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[[File:Gyouki_1.jpg|thumb|行基]]
このころ、<big>'''{{ruby|行基</big>(|ぎょうき}}'''という{{ruby||そう}}がいました。かれは、{{ruby|渡来人|とらいじん}}の子孫で、民衆のために用水の池(いけ)や橋(はし)をつくったりしながら、{{Ruby|諸国|しょこく}}をまわって教えをといていたので、多くの人々に、したわれていました。
 
しかし、{{Ruby|朝廷|ちょうてい}}は、はじめは、行基の行動をとりしまりました。当時は、{{Ruby|民衆|みんしゅう}}への仏教の布教が禁止されていたうえ、寺の外での活動も禁止されていました
朝廷からは、おそらく行基は、民衆をそそのかす{{Ruby|危険人物(|きけんじんぶつ)}}人物だろう、と思われていたのです。
 
さて、大仏を作るのは、とても多くの労働力を必要とするので、朝廷には、人々の支持が必要でした。このため、民衆にしたわれていた僧の行基(ぎょうき)の活動を{{Ruby||みと}}めます。
{{-}}
 
:(=== {{Ruby|遣唐使|けんとうし }} {{Ruby|鑑真|がんじん}} ===
=== 大陸との交流 ===
中国大陸{{Ruby|帝国|ていこく}}{{Ruby||とう}}わっても、かつての{{Ruby|遣隋使|けんずいし}}と同様に、日本から中国の唐に、外交の使者の {{Ruby|遣唐使|けんとうし)<big>遣唐使</big>}} を送りました
大陸から海をわたって日本にやって来て、学問や技術などを伝えた人
 
遣唐使として有名な人物には、{{Ruby|阿倍仲麻呂|あべのなかまろ}} や、{{Ruby|吉備真備|きびのまきび}} などがいます。
=== 遣唐使と鑑真 ===
:(けんとうし と がんじん)
中国大陸の帝国が唐にかわっても、かつての遣隋使(けんずいし)と同様に、日本から中国の唐に、外交の使者の (けんとうし)<big>遣唐使</big> を送ります。
 
遣唐使は、奈良時代のあいだは、おこなわれています。
 
(のちの時代の平安時代に遣唐使は廃止されます。奈良時代には、まだ遣唐使は廃止されません。)
 
717年に唐にわたった 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ) や、仲麻呂と供に唐にわたったこともある 吉備真備(きびのまきび) が遣唐使として有名です。
 
<!--※ 安倍仲麻呂は、教育出版の教科書で、章末のコラムで名前を紹介している。また、日本文教出版の教科書で、阿倍仲麻呂や吉備真備の名前を紹介している。-->
 
阿倍仲麻呂は、日本に帰ろうとして国するために乗った船が{{ruby|難破|なんぱ}}たため日本に帰国できず、最終的に唐の{{Ruby|皇帝|こうてい}}に仕えることになりました
 
吉備真備は日本に帰れました。吉備真備は2回唐にわたり、2回とも日本に帰国できした
なお、最初の遣唐使として630年に唐に派遣された犬上御田鍬(いぬがみ の みたすき)は、最後の遣隋使でも、あります。
 
阿倍仲麻呂は、日本に帰ろうとして乗った船が難破(なんぱ)し、日本に帰れず、最終的に唐の皇帝に仕えることになります。
 
吉備真備は日本に帰れました。吉備真備は2回も唐にわたり、日本に帰れます。
 
 
 
* {{Ruby|鑑真|がんじん}}
[[File:Jianzhen (Tōshōdai-ji, 2).jpg|thumb|鑑真]]
日本の朝廷らは、唐の有名な僧の <big>'''{{Ruby|鑑真</big>(|がんじん}}''' に、日本でも仏教をひろめてほしいと、鑑真を日本へ招きねき)ますした。この招きを受け、鑑真は日本への渡航をおこないわたりしたが、5回も失敗し、6回目にようやく日本に着きました。6回目日本についたころには、鑑真は失明していす。海の水ぶきをあびつづけることは、目に悪いのです
 
