「高等学校美術I」の版間の差分

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Honooo (トーク | 投稿記録)
こんな感じかな…しんどかった…ところで,小林よしのりの絵って上手いの?
Honooo (トーク | 投稿記録)
いやー,ほとんどは,高校美術の教科書で書くことじゃないよね。岡田とか小林とか,馬鹿馬鹿しい奴を尊敬してるから,こんなことになるんじゃない?
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== メルクマール ==
:(※ 一般の教科書には無い用語なの単語は覚えなくていい
 
文芸の用語で「メルクマール」というのがあります。もともとはドイツ語で、単なる「目印」(めじるし)という意味です。
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しかし文芸で「'''メルクマール'''」といった場合には、やや特別な意味があり、その特別な意味とは、おおむね「なにかの流行や時代の代表例となる作品や作家のこと」のような意味です。
 
たとえば、マンガ漫画文化で、第二次世界大戦後の終戦直後や復興期のマンガ家として手塚治虫がよくとりあげられたり、彼・手塚の代表作『鉄腕アトム』がよく紹介されますが、このような例がメルクマールです。
 
 
さて、美術史やコンテンツ産業の歴史において注意すべき点は、メルクマールはあくまでも一つの目印(めじるし)にすぎずでありけっして発明の起源ではないことです。ありません
 
 
たとえば、明治時代以降に日本でマンガを始めたのは、けっして手塚が最初ではないです(しかし、世間には誤解している人もいる)ありません。『のらくろ』の田河水泡(たがわ すいほう)とか、手塚いぜん以前の時代の漫画家は、多くいます。
 
 
ゲーム機でも、1980年代のファミコンの発売と普及がよく紹介されるので(この例ではメルクマールはファミコンである)、てっきりファミコンが家庭用ゲーム機の元祖だと誤解す考える人が多くいますが、しかし世界初の家庭用ゲーム機は欧米産のオデッセイですし、日本初の家庭用ゲーム機はエポック社のテレビテニスです
 
 
美術史でも同様で、室町時代に水墨画を広めた雪舟(せっしゅう)は、べつに水墨画の日本での最初の人ではないですよね
 
 
異分野だと、数学の古代ギリシアのユークリッド幾何学も、ユークリッドは別にあの分野の定理ぜんぶの発見者ではなく、その時代に知られていた過去の定理を文献として分かりやすく整理した、数学者です。なので、『タレスの定理』とか『ピタゴラスの定理』(日本でいう『三平方の定理』のこと)とかはよく言われても、『ユークリッドの定理』というのは幾何学では少ないわけです。(整数論で、『ユークリッドの互除法』(ごじょほう)というのはありますね)。
 
戦後(第二次大戦後)日本での「新自由主義」による金融規制緩和や公共機関の民営化の歴史はいつからになるでしょうか。この新自由主義は、日本で2002年ごろの小泉政権が主張していたのが『劇場型政治』ブームでお茶の間にも普及したので、新自由主義の元祖は小泉政権だと考えられることも多いようです。
異分野だと、数学の古代ギリシアのユークリッド幾何学も、ユークリッドさんは別にあの分野の定理ぜんぶの発見者ではなく、その時代に知られていた過去の定理を文献として分かりやすく整理した業績でエライ人です。なので、『タレスの定理』とか『ピタゴラスの定理』(日本でいう『三平方の定理』のこと)とかはよく言われても、『ユークリッドの定理』というのは幾何学では少ないわけです。(整数論で、『ユークリッドの互除法』(ごじょほう)というのはあるが、)
 
 
ともかく、世間の人は、よく誤解で、メルクマール と 発明家・第一発見者とを混同する傾向があります。
 
美術史の今後の学習において、この傾向には気をつける必要があります。世間でいっけん多くの人が言ってる風説でも、マチガイはマチガイです。ガリレオの「それでも地球は回っている」と同じで、世の中にはロクに裏づけ調査もしないで知識人ヅラしてイバってる教会のような人物も多くいます。
 
 
1980年代や1990年代ごろの作家・作品に関する評論でも、よく世間では、メルクマールと発明者とを混同しているかのような評論が見受けられます。
 
しかも、そういう混同のある(ちまたの)評論を批判しようにも、メルクマールとされている作品を批判することにもつながりかねないので(近年の作品はまだ評判が不安定なので、批判しづらい)、ウィキペディアのような場所では、なかなか指摘しづらいのです。
 
