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そして頼朝は、平氏に不満をもっている武士の{{ruby|北条氏|ほうじょうし}}など関東の武士とも協力して、勢力をのばしていきました。
 
頼朝は、自らは鎌倉にとどまり、わりに弟の <big>'''{{ruby|源義経</big>(|みなもとの よしつね}}''' の兵をつかっ借りて、平氏を西へと追いつめていきました。
 
{{ruby|源義経|みなもとのよしつね}}らは{{ruby|源|みなもとの}}({{ruby|木曽|きそ}}){{ruby|義仲|よしなか}}を打ちとったあと、平氏をたおすために兵を動かし、1184年には {{ruby|一ノ谷|いちのたに}}の戦いで平氏をやぶり(現在の{{ruby|兵庫|ひょうご}}県)、続いて1185年には {{ruby|屋島|やしま}}の戦いにおいても平氏に勝ち(現在の{{ruby|香川|かがわ}}県)、ついに平氏を{{ruby|壇ノ浦|だんのうら}}においつめ(本州の西の端である{{ruby|山口|やまぐち}}県の{{ruby|下関|しものせき}})、1185年には壇ノ浦の戦いで平氏に勝ち、ついに平氏をほろぼしました。
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[[File:Minamoto_no_Yoshitsune.jpg|thumb|源義経<br>平氏との戦いで多くの{{ruby|手柄|てがら}}をたてましたが、兄の源頼朝と対立し、東北に追われて、{{ruby|平泉|ひらいずみ}}で {{ruby|亡|な}}くなりました。]]
 
義経(よしつね){{ruby|頼朝|よりとも}}と対立します。
義経らは東北地方であるの{{ruby|奥州|おうしゅう}}にいる奥州{{ruby|藤原氏(おうしゅう|ふじわらし}}をたよって東北に{{ruby||に}}げていたので、奥州藤原氏も頼朝によりほろぼされました
 
 
いっぽう一方{{ruby|平氏|へいし}}{{ruby|滅亡|めつぼう}}後、頼朝(よりとも){{ruby|朝廷|ちょうてい}}に要求(ようきゅう)したことより、新しい制度として、国ごとに守護(しゅご)1人ずつ置かれ、{{ruby|荘園|しょうえん}}や公領(こうりょう)には '''{{ruby|地頭|じとう}}''' が置かれました。
 
守護の仕事{{ruby|役割|やくわり}}、現代風(げんだいふう)にいうなら、その国の軍(ぐん){{ruby|警察|けいさつ}}の管理者でした。地頭の役割は、{{ruby|荘園|しょうえん}}および公領の管理や、税である{{ruby|年貢|ねんぐ}}の取り立てでした
地頭の仕事は、荘園および公領の管理や、税である年貢(ねんぐ)の取り立てである。
 
頼朝は1192(1185)年に朝廷から<big> '''{{ruby|征夷大将軍</big>(|せいい たいしょうぐん}}''' に任命(にんめい)されます。
 
頼朝は{{ruby|鎌倉|かまくら}}(現在の{{ruby|神奈川|かながわ}}県)に、武家による政治の{{ruby|拠点|きょてん}}である {{ruby|鎌倉幕府|かまくらばくふ}}を開きました。鎌倉に幕府があった時代を '''{{ruby|鎌倉|かまくら}}時代''' といいます。
:(※ 範囲外 :) 「夷」(い)とは、外国の野蛮人(やばんじん)とか、そういう意味。「征夷」の「征」(せい)は、いまでも野球部とかのクラブ活動とかの試合で他校とか他県に出かけることを「遠征」(えんせい)とか言うのと同じような、戦いに出かけるみたいな意味。
 
この鎌倉時代から、政治の{{ruby|権力|けんりょく}}が朝廷から幕府へと移っていき、武家政治の時代なっていきます。
 
幕府の行政の仕組みは、朝廷による律令とは ちがってい{{ruby|異|こと}}なります。
:※ 征夷大将軍になった人は源頼朝(みなもとの よりとも)です。朝廷は征夷大将軍ではない です。
 
{{ruby|将軍|しょうぐん}}の家来の武士のことを <big>'''{{ruby|御家人</big>(|ごけにん}}''' といいます
 
将軍は、「'''ご{{ruby|恩|おん}}'''」と{{ruby|呼|よ}}ばれる、御家人たちの土地の{{ruby|権利|けんり}}を保証する{{ruby|政策|せいさく}}をとるかわりに、{{ruby|奉公|ほうこう}}と呼ばれる、御家人たちは将軍のために{{ruby|警備|けいび}}行ったり戦争の時には戦ったりするという{{ruby|主従関係(|しゅじゅうかんけい)が}}関係をこの時代の将軍 '''ご恩手下たち奉公''' の主従関係であるいいます
頼朝は鎌倉に(今でいう神奈川県の鎌倉市のあたり)、武家による政治の拠点である<big>幕府</big>(ばくふ) を開きました。この鎌倉にある幕府を <big>鎌倉幕府</big>(かまくら ばくふ)と言い、鎌倉に幕府があったころの時代を<big>鎌倉時代</big>(かまくらじだい) と言います。
 