鑑真は、{{Ruby|奈良|なら}}<big>'''{{Ruby|唐招提寺</big>(|とうしょうだいじ}}''' を開きました。
 
{{clear}}
 
* 正倉院(しょうそういん)
奈良時代の文化は、仏教の影響と、唐との交流の影響が、特徴(とくちょう)です。
とくに、聖武天皇の治めた 天平(てんぴょう) の年号の時代に、この傾向が強いので、この奈良時代の文化を 天平文化(てんぴょうぶんか) と言います。
[[Image:Shoso-in.jpg|thumb|300px|正倉院正倉]]
 
[[Image:Shoso-in.jpg|thumb|300px|正倉院正倉]]
[[Image:Azekura-dukuri JPN.JPG|thumb|right|230px|校倉造(あぜくらつくり)。正倉院の宝物庫は、三角形の断面の木を組み合わせたつくりの校倉造で、つくられている。]]
東大寺にある <big>正倉院</big>(しょうそういん) には、奈良時代の美術品や、聖武天皇が日用した道具などが収められています。
 
[[Image:Azekura-dukuri JPN.JPG|thumb|right|230px|正倉院の宝物庫]]
:※ 有名な宝物で「螺鈿紫檀五絃琵琶」(らでんしたんごげんのびわ、図参照)や「瑠璃杯」(るりのつき)が保存されているのですが、ウィキペディアに画像がありません。外部サイトや参考書で、画像をお探しください。
{{Ruby|東大寺|とうだいじ}}にある <big>{{Ruby|正倉院</big>(|しょうそういん}} には、{{ruby|奈良|なら}}時代の美術品や、{{Ruby|聖武天皇|しょうむてんのう}}用した道具などが{{Ruby||おさ}}められています。
 
:※ 有名な宝物で{{Ruby|螺鈿紫檀五絃琵琶」(|らでんしたんごげんのびわ}}」(図参照)や「{{Ruby|瑠璃杯」(|るりのつき}}」などの有名な{{Ruby|宝物|ほうもつ}}{{Ruby|保存|ほぞん}}されているのですが、ウィキペディアに画像がありません。外部サイトや参考書などで、画像を{{ruby||さが}}ください。
 
宝物には、ギリシャやペルシャ、インドなどから運ばれてきたものもある。シルクロードという中国大陸からヨーロッパまでの貿易の通路を通ってきた宝物である。後世の言い方だが正倉院のことを「シルクロードの終着駅」とも例える。
<gallery widths="250px">
Image:RED LACQUERED CABINET Shosoin N2.JPG|{{Ruby|赤漆文欟木御厨子|せきしつぶんかんぼくのおんずし}}
Image:8Lobed Mirror Inlay Shosoin.jpg|{{{Ruby|平螺鈿背八角鏡|へいらでんはいのはっかくきょう}}
Image:Silver Backed Bronze Mirror Shosoin.JPG|{{Ruby|金銀山水八卦背八角鏡|きんぎんさんすいはっけはいのはっかくきょう}}
Image:LADIES UNDER TREES SCREEN4th Shosoin.JPG|{{Ruby|鳥毛立女屏風|とりげりつじょのびょうぶ}}第4 (部分)
Image:ROCHECHI Screen Panel Shosoin NH44.JPG|{{Ruby|羊木臈纈屏風|ひつじきろうけちのびょうぶ}}
Image:Silver Incense Burner Shosoin.JPG|{{Ruby|銀薫炉|ぎんのくんろ}}
Image:Gold Silver Painted BOX Shosoin.JPG|{{Ruby|蘇芳地金銀絵箱蓋|すおうじきんぎんえのはこ}}
</gallery>
 
(これらはあくまで参考です。)
(※ 赤漆文欟木御厨子 〜 蘇芳地金銀絵箱蓋は、おぼえなくて良い。)
 
=== 万葉集 ===
和歌(わか)をまとめた<big> {{Ruby|万葉集</big>(|まんようしゅう}} が759年ごろから{{Ruby|編纂|へんさん}}されます。
 
