「小学校社会/6学年/歴史編」の版間の差分

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*世紀
{{ruby|世紀|せいき}}とは、100年ごとに区切って、年を数える単位です。西暦1年から西暦100年までが1世紀です。西暦101年から西暦200年までが2世紀です。西暦2001年から西暦2100年までを21世紀といいます。たとえば、105年は2世紀、1853年は19世紀です。
 
 
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魏志倭人伝によると、{{ruby|倭|わ}}の国では、もともとは男の王をたてていたようですが、戦争が続いたので、卑弥呼を女王にしたようです。
 
 
 
邪馬台国の場所は、まだ不明です。
 
もし、倭人伝の記述どおりの方向に場所を特定しようとすると、九州の南の太平洋の海上に出てしまいますので、倭人伝の方向の記述が、あてになりません。
 
邪馬台国の場所についての有力な説は、九州北部にあったという説と、{{ruby|奈良|なら}}県の{{ruby|大和|やまと}} にあったという説です。
 
 
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* 古墳の{{ruby|副葬|ふくそう}}品
[[File:KofunSoldier.jpg|thumb|left|140px|はにわ。{{ruby|武装|ぶそう}}男子立像({{ruby|群馬|ぐんま}}県{{ruby|太田|おおた}}市出土){{ruby|東京|とうきょう}}国立博物館{{ruby|蔵|ぞう}}、{{ruby|国宝|こくほう}}]]
[[画像:HaniwaHorse.JPG|thumb|190px|はにわ。(馬形{{ruby|埴輪|はにわ}}(東京国立博物館)]]
古墳からは、鏡や玉、{{ruby|剣|つるぎ}}などの副葬品が発見されている。ほかにも、'''はにわ''' という、土を焼いて作られた人型や馬型などの置き物が発見されています。
 
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{{ruby|埼玉|さいたま}}県の{{ruby|稲荷山|いなりやま}}古墳から見つかった{{ruby|鉄剣|てっけん}}には、「ワカタケル大王」という名が{{ruby|刻|きざ}}まれた文が発見されました。この文から、この地方の王は、ワカタケル大王に使えていたことがわかります。
 
{{ruby|熊本|くまもと}}県の {{ruby|江田船山|えだふなやま}}古墳 にも、一部が読めなくなっていましたが、「ワ□□□ル大王」という同じ名の刻まれた鉄刀があり、ワカタケル大王の支配する{{ruby|領域|りょういき}}が、{{ruby|関東|かんとう}}地方から{{ruby|九州|きゅうしゅう}}までの広い{{ruby|範囲|はんい}}におよんでいたことがわかります。
 
{{コラム|ヤマトタケルの物語|
{{ruby|皇子|おうじ}}であるヤマトタケルノミコトは、{{ruby|武勇|ぶゆう}}にすぐれていました。かれは父の命令で九州に行き、{{ruby|朝廷|ちょうてい}}にしたがわない{{ruby|豪族|ごうぞく}}である クマソ をたおしました。
 
それから{{ruby|関東|かんとう}}に行き、ひろい野原で焼きうちにあってしまいましたが、きりぬけて、関東を{{ruby|征服|せいふく}}しました。
 
しかし、タケルは帰る{{ruby|途中|とちゅう}}で、病気で なくなりました。そして、タケルは大きな白い鳥になって、{{ruby|大和|やまと}}のほうへ飛んでいきました。
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* {{ruby|仏教|ぶっきょう}}の伝来
また、{{ruby|仏教|ぶっきょう}}も、外国から伝わりました。538年に、{{ruby|朝鮮|ちょうせん}}半島の{{ruby|百済|くだら}}という国の王から、仏像や{{Ruby|経典|きょうてん}}が、日本の{{ruby|天皇|てんのう}}に送られました。
 
仏教は、紀元前5世紀ごろのインドで始まった{{ruby|宗教|しゅうきょう}}です。
 
{{clear}}
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|}
 
日本では、6世紀ごろから、{{ruby|豪族|ごうぞく}}の{{ruby|影響力|えいきょうりょく}}が強まりました。豪族の{{ruby|反乱|はんらん}}や、豪族どうしの争いも起こり始めました。
 