 
さきほどの節で批判した、絵を描かないのにマンガ評論している評論家などは、よほど注意ぶかく評論する人でもなかいぎり、だいたい、こういう混同をする人です。
 
まだしも、美術史の新しい学説の提唱のさいに言葉のアヤでマルクマールと発見者とを混同するならよもかく、すでに十分に研究された分野なのに、外部からマチガイを指摘されてもなお、メルクマールと発見者とを混同しつづけるような人は、はなっからマジメに美術史を調べる意欲の無い口先だけの人なので、あまり鵜吞みにしてはイケマセン。
 
 
たとえば、(いくつか前の節でも紹介したが)経済産業省の統計ではアニメ産業の経済規模なんてゲーム産業の1割ていどで微々たるものなのに、アニメを中心に1980~2010年のイラストの流行の変遷を語るインチキ評論家なども多い。
 
 
なにも絵画や娯楽の歴史評論だけでなく、政治評論や経済評論でも、こういった、メルクマール的な出来事と発明者・第一人者を混同してしまうマチガイは、よく起こっています。典型的なのが、戦後(第二次大戦後)日本での「新自由主義」による金融規制緩和や公共機関の民営化の歴史がいつからか、という歴史です。この新自由主義は、日本で2002年ごろの小泉政権が主張していたのが『劇場型政治』ブームでお茶の間にも普及したので、日本では勘違いで、よく新自由主義の元祖を小泉政権だと勘違いしている、頭のわるい大人も、いまだによく世間にはいますし、ネットにも勘違いが蔓延しています。
 
ですが、金融の規制緩和はすでに1990年代の橋本政権から積極的に行われています(金融ビッグバン など)。また、国鉄の民営化などは1980年代の中曽根政権からすでに行われました(国鉄・電電公社・専売公社の民営化)。
 
:小説や物語などの文芸では、「すべての物語の典型的パターンはもう、古代のキリスト教の聖書で、原型が存在している」とすら、言われています。(たとえば評論家の岡田斗司夫氏が、そういう言説があると彼の著作『オタク文化論』などで紹介していた。)
もっとも、政治経済などの分野では、大学や国立研究所や公教育などに国家予算が割かれるなどして、比較的に正確な歴史が研究されるので、こういったメルクマールと源流の混同は修正されます。
:絵柄の起源という主張も同様です。
 
:絵柄の起源なんて言い出したら、ラスコー壁画とかアルタミラ壁画とかのような古代の絵画がもう、万物の絵柄の起源になってしまいます。あるいは、古代エジプトか何かの壁画とかかもしれません。
 
しかし残念ながら、戦後(20世紀後半)の漫画やアニメなどの絵画や美術や娯楽などの世界では、正確な歴史が研究されていなかったりして、そのため、世間の勘違いが放置されたままになっており、メルクマール的な作品・作家とその表現手法の源流の混同がロクに修正されないまま放置されて蔓延しています。
 
このため、漫画やアニメなどの娯楽やコンテンツ産業の通説の歴史では、ネットで素人がたくさん賛同している説でも、明確に間違っている通説も多々あります。
 
 
美術らしく画風に関する歴史の例を挙げるなら、たとえば、2001~2005年ごろまでにパソコンゲーム出身のイラストレーターが多くマンガ家やイラストレーターになってヒットして作品がアニメ化(深夜アニメ)されると、ネットではバカの通説で、ろくに1990年代前半からの肝心のパソコンゲームそのものの絵柄の変遷も調べずに、ネットで気軽に評論の探せる有名マンガやテレビアニメの評論ばかりを探して「このような絵柄の起源は、2001年ごろのマンガ家の誰だれだ! いや、2002年ごろのアニメーターの誰だれだ!」とか言い出す、アニメ風イラストマニアのくせに、ロクにイラストの歴史を調べてようとしない(現代ではグーグル画像検索で簡単に調べられます)、頭の弱い人も、ネットには多くいます(1995年のエヴァンゲリオンのヒットによって、マニアむけ漫画やマニアむけアニメなどの資料が充実しだしたこともあり、それ以前の資料は入手がメンドウなので、バカは情報収集をサボって、95年以前の漫画・アニメをろくに調べていません。またパソコンゲームや95年以前のゲーム機のPCエンジン(ゲーム機)やメガドライブ(ゲーム機)などのゲーム作品の絵柄といった、テレビアニメ以外のアニメ風の絵柄は、まったく調べてない自称・アニメ風イラスト評論家も多くいます)。
 