{{Ruby|貴族|きぞく}}の作った和歌だけでなく、農民や{{Ruby|防人|さきもり}}などの様々な身分の者が作ったと思われる和歌も収録されています。
さきほど紹介した「さきもりの歌」も、万葉集におさめられている歌のひとつです。
 
合計で4500首の歌が{{Ruby|収録|しゅうろく}}されています。
 
貴族の作った和歌だけでなく、農民や防人などの様々な身分の者が作ったと思われる和歌も収録されています。
 
合計で4500首の歌が収録されています。
 
{{clear}}
== {{Ruby|平安|へいあん}}時代 ==
〜<big>~{{ruby|貴族|きぞく}}がさかえた時代</big>〜<br>
:{{Ruby|桓武天皇|かんむてんのう}}は794年に都を{{ruby|京都|きょうと}}<big>'''{{ruby|平安京</big>(|へいあんきょう}}''' にうつしました
 
[[画像:HeiankyouMapJapanese.svg|900px]]
奈良から平安京への寺院の移転は禁止されました
 
他にも、社会の変化で、もはや、{{ruby|公地公民|こうちこうみん}}による昔(むかし)の政治が上手うまくいかなくなり、政治のしかたを改める必要もあったのだろうと思われます
 
平安京に都を移してから約400年間は、政治の中心地は平安京だったので、この時代を <big>'''{{Ruby|平安時代</big>(|へいあんじだい)}}時代''' といいます
他にも、社会の変化で、もはや、公地公民による昔(むかし)の政治が上手くいかなくなり、政治のしかたを改める必要もあったのだろう。
 
* {{Ruby|摂関政治(|せっかんせいじ)}}政治
平安京に都を移してから約400年間は、政治の中心地は平安京だったので、この時代を <big>平安時代</big>(へいあんじだい) という。
9世紀の中ごろになると{{Ruby|藤原鎌足|ふじわらのかまたり}}({{ruby|中臣|なかとみの}}鎌足のこと。))の子孫の一族の<big>である '''藤原氏</big>(ふじわらし)''' が、{{Ruby|権力|けんりょく}}を強めました
 
藤原氏の一族は、代々、{{Ruby||むすめ}}{{ruby|天皇|てんのう}}の きさき(妃) (妻)にしています。
くわしくいうと、後に1190年ごろに武士である源頼朝が権力をにぎる鎌倉幕府(かまくら ばくふ)ができますが、794年から1180年ごろまでを平安時代と言うことが多い。
すると、藤原氏は天皇の母方(ははかた)の親戚(しんせきということになるので、藤原家の権力が強まる、という仕組みで、さらに権力を強めました。
 
[[File:Fujiwara_no_Michinaga_2.jpg|thumb|{{Ruby|藤原道長|ふじわらの みちなが}}]]
 
* 摂関政治(せっかんせいじ)
9世紀の中頃になると藤原鎌足(ふじわらのかまたり、中臣鎌足のこと。)の子孫の一族の<big>藤原氏</big>(ふじわらし) が、権力を強めます。
 
藤原氏(ふじわら し)は、天皇が{{Ruby||おさな}}いときは、藤原氏の者が{{Ruby|摂政|せっしょう}}となり政治の{{ruby|実権|じっけん}}にぎり、天皇が成人しても藤原氏は{{Ruby|関白|かんぱく}}という地位になり実権をにぎり、政治を行いつづける、という手法で権力を強めました。(※ 日本文教出版の小6の教科書『日本のあゆみ』で、藤原の一族について「関白」という言葉が紹介される。)
藤原氏の一族は、代々、娘を天皇の きさき(妃) にしています。
<!-- 日本文教出版の教科書で、藤原の一族について「関白」という言葉が紹介されている。-->
すると、藤原氏は天皇の母方(ははかた)の親戚(しんせき)ということになるので、藤原家の権力が強まる、という仕組みで、さらに権力を強めました。
 
:(※(※ {{Ruby|範囲外|はんいがい}}) : )このような摂政や関白として政治を行なうという政治の方法を <big>{{ruby|摂関政治</big>(|せっかん せいじ}} といいます。(※ 小学校では、「摂関政治」という用語は習わないようだ。)
[[File:Fujiwara_no_Michinaga_2.jpg|thumb|藤原道長(ふじわらの みちなが)]]
 
