「小学校社会/6学年/歴史編」の版間の差分

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また少し査読。
室町~戦国を査読。未習漢字のルビなしが多い。mata,
769 行
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== {{ruby|室町|むろまち}}時代 ==
:(むろまち じだい)
<gallery mode="packed" style="text-align: center;" caption="" heights="150px" perrow="3">
File:Kinkaku3402CBcropped.jpg|金閣({{Ruby|鹿苑寺|ろくおんじ}})
File:Yoshimitsu_Ashikaga_cropped.jpg|足利義満
File:GinkakujiTemple.jpg|銀閣({{Ruby|慈照寺|じしょうじ}})
File:Ashikaga_YoshimasaAshikaga Yoshimasa detail.jpg|足利義政
</gallery>
 
鎌倉幕府がほろんで1336年今の{{ruby|京都|きょうと}}の{{Ruby|室町幕府(|むろまち ばくふ)}}に{{ruby|室町|むろまち}}幕府ができました。
 
14世紀に入ると1394年、室町幕府の3代{{ruby|将軍|しょうぐん}}である{{ruby|足利義満|あしかが よしみつ}}彼の住居を京都の{{Ruby|北山|きたやま}}に <big>室町</big>(むろ'''{{Ruby|金閣|きんかく}}''' を建てち) した。金閣は、金ぱらせ、その室町の住居 <big>花の御所</big>(なのごしょ) といわれて、ここが幕府の拠点になった。この「室町」の名が、この「室町時代」や「室町幕府」の名前の由来であるいます
 
1482年、室町幕府の8代将軍である{{Ruby|足利義政|あしかがよしまさ}}は、京都の{{Ruby|東山|ひがしやま}}に '''{{ruby|銀閣|ぎんかく}}''' を建てました。銀閣には、銀ぱくは はられていません。
 
義満は <big>金閣</big>(きんかく) という建物(たてもの)を、京都の北山(きたやま)に建てさせます。
 
金閣は、金箔(きんぱく)が貼られた豪華な建物です。
 
このあと、8代将軍の足利義政(あしかが よしまさ)が京都の東山に銀閣(ぎんかく)という別の建物をたてます。
銀閣には、べつに、銀箔(ぎんぱく)は、はられていない。
 
<gallery mode="packed" style="text-align: center;" caption="" heights="150px" perrow="3">
File:Ginkaku-ji_after_being_restored_in_2008.jpg|鹿苑寺(復元)
File:Ashikaga_Yoshimasa.jpg|足利義政
</gallery>
 
 
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=== 産業生活 ===
[[File:Tukinami huuzoku taue.jpg|thumb|400px|室町時代の田植えの様子。 {{ruby|月次風俗図屏風』(|つきなみ ふうぞく ずびょうぶ}}』より]]
色々な村で、用水路や共用地の管理など村の運営(うんえい)のしかたについて、寺社などに集まって自主的に相談しあって決めるようにするなど、農民どうしの集まりが開かれるようになりました
:(さんぎょう)
二毛作が各地に広まった。西日本だけでなく東日本にも二毛作が伝わっていきます。
 
室町時代には、農民は、{{Ruby||きび}}しい領主に対しては、集団で対立するようになりました
 
ねんぐが重い場合は、集団で領主におしかけてうったえでたり、全員が村から{{ruby|逃亡|とうぼう}}したりして{{ruby|対抗|たいこう}}しました。
色々な村で、用水路や共用地の管理など村の運営(うんえい)のしかたについて、寺社などに集まって自主的に相談しあって決めるようにするなど、農民どうしの集まりが開かれるようになります。
 
=== 一揆(いっき) ===
室町時代には、農民は、厳しい領主に対しては、集団で対立するようになる。
年貢が重い場合は、集団で領主に押しかけて(おしかけて)訴えでる(うったえでる)という強訴(ごうそ)をしたり、訴え(うったえ)がききいれられない場合は、全員が村から逃亡して村に人がいなくなってしまう逃散(ちょうさん)などで、対抗しました。
 
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=== 室町文化 ===
* 書院造(しょいんづくり)
[[File:Takagike Kashihara JPN 001.jpg|thumb|400px|書院造(しょいんづくり)]]
:※ 書院造の見やすい画像が無いので、ウィキペディア日本語版や外部サイトなどで書院造りの画像を見て下さい。
 
書院造(しょいんづくり)という、建築様式の室内の様式が出てくる。
特徴は、
:違い棚(ちがいだな)という、棚が段差になった棚がある。
:障子や、ふすま、がある。
:畳(たたみ)の床(ゆか)
など。
 