つまり、鎌倉時代は、1190年ごろから、始まります。
 
(※ じつは当時、武士による全国支配の政権という意味での「幕府」という言葉は無かったので、歴史学では、鎌倉時代の最初の年を細かくは特定することができない。もともと「幕府」とは、武士の館(やかた)をあらわす意味の言葉だった。)
 
征夷大将軍という言葉の意味は、頼朝の時代からは武士たちの中での最高権力者(さいこうけんりょくしゃ)というような意味になってきます。
 
もともとの意味は、平安時代の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)のように東北地方の蝦夷(えみし)と戦う軍での将軍(しょうぐん)という意味でした。
 
 
 
この鎌倉時代から、政治の権力が朝廷から幕府へと移っていき、武家政治の時代になっていきます。
 
幕府の行政の仕組みは、朝廷による律令制とは ちがっています。
 
将軍の家来の武士のことを <big>御家人</big>(ごけにん) という。
 
将軍は、御家人たちの土地の権利を保証する政策をとるかわりに、御家人たちは将軍のために警備をしたり戦争の時には戦うという主従関係(しゅじゅうかんけい)が、この時代の将軍と手下たちとの主従関係である。
 
[[File:ご恩と奉公.svg|thumb|400px|ご恩と奉公]]
<big>御恩(ごおん)と奉公(ほうこう)</big> という主従関係です。
 
<big>奉公</big>(ほうこう)とは、将軍や幕府のために仕事をすることで、具体的には、戦争の時には将軍のために戦うことです。<big>'''いざ{{ruby|鎌倉」</big>(いざ |かまくら}}'''」って、御家人は戦いが起きれば、すぐに鎌倉へと行って将軍に指示を聞き、将軍のために戦うべき、とされていました。
<big>御恩</big>(ごおん)とは、将軍が御家人の土地の権利を認め保証したり、手柄のあった御家人には新しく領地を与えることです。
 
この主従関係は、土地を仲立ちとしています。
<big>奉公</big>(ほうこう)とは、将軍や幕府のために仕事をすることで、具体的には、戦争の時には将軍のために戦うことです。<big>「いざ鎌倉」</big>(いざ かまくら)と言って、御家人は戦いが起きれば、すぐに鎌倉へと行って将軍に指示を聞き、将軍のために戦うべき、とされていました。
 
御家人たちの{{ruby|屋敷|やしき}}は、{{ruby|武家造|ぶけづくり}}という作りで、屋敷のまわりに{{ruby||ほり}}があったり、{{ruby||へい}}で囲まれてたりと、戦いにそなえたつくりになっています。
この主従関係は土地を仲立ち(なかだち)としています。このように土地を仲立ちとした主従関係を <big>封建制</big>(ほうけんせい) あるいは<big>封建制度</big>(ほうけんせいど) と言います。
 
{{ruby|一所懸命」(|いっしょけんめい}}」という言葉がありますが、この言葉は、御家人たちが自分たちの領地を守るために命がけで戦う様子から出来できた言葉であるす。なお、これが転じて「{{ruby|一生|いっしょう}}懸命」となりました
御家人たちの屋敷(やしき)は、武家造(ぶけづくり)という作りで、屋敷のまわりに堀(ほり)があったり、塀(へい)で囲まれてたりと、戦いにそなえたつくりになっています。
 
「一所懸命」(いっしょけんめい)という言葉があるが、この言葉は、御家人たちが自分たちの領地を守るために命がけで戦う様子から出来た言葉である。
 
[[ファイル:Hojo Masako.jpg|thumb|200px|北条政子({{ruby|菊池容斎|きくちようさい}} 画、{{ruby|江戸|えど}}時代)]]
頼朝の死後は、頼朝の子の長男である{{ruby|頼家|よりいえ}}が次の{{ruby|将軍|しょうぐん}}となり、さらに次の将軍は頼朝の子の次男である{{ruby|実朝|さねとも)がつい}}となりましたが、政治幕府{{ruby|実権|じっけん}}は、有力な御家人である北条氏の一族ありぎっていました。頼朝の妻は<big> '''{{ruby|北条政子</big>(|ほうじょう まさこ)という女}}''' で、その政子の父である<big> {{ruby|北条時政</big>(|ほうじょう ときまさ}} <big> {{ruby|執権</big>(|しっけん}} という役職につき、北条時政らが幕府の実権をにぎりました。
 