 
道長は、次の歌をよみました。
藤原氏(ふじわら し)は、天皇が幼いときは、藤原氏の者が摂政になり政治の実権(じっけん)を握り、天皇が成人しても藤原氏は関白(かんぱく)という地位になり実権をにぎり、政治を行いつづける、という手法で権力を強めました。(※ 日本文教出版の小6の教科書『日本のあゆみ』で、藤原の一族について「関白」という言葉が紹介される。)
 
:<big><big>「この世(よ)をば わが世(よ)とぞ思{{ruby|(おも|() )}}{{ruby|望月|もちづき}} 欠けたる(かけたる)ことも なしと思{{Ruby|ば(おも|()}}</big></big>
 
(この世は、望月(満月)のように何も足りないものがなく、{{ruby|私|わたし}}(道長)のためにあるようなものだ。)
:(※ 範囲外 : )このような摂政や関白として政治を行なうという政治の方法を <big>摂関政治</big>(せっかん せいじ) といいます。(※ 小学校では、「摂関政治」という用語は習わないようだ。)
 
 
道長の読んだ歌で、つぎの歌があります。
 
:<big><big>「この世(よ)をば わが世(よ)とぞ思ふ(おもう) 望月(もちづき)の 欠けたる(かけたる)ことも なしと思へば(おもえば)」</big></big>
 
意味は、「この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 望月(=満月)のように 何も足りないものはない」という意味です。
 
<div style="border:1px solid #000000;">
:'''{{Ruby|藤原実資|ふじわら さねすけ}}の日記'''
::{{Ruby|寛永|かんえい}}2(1018)(1018年)、今日は道長さまの{{Ruby||むすめ}}さまの{{ruby|威子|いし}}さまが、{{ruby|中宮|ちゅうぐう}}になられる日である。道長さまが{{ruby|(=|わたし}}(日記の作者である実資){{Ruby||よ}}んで、こういわれた。
::「和歌をよもうと思う。君もかならず歌をかえしたまえ。」と言われた。
:::私は返事をして「きっと歌をかえしましょう。」と答えた。
::つづけて、道長さまはこう言われた。「{{ruby|自慢|じまん}}の歌なのだよ。べつにあらかじめ作っておいた歌では無いがね。」と。
:そして、歌をよまれた。「この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思ば。」と。
 
:::私は答えた。「とても、すばらしい歌です。かえす歌も作れません。(道長いがい以外)みんなで、このお歌を唱和(しょうわ)するのがよろしいでしょう。」ともうしあげた。みんなも、私の言葉におうじ、この歌を唱和した。道長さまは、たいそう気をよくして、歌をかえさなかった私をせめなかった。
 
:({{Ruby|小右記』(|しょうゆうき}}』より。藤原実資(さねすけ)の日記。一部分。))
</div>
 
 
[[ファイル:Byodoin Phoenix Hall Uji 2009.jpg|300px|thumb|left|平等院 鳳凰堂]]
{{Ruby|道長|みちなが}}の子である<big> {{ruby|藤原頼通</big>(|ふじわらの よりみち}} は、<big>{{Ruby|京都|きょうと}}に '''{{Ruby|平等院鳳凰堂</big>(|びょうどういんほうおうどう}}''' を、たてさせていした現在の10円玉にもえがかれている、あの建物(たてもの)は、平等院鳳凰堂の絵です。
[[ファイル:10JPY.JPG|thumb|10円]]
 
{{clear}}
=== 平安時代の文化 ===
* {{ruby|遣唐使|けんとうし}}{{ruby|廃止|はいし}}国風文化
 
まず{{ruby|菅原道真|すがわらのみちざね}}の進言により、894年に、{{ruby|遣唐使|けんとうし}}{{ruby|廃止|はいし}}されました
 
[[File:Sugawara Michizane.jpg|thumb|200px|菅原道真(すがわらの みちざね)]]
:語呂合わせ:<big>白紙(はくし、894)に戻そう(もどそう) 遣唐使</big>
[[File:Sugawara Michizane.jpg|thumb|200px|菅原道真(すがわらの みちざね)]]
菅原道真(すがわらの みちざね)の進言によります。
 