これが'''{{Ruby|書院造|しょいんづくり}}'''という今日の和室(わしつ)の様式に、つないくきました
 
ちょうは、
代表的な例として<big>東求堂同仁斎</big>(とうぐどうどうじんさい)の部屋が、書院造の部屋で有名である。
:{{ruby|い棚(|ちが}}{{ruby|棚|だな}}という、棚が{{ruby|段差|だんさ}}になった棚がある
:{{ruby|障子|しょうじ}}ふすまがある
:{{ruby||たたみ}}{{ruby||ゆか}}がある
などです
 
これが、今日の和室の様式に、つながっています。
 
* 水墨画
[[ファイル:SesshuToyo.jpg|left|thumb|180px|水墨画。秋冬山水図のうち秋景(東京国立博物館)]]
[[ファイル:Portrait of Sesshu.jpg|thumb|220px|雪舟自画像(模本) 、重要文化財、藤田美術館<br>雪舟は、40才後半くらいのときに中国大陸に渡って水墨画を学び、帰国後に、多くの作品をのこしました。]]
 
鎌倉時代に、中国大陸から <big>'''{{ruby|水墨画</big>(|すいぼくが}}''' の技法が日本に伝わりました。
 
はじめ日本では、水墨画は、仏教の世界をえがくためにえがかれました。
 
しかし、室町時代になり、<big>{{ruby|雪舟</big>(|せっしゅう}}は、水墨画と仏教をけて考え、仏教にとらわれずに、自然の風景などの水墨画をえがきました。
 
{{コラム|雪舟|雪舟は、{{ruby|幼|おさな}}いとき、今の{{ruby|岡山|おかやま}}県の{{ruby|興福寺|こうふくじ}}に{{ruby|預|あず}}けられていました。しかし雪舟はそこで{{ruby|修行|しゅぎょう}}をせず絵ばかりかいていました。そこでおこった{{ruby|和尚|おしょう}}は雪舟を柱にしばりつけました。しばらくして和尚が様子を見に行くと、雪舟の足元にねずみがいたので、追いはらおうとしましたが、ねずみは動きません。雪舟が、なみだでかいたねずみだったのです。和尚は、それ{{ruby|以降|いこう}}、絵をかくのを{{Ruby|認|みと}}めました。
:(なお、雪舟が日本でさいしょの水墨画をえがいたわけではない。お寺の僧侶(そうりょ)などが、仏教の教えを伝えるための水墨画をえがいていた。)
 
[[File:Sesshu - View of Ama-no-Hashidate.jpg|thumb|600px|雪舟の水墨画、『{{ruby|天橋立図』(|あまのはしだてず)。}}』]]
雪舟の水墨画の書き方は、その時代の中国の形式をまねたのでは、ありません。
 
[[File:Sesshu - View of Ama-no-Hashidate.jpg|thumb|600px|雪舟の水墨画、『天橋立図』(あまのはしだてず)。]]
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* 茶の湯
書院造の部屋で、おちついた作法にしたがって茶を飲む、<big>'''{{ruby|の湯</big>(|ちゃ}}{{ruby|湯|}}'''が始まりました。茶の湯は、今(2014年に執筆。)でも{{ruby|茶道|さどう}}として、受けがれています
 
 
* {{Ruby||のう}}
{{ruby|観阿弥|かんあみ}}と{{Ruby|世阿弥|ぜあみ}}の親子が、芸能のひとつである '''{{ruby|能|のう}}''' を形成しました。
 
 
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== {{Ruby|戦国|せんごく|時代}} ==
※{{Ruby|室町|むろまち}}時代の一部です。
=== {{ruby|鉄砲|てっぽう}}とキリスト教の伝来 ===
==== 長篠の戦い ====
[[File:Battle of Nagashino word.svg|600px|thumb|『長篠合戦図屏風』,長篠の戦いを描いた屏風。左側が織田・徳川の連合軍。なお,織田軍の上部に秀吉の軍も描かれている。右側は武田軍。]]
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この絵は,1575年の[[w:長篠の戦い|'''{{中付きルビ|3|長篠|4=の|6=戦い|3=ながしの|5=|7=たたかい}}]]'''を描いた屏風である。
{{Clear}}
長篠の戦いは,{{中付きルビ|2|織田|おだ|信長|のぶなが}}・{{Ruby|徳川|とくがわいえやす}}の連合軍と{{Ruby|甲斐|かい}}の武田軍の戦いで,愛知県の{{Ruby|長篠|ながしの}}で起きた。武田は{{中付きルビ|1=2|2=武田|4=勝頼|3=たけだ|5=かつより}}を領主とした軍である。このころ,武田信玄は既に没していた。織田信長は,鉄砲隊を1000人も揃えた(3000人とも言われる)。そして,武田の{{Ruby|騎馬|きば|隊}}にそなえて,木の柵を並べた。
 
