「小学校社会/6学年/歴史編」の版間の差分

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'''{{ruby|聖徳太子|しょうとくたいし}}'''({{ruby|厩戸王|うまやどのおう}})は、おばの推古天皇の政治を{{ruby|補助|ほじょ}}する {{ruby|摂政|せっしょう}}という位につきました。
 
聖徳太子は蘇我馬子と協力し、これらの{{ruby|改革|かいかく}}をすすめました
 
:聖徳太子の改革は、けっして、蘇我氏を権力から{{ruby|退|しりぞ}}けるためでも、ありません。そもそも、聖徳太子自身が、蘇我氏の{{ruby|親戚|しんせき}}です。
 
 
聖徳太子らによる改革のひとつに、'''{{ruby|十七条|じゅうしちじょう}}の{{ruby|憲法|けんぽう}}'''の制定があります。
 
* 十七条の憲法
役人の心がまえを記したものです。豪族などに対して、役人としての心がまえを述べたものでしょう。
 
内容を現代風に言いかえると(一部)、およそ、次のようなことが書かれています。
331 行
 
==== {{Ruby|改新|かいしん}}の{{Ruby|詔|みことのり}} ====
中国大陸では、すでに618年に{{Ruby||ずい}}{{ruby||ほろ}}んでおり、<big>'''{{Ruby|</big>(|とう}}''' という{{ruby|帝国|ていこく}}になっていた。日本も、これに対して、政治{{ruby|改革|かいかく}}をする必要がありました。
:(かいしん の みことのり)
中国大陸では、すでに618年に隋(ずい)が滅んでおり、<big>唐</big>(とう)という帝国になっていた。日本も、これに対して、政治改革をする必要がありました。
 
646年に<big>革内容詔</big>(かい方針や目標を表 改新 {{ruby|詔|みことのり}} が出されます。これは改革内容の方針や目標を表したものです。この詔の発見は『{{Ruby|日本書紀|にほんしょき}}』で発見されています。
 
改革の内容は、以下の、<big> {{Ruby|公地公民</big>(|こうちこうみん}} <big>{{Ruby|班田収授</big>(|はんでんしゅうじゅ}} {{Ruby||}}{{Ruby||よう}}{{ruby|調|ちょう}}の制定<big>{{ruby|国司</big>(|こくし}}の設置(せっち)、です。
 
 
* {{Ruby|公地公民|こうちこうみん}}
 
これまでは{{ruby||ごう}}族や皇族たちが持っていた土地は、すべて朝廷のものになります。豪族や皇族が持っていた人民も、(朝廷が持つこと管理管理する)になりました。この命令が<big>れを '''{{Ruby|公地公民</big>(|こうちこうみん)です。朝廷が管理できな}}''' と土地の存在を禁止します。同様に、朝廷が管理できな住民の存在も禁止します。
 
* {{Ruby|戸籍|こせき}}をつくる
人民の<big> {{Ruby|戸籍</big>(|こせき}} を作り、それにもとづいて国が人々に土地を{{Ruby||あた}}え、仕事をさせました
 
この当時の戸籍は、人民をひとり1人ずつ、{{Ruby|公文書|こうぶんしょ}}に登録することで、住所や家族の名や年{{ruby||れい}}、家の世帯主などを{{ruby|把握|はあく}}することためのものした
* 戸籍(こせき)をつくる
人民の<big>戸籍</big>(こせき)を作り、それにもとづいて国が人々に土地を与え、仕事をさせます。
 
* {{Ruby|租|そ}}・{{Ruby|調|ちょう}}・{{ruby|庸|よう}}
この当時の戸籍とは、人民をひとりずつ、公文書に登録することで、住所や家族の名や年齢、家の世帯主、などを把握することです。
 
この飛鳥時代に、すでに「戸籍」という言葉がありました。
 
このような情報の管理は、税をとることが目的です。税の台帳である<big>計帳</big>(けいちょう)をつくるため、戸籍が必要なのです。
 
:※ 現在の日本での戸籍とは、「戸籍」の意味が少しちがうので、注意してください。「計帳」という言葉は、この飛鳥時代の言葉です。詔の本文に書かれています。
 
 
:(税を取るにも、まずは人口を正しく把握しないと、いけないわけです。)
:(また、この時代は、女にも田が与えられました。女にも仕事をさせたいわけですから、女にも土地が与えるというワケです。)
 
なお、死んだ人の分の田は、国に返されます。
 
 
* 租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)
{| class="wikitable" style="float:right"
|+ <span style="font-size: large;">{{ruby|一般|いっぱん}}の人々の{{ruby|負担|ふたん}}</span>
! colspan="2" | <span style="font-size: large;">種類</span> ||<span style="font-size: large;">内容</span>
|-
| rowspan="3" |<span style="font-size: large;"> 税 </span>
|<span style="font-size: large;">{{Ruby||そ}}</span>
|{{ruby|収穫|しゅうかく}}の約33~10%の{{ruby||いね}}を{{ruby|納|おさ}}める。
|-
|<span style="font-size: large;">調</span>
|地方の特産物(糸、{{Ruby|絹|きぬ}}、わた、塩、<br />魚、海そう、鉄、・・・)など)を納める。
|-
|<span style="font-size: large;">庸</span>
|麻の都で年10日ほど働くか、布を納める。(労役の代わり。)
|-
| rowspan="1" |<span style="font-size: large;"> {{ruby| <br /> |へいえき}} </span>
|<span style="font-size: large;">{{ruby|防人|さきもり}}</span>
|九州北部で兵士を3年行う
|-
|}
(ぜい)の種類です。
 