[[File:Swan neck falsk experiments japanese.svg|thumb|500px|対照実験としてよく紹介されるパスツールの実験]]
 
[[File:Swan neck falsk experiments sealed japanese.svg|thumb|300px|パスツールの実験]]
:仮に、彼の言うとおり「このような絵柄の起源は、2001年ごろのマンガ家の誰だれだ! いや、2002年ごろのアニメーターの誰だれだ!」だとしても、それを証明するためには結局、それ以前の絵柄の調査が必要です。理科で習うように、対照実験が必要による調査です。
 
:なので、歴史の研究では、比較のために、証明したい前の時代についても調べる必要があります。2001~2002年が答えだと証明したいなら、それ以前の90年代を比較のために調べなければなりません。(1990年代の時点ですでに、アニメ評論家の岡田斗司夫の『オタク学講座』や『国際おたく大学―1998年 最前線からの研究報告』で、共著者のアニメ評論家の氷川竜介やマンガなど書籍評論団体の「と学会」(団体名)などの岡田および共著者によって、とっくに1990年代に こういう時間軸での前後を調べる比較調査的なアニメ・マンガの研究手法は提唱されている。なのに2005年以降の近年のネットの自称アニメ評論家は、この程度の基本的な比較調査すら出来ていない人間も多い。)
 
:また、芸術の研究では、たとえば研究でもし○○の答えの業種が「マンガ産業」だの「アニメ産業」だの証明したいなら、証明したい業種とは違う業種も調べる必要があります。イラスト雑誌はどうだったかとか、ゲーム業界はどうだったかとか、オモチャ産業はとか、そういう類似の業種を比較のために調べる必要があります。
 
:なにかの主張の証明には、こういった比較調査にもとづくデータ提示が必要なのが、マトモな学問です。(困ったことに、大学の学者でも、こういう比較調査が出来てないような人がいます。そういう人でも、いったん教授になってしまうと、雇用が保障・保証されてしまい、なかなか解雇されません(それどことか人事権をにぎてったりします)。また、マトモでない研究者を淘汰できない学問分野もあります(いま世間では、そういう学科の評判が、下がっています)。)
 
 
:※ また、そもそも頭の悪い自称・評論家は、よく「○○の表現技法の'''起源'''は△△だ!」とか言い出します。
:また、そもそも、芸術系の研究で、近代以降の作品を「起源」とかいいだす自称・評論家のあつかいは、もうバカ決定でいいです。
:なぜなら、たとえば小説や物語などの文芸では、「すべての物語の典型的パターンはもう、古代のキリスト教の聖書で、原型が存在している」とすら、言われています。(たとえば評論家の岡田斗司夫が、そういう言説があると彼の著作『オタク文化論』などで紹介していた。)
:絵柄の「起源」も同様です。
:絵柄の「起源」なんて言い出したら、ラスコー壁画とかアルタミラ壁画とかのような古代の絵画がもう、万物の絵柄の起源になってしまいます。あるいは、古代エジプトか何かの壁画とかかもしれません。
 
:遅くとも、中世や近世までに、いろんな絵柄の原型となりそうな、大部分のパターンが出尽くしています。
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:あるいはアニメーションやコンピュータグラフィックのように、近代の工業機械が必要な分野の技法だけです。(※ 絵の具や顔料・染料なども工業製品ではあるが、しかし近代以降に特有ではないので、除外する)
 