戦いが始まると,織田・徳川軍の鉄砲隊は,武田軍の騎馬隊をどんどん討ち取っていった。長篠の戦いで勝利したのは,織田・徳川の連合軍であり、武田軍は負けた(敗走した)。
 
武田の戦法は,それまでの常識とされてきた騎馬隊で近くまで攻めより,近くで馬を降りる<ref>諸説 (騎馬に乗って突撃するなど) あり。</ref>戦法だった。この戦いまで,武田軍の騎馬隊は,とても強いことで知られていた。多くの戦いで勝利をおさめていたためだ。しかし,織田軍の鉄砲隊によって,あっけなく負けてしまったのだ。
 
なお,当時の鉄砲は,{{Ruby|弾|たま}}を装填した後,撃つまでに30秒ほどかかる。木の柵があるのは,その30秒の間に織田軍が殺されないようにするための,時間かせぎのためでもあった。
 
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* {{ruby|鉄砲|てっぽう}}
[[ファイル:Arquebus.jpg|thumb|right|300px|種子島{{ruby|火縄銃(2005年日本国際博覧会|愛知万博のポルトガル館展示物)ひなわじゅう}}<br>当時の鉄砲は,つつ先から火薬(かやく)弾(たまをいれまするものでしたたまがとどく距離きょりは,100mほどだとわれています。]]
鉄砲は戦国時代の16世紀の1543年に,{{ruby|九州|きゅうしゅう}}の今でいう{{ruby|鹿児島|かごしま}}県の島である{{ruby|種子島|たねがしま}}に,ポルトガル人をせた中国大陸の船が流れ着きました
 
このとき,ポルトガル人から'''鉄砲'''(てっぽう)が日本に伝わる。当時の鉄砲の仕組みは,火縄銃(ひなわじゅう)という仕組みである。それまでの日本には鉄砲は知られていなく,日本にとっては鉄砲は新兵器であった。
 
:(※ 範囲外: ) 種子島(たねがしま)の領主の 種子島時尭(たねがしま ときたか)は,ポルトガル人から大金を払って鉄砲を買い入れ,部下にその仕組みと製造法を学ばせた。時尭はヨーロッパ人の鉄砲の威力を見て感心し,即座に2000両の大金を支払い2丁の鉄砲を購入したという。)
 
このとき, ポルトガル人から'''{{ruby|鉄砲'''(|てっぽう}}'''が日本に伝わる。当時の鉄砲の仕組みは,火縄銃(ひなわじゅう)という仕組みであるりました。それまでの日本は鉄砲は知られていなくおらず, 日本にとっては鉄砲は新兵器であった。
やがて日本の各地に鉄砲の情報が広がります。堺(さかい,大阪府にある)や国友(くにとも,滋賀県にある)で,大量に鉄砲が作られるようになった。
 
やがて日本の各地に鉄砲の情報が広がります。堺(さかい,大阪府にある)や国友(くにとも,滋賀県にある)で,大量に鉄砲が作られるようになりました。
 
鉄砲が日本に伝わってから,少しあとのころ,キリスト教が日本に伝わりました。
 
[[File:Franciscus_de_Xabier.jpg|thumb|250px|フランシスコ・ザビエル。]]
1549年にはスペイン人の{{ruby|宣教師|せんきょうし}}である'''フランシスコ=ザビエル'''が日本の鹿児島に来て,'''キリスト教'''を伝えましのが,きっかけです
 
そのあと,他の宣教師も,次々と日本にやってきた。(たとえばルイス・フロイスなどの宣教師も,日本にきました。織田信長に出あった宣教師は,このルイス・フロイスです。ザビエルは,織田信長とは,出会ってないと思われます。)
 
宣教師は,日本とヨーロッパとのあいだの貿易の世話もしたので,大名たち(特に西日本)の中にはキリスト教を保護する者も,いました。とくに西日本に,キリスト教を保護する大名が,多くいました。
 
=== ヨーロッパ諸国との貿易 ===
このようなことをきっかけに,日本は,ポルトガルやスペインとの貿易を始めました。ポルトガル人・スペイン人の商船が,九州の長崎や平戸(ひらど)や,大阪の堺(さかい)の港などを訪れ,貿易をするようになった。
 
(※ 範囲外 : )なお,そのころ,ポルトガルやスペインの拠点が,東南アジアにありました。多くのヨーロッパ人の商人は,東南アジアを経由して,日本に来ました。
 
日本への輸入品は,中国の生糸や絹織物など,中国産の物品が中心だった。ヨーロッパの鉄砲,火薬,毛織物,時計,ガラス製品,南方の香料なども,日本に輸入され,伝えられていった。日本からの輸出品は,銀や刀剣だった。当時の日本では銀山の開発が進んでいたのでおり,世界市場に影響を与えるほどの産出量・輸出量だった。
 