祖(:{{Ruby|租|}}とは、田の{{ruby|収穫|しゅうかく}}量の、およそ3約3~10%を、国に{{ruby|めよ(|おさ}}よ)、という税です。
:{{Ruby|調|ちょう}}とは、絹(きぬ)や、地方の特産物を、国に納めよ、という税です。
:{{Ruby||よう}}とは、都に出てきて年10日以内の労ほどをせよという労役(ろうえき)か、または布を納めよ、という税です。
 
租庸調(そようちょう)これらを都に運ぶ負担ことも、他の農民たちの負担でした。
庸(よう)とは、都に出てきて年10日以内の労働をせよという労役(ろうえき)か、または布を納めよ、という税です。
 
租庸調(そようちょう)を都に運ぶ負担も、他の農民たちの負担でした。
 
{{-}}
このほかに{{Ruby|防人|さきもり}}という、九州で兵士として{{ruby|警備|けいび)の兵士}}する行う{{Ruby|兵役|へいえき}}の仕事がありました。
 
この防人のつらさを歌った歌として、つぎのような歌が残っています。
 
<div style="border:1px solid #000000;">
 '''さきもりの歌'''  ({{Ruby|万葉集』(|まんようしゅう}}』より )
:: {{中付きルビ|3|衣(|から|衣|ころも) ||すそ}}に取りつき 泣く子らを 置きてそ来ぬや {{Ruby||おも}}なしにして
 
 
::(現代語{{Ruby||やく}}) 唐衣の (すそ)すがって 泣きつく子どもたちを (防人に出るため)置いてきてしまったなあ、 (あの子たちには母もいないのに
</div>
 
{{clear}}
 
==== {{Ruby|大宝律令|たいほうりつりょう}} ====
701年に、 <big>'''{{Ruby|大宝律令</big>(|たいほうりつりょう}}''' という、税金や都についての{{ruby|法律|ほうりつ}}が完成しました。
:(たいほう りつりょう)
701年に、 <big>大宝律令</big>(たいほうりつりょう) という、税金や都についての{{ruby|法律|ほうりつ}}が完成しました。
<!-- ※日本文教出版の教科書で、「大宝律令」という言葉が紹介されている。-->
 
== {{ruby|奈良|なら}}時代 ==
[[File:Heijokyo.jpg|right|500px|平城京 条坊のイメージ図]]
:(なら じだい)
[[File:Heijokyo.jpg|right|500px|平城京 条坊図]]
 
710年に、都が{{ruby|奈良|なら}}<big>{{ruby|平城京</big>(|へいじょうきょう}} へと移りました。
 
780年ごろまで約70年のあいだ、都が平城京を都としていにあっので、この70年間時代 '''{{ruby|奈良|なら}}時代」(ならじだい)''' といいます。
 
<!-- のちの794年に平安京に移る前に、長岡京に移っています。 -->
 
794年に平安京(へいあんきょう)に都が移るまで、この平城京が都でした。
 
平城京は、道の通りが{{ruby|碁盤|ごばん}}の目のように、区画が整理されています。
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[[File:Wadokaichin coin 8th century Japan.jpg|thumb|left|200px|和同開珎]]
奈良時代の都では、<big>{{Ruby|和同開珎</big>(|わどうかいちん}}という貨{{ruby|幣|へい}}が708年に発行され、つか使われていました。
 
 
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* 古事記日本書紀
712年に<big>'''{{ruby|古事記』</big>(|こじき}}'''』という{{Ruby|天皇家|てんのう}}{{Ruby|貴族|きぞく}}などにつたわる神話の時代をまとめた書がつくられました。
 
<!-- 日本文教出版の小6の教科書『日本のあゆみ』で、古事記日本書紀 が紹介されている。-->
 
古事記には、神話の時代から{{Ruby|推古|すいこ}}天皇にいたるまでの出来事が古事記に書かれています。
 
また、日本の歴史書である{{ruby|日本書紀|にほんしょき}}』が720年に完成します。神話の時代の伝説から、7世紀末ごろの持統天皇に{{Ruby|至|いた}}るまでの国家と天皇の歴史について書いた、歴史書のような書です。
 
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=== 大仏づくり ===
[[File:Daibutsu of Todaiji 3.jpg|thumb|right|300px|東大寺の大仏]]
[[File:Emperor_Shomu.jpg|thumb|聖武天皇(しょうむ てんのう)]]
8世紀のなかごろ、都では病気が流行り(はやり)、多くの死者が出たり、さらに、{{ruby|貴族|きぞく}}の{{Ruby|反乱|はんらん}}が起きたりするなど、世の中が、混乱しました。
さらに、貴族の反乱が起きました。
 
このように、世の中が、混乱(こんらん)してきました。
 
 
{{Ruby|仏教|ぶっきょう}}を信じた'''{{ruby|聖武天皇|しょうむ てんのう}}'''は、仏教の力をかりて、人々の不安をしずめ、社会を安定させようとします。
 
まず741年に国(今でいう県)ごとに <big>{{ruby|国分寺</big> (|こくぶんじ}} を建てさせました。
 
都には <big>{{ruby|東大寺</big> (|とうだいじ}}を建てさせた。また東大寺のなかに大仏を作らせました。
 
[[File:Gyouki_1.jpg|thumb|行基]]