:なので、絵画の画風などの歴史の研究では、流行がどう「変遷」(へんせん)していったか、などの研究、論評が重要になると思います。
[[File:Rorschach blot 10.jpg|thumb|ロールシャッハ・テストの画像の例]]
:このように、近代以降の手書きの作品には、そもそも「起源」なんて不明確ですから、不勉強な評論家でも、好き勝手に自説に都合のいい主張ができるのです。まるで、心理学でいうロールシャッハ・テストによる精神病の診断みたいなもんで、もう近代以降の作品で「起源」なんていいだす人は、たいてい単に自分の感情を吐露しているだけであり何の分析もできていません。
::(精神病に誤解のないように言うが、ロールシャッハ・テスト自身は、患者に分析させるものではなく、患者の好き勝手な率直な感想を'''医師'''が聞くことにより、患者の深層心理を医師が探るためのものである。なので、精神治療でロールシャッハ・テストを使うのは正しいし、患者に率直な感想を聞くことも正しい。
::しかし、歴史研究において、本来なら医師のような立場でなければならない歴史評論家までもが、好き勝手な率直に「こう見える」みたいな感想を学説として(あたかも定説であるかのように)述べるのは、不合理だし迷惑きわまりない。)
 
:なので、絵画の画風などの歴史の研究では、けっして「起源」を調べるのではなく、流行がどう「変遷」(へんせん)していったかとかを調べるようにしましょう。
 
 
 
あるいは、表現の自由の議論などとも関わりのある表現規制の例をあげるなら、たとえば、90年代前半に「暴力シーンが教育に悪い。犯罪を増やしてる!」などと評論などで批判され始めた映像ジャンルは、漫画やアニメなども含まれますが、しかし主にはホラー映画などのホラー作品です(洋画『13日の金曜日』(いわゆるジェイソン)とか『エルム街の悪夢』(いわゆるフレディ)とかです)。なぜかそれが、現代のネットの素人の通説では、2010年以降の日本のネット評論でアニメ評論が流行してるからか、「90年代の過去にアニメ産業への差別を中心とした差別が、あった」へと置きかわっているデタラメっぷりです(たとえば当時の時事評論マンガ『ゴーマニズム宣言』(小林よしのり 作)で、90年代前半の当時ホラー映画などに規制の動きがあったことが、作者小林によって批判されている)。
 
なお、小林は同じころの『ゴーマニズム宣言』で同人誌即売会イベントに集まる「オタク」を批判しているが、しかし、この時点で小林の批判しているのは、主に商業主義の作品を汚いと考える共産主義者のことである(そもそも小林の作品じたいがアニメ化しており、そこそこの人気アニメであった)。というか、小林じしん、当時はアニメスタジオを経営していた(のちに倒産したが)。のちにアニメ評論家の岡田斗司夫が、マニアむけマンガ作品・アニメ作品への差別をやめようと呼びかけたので、そこで世間が勘違いして「アニメファン」=「オタク」という発想が普及したが、しかし小林のこの例のように、もともとアニメ視聴は割とマンガなどを読む若者のメジャーな趣味であった。なお、90年代前半の小林のいう「オタク」の用語の意味は、あまり統一はされておらず厳密でもなく、たとえば90年代前半のホラー規制などの当時のときは、同人誌即売会の参加者イベントへの批判で少年サンデーや類似のマニア系雑誌などの作品を読むのが小林のいう「オタク」とされていたが、1995年のオウム真理教事件のときはガンダムや宇宙戦艦ヤマトといったSF系アニメのファンが小林のいう「オタク」として批判しており(事件前のオウム教団が当時、勧誘の一例として、おおむね「教団に入信すれば、うちの教団ではガンダムなどの古いSF系アニメなど様々なエンタメをみられますと」的な勧誘も行っていた。なお、オウムはそのほかテレビのバラエティ番組にも出演したり、ヨガなどの健康法の教室も運営していた。低価格のパソコンの販売も行っていた。要するに、単にオウムは勧誘のために流行を取り入れただけである。)、小林の「オタク」の意味があまり統一しておらず、単に、例外として不良文化などを除いたエンターテインメント系のマニア趣味のおとなしい成人男性への蔑称(べっしょう)の意味として用いているにすぎない(なお小林は当時の「オタク」の用法にならっただけにすぎない。)。
 
