「中学校社会 歴史/日中戦争」の版間の差分

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査読中。海軍陸戦隊が上海にいったのは1932年の第1次上海事変であり、第2次ではない。
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盧溝橋事件で、最初に誰が発砲したかには、多くの説がある。
 
中国の国民党軍による警備上の発砲を日本側が攻撃と勘違いしたという説もあれば、中国軍が意図的に日本軍をねらって{{Ruby|挑発|ちょうはつ}}したという説もあるし、日本軍の自作自演説もある。他の説には、中国には国民党と対立していた共産党という勢力がある<ref>現在の中華人民共和国を造った政党。</ref>のだが、その共産党の{{Ruby|陰謀|いんぼう}}日本軍と国民党軍との戦争をねらった発砲だという説もあれば、ソビエト連邦のソ連共産党のスパイによる陰謀説もある。
 
しかし、真相はいまだ不明である。
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[[File:Second Sino-Japanese War WW2.png|thumb|600px|1940年の日中戦争での戦場(赤いところが日本が占領した場所)]]
 
上海戦は4ヶ月ほど長続きした。そして12月には、日本軍は中華民国の首都<ref name="南京">の南京を攻略した。日本軍には、「南京を攻略すれば中国に勝てる」という考え (中国一撃論) があった。しかし、国民党の支配者であった蒋介石は、日本軍の南京の攻略の前に、すでに南京から脱出しており、日中戦争は継続された。
 
12月の南京攻略のとき、日本軍によって女や子住民な非戦闘員 (戦いに携わらない人) ふくむ多数含め、かなり住民人々が殺害された。このときの 1937年12月から1938年はじめ2月の南京で日本軍が殺害した事件を <big>'''南京事件'''</big>(ナンキンじけん) と言う。わゆ<ref>なお、同名の「南京事件」が1913年や1927年にもあが、この1913年や1927年の南京事件とは別の事件である。</ref>、'''南京大'''{{Ruby|'''[[wikt:虐殺|虐殺]]'''(なんきん だい|ぎゃくさつ)の}}と呼ばれることある。
 
{{Clear}}
首都の南京を日本が陥落(かんらく)しても、中華民国は首都を漢口(かんこう)、ついで重慶(じゅうけい)などにうつし、抗戦をつづけたので、日中戦争はつづいた。
 
=== 南京事件について ===
真偽や実情は今でも不確定であり研究者などが研究中だが(平成2014年に本文を記述)、中戦争の当時では中国政府は、国民に対し特に南京で主張が事実だろう住民の殺害の有無についての一切を語るこ思われは無かった。そのため戦後になっ南京事件が{{中付きルビ|8|2=極|4=東|6=|8=社会|10=軍|12=事|14=裁|16=判|3=きょく|5=とう|7=こく|9=さい|11=ぐん|13=じ|15=さい|17=ばん}}広まり、よって多くの日本は連合から国際的な非難民は南京での虐殺あびた知ることになる
 
 
日本国政府は、日本国民には特に南京での住民の殺害の有無については宣伝せず、そのため戦後になって極東国際軍事裁判(きょくとう こくさい ぐんじ さいばん、 いわゆる「東京裁判」)によって多くの日本国民は初めて南京での虐殺の事件を知ることになる。
 
 
なお、同名の「南京事件」が1913年や1927年にもあるが、この1913年や1927年の南京事件とは別の事件である。
 
1937年12月の南京事件については、いろんな説がある。
 
※ 多くの検定教科書(中学)では、「日本軍によって、女性や子どもをふくむ多数の住民や捕虜が虐殺され、国際的な非難をあびた。この事件は当時の日本国民には知らされず、戦後の極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん、東京裁判)になって明らかになりました。」というような、住民虐殺を前提にしたような日本軍の作戦のような事件として紹介している。
 
 
一般住民が殺されたという意見では、30万人が殺されたという説もあるが、日本の学者に多い意見では30万人という数字は大げさであり、たとえ住民虐殺があったとしても、もっと少ない人数だろう、という意見も多い。
住民が殺害されたという人数には、数百人から30万人まで、いろんな説がある。
 
 
=== 備考 ===
この日中戦争では、ソビエトやアメリカ、イギリス、フランスは、中国に軍事物資などを援助していて、中国側を支持していた。
 
アメリカは、おもに中国の国民党を援助した。アメリカ・イギリスは、フランス領インドシナから、物資を国民党に援助していた。(「一方でソビエトは、おもに中国共産党を蒋ルート」(えんょうルート)と言う
 
