「小学校社会/6学年/歴史編」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
室町~戦国を査読。未習漢字のルビなしが多い。mata,
査読+内容削減。
849 行
鉄砲が日本に伝わってから,少しあとのころ,キリスト教が日本に伝わりました。
 
[[File:Franciscus_de_Xabier.jpg|thumb|250px|フランシスコ・ザビエル。]]
1549年にはスペイン人の{{ruby|宣教師|せんきょうし}}である'''フランシスコ=ザビエル'''が日本の{{ruby|鹿児島|かごしま}}に来て,'''キリスト教'''を伝えました。
 
そのあと,他の宣教師も,次々と日本にやってきました。
870 行
<!-- ※ 教育出版や光村の教科書に書いてあります。小学校の範囲内です。 -->
 
{{ruby|戦国|せんごく}}時代には各地に大名がおり,多くの大名どうしが争っていた。1560年{{ruby|以降|いこう}}から,まず,{{ruby|尾張|おわり}}(現在の{{ruby|愛知|あいち}}県の西部)の大名であった '''{{ruby|織田信長|おだのぶなが}}'''が勢力を伸ば{{ruby|拡大|かくだい}}し始めました。
 
きっかけは,1560年に,愛知県にいる織田の領地に,となりの静岡県の{{ruby|今川義元|いまがわ よしもと}}込んだとです。(この戦いは,愛知県のみ、{{ruby|桶狭間|おけはざま)で起きたので「桶狭間}}の戦い」といい が起こりした
 
この戦いで,今川義元(軍勢ではなく本人)を織田らの軍が{{ruby||う}}ち取り,今川義元は{{ruby||な}}くなりました。このため,今川軍は命令の{{ruby|系統|けいとう}}がくずれてしまい,負け敗北しました。
 
桶狭間の戦い以降,信長は西へと勢力を拡大しました。1568年には,{{ruby|室町幕府|むろまちばくふ}}の{{ruby|足利|あしかが}}氏の一族である{{ruby|足利義昭|あしかがよしあき}}を{{ruby|支援|しえん}}して京都に入った。義昭はのちに,室町幕府の15代{{ruby|将軍|しょうぐん}}となりました。
(なお,今川の討ち死にのいきさつは,信長軍の兵が少数の軍勢で今川の本陣を奇襲し,今川義元を討ち取ったことです。)
 
1569年,信長は,キリスト教の{{ruby|宣教師(ルイス・フロイス)|せんきょうし}}と初めて出会い,かれにキリスト教の布教を許可しました。信長本人はキリスト教の信者ではなく,信長のねらいは宣教師のもたらす情報などがねらいだとか,あるいは当時に信長と{{ruby|敵対|てきたい}}していた仏教勢力への{{ruby|対策|たいさく}}などと,一般いっぱんに言われています。
 
 
1571年には, 仏教勢力である{{ruby|延暦寺|えんりゃくじ}}浅井・朝倉織田味方して{{ruby|背|そむ}}いたことなどから,)織田信長は,{{ruby|比叡山延暦寺|ひえいざん えんりゃくじ}} を焼き{{ruby||う}}ちにします。(いわゆる「延暦寺の焼き打ち」した
 
:<!-- ※ 日本文教出版の教科書『日本のあゆみ』で,延暦寺の焼き討ちなどを紹介しています。 -->
:(※ 範囲外 : ) 豊臣秀吉(とよとみひでよし)は,桶狭間の当時は織田信長の家臣でした。当時の名は「木下 藤吉郎」(きのした とうきちろう) と名乗っていました。のちの1570年のころに名を変え,木下藤吉郎から「羽柴 秀吉」(はしば ひでよし)に名前を変えています。
 
 
桶狭間の戦い以降そして,1573年ごろ,織田信長は西へと勢力を伸ばしていく。1568年には,室町幕府の足利氏の一族将軍であった足利義昭(あしを京都が よら追放あき)を支援て京都に入った。義昭がこうして,室町幕府の第15代将軍になるは,ほろびました
 