 
他の表現規制の歴史の例では、1990年代の有害図書運動でマンガを中心に規制を要求されたのが、なぜかアニメ中心への規制にすりかわっている言説もネットによくあります。本来、「図書」という名前のとおり主に書籍である「漫画」が規制を要求されたのに(エロ漫画が規制された)、しかし、おそらく現代の評論家が後知恵で2001年以降の深夜アニメブームからの連想からか「主にアニメが差別・規制・弾圧された」とかのデタラメ歴史を主張している困った人もネットには、よくいます。むしろ、深夜アニメの普及する前の当時のアニメファンは、むしろエロ漫画出身マンガ家などの絵柄を差別する側です(90年代前半の当時は深夜アニメはほぼ無く、アニメ化される作品は少年ジャンプなどの有名マンガ雑誌の作品や、あるいは大手オモチャ会社などの大型スポンサーの作品ばかりだった)。どうやら現代の、自称「アニメ差別に反対するアニメファン」の中では、どうやら90年代前半のマンガ家の江川達也(えがわ たつや)の、セックス描写のあるリアリティのある学園ラブコメ漫画のブーム(『東京大学物語』(江川のマンガ作品のひとつ)はドラマ化もされました)などは、無かったことになっているようです(なお、江川はアニメも制作したことがあり、1980年代には、のちにエヴァを作る庵野たちと共同でアニメ映画の作画をしていたこともある)。なのに現代の素人の自称アニメ・マンガ評論家の脳内では、なぜかアニメ産業が中心になって、そのような際どい表現に果敢にチャレンジしたことに、バカの頭の中では、なっています。
 
本来は「図書」の名のとおりマンガが争点なのに、なぜか、当時は主流でなかったアニメが争点になっているというデタラメっぷりです。
 
{{コラム| 読解力への著しく低い大人がいるので、信用してはいけない |
 
さて、上述のメルクマールの政治経済の例では、小泉政権の民営化の歴史の誤解の話をしました。
 
せっかくなので、読者に教えることとして、世の中には、文章の読解力がすごく低い人がいることを教えます。
 
漢字は読めて単語もいろいと知ってるのですが、しかし文章の読めない人がいるという事を、教えます。文字が読めても文章の読めない人が、大人でも少なくないのです。
 
 
典型的な具体例をあげましょう。たとえば政治の小泉政権について、次のような文章があったとします。
 
:「さて『2000〜2005年ごろの小泉政権の民営化や規制緩和などの悪政のせいで、日本は経済格差が開いてしまった』といわれる。公共機関の民営化路線や民間委託の路線が小泉政権で史上初に始まったと勘違いしている人が世間にはチラホラいるが、しかし民営化は1980年代の中曽根政権のころには既に国鉄や電電公社の民営化が始まったので、小泉政権が初めて公共機関の民営化をしたという俗説は、よってマチガイである。」という文章があったとしましょう。
 
 
この文章を読んで、文章の読めない人はよく「お前は、小泉政権のせいで経済格差が開いたことを認めないのか!」とか、「外資のイヌめ! ハゲタカのイヌめ!」とか「アメリカの手下だな!」とかいいます。
 
例の文章で「マチガイ」だと言ってるのは、あくまで「公共機関の民営化路線や民間委託の路線が小泉政権で史上初に始まった」という部分です(つまり、民営化を始めたのは、少なくとも小泉政権よりも前に中曽根政権が国鉄などの民営化をした事例もあると、指摘しているにすぎない)。なのに、なぜか「2000〜2005年ごろの小泉政権の民営化や規制緩和などの悪政のせいで、日本は経済格差が開いてしまった」が「マチガイ」だと(つまり、「日本は経済格差が開いてない」と文章が主張していると思っている)、読解力の低い人は読み違えます。
 
あるいは、「そうだ! 日本の経済格差は開いていない! 貧乏人のヒガミだ!」とか、文章が主張してもいない事に賛同したりする人がいます。
 
 
あるいは、「いや、小泉政権で、民営化が行われただろ。この文章こそ、間違ってるだろ。」とか、なんの反論(マチガイであることの証明としての反論)になってない、反論のつもりの感想で強く批判しかえす人もいます。
 
 
こういう人は、世間には、けっこう多いのです。
 
なぜ、こうなるのかというと仕組みは、読解力の低い人は、文科系の話題について書かれた文章を「正義か?悪か?」などという判断でしか文章を読んでいません。
 
そして、世間で「正義」とされることを主張するだけで、なにかを検証した気になっています。あるいは、その人の逆パターンで、世間で「正義」とされることを「実は悪だ」と主張するだけで、なにかを検証した気になっている人もよくいます。
 
