=== 歴史研究と国学のおこり ===
幕政が安定すると、幕府は歴史学に関心を持ち始めた。
また、歴史学や和歌などでは、教育方法が従来は師匠から弟子への秘伝として閉鎖的な教育方法で伝えられてきたが、それを改めようとする風潮が起きてきた。
{{ruby|林羅山(|はやし らざん)}}・{{ruby|林鵞峰(|はやし がほう)}}の林父子は、幕府に歴史書の編纂を命じられて、編年体の歴史書である『{{ruby|'''本朝通鑑'''』(|ほんちょうつがん)}}』を著した。
いっぽう、水戸藩主の{{ruby|'''徳川光圀'''(|とくがわ みつくに)}}は、多数の学者を集めて紀伝体の歴史書『'''大日本史'''』の編集に着手した。
新井白石は、独自の歴史感観にたち『{{ruby|読史余論』(|とくしよろん)}}』および『{{ruby|古史通』(|こしつう)}}』を著した。
{{ruby|'''契沖'''(|けいちゅう)は万葉集を研究していた。徳川光圀は、契沖を援助した。契沖}}は、和歌を道徳的に解釈いしようとする従来の手法を批判し(※ 山川出版や明成社の見解)、文献学的な方法で万葉集を研究して『{{ruby|万葉代匠記』(|まんよう だいしょうき)}}』を著した。
{{ruby|北村季吟(|きたむら きぎん)}}は、綱吉の代に幕府の和{{ruby|歌学方(|かがくかた)}}として登用され、将軍らに和歌を教えるかたわら、『源氏物語』や『枕草子』など古典の研究を行い、注釈書を著した。
{{ruby|戸田茂睡(|とだ もすい)}}は、和歌で、中世以来の制約にとらわれるべきではないと、和歌の革新を説いた。
中世では、和歌に使えない言葉があった。戸田は、その制限を批判した。
=== 儒学の発達 ===
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