:(※(※ 足利義昭の名前は,小学校の教科書では出てこないきません)
1569年,信長は,キリスト教の宣教師(ルイス・フロイス)と初めて出会い,彼にキリスト教の布教を許可します。信長本人はキリスト教の信者ではなく,信長の狙いは宣教師のもたらす情報などが狙いだとか,あるいは当時に信長と敵対していた仏教勢力への対策などと,一般に言われています。
 
 
 
1571年には(仏教勢力の延暦寺が浅井・朝倉に味方してことなどから,)織田信長は,比叡山延暦寺(ひえいざん えんりゃくじ)を焼き討ちにします。(いわゆる「延暦寺の焼き打ち」。)
 
このほか,信長は,仏教勢力による一向一揆(いっこういっき)とたたかいました。
 
 
 
:※ 日本文教出版の教科書『日本のあゆみ』で,延暦寺の焼き討ちなどを紹介しています。
 
 
そして,1573年ごろ,織田信長は,室町幕府の将軍(足利義昭(あしかが よしあき))を京都から追放しました。こうして,室町幕府は,ほろんだ。
:(※ 足利義昭の名前は,小学校の教科書では出てこない。)
 
 
* 長篠の戦い
[[ファイル:Battle of Nagashino.jpg|700px|thumb|長篠の戦い。左側が織田・徳川の連合軍。右側が武田軍。]]
1575年に{{ruby|三河|みかわ}}(現在の{{ruby|愛知|あいち}}県の東部)で、{{ruby|織田|おだ}}{{ruby|徳川|とくがわ}}{{ruby|同盟|どうめい}}と,対する敵は,{{ruby|甲斐|かい}}の大名の{{ruby|武田勝頼|たけだ かつより}}らの戦争である '''{{ruby|長篠|ながしの}}の戦い'''(な起きまののたかい) が三河(みかわ)で起きる。この戦いでは,織田・徳川鉄砲隊の活躍により,織田同盟が勝利し,武田は負ける敗北しました
武田の戦法は騎馬兵による従来の戦法であった。[[File:Battle of Nagashino word.svg|600px|thumb|『長篠合戦図屏風』,長篠の戦いを描いた屏風。左側が織田・徳川の連合軍。なお,織田軍の上部に秀吉の軍も描かれている。右側は武田軍。]]
{{-}}
この絵は,1575年の[[w:長篠の戦い|'''{{中付きルビ|3|長篠|4=の|6=戦い|3=ながしの|5=|7=たたかい}}]]'''を描いた屏風である。
{{Clear}}
長篠の戦いは,{{中付きルビ|2|織田|おだ|信長|のぶなが}}・{{Ruby|徳川|とくがわいえやす}}の連合軍と{{Ruby|甲斐|かい}}の武田軍の戦いで,愛知県の{{Ruby|長篠|ながしの}}で起きた。武田は{{中付きルビ|1=2|2=武田|4=勝頼|3=たけだ|5=かつより}}を領主とした軍である。このころ,武田信玄は既に没していた。織田信長は,鉄砲隊を1000人も揃えた(3000人とも言われる)。そして,武田の{{Ruby|騎馬|きば|隊}}にそなえて,木の柵を並べた。
 
* {{Ruby|安土城|あづちじょう}}
戦いが始まると,織田・徳川軍の鉄砲隊は,武田軍の騎馬隊をどんどん討ち取っていった。長篠の戦いで勝利したのは,織田・徳川の連合軍であり、武田軍は負けた(敗走した)。
(※<!-- ※ 小学の範囲内です。検定教科書に想像図や復元図などで書がかいてあります。 -->
 
1576年,琵琶湖(びわこ)のちかくの織田信長は{{ruby|近江|おうみ,}}(現在の{{ruby|滋賀|しが}})にある,小高い山の上に城を築かせ(きずかせ),天守閣(てんしゅかく)を持つ '''{{ruby|安土城'''(|あづちじょう}}''' を築かせました。
武田の戦法は,それまでの常識とされてきた騎馬隊で近くまで攻めより,近くで馬を降りる<ref>諸説 (騎馬に乗って突撃するなど) あり。</ref>戦法だった。この戦いまで,武田軍の騎馬隊は,とても強いことで知られていた。多くの戦いで勝利をおさめていたためだ。しかし,織田軍の鉄砲隊によって,あっけなく負けてしまったのだ。
 