このような人は、主張が「正義」と「悪」のどちらにせよ、たいてい、『小泉政権』『悪政』『日本』『経済格差』というキーワードしか読めておらず、そのキーワードから、読解力の低い人は脳内で「きっとこの論者は、小泉政権のせいで日本の経済格差が開いたと、小泉を悪だと批判しようとしているんだろう」と、なぜか、まず予測します(すでにこの時点で、おかしい)。
 
しかし、文章を読み進めていくと「中曽根政権」とか「国鉄」「電電公社」とか、その人の「聞き慣れない」用語が出てきて、そして最後のほうで「よって」「マチガイである。」と締めくくるので、読解力の低い人は、「きっとこの論者は、なにか難しいことをいって、小泉政権の悪政をかばおうとしているに違いない! さては『小泉は正義だ』と主張しようとしているな!」とか、怒りくるいます。
 
 
小中高の学校で習う文章は道徳的な文章が多いので、文科系の文章の読解となると、物事を善悪でしか考えられない人がいます。(羅生門とか、文学史で太宰治「人間失格」とか、さんざん習ったのに、それが現実生活での文章読解に、まったく応用されてない人がいるのです。)
 
とくに、政治や経済の話題は、人々の生活に強く関係のあることから、人々はときに政治や経済の話題で感情的になり、善悪しか関心がなくなり、よって文章を読解できなくなります。
 
 
中学校の国語や高校入試の現代文の授業でさんざん、人々は現代文の読解を習ってきたのに、そういう読解法をなぜか、現実社会のさまざまな文章の読解には、応用できなくなる人が、少なからずいます。
 
しかも、こういう文章の読み間違えをする人ほど、なんと「自分の読解力は高い!」と勘違いしています。詩歌などだと、こういう、文章の言ってないことをアレコレと詮索するのが鑑賞の手法として主流だったりもするからです。
 
 
こういう人に、順を追って物事を説明しても無駄です。説明の行為じたいを、プロパガンダか何かだと受け取り、全く受け付けないどころか、こちらを罵倒してきたりします。
 
 
なので、そもそも「これは善か、悪か?」を主張することの多すぎる人は、たいてい頭の悪い人です。数学や物理の勉強で、まず善悪の価値判断をしないように、物事を客観的に分析した場合、そもそも、ふつうは善悪の価値判断は行われません。(ただし、最低限の道徳で「刑務所でもないのに、勝手に殺人するのはいけない」とかのような、最低限の道徳などは例外です。)
 
つまり、議論でヤタラと善悪を主張することの多い人は、こういう調査をサボっているだけなのです。(最低限の道徳「刑務所でもないのに、勝手に殺人するのはいけない」のような主張は普通、歴史の勉強では出てきません。中学・高校の歴史教科書でも、いちいち出てきてないでしょ?)
 
 
そして、第二次大戦後の、戦後の日本では、正義とされているのは日本国憲法の理念ですので、これを連呼しているだけで、何かを証明したつもりになっている頭の悪い人は多く居ますし、同様に、日本国憲法に反対しているだけで何かを証明したつもりになっている頭の悪い人も多く居ます。
 
だから、政治の左翼とか右翼とかの運動家で、いまいち頭のあまり良くない人が多い理由には、こういう側面もあります。
 
そういう人が、歴史教育で単に「公共機関の民営化は小泉政権よりも前に中曽根政権でも行われた」という、世間の人の誤解してそうな歴史的事実を単に述べただけの文章なのに、なぜか右翼も左翼も、「自分の知らないことを言ってるぞ。さてはコイツは敵だな。(自分の知らないことを言ってる奴 = 自分とは違う奴 = 自分たちの敵 に違いない!)」と怒り狂って、反論のつもりで右翼も左翼も自分たちの理念を連呼するのです。
 
 
で、何が言いたいかというと、インターネットで物事の評論をしている人の中も、こういう読解力の低い人が多くいます。アニメやマンガなのドン評論でも同様です。
 
特に、漫画やアニメの評論などは、題材がもともと感情をゆさぶるものだし、子どもでも分かるように単純化した内容なので、ファンのなかには時々、読解力の低い変な人が多くいます。そういう変な人を、これらの業界は、大衆娯楽という性質上、まったく締め出すことができていません。
 
