「小学校社会/6学年/歴史編」の版間の差分

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1937年7月7日と8日に、ペキン(北京)の近くで、訓練中の日本軍に、何者からか、数発の銃弾(じゅうだん)が日本軍へと打ち込まれた事件があった。
 
:{{コラム|(※ 範囲外: 盧溝橋事件|これを日本軍は中国軍の発砲(はっぽう)だと考えたので、戦闘準備を始めるが、まだ攻撃の許可をもらっていないので中国軍への攻撃は中止した。このとき、中国軍が日本軍の戦争開始と誤解して、日本軍を攻撃した。
 
:はたして誰が発砲したかについては、いまだに不明である。
:じつは現地では、ひとまず7月11日に日中の現地軍どうしで、ひとまず停戦(ていせん)の約束が結ばれた。
 
:だが、25日にも、中国軍が日本軍を攻撃する事件が起こり、26日にも中国軍が日本軍を攻撃する事件起きたので、日本政府は中国が停戦協定をやぶったと考え、ついに7月28日に日本軍による攻撃が始まり、本格的な戦争になっていく。
:じつは現地では、ひとまず7月11日に日中の現地軍どうしで、ひとまず停戦(ていせん)の約束が結ばれた。
:この7月28日ごろを日中戦争の開始時期と考える学説もある。}}
 
:だが、25日にも、中国軍が日本軍を攻撃する事件が起こり、26日にも中国軍が日本軍を攻撃する事件起きたので、日本政府は中国が停戦協定をやぶったと考え、ついに7月28日に日本軍による攻撃が始まり、本格的な戦争になっていく。
 
:この7月28日ごろを日中戦争の開始時期と考える学説もある。
 
 
このようにして、<big>日中戦争</big>(にっちゅうせんそう)が始まった。
 
※ なぜ北京の近くに日本軍がいたかというと、「義和団の乱」という事後の処理について1901年に世界各国と中国が結んだ議定書(ぎていしょ)にもとづいて、日本軍などの外国軍が中国に駐留(ちゅうりゅう)していたからである。(べつに、「日本軍が侵略したから北京にいた」ってというワケではない。)
 
※ なぜ北京の近くに日本軍がいたかというと、「義和団の乱」という事後の処理について1901年に世界各国と中国が結んだ議定書(ぎていしょ)にもとづいて、日本軍などの外国軍が中国に駐留(ちゅうりゅう)していたからである。(べつに、「日本軍が侵略したから北京にいた」ってワケではない。)
 
=== 広がる戦場 ===
日中戦争は長引きました。
 
1939年にヨーロッパで、ドイツがポーランドに攻めこんで、第二次世界大戦が始まりました。
 
ポーランドの西半分は占領されてしまいましたが、イギリスとフランスが、ドイツを相手に戦いました。(このころソビエト連邦は、ポーランドの東半分を占領した。なお1941年からソ連はドイツを相手に戦います。)
 
このころ日本は、ドイツ・イタリアと同盟を結んでいました。
 
その後、ドイツ軍がフランスに攻めこみ、フランス軍は負けてしまいました敗北。ドイツ軍フランスを占領しました。
 
フランスがドイツに{{Ruby|降伏|こうふく}}したので、ドイツの同盟国の日本は、東南アジアでフランスの植民地にされていたベトナムを占領しました。
 
日本にとっても、中国を支援してる(と思われる)フランスの拠点を占領できるし、東南アジアの資源も手に入るので、ベトナム占領には好都合な面もありました。
 
しかし、日本がベトナムを占領すると、アメリカは、日本に対して、(アメリカからの)石油や鉄の輸出を禁止しました。
 
イギリスも、アメリカの動きと同じように、日本との貿易を制限しました。
 
しかし、日本がベトナムを占領すると、アメリカは、日本に対して、(アメリカからの)石油や鉄の輸出を禁止しました。イギリスも、アメリカの動きと同じように、日本との貿易を制限しました。
 
