「小学校社会/6学年/歴史編」の版間の差分
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また少し査読。 |
室町~戦国を査読。未習漢字のルビなしが多い。mata, |
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769 行
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== {{ruby|室町|むろまち}}時代 ==
<gallery mode="packed" style="text-align: center;" caption="" heights="150px" perrow="3">
File:Kinkaku3402CBcropped.jpg|金閣({{Ruby|鹿苑寺|ろくおんじ}})
File:Yoshimitsu_Ashikaga_cropped.jpg|足利義満
File:GinkakujiTemple.jpg|銀閣({{Ruby|慈照寺|じしょうじ}})
</gallery>
1482年、室町幕府の8代将軍である{{Ruby|足利義政|あしかがよしまさ}}は、京都の{{Ruby|東山|ひがしやま}}に '''{{ruby|銀閣|ぎんかく}}''' を建てました。銀閣には、銀ぱくは はられていません。
▲File:Ashikaga_Yoshimasa.jpg|足利義政
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[[File:Tukinami huuzoku taue.jpg|thumb|400px|室町時代の田植えの様子。
ねんぐが重い場合は、集団で領主におしかけてうったえでたり、全員が村から{{ruby|逃亡|とうぼう}}したりして{{ruby|対抗|たいこう}}しました。
▲色々な村で、用水路や共用地の管理など村の運営(うんえい)のしかたについて、寺社などに集まって自主的に相談しあって決めるようにするなど、農民どうしの集まりが開かれるようになります。
▲室町時代には、農民は、厳しい領主に対しては、集団で対立するようになる。
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=== 室町文化 ===
* 書院造(しょいんづくり)
[[File:Takagike Kashihara JPN 001.jpg|thumb|400px|書院造
特徴は、▼
:違い棚(ちがいだな)という、棚が段差になった棚がある。▼
:障子や、ふすま、がある。▼
:畳(たたみ)の床(ゆか)▼
など。▼
▲などです。
これが、今日の和室の様式に、つながっています。
* 水墨画
[[ファイル:SesshuToyo.jpg|left|thumb|180px|水墨画。秋冬山水図のうち秋景
[[ファイル:Portrait of Sesshu.jpg|thumb|220px|雪舟
鎌倉時代に、中国
はじめ日本では、水墨画は、仏教の世界をえがくためにえがか
しかし、室町時代になり、
{{コラム|雪舟|雪舟は、{{ruby|幼|おさな}}いとき、今の{{ruby|岡山|おかやま}}県の{{ruby|興福寺|こうふくじ}}に{{ruby|預|あず}}けられていました。しかし雪舟はそこで{{ruby|修行|しゅぎょう}}をせず絵ばかりかいていました。そこでおこった{{ruby|和尚|おしょう}}は雪舟を柱にしばりつけました。しばらくして和尚が様子を見に行くと、雪舟の足元にねずみがいたので、追いはらおうとしましたが、ねずみは動きません。雪舟が、なみだでかいたねずみだったのです。和尚は、それ{{ruby|以降|いこう}}、絵をかくのを{{Ruby|認|みと}}めました。
▲[[File:Sesshu - View of Ama-no-Hashidate.jpg|thumb|600px|雪舟の水墨画、『天橋立図』(あまのはしだてず)。]]
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* 茶の湯
書院造の部屋で、おちついた作法にしたがって茶を飲む、
* {{Ruby|能
{{ruby|観阿弥|かんあみ}}と{{Ruby|世阿弥|ぜあみ}}の親子が、芸能のひとつである '''{{ruby|能|のう}}''' を形成しました。
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== {{Ruby|戦国|せんごく|時代}} ==
※{{Ruby|室町|むろまち}}時代の一部です。
=== {{ruby|鉄砲|てっぽう}}とキリスト教の伝来 ===
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この絵は,1575年の[[w:長篠の戦い|'''{{中付きルビ|3|長篠|4=の|6=戦い|3=ながしの|5=|7=たたかい}}]]'''を描いた屏風である。▼
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長篠の戦いは,{{中付きルビ|2|織田|おだ|信長|のぶなが}}・{{Ruby|徳川|とくがわいえやす}}の連合軍と{{Ruby|甲斐|かい}}の武田軍の戦いで,愛知県の{{Ruby|長篠|ながしの}}で起きた。武田は{{中付きルビ|1=2|2=武田|4=勝頼|3=たけだ|5=かつより}}を領主とした軍である。このころ,武田信玄は既に没していた。織田信長は,鉄砲隊を1000人も揃えた(3000人とも言われる)。そして,武田の{{Ruby|騎馬|きば|隊}}にそなえて,木の柵を並べた。▼
戦いが始まると,織田・徳川軍の鉄砲隊は,武田軍の騎馬隊をどんどん討ち取っていった。長篠の戦いで勝利したのは,織田・徳川の連合軍であり、武田軍は負けた(敗走した)。▼