 
たとえば、漫画家の小林よしのり さんが昭和の昔、ガリ勉を揶揄(やゆ)する受験ネタのあるギャグ漫画作品(『東大一直線』)を書いたら、なぜか暴走族から脅迫状が届き、「お前は学歴社会を賛美するのか!!」みたいな内容の文面の脅迫状が届いたと、小林さんは平成の時事評論マンガ「ゴーマニズム宣言」で報告しています。
 
 
そういう読解力に低い変な人がマンガやアニメの界隈には多いので、インターネットでもデタラメなマンガ史/アニメ史の通説でも、まかりとおってしまっています。
 
 
さて、文章読解の例文で具体例をあげましょう。たとえば、例題として次のような文章があったとしましょう(下記の文章の真偽はひとまず、置いておきます。とりあえず、下記のような文章があるとだけ、仮定してみてください)。
 
:「ネットの一部の通説では、1990年代の前半の有害図書追放運動による自主規制の強要で、よく「アニメが規制の槍玉にあがった」と言われるが、しかし当時槍玉にあがったのは主に漫画であり、エロ漫画がよく槍玉にあがった。当時、コンビニで、エロ漫画雑誌が立ち読みできたのだった。
 
:そもそも一般のコンビニでは、アニメのビデオは販売していない。アニメのビデオは2〜3話で値段が数千円〜約1万円と価格も高く、よって多くの消費者には敬遠されていた。漫画やアニメなどの若者むけの創作物に関心のある層は、貯金を節約するためもあって、テレビアニメを見ても気に入った作品についてはビデオテープではなく、原作漫画のある作品については、その原作の単行本を購入していた。
 
:当時、立場の弱いのは、テレビアニメファンではなく、新興の月刊漫画雑誌のファンやエロ漫画などのマイナー漫画ファンであった。また、オリジナルビデオアニメ(OVA)は、そもそも一般の書店では販売しておらず、よって多くの子どもはそれらのビデオテープを買えない状態であった。子どもでOVAを買えたのは、金持ちの子供であった。
 
 
という文章があったとしましょう(上記の文章の真偽はひとまず、置いておきます)。
 
読解力の低い一部のアニメファンは、この文章を読んで、なぜか「つまりお前は、アニメファンを見下して差別するのか! アニメを規制してもいいのか!」とか、文章の言ってもないことを読み(?)取って、怒り狂います。(当然、怒り狂う彼の脳内では、彼自身の自己評価は「私は差別に反対する「正義の味方」」になっている)
 
あるいは、不良みたいに世間の正義に反発しただけで大人になったつもりのバカは、なぜか「そうだ! アニメを規制しろ!」とか、もとの文章が言ってもないことに賛同(?)したりします。
 
こういう読解力の低い人が、ネットで平気で、過去のマンガ史/アニメ史を評論していたりしますので、高校生の読者はけっして鵜呑みにしてはいけません。
 
 
こういう人に、順を追って物事を説明しても無駄です。説明の行為じたいを、プロパガンダ活動か何かだと受け取り、全く受け付けないどころか、こちらを罵倒してきたりします。さらに彼らは、「自身のマンガやアニメに関するリテラシーが高い」とか「自分は偏見に惑わされない、精神力の高い人間」だとか、奇妙で自惚れた勘違いをしています。
 
 
コンテンツ産業や娯楽産業では、メルクマールとなる作品や現象についての通説には、こういう、最低限の文章読解力すらも無い人でも有名作を知っているので、デタラメな歴史がまかりとおっていたりします。ダマされないように気を付けましょう。
 
}}
 
表現の自由の議論などとも関わりのある表現規制の話をするなら、たとえば、90年代前半に「暴力シーンが教育に悪い。犯罪を増やしてる!」などと評論などで批判され始めた映像ジャンルは、漫画やアニメなども含まれますが、しかし主にはホラー映画などの、ホラー作品でした(洋画『13日の金曜日』(いわゆるジェイソン)とか『エルム街の悪夢』(いわゆるフレディ)とかです)。当時の時事評論マンガ『ゴーマニズム宣言』(小林よしのり 作)で、90年代前半の当時ホラー映画などに規制の動きがあったことが、作者小林によって批判されています。
 
== 歴史に深入りしすぎないように ==