=== ヨーロッパ{{ruby|諸国|しょこく}}との貿易 ===
このようなことをきっかけに,日本は,ポルトガルやスペインとの貿易を始めました。ポルトガル人・スペイン人の商船が,{{Ruby|九州|きゅうしゅう}}{{ruby|長崎|ながさき}}{{ruby|平戸|ひらど}}や,{{ruby|大阪|おおさか}}{{ruby||さかい}}の港などを{{ruby||おとず}},貿易をするようになりました。
 
=== 天下統一へ ===
'''織田信長・豊臣秀吉・徳川家康'''<br>
:(おだのぶなが・とよとみひでよし・とくがわいえやす)
 
多くの大名がおり,各地で争いがおきているので,その全てを解説する時間はない。なので,代表的な人物を中心に取り上げる。
 
==== 織田信長 ====
* 桶狭間の戦い(おけはざま の たたかい)
[[File:Odanobunaga.jpg|250px|thumb|織田信長(おだ のぶなが)]]
[[File:Sengoku period 1565.png|thumb|500px|1565年の領地の様子]]
 
:<!-- ※ 教育出版や光村の教科書に書いてあります。小学校の範囲内です。 -->
 
{{ruby|戦国|せんごく}}時代には各地に大名がおり,多くの大名どうしが争っていた。1560年{{ruby|以降|いこう}}から,まず,{{ruby|尾張|おわり,}}(現在の{{ruby|愛知県に|る)いち}}県西部)の大名であった '''{{ruby|織田信長'''(|おだ のぶなが}}'''( が勢力を伸ばし始めました
 
きっかけは,1560年に,愛知県にいる織田の領地に,となりの静岡県の今川義元(いまがわ よしもと)が攻め込んだことです。(この戦いは,愛知県の桶狭間(おけはざま)で起きたので「桶狭間の戦い」といいます。)
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[[ファイル:Battle of Nagashino.jpg|700px|thumb|長篠の戦い。左側が織田・徳川の連合軍。右側が武田軍。]]
1575年に織田・徳川の同盟と,対する敵は,甲斐(かい)の大名の武田勝頼(たけだ かつより)らの戦争である '''長篠の戦い'''(ながしののたたかい) が三河(みかわ)で起きる。この戦いでは,織田・徳川らの鉄砲隊の活躍により,織田が勝ち,武田は負ける。
武田の戦法は騎馬兵による従来の戦法であった。[[File:Battle of Nagashino word.svg|600px|thumb|『長篠合戦図屏風』,長篠の戦いを描いた屏風。左側が織田・徳川の連合軍。なお,織田軍の上部に秀吉の軍も描かれている。右側は武田軍。]]
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この絵は,1575年の[[w:長篠の戦い|'''{{中付きルビ|3|長篠|4=の|6=戦い|3=ながしの|5=|7=たたかい}}]]'''を描いた屏風である。
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長篠の戦いは,{{中付きルビ|2|織田|おだ|信長|のぶなが}}・{{Ruby|徳川|とくがわいえやす}}の連合軍と{{Ruby|甲斐|かい}}の武田軍の戦いで,愛知県の{{Ruby|長篠|ながしの}}で起きた。武田は{{中付きルビ|1=2|2=武田|4=勝頼|3=たけだ|5=かつより}}を領主とした軍である。このころ,武田信玄は既に没していた。織田信長は,鉄砲隊を1000人も揃えた(3000人とも言われる)。そして,武田の{{Ruby|騎馬|きば|隊}}にそなえて,木の柵を並べた。
 
戦いが始まると,織田・徳川軍の鉄砲隊は,武田軍の騎馬隊をどんどん討ち取っていった。長篠の戦いで勝利したのは,織田・徳川の連合軍であり、武田軍は負けた(敗走した)。
 
武田の戦法は,それまでの常識とされてきた騎馬隊で近くまで攻めより,近くで馬を降りる<ref>諸説 (騎馬に乗って突撃するなど) あり。</ref>戦法だった。この戦いまで,武田軍の騎馬隊は,とても強いことで知られていた。多くの戦いで勝利をおさめていたためだ。しかし,織田軍の鉄砲隊によって,あっけなく負けてしまったのだ。
 
なお,当時の鉄砲は,{{Ruby|弾|たま}}を装填した後,撃つまでに30秒ほどかかる。木の柵があるのは,その30秒の間に織田軍が殺されないようにするための,時間かせぎのためでもあった。
 
 
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