遣唐使の廃止の理由は、すでに唐から多くのことを学んであること、中国ユーラシア大陸で{{Ruby|内乱|ないらん}}が多く唐が弱っていること、船の{{Ruby|遭難|そうなん}}など死の{{Ruby|危険|きけん}}が多く有能な人材の命を損ないかねないこと、{{Ruby|経済的(|けいざいてき)}}的{{Ruby|負担|ふたん}}が大きい、などです。
 
この遣唐使の廃止により、日本の貴族文化では、だんだん、中国大陸の文化の影響(えいきょう)が、うすれていきます。
 
かわりに日本独自の貴族文化が発展していきます。この平安時代に発展した日本独自の貴族文化を<big>国風文化</big>(こくふうぶんか) と言います。
 
この遣唐使の廃止により、日本の{{中付きルビ|2|貴|き|族|ぞく}}文化では、だんだんユーラシア大陸の文化の{{ruby|影響|えいきょう}}がうすれたかわりに、{{ruby|国風文化|こくふうぶんか}}と{{ruby|呼|よ}}ばれる日本独自の貴族文化が{{Ruby|発展|はってん}}しました。
 
[[画像:Hiragana origin.svg|thumb|right|300px|漢字からひらがなへの変化]]
 
* かな文字の発明
ひらがな や カタカナ などの <big>'''かな文字</big>(かなもじ)''' が、平安時代に発明されました
ひらがなは、漢字の形をくずして発明されました。カタカナは漢字の へん や つくり などの一部をもとに発明されました。
[[ファイル:Katakana origine.svg|thumb|left|300px|カタカナの由来]]
 
{{clear}}
この時代、ひらがなやカタカナは、女が用いる字であった。{{中付きルビ|2||き||ぞく}}<big> '''{{ruby|紀貫之</big>(|きの つらゆき}}''' は男でしたが、名をかく女を名乗り<big> {{ruby|土佐日記』</big>(|とさにっき}}』描い書きました。
紀貫之が国司(こくし)として、四国の{{Ruby|土佐|とさ}}(現在の{{Ruby|高知|こうち}}県){{Ruby|派遣|はけん}}されていたので、土佐から京にかえるまでの様子をしるした日記です。
 
 
ほかにも、<big>歌集である'''{{Ruby|古今和歌集</big>(|こきんわかしゅう、紀貫之の編集)}}'''<big> '''{{Ruby|竹取物語</big>(|たけとりものがたり}}''' などが、かな文字を用いた作品です。
 
古今和歌集は、<big>紀貫之</big>(きのつらゆき)という人物による編集です。醍醐天皇(だいごてんのう)の命令により、紀貫之らが編集しました。
 
* その他の文化
[[Image:Miniature Model of HigashiSanjoDono.jpg|thumb|375px|典型的な寝殿造である{{ruby|東三条殿|ひがしさんじょうどの}}の復元{{ruby|模型|もけい}}({{ruby|京都|きょうと}}文化博物館)
----
1. {{ruby|寝殿|しんでん}}、2. {{ruby|北対|きたのたい}}、3. {{Ruby|細殿|ほそどの}}、4. {{Ruby|東対|ひがしのたい}}、5. {{Ruby|東北対|ひがしきたのたい}}、6. {{ruby|侍所|さむらいどころ}}、7. {{ruby|渡殿|わたどの}}、8. {{Ruby|中門廊|ちゅうもんろう}}、9. {{ruby|釣殿|つりどの}}]]
 
[[image:Masahiro Abe.jpg|thumb|left|150px|{{Ruby|江戸|えど}}時代の束帯({{ruby|阿部正弘|あべまさひろ}}]]
[[File:十二単です.JPG|thumb|150px|left|五衣唐衣裳(俗称 十二単)(京都{{Ruby|御所|ごしょ}}にて]]
 