安土城の城下町では,自由に商売をできるようにしましたので,とても,もうかりました。
なお,当時の鉄砲は,{{Ruby|弾|たま}}を装填した後,撃つまでに30秒ほどかかる。木の柵があるのは,その30秒の間に織田軍が殺されないようにするための,時間かせぎのためでもあった。
 
 
{{-}}
 
* 堺(さかい)
大阪の堺(さかい)は,さいしょは,港町として,栄えていました。戦国時代の堺(さかい)は,さいしょ,商人たちが自治(じち)をしていました。
 
しかし,織田信長は,武力で,堺(さかい)も支配します。
 
* 安土城(あづちじょう)
(※ 小学の範囲内です。検定教科書に想像図や復元図などで書いてあります。)
 
1576年,琵琶湖(びわこ)のちかくの近江(おうみ,滋賀県)にある,小高い山の上に城を築かせ(きずかせ),天守閣(てんしゅかく)を持つ '''安土城'''(あづちじょう) を築かせました。
 
安土城の城下町では,自由に商売をできるようにしましたので,とても,もうかりました。
 
また,安土の城下町には,キリスト教の学校や教会も建てられました。
 
安土城よう城下町付近では、商業をさかんするため,信長はいろいろ関所で通行税を新しいことを,やり{{ruby|廃止|はいし}}しました。
 
* 楽市楽座(らくいち らくざ)
(※ 「楽市楽座」の用語は範囲外。内容は小学教科書でも紹介している。)
 
商業をさかんにするため,関所(せきしょ)で通行税(つうこうぜい)をとることを廃止(はいし)した。
一般に商人は,利益をだすために,費用をあまり払いたくないので,そのため税のひくい場所で商売をしたがります。
 
また,各産業の同業者組合である座(ざ)の独占権を廃止し,だれでも商売が始められるようにします。このように座の独占権を廃止したことを 「楽座」(らくざ) と言います。
 
そして,商業を活発にするための信長による一連の規制(きせい)の撤廃(てっぱい)などの商業の振興策(しんこうさく)を,'''楽市楽座'''(らくいち らくざ)といいます。
 
:※大人の方へ:楽市楽」との内容何かを小学校範囲内は紹介してないので,すが、「楽市楽座」という用語小学校範囲外は紹介してないようだ
 
==== 本能寺の変 ====
[[File:Sengoku period 1582.png|thumb|400px|1582年の領地]]
 
1582年,{{ruby|中国|ちゅうごく}}地方へと勢力をひろめるため,{{ruby|織田|おだ}}軍は{{ruby|豊臣秀吉|とよとみひでよし}}などに命じて,中国地方の大名の{{ruby|毛利|もうり}}と戦争をしていました。信長はこれを{{ruby|支援|しえん}}するため中国地方に向かう途中とちゅう,信長は{{ruby|京都|きょうと}}{{ruby|本能寺|ほんのうじ}}泊まって(とまってました。
(※ 「本能寺の変」の用語は範囲外。内容は小学教科書でも紹介している。)
 
このとき,家臣の '''{{ruby|明智光秀'''(|あけち みつひで}}'''{{ruby|切り(|うら}}切,明智の軍が信長におそいかかり,この本能寺で信長および信長の子の{{ruby|織田信忠|おだ のぶただ}}たちは{{ruby|死亡|しぼう}}しました
1582年,中国地方へと勢力をひろめるため,織田軍は秀吉(ひでよし)などに命じて,中国地方の大名の毛利(もうり)と戦争をしていました。信長はこれを支援するため中国地方に向かう途中,信長は京都の本能寺に泊まって(とまって)ました。
 
なお、この一連の事件を '''本能寺の変''' といいます。
このとき,家臣の'''明智光秀'''(あけち みつひで)が裏切り(うらぎり),明智の軍が信長におそいかかり,この本能寺で信長および信長の子の織田信忠(おだ のぶただ)たちは死亡します。
 
'''信長は,天下統一をなしとげられませんでした。'''
この1582年の本能寺での一連の事件が'''本能寺の変'''(ほんのうじのへん) です。
 
※大人の方へ:本能寺の変の内容は小学校範囲内ですが、「本能寺の変」という用語は小学校範囲外です。
 
'''信長は,天下統一をしていません。'''