北条氏のように執権として政治の実権をにぎる政治のやりかた方法<big>{{ruby|執権政治</big>(|しっけん せいじ)}}政治 といいます。
[[ファイル:Hojo Masako.jpg|thumb|200px|北条政子(菊池容斎 画、江戸時代)]]
頼朝の死後は、頼朝の子の頼家(よりいえ)が次の将軍になり、さらに次の将軍位は頼朝の子の実朝(さねとも)がついたが、政治の実権は、有力な御家人である北条氏の一族にありました。頼朝の妻は<big>北条政子</big>(ほうじょう まさこ)という女で、その政子の父である<big>北条時政</big>(ほうじょう ときまさ)が<big>執権</big>(しっけん)という役職につき、北条時政らが幕府の実権をにぎりました。
 
なお、3代目将軍の{{ruby|実朝|さねとも}}は、1219年に頼家の子である{{ruby|公暁|くぎょう}}によって実朝は殺されました。こうして源氏の{{ruby|直系|ちょっけい}}の将軍は3代で絶えます(えます)
 
北条氏のように執権として政治の実権をにぎる政治のやりかたを <big>執権政治</big>(しっけん せいじ) といいます。
 
* {{ruby|承久|じょうきゅう}}{{ruby||らん}}
(なお、3代目将軍の実朝(さねとも)は、1219年に頼家の子である公暁(くぎょう)によって実朝は殺されます。こうして源氏の直系の将軍は3代で絶えます(たえます)。)
頼朝の死後、1221年に{{ruby|朝廷|ちょうてい}}は、政治の{{ruby|実権|じっけん}を武士から取りかえそうとして、幕府をたおせという命令を出しました。
 
このとき、{{ruby|北条政子|ほうじょうまさこ}}は、武士たちに、「あなたたちに頼朝があたえた ご{{ruby|(ご|おん}}は、山よりも高く、海よりも深いものです。その恩にむくようとするものは、力をあわせて{{ruby|敵軍|てきぐん}}をうちとり、{{ruby|幕府|ばくふ}をまもるでしょう。」と、武士たちによびかけ、武士たちをまとめた。
 
この結果、北条氏の幕府軍と、朝廷の軍との戦争になり、北条氏の側が勝利しました。
* 承久(じょうきゅう)の乱
頼朝の死後、1221年に朝廷は、政治の実権を武士から取りかえそうとして、幕府を倒せとの命令を出しました。
 
そして、幕府の権力は、{{ruby|朝廷|ちょうてい}}をしのぐほどになりました
このとき、政子は、武士たちに、「あなたたちに頼朝があたえた ご恩(ごおん)は、山よりも高く、海よりも深いものです。その恩にむくようとするものは、力をあわせて敵軍をうちとり、幕府をまもるでしょう。」と、武士たちによびかけ、武士たちをまとめた。
 
この結果また北条氏の幕府軍と朝廷武士ための法律をととの戦争になり、北条氏の側が勝ちした
 
そして、幕府の権力は、朝廷をしのぐほどになります。
 
また、幕府は、武士のための法律をととのえます。
:(※ 幕府にとっては御家人からの信頼(しんらい)が、幕府の権力の基盤(きばん)なので、御家人から信頼されるために公平な法律をつくる必要があったのだろう。)
 
* 武士のくらし
[[Image:Yabusame 02.jpg|thumb|やぶさめ]]
 
武士は、日ごろから [[w:流鏑馬|やぶさめ]] などの武芸(ぶげい)はげんでいました。「やぶさめ」とは、馬にのって走りがら、いくつもある板的をつぎつぎに{{ruby|射|い}}る武芸に、はげんのこといた
:「やぶさめ」では、馬にのって走りながら、いくつもある板の的をつぎつぎに射る。
 
{{-}}
 
=== モンゴルとの戦い ===
:(* モンゴルとの たたか{{ruby|帝国|てこく}}の{{ruby|元|もと}}
 
* モンゴル帝国の元(げん)
 
13世紀、中国大陸と 中国をふくむユーラシア大陸の広い{{ruby|地域|ちいき}}では モンゴル民族が モンゴル{{ruby|帝国|ていこく}}を築いていました。
 
モンゴル帝国は中国ユーラシア大陸を征服制圧すると、モンゴルの国号(国名) {{ruby||げん}} に変えました。
 
 
* {{ruby|元寇|げんこう}}
 
モンゴルは、まず{{ruby|朝鮮|ちょうせん}}をしたがえました。つづいて、日本にも、モンゴルに{{ruby|従|したが}}えと、元(げん)は使者を日本に よこしました。
 
しかし、ときの執権(しっけん) 北条時宗(ほうじょう ときむね)は、これを断りました
 
そして、元は、1274年と1281年の二度にわたって、軍隊とともに日本に攻めこみます(せめこみます)。