この、豪族どうしの争いで、最終的に587年ごろ、{{ruby|蘇我馬子|そがのうまこ}}が勝ちました。
そして、女性である '''{{ruby|推古天皇|すいこてんのう}}''' による政治が行われましたが、蘇我氏の{{ruby|影響|えいきょう}}下にありました。
 
[[File:Prince_Shotoku.jpg|180px|thumb|聖徳太子]]
 
'''{{ruby|聖徳太子|しょうとくたいし}}'''({{ruby|厩戸王|うまやどのおう}}})は、おばの推古天皇の政治を{{ruby|補助|ほじょ}}する {{ruby|摂政</big>(|せっしょう}}という位につきました。
 
聖徳太子は蘇我馬子と協力し、これらの{{ruby|改革|かいかく}}をすすめる。
摂政とは、天皇のかわりに、政治の実務を行うものです。天皇がなんらかの理由で政治の実務が行えない時に、摂政が、たてられます。歴史的には、天皇が幼い場合や、天皇が女性の場合に、摂政がたてられることが多いです。
 
:聖徳太子の改革は、けっして、蘇我氏を権力から{{ruby|退ける(|しりぞ}}けるためでも、ありません。そもそも、聖徳太子自身が、蘇我氏の{{ruby|親戚|しんせき}}です。
聖徳太子は蘇我馬子と協力し、これらの改革(かいかく)をすすめる。
 
:聖徳太子の改革は、けっして、蘇我氏を権力から退ける(しりぞける)ためでも、ありません。そもそも、聖徳太子自身が、蘇我氏の親戚(しんせき)です。
 
聖徳太子らによる改革のひとつに、<big>{{ruby|十七条の憲法</big>(|じゅうななしちじょう }} {{ruby|憲法|けんぽう}}の制定があります。
 
* 十七条の憲法
聖徳太子らによる改革のひとつに、<big>十七条の憲法</big>(じゅうななじょう の けんぽう)があります。
 
* 十七条の憲法(じゅうななじょう の けんぽう)
役人の心がまえを、記したものです。豪族などに対して、役人としての心がまえを述べたものでしょう。
 
内容を現代風に言いかえると(一部)、およそ、次のようなことが書かれています。
 
1条 :争い(あらそい)をやめ、なかよくしなさい。
2条 :仏教(ぶっきょう)を保護しなさい。
3条 :天皇の命令には、したがいなさい。
12条 :農民(のうみん)などの民(たみ)から、かってに税(ぜい)や貢物(みつぎもの)をとっては、いけません。
17条 :重要なことを決める(きめる)ときには、話し合いで決めなさい。
 
その他にも、いろんなことが書かれていて、全部で17条あるので、十七条の憲法(じゅうななじょう の けんぽう)と言います。
 
 
{{コラム|(※ 範囲外 :) 発展的な話題|
十七条の憲法の文は漢文(かんぶん)で書かれています。この聖徳太子の時代には、まだ、ひらがなが、ありません。
 
のちの歴史書の『日本書紀』(にほんしょき)に、十七条の憲法の原文があります。
 
原文は、けっこう長いです。
:(小学生は、原文をおぼえなくてもいいです。)※ ウィキの編集者用に、原文を記載しています。
 
原文に、読みやすいように送り仮名をつけ、記述の一部を抜粋(ばっすい)すると、
 
 
:一(いち)に曰く(いわく)、和(わ)を以て貴し(とうとし)と為し(なし)、忤(さか)ふること無きを宗(むね)とせよ。(後略)<br/>
:二に曰く、篤く(あつく)三宝(さんぽう)を敬へ(うやまえ)。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。(後略)<br/>
:三に曰く、詔(みことのり)を承り(うけたまわり)ては必ず謹(つつし)め、君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)とす。(略)<br/>
 
(中略)
 
