「小学校社会/6学年/歴史編」の版間の差分
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*世紀
{{ruby|世紀|せいき}}
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魏志倭人伝によると、{{ruby|倭|わ}}の国では、もともとは男の王をたてていたようですが、戦争が続いたので、卑弥呼を女王にしたようです。
邪馬台国の場所は、まだ不明です。
もし、倭人伝の記述どおりの方向に場所を特定しようとすると、九州の南
邪馬台国の場所についての有力な説は、九州北部にあったという説と、{{ruby|奈良|なら}}県の{{ruby|大和|やまと}} にあったという説です。
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* 古墳の{{ruby|副葬|ふくそう}}品
[[File:KofunSoldier.jpg|thumb|left|140px|はにわ。{{ruby|武装|ぶそう}}男子立像({{ruby|群馬|ぐんま}}県{{ruby|太田|おおた}}市出土){{ruby|東京|とうきょう}}国立博物館{{ruby|蔵|ぞう}}、{{ruby|国宝|こくほう}}]]
[[画像:HaniwaHorse.JPG|thumb|190px|はにわ。(馬形{{ruby|埴輪
古墳からは、鏡や玉、{{ruby|剣|つるぎ}}などの副葬品が発見されている。ほかにも、'''はにわ''' という、土を焼いて作られた人型や馬型などの置き物が発見されています。
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{{ruby|埼玉|さいたま}}県の{{ruby|稲荷山|いなりやま}}古墳から見つかった{{ruby|鉄剣|てっけん}}には、「ワカタケル大王」という名が{{ruby|刻|きざ}}まれた文が発見されました。この文から、この地方の王は、ワカタケル大王に使えていたことがわかります。
{{ruby|熊本|くまもと}}県の {{ruby|江田船山|えだふなやま}}古墳 にも、一部が読めなくなっていましたが、「ワ□□□ル大王」という同じ名の刻まれた鉄刀があり、ワカタケル大王の支配する{{ruby|領域|りょういき}}が、{{ruby|関東|かんとう}}地方から{{ruby|九州|きゅうしゅう}}までの広い{{ruby|範囲|はんい}}に
{{コラム|ヤマトタケルの物語|
{{ruby|皇子|おうじ}}であるヤマトタケルノミコトは、{{ruby|武勇|ぶゆう}}にすぐれていました。かれは父の命令で九州に行き、{{ruby|朝廷|ちょうてい}}にしたがわない{{ruby|豪族|ごうぞく}}である クマソ をたおしました。
それから{{ruby|関東|かんとう}}に行き、
しかし、タケルは帰る{{ruby|途中|とちゅう}}で、病気で なくなりました。そして、タケルは大きな白い鳥になって、{{ruby|大和|やまと}}のほうへ飛んでいきました。
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* {{ruby|仏教|ぶっきょう}}の伝来
また、{{ruby|仏教|ぶっきょう}}も、外国から伝わりました。538年に、{{ruby|朝鮮|ちょうせん}}半島の{{ruby|百済|くだら}}という国の王から、仏像や{{Ruby|経典|きょうてん}}が、日本の{{ruby|天皇|てんのう}}に送られました。
仏教は、紀元前
{{clear}}
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日本では、6世紀ごろから、{{ruby|豪族|ごうぞく}}の{{ruby|影響力|えいきょうりょく}}が強まりました。豪族の{{ruby|反乱|はんらん}}や、豪族どうしの争いも起こり始めました。
この、豪族どうしの争いで、最終的に587年ごろ、{{ruby|蘇我馬子|そがのうまこ}}が
そして、女性である '''{{ruby|推古天皇|すいこてんのう}}''' による政治が行われましたが、蘇我氏の{{ruby|影響|えいきょう}}下にありました。