これによって、日本とアメリカとの対立は、ますます深まりました。
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[[ファイル:Second world war asia 1937-1942 map en6.png|thumb|300px|日本による占領地域の拡大(1937年から1942年)<br>※ 英語で読みづらいので、読者はイメージをつかんだけにしてください。]]
 
[[ファイル:USS West Virginia;014824.jpg|300px|thumb|真珠湾攻撃で燃え上がるアメリカ軍の軍艦([[w:ウェストバージニア (戦艦)|ウェストバージニア]])。]]
 
 
その直後のころ、日本は、アメリカとの戦争をおそれ、アメリカとの戦争にならないように交渉しますが、アメリカから厳しい(きびしい)条件を出され、満州事変よりも前の状態に日本の海外領土をもどすようにと、日本は要求されました。
 
その直後のころ、日本は、アメリカとの戦争をおそれ、アメリカとの戦争にならないように交渉しますが、アメリカから{{Ruby|しい(|きび}}しい条件を出され、満州事変よりも前の状態に日本の海外領土をもどすようにと、日本は要求されました。
 
日本は、アメリカの要求を飲まなかったので、日米の交渉はまとまりませんでした。
 
そして、石油が無いと、軍艦も兵器動かせませんないので、日本が危機におちいることを恐れた日本政府は、1941年12月にハワイの{{Ruby|真珠湾|しんじゅわん}}にあるアメリカ軍基地を攻撃し、同じ時期に日本軍は東南アジアのイギリス領マレー半島も攻撃して、日本とアメリカ・イギリスとの戦争が始まりました。
 
そして、石油が無いと、軍艦も兵器も動かせませんので、日本が危機におちいることを恐れた日本政府は、1941年12月にハワイの真珠湾(しんじゅわん)にあるアメリカ軍基地を攻撃し、同じ時期に日本軍は東南アジアのイギリス領マレー半島も攻撃して、日本とアメリカ・イギリスとの戦争が始まりました。
 
こうして戦場は、中国だけでなく、東南アジアや太平洋にも広がっていきました。
 
なお、これらの周辺地域での戦争のことを、{{Ruby|太平洋戦争|たいへいようせんそう}}といいます。
 
:※ 最近では「アジア・太平洋戦争」と呼ぶ提案もされているし、そういう検定教科書(日本文教出版)もある。しかし、「太平洋戦争」という表記も、ひきつづき光村図書などの検定教科書で使われている。
 
 
日本軍は、太平洋戦争のはじめごろは、東南アジア各地をどんどんと占領して、勢力を広げていきました。
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初めのうちは勝利していた日本軍も、アメリカが体勢をたてなおして反撃に出てくると、日本軍は各地で負けはじめました。
 
そして、多数の日本兵が死にました。また、日本軍は補給(ほきゅう)にますます苦労するようになり、戦うまえに{{Ruby|餓死|がし}}や病死などで死んでしまう日本兵も、東南アジアの各地で出てきました。
 
日本の新聞やラジオなどでは、日本が負けていることは、かくされました。
 
=== 戦時中の暮らし ===
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* 満州国の消滅
満洲は、いったんソ連軍の占領下に入り、そのあと中華民国に渡されました。
 
満洲は、いったんソ連軍の占領下に入り、そのあと中華民国に渡されました。そして、国家としての「満州国」は、消滅しました。満州の地に取り残された日本人は、戦争がおわっても、日本にもどれなかった人もいました。(中国残留(ちゅうごく ざんりゅう) )
 
満州の地に取り残された日本人は、戦争がおわっても、日本にもどれなかった人もいました。(中国残留(ちゅうごく ざんりゅう) )
 
中国大陸で、なんらかの事情で肉親と分かれることになってしまった子供は、中国人の大人に引き取られて育てられました。(中国残留孤児(ちゅうごく ざんりゅう こじ))
 
 
* シベリア抑留(よくりゅう)問題
ソ連の占領地では、シベリアに連れていかれた日本人もいました。
 
 
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* 各国の第2次世界大戦での犠牲者(ぎせいしゃ)