:十二に曰く、国司(くにのみこともち)・国造(くにのみやつこ)、百姓(おおみたから)に斂る(おさめる)ことなかれ。国に二君(ふたりのきみ)非(な)く、民に両主(ふたりのあるじ)無し、率土(くにのうち)の兆民(おおみたから)、王(きみ)をもって主となす。(略)<br/>
(中略)
:十七に曰く、夫れ事独り断むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし。(後略)
 
 
といったふうに、書かれています。
 
:※ 十七条の憲法は、「憲法」と言っても、現代の日本の「日本国憲法」(にほんこく けんぽう)のような、他の法律の基本となる民主主義(みんしゅしゅぎ)の理念(りねん)や、日本国の国家理念(こっかりねん)がふくまれたものとは、ちがうので、混同しないでください。
 
 
<big>「和をもって尊しとなす」</big>と、<big>「篤く三宝を敬え」</big>は、有名な言葉なので、知っておいてください。
 
「詔(みことのり)を承り(うけたまわり)ては必ず謹(つつし)め」も、けっこう有名です。意味は「天皇からの命令には、かならず、したがいなさい。」という意味です。
}}
 
1条 : 争い(あらそい)をやめ、なかよくしなさい。
聖徳太子らの行った重要(じゅうよう)な政策(せいさく)には、外交政策(がいこうせいさく)も、あります。中国大陸を支配していた<big>隋</big>(ずい)という帝国(ていこく)との外交(がいこう)です。ある国と、別の国とが、政治の取り引きをすることを外交(がいこう)と言います。
2条 : 仏教(ぶっきょう)を保護しなさい。
3 : {{Ruby|天皇|てんのう}}の命令には、{{ruby|従|したが}}いなさい。
1212 : 農民(のうみん)などの{{ruby||たみ}}から、かってに税(ぜい)貢物(みつぎもの)をとっては、いけません。
1717 : 重要なことを決める(きめる)ときには、話し合いで決めなさい。
 
聖徳太子らの行った重要(じゅうよう){{ruby|政策|せいさく}}には、外交政策(がいこうせいさく)あります。中国ユーラシア大陸の一部を支配していた<big> '''{{ruby|</big>(|ずい}}''' という{{ruby|帝国|ていこく}}との外交(がいこう)す。ある国と、別の国とが、政治の取り引きをすることを外交(がいこう)と言います。
607年に、外交の使者として <big>小野妹子</big>(おのの いもこ)たちを 隋(ずい)に送ります。<big>遣隋使</big>(けんずいし)の派遣(はけん)です。
 
607年に、外交の使者として <big>'''{{ruby|小野妹子</big>(|おのの いもこ}}''' たちを 隋(ずい)に送ります。<big>この使者を '''{{ruby|遣隋使</big>(|けんずいし)の派遣(はけん)で}}''' といいます。
なお、小野妹子(おのの いもこ)は男だと考えられています。この時代、名前の語尾の「子」がつくのは、女かどうかとは無関係です。なぜ「妹」の文字がついてるのか不明ですが、だれかの妹という情報もなく、名前の由来はまったく不明です。
 
なお、小野妹子は男だと考えられています。
隋(ずい)に外交の使者(ししゃ)を派遣(はけん)するので「遣隋使」(けんずいし)と言います。
 
外交の結果、日本は隋と国交(こっこう)を結びます。国交とは、それまで、つきあいのなかった2つの国どうしが、平和(へいわ)に、かかわりを持ち始めることです。
また、隋(ずい)の文化や制度は日本よりも進んでいたので、多くの文化や制度を、日本は取り入れます。
 
外交の結果、日本は隋と国交を結びました。また、隋(ずい)の文化や制度は日本よりも進んでいたので、多くの文化や制度を、日本は取り入れました
==== そのほかの改革 ====
* 冠位十二階の制(かんいじゅうにかい の せい)
聖徳太子らによる改革には、冠位十二階の制(かんいじゅうにかい の せい)というのもあります。家柄に関係なく有能な役人を採用するための制度です。能力や手柄(てがら)によって、役人に位(くらい)が与えられます。位は、一代かぎりです。
役人の位を12段階に分けたので、このような名前で呼ばれます。これ以前は、家柄によって位が与えられたのが、あらためられました。
 