[[File:Prince_Shotoku.jpg|180px|thumb|聖徳太子]]
'''{{ruby|聖徳太子|しょうとくたいし}}'''({{ruby|厩戸王|うまやどのおう}}
▲聖徳太子は蘇我馬子と協力し、これらの改革(かいかく)をすすめる。
▲:聖徳太子の改革は、けっして、蘇我氏を権力から退ける(しりぞける)ためでも、ありません。そもそも、聖徳太子自身が、蘇我氏の親戚(しんせき)です。
* 十七条の憲法
▲聖徳太子らによる改革のひとつに、<big>十七条の憲法</big>(じゅうななじょう の けんぽう)があります。
役人の心がまえを、記したものです。豪族などに対して、役人としての心がまえを述べたものでしょう。
内容を現代風に言いかえると(一部)、およそ、次のようなことが書かれています。
1条 :争い(あらそい)をやめ、なかよくしなさい。▼
2条 :仏教(ぶっきょう)を保護しなさい。▼
3条 :天皇の命令には、したがいなさい。▼
12条 :農民(のうみん)などの民(たみ)から、かってに税(ぜい)や貢物(みつぎもの)をとっては、いけません。▼
17条 :重要なことを決める(きめる)ときには、話し合いで決めなさい。▼
聖徳太子らの行った重要(じゅうよう)な政策(せいさく)には、外交政策(がいこうせいさく)も、あります。中国大陸を支配していた<big>隋</big>(ずい)という帝国(ていこく)との外交(がいこう)です。ある国と、別の国とが、政治の取り引きをすることを外交(がいこう)と言います。▼
▲聖徳太子らの行った重要
607年に、外交の使者として <big>小野妹子</big>(おのの いもこ)たちを 隋(ずい)に送ります。<big>遣隋使</big>(けんずいし)の派遣(はけん)です。 ▼
▲607年に、外交の使者として
なお、小野妹子は男だと考えられています。
また、隋(ずい)の文化や制度は日本よりも進んでいたので、多くの文化や制度を、日本は取り入れます。▼
==== そのほかの改革 ====▼
* 冠位十二階の制(かんいじゅうにかい の せい)▼
聖徳太子らによる改革には、冠位十二階の制(かんいじゅうにかい の せい)というのもあります。家柄に関係なく有能な役人を採用するための制度です。能力や手柄(てがら)によって、役人に位(くらい)が与えられます。位は、一代かぎりです。▼
役人の位を12段階に分けたので、このような名前で呼ばれます。これ以前は、家柄によって位が与えられたのが、あらためられました。▼
▲==== そのほかの{{ruby|改革|かいかく}} ====
(※ 光村図書の小学校教科書で、冠位十二階を紹介している。)▼
▲聖徳太子らによる改革には、'''{{ruby|冠位十二階
* {{Ruby|法隆寺|ほうりゅうじ}}の{{Ruby|建立|こんりゅう}}
[[ファイル:Horyu-ji08s3200.jpg|thumb|法隆寺。{{ruby|金堂|きんどう}}と{{ruby|五重塔|ごじゅうのとう}}]]
[[File:Shakyamuni Triad Horyuji2.JPG|thumb|法隆寺の{{ruby|釈迦三尊像
聖徳太子は、607年に{{Ruby|法隆寺|ほうりゅうじ}}を
==== 聖徳太子の死後 ====
622年に、{{ruby|聖徳太子|しょうとくたいし}}が{{ruby|亡|な}}くなりました。聖徳太子の死後には、{{ruby|蘇我|そが}}氏の{{Ruby|権力|けんりょく}}が強まりました。
▲蘇我馬子(そがのうまこ)も、626年に、なくなります。
まず、蘇我馬子の子である
* {{Ruby|大化
このあと、中大兄皇子らが権力を取り、さまざまな政治{{Ruby|改革|かいかく}}を
「大化」という
==== {{Ruby|改新|かいしん}}の{{Ruby|詔|みことのり}} ====
:(かいしん の みことのり)
中国大陸では、すでに618年に隋(ずい)が滅んでおり、<big>唐</big>(とう)という帝国になっていた。日本も、これに対して、政治改革をする必要がありました。
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