いっぽう、ソビエトは、おもに中国の共産党を援助した。
 
 
:※ 南京大虐殺の死者の正確な数は不明だが、検定教科書には「南京大虐殺の中国人犠牲者は約30万人という説もある」という事が書いてあるかもしれない。
 
:なお、日本に原爆投下された際の、広島・長崎の死者の合計数も約30万人という説が有名である。
:都合のいいことに(中学生にとっては覚えやすいので「都合がいい」という意味ですよ)、ぴったり同じ30万人であるので、中学生は関連づけて覚えよう。
 
:(※ 範囲外:) なお、ナチスドイツがユダヤ人を殺害したとされる行為の犠牲者の数は約300万人であり、ケタがひとつ多い。)
 
=== 日本の戦時体制 ===
日本政府は、1938年には、国会の手続きがなくても戦争に必要な物資や人を (政府が) 動かせるように、<big>'''{{Ruby|国家総動員法'''</big>(|こっか そうどういんほう}}'''を定めた。
 
1940年には、{{Ruby|近衛文麿|このえ ふみまろ}}内閣のもと、「挙国一致」(国を挙げて1つの目的を実行しようというスローガン)の体制をつくるため、ほとんどの政党や政治団体が解散して、'''{{Ruby|大政翼賛会'''(|たいせいよくさんかい}}に合流した。
 
その後、戦争が長びき、日本では物資が不足したので、1941年からは米や日用品などは<big>{{Ruby|配給制</big>(|はいきゅうせい}}や切符制になった。その他にも、「ほしがりません、勝つまでは」「ぜいたくは敵だ」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」などの標語が物質の節約のため唱えられた。
 
(※ 正確には、砂糖・マッチ・木炭・綿製品が切符制。米は配給性。・・・らしい。) (※ 検定教科書によっては、砂糖も米も「配給制」でまとめてあるものもある。)
 
 
「ほしがりません、勝つまでは」とか「ぜいたくは敵(てき)だ」とか「石油の一滴、血の一滴」とか「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」とかの標語が、戦時下の日本では言われた。(このほか「ガソリンの一滴は血の一滴」なんて標語も言われた。)
 
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;「{{コラム|{{Ruby|隣組」(|となりぐみ}}|
* 発展
庶民たちは、10戸ごとにまとめられ、「{{Ruby|隣組」(|となりぐみ)とさせられ}}」を組み、協力しあう事とされたとともに、おたがいに監視させられた。
(※ 教科書によって紹介されてたり、されてなかったりする。)
}}
[[Image:Monpe.JPG|thumb|180px|もんぺ]]
 
もし、このような統制的な風潮に反対すると、「{{Ruby|非国民」(|ひこくみん}}」などとレッテルを貼られ、批判されたりもした。
小学校は「国民学校」に改称させられ、教育内容にも軍事的な話題が増えた。 (※ 範囲外:)「国民学校」とは、おそらくドイツ語の フォルクス・シューレ の直訳。フォルクスの意味は「国民」とか「民衆」とかの意味。自動車のフォルクスワーゲンのフォルクスと同じ意味。シューレは「学校」の意味であり、英語の「スクール」と同じ意味。
 
=== 植民地での戦時体制 ===
;「隣組」(となりぐみ)
朝鮮では、朝鮮人の名前を日本風の名前に変える{{Ruby|'''創氏'''|そうし}}{{Ruby|'''改名'''|かいめい}}が行われた。朝鮮人の日本への同化政策から、朝鮮人から朝鮮名を奪い、日本人のような氏名を名乗るよう強制した。創氏制度は王族など特殊な例外を除き、全朝鮮人民に法規で適用されたものであった。
庶民たちは、10戸ごとにまとめられ、「隣組」(となりぐみ)とさせられ、協力しあう事とされたとともに、おたがいに監視させられた。
 
== 脚注 ==
このほか、文化面では<br>
<references/>
:1939年にパンチパーマの禁止、男子の長髪の禁止<br>
:1943年に野球での「セーフ」「アウト」など英語の使用の禁止の運動<br>
などがあった。
 
もし、このような統制的な風潮に反対すると、「非国民」(ひこくみん)などと批判されたりもした。
 
 
衣服も配給の対象にくわわり、また、高価な洋服が禁止されたりもした。
 
(※ そのため、女子の服装では、モンペが奨励された。)
 
(※ 検定教科書では、モンペの写真はあるが、「モンペ」という用語は紹介されてない。)
 
=== 植民地での戦時体制 ===
朝鮮では、朝鮮人の名前を日本風の名前に変える'''創氏改名'''(そうし かいめい)が行われた。
日本は、朝鮮人の日本への同化政策の立場から、朝鮮人から朝鮮名をうばい、日本人のような氏名を名乗るよう強制した。
創氏制度は王族など特殊な例外を除き、全朝鮮人民に法規で適用されたものであった。
 
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