「中学校社会 歴史/日中戦争」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
査読中。海軍陸戦隊が上海にいったのは1932年の第1次上海事変であり、第2次ではない。 |
|||
1 行
{{Pathnav|メインページ|小学校・中学校・高等学校の学習|中学校の学習|中学校社会|中学校社会/歴史|frame=1}}
<!-- このページには導入部がありません。適切な導入部を作成し、このコメントを除去してください。 -->
==概要==
1937年に'''{{Ruby|盧溝橋
満州事変以降、関係が悪化し始めていた米英からは反発を買い、中国を援助する政策を取ったこともあり、戦争は長期化する。▼
戦争が長期化するにつれ国民生活も貧窮し始め生活必需品の配給制、物価統制が行われるようになった。また「挙国一致」(きょこくいっち)の一環として1938年に'''国家総動員法'''(こっかそうどういんほう)が成立し、議会の同意なく、戦争に必要な人員や物資の動員が行われることが可能になった。1940年には、ドイツやソ連の一党独裁を模倣するために、全政党を解散させて'''大政翼賛会'''(たいせいよくさんかい)を結成した。▼
▲戦争が長期化するにつれ国民生活も貧窮し始め生活必需品の配給制、物価統制が行われるようになった。また「{{Ruby|挙国一致
== 日中戦争 ==
=== 盧溝橋事件 ===
1937年7月7日と8日に、{{Ruby|北京|ぺきん}}にある{{Ruby|盧溝橋|ろこうきょう}}という地区で訓練中の日本軍と中国軍が軍事衝突する<ref>1発の銃弾から始まったのだが、はたして誰が発砲したかについては不明である。</ref>事件があった。この事件を'''盧溝橋事件'''と言う。<ref>現地では、ひとまず7月11日に現地の軍の間で停戦協定が結ばれた。だが、25日、26日に中国軍が日本軍を攻撃する事件(廊坊事件・広安門事件)が起きたため、日本政府は中国が停戦協定をやぶったと考え、ついに7月28日に日本軍による攻撃が始まり、本格的な戦争になっていくのだが、中学生でそこまで知っておく必要はないだろう。</ref>ここから、日中間での戦闘が始まる。
もし日本が宣戦布告をすると、日本は、中立国アメリカからの輸入をできなくなったり資金調達のための国債を引き受けてもらえなくなるので、「戦争」とは言わずに「事変」という用語をもちいている。中国側も同様の理由で「戦争」という語を用いなかった。▼
* 最初に誰が発砲したか?▼
盧溝橋事件で、最初に誰が発砲したかの説には、多くの説がある。▼
他の説には、中国には国民党と対立していた共産党という軍閥勢力があるのだが、その共産党の陰謀(いんぼう)による、日本軍と国民党軍との戦争をねらった発砲だという説もある。ほかにも、ソビエト連邦のソ連共産党のスパイによる陰謀説もある。▼
▲もし日本が宣戦布告をすると、日本は
日本軍は1937年の8月に上海に海軍陸戦隊を派兵して戦闘する。この戦闘を 第二次上海事変(だいにじ シャンハイじへん) と言う。あるいは、上海戦(シャンハイせん)とも言う。▼
▲中国の国民党軍による警備上の発砲を日本側が攻撃と勘違いしたという説もあれば、中国軍が意図的に日本軍をねらって{{Ruby|挑発|ちょうはつ}}したという説もあるし、日本軍の自作自演説もある。他の説には、中国には国民党と対立していた共産党という
しかし、真相はいまだ不明である。
}}
▲日本軍は1937年
=== 南京攻略戦 ===
[[File:Second Sino-Japanese War WW2.png|thumb|600px|1940年の日中戦争での戦場
上海戦は4ヶ月ほど長続きした。そして12月には、日本軍は中華民国の首都<ref name="南京">の南京を攻略した。日本軍には、「南京を攻略すれば中国に勝てる」という考え (中国一撃論) があった。しかし、国民党の支配者であった蒋介石は、日本軍の南京の攻略の前に、すでに南京から脱出しており、日中戦争は継続された。
12月の南京攻略のとき
首都の南京を日本が陥落(かんらく)しても、中華民国は首都を漢口(かんこう)、ついで重慶(じゅうけい)などにうつし、抗戦をつづけたので、日中戦争はつづいた。
|