==== そのほかの{{ruby|改革|かいかく}} ====
(※ 光村図書の小学校教科書で、冠位十二階を紹介している。)
* {{ruby|冠位十二階の制(|かんいじゅうにかい }} せい)
聖徳太子らによる改革には、'''{{ruby|冠位十二階の制(|かんいじゅうにかい }} せい)制'''というのもあります。家がらに関係なく有能な役人を採用するための制度です。能力や手柄(てがらによって、役人に位(くらい)が与えられます。位は、一代かぎりです。
役人の位を12{{ruby|段階|だんかい}}に分けたので、このような名前で{{ruby||よ}}ばれます。これ以前は、家がらによって位が与えられたのですが、あらためられました。
 
(※<!-- 光村図書の小学校教科書で、冠位十二階を紹介している。 -->
 
* {{Ruby|法隆寺|ほうりゅうじ}}の{{Ruby|建立|こんりゅう}}
* 法隆寺
[[ファイル:Horyu-ji08s3200.jpg|thumb|法隆寺。{{ruby|金堂|きんどう}}{{ruby|五重塔|ごじゅうのとう}}]]
[[File:Shakyamuni Triad Horyuji2.JPG|thumb|法隆寺の{{ruby|釈迦三尊像|しゃかさんぞんぞう}}(金堂)]]
 
聖徳太子は、607年に{{Ruby|法隆寺|ほうりゅうじ}}、607年に、建て(たて)させました。法隆寺の場所は、今でいう現在の{{ruby|奈良|なら}}にあります。法隆寺は、現存する木造建築の中で、としては世界最古の木造建築です。法隆寺は、1993年に世界文化{{ruby|遺産に1993年|いさん}}に登録されました。
 
 
==== 聖徳太子の死後 ====
622年に、{{ruby|聖徳太子|しょうとくたいし}}が{{ruby|亡|な}}くなりました。聖徳太子の死後には、{{ruby|蘇我|そが}}氏の{{Ruby|権力|けんりょく}}が強まりました。
622年に、聖徳太子が、死にます。
{{ruby|蘇我馬子|そがのうまこ}}も、626年に、なくなりました
聖徳太子の死後は、蘇我氏が権力が強まります。
蘇我馬子(そがのうまこ)も、626年に、なくなります。
 
まず、蘇我馬子の子である<big>{{ruby|蘇我蝦夷</big>(|そがの えみし}}の権力が強まりました。さらに、馬子の孫であり、蝦夷の子である<big> 蘇我{{Ruby|入鹿</big>(そがの|いるか}} の権力が強まりました
 
<big>'''645年</big>'''、ついに、{{ruby|皇族|こうぞく}}<big>'''{{ruby|中大兄皇子</big>(|なかのおおえの おうじ}}'''と、{{ruby|豪族|ごうぞく}}<big> '''{{ruby|中臣鎌足</big>(|なかとみの かまたり}}''' との協力により、蘇我入鹿は殺害されました。蝦夷は、この事件を知り、自殺しました
 
 
* {{Ruby|大化の改新(|たいか }} {{Ruby|改新|かいしん}}
このあと、中大兄皇子らが権力を取り、さまざまな政治{{Ruby|改革|かいかく}}色々となういました。この皇子らの改革を <big>{{Ruby|大化の改新</big>(|たいか }} {{Ruby|改新|かいしん}} といいます。645年に(ねんごう)を「大化」(たいか)に定めたので、この一連の改革は大化の改新と呼ばれています。
「大化」という号により、日本では、はじめて号が定められました年号をさだめるは、中国大陸の帝国を参考に手本としたのでした
 
==== {{Ruby|改新|かいしん}}{{Ruby||みことのり}} ====
:(かいしん の みことのり)
中国大陸では、すでに618年に隋(ずい)が滅んでおり、<big>唐</big>(とう)という帝国になっていた。日本も、これに対して、政治改革をする必要がありました。