は、ほぼオランダだけっていっりました。また、明・清(今の中華人民共和国)の船も日本に来ることが認められました。
 
==== 鎖国 ====
江戸幕府は貿易を制限していき、江戸時代の貿易の相手国は最終的にオランダと清(今の中華人民共和国)だけに、かぎられていく。
 
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| 年 || おもなできごと
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| 16131612 || 幕府がキリスト教の禁止令(禁教令)を出し、幕領でのキリスト教が禁止される
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| 1613 || 禁教令を全国に拡大適用する
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| 1616 || 外国船との貿易を長崎と平戸(ひらど)に制限する
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| 1624 || スペイン人の来日を禁止する
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| 1635 || 日本人の海外渡航の禁止。海外にいる日本人の帰国の禁止する
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| 1637 || 島原の乱(しまばらのらん)・天草一揆が起きる
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| 1639 || ポルトガル船の来航を禁止する
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| 1641 || 平戸(ひらど、長崎県)にあったオランダ人の商館を、長崎の出島(でじま)に移す<br />(鎖国の完成)
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|}
 
[[ファイル:Plattegrond van Deshima.jpg|thumb|300px|1824年、もしくは1825年に描かれた出島の鳥瞰図。扇形をしている。]]
なお、長崎は幕府が直接に支配する直轄地である。
 
右年表のようにまた江戸幕府は貿易を独占キリスト教の布教も禁止し、また、制限外国人の自由な移動を原則としていき禁止しした
 
このような、江戸幕府による外国人と日本人との交流を減らしていった対外政策は、1800年ごろから鎖国と言われはじめ、明治時代から「鎖国」という用語が広がります。
また、幕府は、貿易の制限だけでなく、キリスト教の布教も禁止し、また、外国人が一部の地域をのぞいて日本に入れないようにした。
 
江戸オランダとの貿易は、長崎に出島とよばれた人工島で行われました。幕府は、出島にオランダ人を住まわせました。さらに、幕府は長崎のオランダ商館に、外国のようすを幕府に報告書の提出を義務づけました。これを『'''オランダ'''{{ruby|'''風説書'''|ふうせつがき}}』といいます。
オランダは、日本ではキリスト教を布教しないという約束を江戸幕府として、オランダは日本との貿易を江戸幕府によって許されました。
 
このような、江戸幕府よる、外国日本でのヨーロッパ人と日本人との交流かかわり減ら制限していった対外政策は結果のち幕府が西洋江戸時代ついて1800年ごろから鎖国情報言われはじめ、明治時代から「鎖国」という用語が広がり貿易の利益を独占しした
 
オランダとの貿易は、長崎の出島とよばれる人工の島で行われました。幕府は、出島に貿易の仕事をするオランダ人を住まわせました。
 
江戸幕府は長崎のオランダ商館に、外国のようすを幕府に報告書の提出を義務づけました。これを『'''オランダ'''{{ruby|'''風説書'''|ふうせつがき}}』といいます。
 
このように日本でのヨーロッパ人と日本人とのかかわりを制限していった結果、いったん、日本では、江戸幕府が西洋についての情報を独占しました。また、江戸幕府は、貿易の利益も独占しました。
 
==== キリスト教の禁止 ====
当初、幕府は貿易による利益の方を重んじたため、キリスト教の布教を黙認していました。しかし、キリスト教徒(キリシタン)は増加する一方でした。また、神の前での平等を説くキリスト教の教えは、身分を重んじる幕府の方針と対立する可能性がありました。そのため、幕府は1612年にキリスト教を禁止する'''禁教令'''を出します。当初は幕府が直接支配する場所だけに適用されましたが、1613年に全国に適用されるようになりました。
:1612年 家康のころ、江戸幕府は1612年にキリスト教を禁止する禁教令を出す。
 
:1629年〜 絵踏み
[[Image:Jesus on cross to step on.jpg|thumb|300px|イエス・キリストの踏み絵]]
3代将軍の家光の1629年のころから、キリスト教徒を発見するため、踏み絵を用いた絵踏みが行われるようになった。
 
* 踏み絵による絵踏み
 
この時将軍・徳川秀忠の頃には、キリストシタンや宣師への取り締まり禁止厳しを増していきました。そのひそくれてキリスト教を信仰する「隠れキリシタン」がいた。このうな隠キリシタンを取り締まため、幕府は人々にキリストやマリアなど描かれた銅板の踏み絵を踏出てきせるという、絵踏みをさせて、絵踏みをしないものはキリシタンであるとして処罰した。
 
[[Image:Jesus on cross to step on.jpg|thumb|300px200px|イエス・キリストの踏み絵]]
* 宗門改
1629年のころから、隠れキリシタンを取り締まるため、幕府は人々にキリストやマリアなどが描かれた銅板の絵(踏み絵)を踏ませ、これを拒否した者はキリシタンであるとして処罰しました。これを絵踏みといいます。
すべての人を、寺院に所属させる制度を作った。これが宗門改め(しゅうもんあらため)である。寺院は、村人の宗派を証明する手続きをする義務を負った。この寺による宗派の証明の制度を{{ruby|寺請|てらうけ}}という。
 
また、すべての人を寺院に所属させる制度を作りまし。これが({{ruby|宗門改め(|しゅうもんあらため)である}})。寺院は村人の宗派を証明する手続きをする義務を負いまし。この(による宗派の証明の制度を{{ruby|寺請|てらうけ}}という)
1637年 九州の島原半島(長崎県)や天草島(熊本県)で、キリスト教の信者や農民3万人あまりによる大規模な一揆が起きます。一揆の理由は、禁教によるキリシタンへの弾圧、および、領主による重い年貢などでした。中心人物となったのは、天草四郎(益田時貞)という少年でした。彼を中心として一揆軍は島原半島の原上にたてこもりましたが、12万人ほどの幕府軍により、一揆は鎮圧されました。この出来事を'''島原・天草一揆'''(島原の乱)といいます。
 
1637年 九州の島原半島(長崎県)や天草島(熊本県)で、キリスト教の信者や農民3万人あまりによる大規模な一揆が起きます。一揆の理由は、禁教によるキリシタンへの弾圧、および、領主による重い年貢などでした。中心人物となったのは、天草四郎(益田時貞)という少年でした。彼を中心として一揆軍は島原半島の原にたてこもりましたが、12万人ほどの幕府軍により、一揆は鎮圧されました。この出来事を'''島原・天草一揆'''(島原の乱)といいます。
島原・天草一揆のあと、禁教は強化された。
 
島原・天草一揆のあと、宗門改などが強化され、キリシタンの取り締まりはますます激しくなりました。
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==== 朝鮮との貿易 ====
徳川家康の時代に、{{ruby|対馬藩|つしまはん}}を通して朝鮮との貿易が行われます。秀吉の時代には朝鮮出兵により貿易が中断しましたが、江戸時代に入り日本と朝鮮との国交が回復し貿易が再開します。鎖国のあいだも朝鮮との貿易は幕府に許され、貿易が続きます。