「中学受験社会/歴史/中巻」の版間の差分
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→江戸時代: 産業について加筆修正。 |
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城下町などの都市に住む職人や商人などは町人とよばれました。彼らは店や住宅の広さなどに応じた税金を支払っていました。
他に、えた、ひにんと言われる、もっとも身分が低いとされた人々がいました。彼らは
=== 幕府の仕組み ===
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徳川家康の時代のころから、東南アジア方面の国々と貿易をしていました。この貿易には、日本の船に幕府の許可を示す'''朱印状'''が必要でした。朱印状を持っている日本の船を朱印船と呼びました。この朱印船による東南アジアとの貿易を'''朱印船貿易'''といいます。キリスト教が禁止されたあとにも、朱印船貿易は続けられました。
そのため、日本人も活発に貿易を行い、さらに海外に拠点をつくるようになりました。東南アジアのルソン(今のフィリピン)やシャム(今のタイ)にはこのような日本人が集団で移り住み、日本町が出来ました。
朱印船貿易は3
==== オランダとの貿易と鎖国 ====
家康はイギリスとオランダが日本と貿易することを許し、平戸(長崎県)での貿易が始まりました。そのきっかけは、1600年に豊後(大分県)に流れ着いたオランダ船に乗っていたオランダ人のヤン・ヨーステン(Jan Joosten)とイギリス人のウィリアム・アダムス(william Adams)が幕府の外交の相談役としてつかえたことでした。
スペインに遅れて貿易に参加することになったオランダやイギリスは、キリスト教の布教には関心がありませんでした。その上、オランダは日本との貿易を独占するために、スペインやポルトガルはキリスト教の布教を通じて日本を侵略しようとしている、と幕府につげていました。こうしたこともあって、1624年、幕府はスペイン
一方、イギリスはオランダとの競争にやぶれ、日本をはなれました。
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| 1616 || 外国船との貿易を長崎と平戸に制限する
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| 1624 || スペイン
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| 1635 || 日本人の海外渡航の禁止。海外にいる日本人の帰国の禁止する
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==== 琉球王国との交流 ====
沖縄は{{ruby|琉球|りゅうきゅう}}王国
しかし、江戸時代の初め
=== 産業 ===
==== 農業 ====
===== 農地の開発 =====
幕府や藩の財政は百姓からの年貢にたよっており、財政をゆたかにするために農業を発達させる必要がありました。その
江戸時代は貨幣が全国的に流通していたので、武士は年貢米を売って貨幣に現金化していました。▼
治水工事も進み、農地に水を引く灌漑(かんがい)のための用水路が各地にできた。▼
九州の有明湾で干拓事業がされた。▼
[[Image:Japanese-hoe-biccyukuwa,katori-city,japan.JPG|thumb|180px|備中ぐわ]]▼
[[File:Japanese old threshing machine,Senba-koki,Katori-city,Japan.JPG|thumb|left|220px|千歯こき]]▼
備中ぐわ・千歯こき・千石どおしなどが開発された。▼
:千歯こき・・・ 稲(いね)の穂(ほ)から米つぶを脱穀するための道具。くし状の部分が鉄製で、何本もの、くし状の「こき」があるので、一度に多くの穂(ほ)を脱穀できる。▼
===== 新しい農具 =====
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File:Toumi.JPG|とうみ
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▲[[Image:Mizuguruma,human power waterwheel,katori-city,japan.JPG|thumb|right|140px|水車(みずぐるま)、踏み車(香取市)]]
また、灌漑用の道具も開発されました。{{ruby|踏車|ふみぐるま}}や{{ruby|竜骨車|りゅうこつしゃ}}は
===== 商品作物の広がりとその背景 =====
売ることを目的とした、綿・なたね・茶・麻・あいなどの商品作物の栽培も活発になっていきました。特に、綿の生産の発達により、民衆の服は麻から綿に変わっていくようになります。
商品作物の栽培が広がった理由の一つに、農村でも貨幣が広く使われるようになったことがあげられます。このころから、なたね油やごま油のしぼりかすやいわしを干して固めた{{ruby|干鰯|ほしか}}などが肥料に使われるようになります。これらは農村で自給できるものではなく、お金を出して買っていたことから金肥とよばれました。こうした金肥の購入に現金が必要となったのです。
また、米よりも現金化しやすいことに各藩が注目しました。当初は田を商品作物用の畑に変えることは禁止されていましたが、徐々に黙認されるようになります。やがて、財政が苦しくなると、藩は特産品でもある商品作物に注目し、藩の現金収入を増やすために積極的に栽培をすすめるようになりました。
江戸時代には大きな船の建造が禁止されていたことなどから沿岸での漁業が中心でした。一方で、麻でできた丈夫な網ができたため、大量の漁獲ができるようになります。
九十九里浜ではいわし漁が盛んに行われました。獲られたいわしは、肥料に加工されたり油を取ったりしました。
蝦夷地ではにしん漁とこんぶ漁が発達しました。にしんやこんぶはアイヌの人々が獲ったものを松前藩が米などと交換しました。
土佐(高知県)や紀伊(和歌山県)では捕鯨やかつお漁が盛んに行われました。かつおはかつお節に加工されて全国に流通しました。
瀬戸内海では塩田が発達し、製塩がさかんとなりました。
▲* 水産業
==== 工業 ====
===== 工業の発展 =====
さらに、商人や大地主が、生産に必要な設備を買い入れ、多くの働く人をあつめる工場を作り、分業して効率的に生産する'''工場制手工業'''( '''マニュファクチュア''')とよばれる生産様式が発達しました。
▲:商人などが生産に必要な設備や資金などを百姓に貸し与え、百姓が生産して、出来あがった製品を商人が買い取り、商人が販売するという方式。
江戸時代の初期には伊丹(兵庫県)や池田(大阪府)の酒、野田や銚子(共に千葉県)の醤油などが工場制手工業の方法によって発展しました。後に、尾張(愛知県西部地方)の綿織物、西陣(京都府)・足利(栃木県)・桐生(群馬県)の絹織物なども工場制手工業によって生産されるようになります。
* 鉱業
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鉄
:鉄は砂鉄や、釜石(宮城県)の鉄山から。
=== 商業 ===
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