{{Ruby|平安|へいあん}}時代には、貴族の衣服の正装(せいそう・・・正式な服のこと)が変わります。
 
男の{{ruby|貴族|きぞく}}の服は <big>{{ruby|束帯</big>(|そくたい}} になり、女の貴族の服は <big>{{ruby|十二単</big>(|じゅうにひとえ}} なりました
 
:※<!-- 光村図書の教科書が、束帯(そくたい)および十二単(じゅうにひとえ)について紹介している -->
 
貴族の住居の形が <big>{{ruby|寝殿造</big>(|しんでんづくり}} になりました
 
貴族の住居の形が <big>寝殿造</big>(しんでんづくり) になる。
 
:※ どの教科書でも「寝殿づくり」は紹介しており、重要な単語。
 
 
{{clear}}
[[画像:Genji emaki azumaya.jpg|thumb|300px|right|大和絵(やまとえ)『源氏物語絵巻』(げんじものがたり えまき) <br>
源氏物語は人気作となり、絵巻物まで作られるほどになりました。この絵は、源氏物語の作品のなかの場面をえがいたものです。]]
 
文学の物語では『{{ruby|源氏|げんじ}}物語』(げんじものがたり)という{{ruby|創作|そうさく}}の物語が、貴族である{{ruby|紫式部|むらさきしきぶ}}によってかれました。この源氏物語は、主人公は貴族の「{{ruby|光源氏」(|ひかるげんじ}}」という人物を中心主人公にして貴族の{{ruby|恋愛|れんあい}}などを書いています。
 
なお、名前が後の鎌倉(かまくら)幕府の源氏(げんじ)と似ていますが、べつに光源氏は武士ではありません。源氏物語が出来た1007年ごろは、まだ鎌倉幕府はありません。紫式部は女です。藤原為時(ためとき)の娘です。
 
なお、名前が後の{{ruby|鎌倉幕府|かまくら)幕府ばくふ}}{{ruby|源氏|げんじ}}と似ていますが、べつに光源氏は武士ではありません。源氏物語が出来書かれた1007年ごろは、まだ鎌倉幕府はありません。紫式部は女です。藤原{{ruby|為時|ためとき}}{{ruby||むすめ}}です。
大和絵にも、「源氏物語絵巻」(げんじものがたりえまき)が、描かれました。絵画を使って、物語を絵で表したものを絵巻物(えまきもの)といいます。
 
「源氏物語{{ruby|絵巻|えまき}}」も{{ruby|描|か}}かれました。
随筆では、貴族の清少納言(せい しょうなごん)が『枕草子』を記しました。清少納言が 日常生活や自然を観察して、感想を述べたものです。
清少納言は女です。
 
{{ruby||ずい}}筆では、貴族である{{ruby|清少納言|せい しょうなごん}}が『枕草子』を記しました。清少納言が 日常生活や自然を観察して、感想を述べたものです。
:※ どの教科書でも『源氏物語』『枕草子』紫式部、は紹介しており、重要な単語。
 
絵画には、日本の風景などを書いた <big>{{ruby|大和絵</big>(|やまとえ}} が出てくるきました。寝殿造{{ruby|屋敷|やしき}}{{ruby|屏風|びょうぶ}}や ふすま などに大和絵が描かれました。なお、絵巻物などにも大和絵描かれました。さきほど紹介した源氏物語絵巻も、大和絵です。
 
:※<!-- 「大和絵」は、教育出版と光村図書が紹介している -->
 
{{clear}}
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== 武士の世の中へ ==
=== 平安時代の武士たち ===
平安時代には、地方の{{ruby|豪族|ごうぞく}}たちが{{ruby|私有|しゆう}}地を広げていったのであっきました。
 
9世紀の中ごろから、豪族や有力な農民たちは、自分たちの土地や財産をまもるためには、兵力(へいりょく)をたくわえていっました。一族の者や、手下の農民たちに{{ruby|武装|ぶそう}}させるようになりました。
 
このようにして、<big>'''武士</big>(ぶし)'''できていきました。武士たちは、一族の かしら をリーダーとして、それぞれの一族ごとに<big> 武士団</big>(ぶしだん) を結成(けっせい)ていっました。
 
=== 平氏 ===