武田の戦法は,それまでの常識とされてきた騎馬隊で近くまで攻めより,近くで馬を降りる<ref>諸説 (騎馬に乗って突撃するなど) あり。</ref>戦法だった。この戦いまで,武田軍の騎馬隊は,とても強いことで知られていた。多くの戦いで勝利をおさめていたためだ。しかし,織田軍の鉄砲隊によって,あっけなく負けてしまったのだ。▼
なお,当時の鉄砲は,{{Ruby|弾|たま}}を装填した後,撃つまでに30秒ほどかかる。木の柵があるのは,その30秒の間に織田軍が殺されないようにするための,時間かせぎのためでもあった。▼
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* {{ruby|鉄砲
[[ファイル:Arquebus.jpg|thumb|right|300px|種子島{{ruby|火縄銃
このとき,ポルトガル人から'''鉄砲'''(てっぽう)が日本に伝わる。当時の鉄砲の仕組みは,火縄銃(ひなわじゅう)という仕組みである。それまでの日本には鉄砲は知られていなく,日本にとっては鉄砲は新兵器であった。▼
▲このとき, ポルトガル人から'''{{ruby|鉄砲
やがて日本の各地に鉄砲の情報が広がります。堺(さかい,大阪府にある)や国友(くにとも,滋賀県にある)で,大量に鉄砲が作られるようになった。▼
鉄砲が日本に伝わってから,少しあとのころ,キリスト教が日本に伝わりました。
[[File:Franciscus_de_Xabier.jpg|thumb|250px|フランシスコ・ザビエル。]]
1549年にはスペイン人の{{ruby|宣教師
そのあと,他の宣教師も,次々と日本にやって
宣教師は,日本とヨーロッパとのあいだの貿易の世話もしたので,大名たち(特に西日本)の中にはキリスト教を保護する者も,
=== ヨーロッパ諸国との貿易 ===▼
このようなことをきっかけに,日本は,ポルトガルやスペインとの貿易を始めました。ポルトガル人・スペイン人の商船が,九州の長崎や平戸(ひらど)や,大阪の堺(さかい)の港などを訪れ,貿易をするようになった。▼
▲=== ヨーロッパ{{ruby|諸国|しょこく}}との貿易 ===
▲このようなことをきっかけに,日本は,ポルトガルやスペインとの貿易を始めました。ポルトガル人・スペイン人の商船が,{{Ruby|九州|きゅうしゅう}}の{{ruby|長崎|ながさき}}や{{ruby|平戸
=== 天下統一へ ===
:(おだのぶなが・とよとみひでよし・とくがわいえやす)
==== 織田信長 ====
* 桶狭間の戦い(おけはざま の たたかい)
[[File:Odanobunaga.jpg|250px|thumb|織田信長
[[File:Sengoku period 1565.png|thumb|500px|1565年の領地の様子]]
{{ruby|戦国|せんごく}}時代には各地に大名がおり,多くの大名どうしが争っていた。1560年{{ruby|以降|いこう}}から,まず,{{ruby|尾張
きっかけは,1560年に,愛知県にいる織田の領地に,となりの静岡県の今川義元(いまがわ よしもと)が攻め込んだことです。(この戦いは,愛知県の桶狭間(おけはざま)で起きたので「桶狭間の戦い」といいます。)
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[[ファイル:Battle of Nagashino.jpg|700px|thumb|長篠の戦い。左側が織田・徳川の連合軍。右側が武田軍。]]
1575年に織田・徳川の同盟と,対する敵は,甲斐(かい)の大名の武田勝頼(たけだ かつより)らの戦争である '''長篠の戦い'''(ながしののたたかい) が三河(みかわ)で起きる。この戦いでは,織田・徳川らの鉄砲隊の活躍により,織田が勝ち,武田は負ける。
武田の戦法は騎馬兵による従来の戦法であった。[[File:Battle of Nagashino word.svg|600px|thumb|『長篠合戦図屏風』,長篠の戦いを描いた屏風。左側が織田・徳川の連合軍。なお,織田軍の上部に秀吉の軍も描かれている。右側は武田軍。]]
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▲この絵は,1575年の[[w:長篠の戦い|'''{{中付きルビ|3|長篠|4=の|6=戦い|3=ながしの|5=|7=たたかい}}]]'''を描いた屏風である。
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▲長篠の戦いは,{{中付きルビ|2|織田|おだ|信長|のぶなが}}・{{Ruby|徳川|とくがわいえやす}}の連合軍と{{Ruby|甲斐|かい}}の武田軍の戦いで,愛知県の{{Ruby|長篠|ながしの}}で起きた。武田は{{中付きルビ|1=2|2=武田|4=勝頼|3=たけだ|5=かつより}}を領主とした軍である。このころ,武田信玄は既に没していた。織田信長は,鉄砲隊を1000人も揃えた(3000人とも言われる)。そして,武田の{{Ruby|騎馬|きば|隊}}にそなえて,木の柵を並べた。
▲戦いが始まると,織田・徳川軍の鉄砲隊は,武田軍の騎馬隊をどんどん討ち取っていった。長篠の戦いで勝利したのは,織田・徳川の連合軍であり、武田軍は負けた(敗走した)。
▲武田の戦法は,それまでの常識とされてきた騎馬隊で近くまで攻めより,近くで馬を降りる<ref>諸説 (騎馬に乗って突撃するなど) あり。</ref>戦法だった。この戦いまで,武田軍の騎馬隊は,とても強いことで知られていた。多くの戦いで勝利をおさめていたためだ。しかし,織田軍の鉄砲隊によって,あっけなく負けてしまったのだ。
▲なお,当時の鉄砲は,{{Ruby|弾|たま}}を装填した後,撃つまでに30秒ほどかかる。木の柵があるのは,その30秒の間に織田軍が殺されないようにするための,時間かせぎのためでもあった。
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