「小学校社会/6学年/歴史編」の版間の差分
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{{Pathnav|メインページ|小学校・中学校・高等学校の学習|小学校の学習|小学校社会|小学校社会/6学年|frame=1}}<!-- 当ページを編集される方は、学習指導要領解説社会編や検定教科書を参考に編集してください。また、小学生向けであることに留意してください。 -->
== 歴史を学ぶ前に ==
歴史を勉強していくと、いろいろな人物が出てきます。くわしく知りたいときは「[[小学校社会/6学年/歴史人物事典|歴史人物事典]]」を参考にしてください。
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安土城の城下町付近では、商業をさかんにするため,関所で通行税をとることを{{ruby|廃止|はいし}}しました。
なお、このような政策を {{ruby|楽市楽座|らくいちらくざ}}といいます。
:※大人の方へ:楽市楽座の内容は小学校範囲内ですが、「楽市楽座」という用語は小学校範囲外です。
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'''信長は,天下統一をしていません。'''
天下統一ならず,信長は死亡します。
{{-}}
====
[[File:Toyotomi_hideyoshi.jpg|thumb|250px|豊臣秀吉。秀吉は,もともと農民でしたが,村をでて,武士になりました。そして,信長に{{Ruby|認|みと}}められて,信長の部下
[[File:Osaka Castle Keep tower of 「A figure of camp screen of the Osaka summer」.jpg|thumb|大阪城]]
信長の死を聞いた
その後も,秀吉にさからう大名をつぎつぎと
このようにして,しだいに秀吉の地位は高まっていき,信長の領地を受け
1583年に秀吉は,大阪に'''{{Ruby|大阪城
そのあと,秀吉は各地の大名たちを平定して{{Ruby|従
そして1590年には,秀吉に従わなかった{{Ruby|北条|ほうじょう}}氏の治める関東の{{Ruby|小田原|おだわら}}をせめ,{{ruby|北条氏政|ほうじょううじまさ}}をほろぼしました。
同1590年,秀吉に従っていなかった東北の{{Ruby|伊達|だて}}氏など東北の大名も,秀吉に従いました。こうして、'''秀吉が天下統一をなしとげました。'''
==== 秀吉の政策 ====
*
農民から
検地は信長の時代からも行われていたが,秀吉は各地でちがっていた長さや面積などの単位を全国で統一させ
そして記録によって,田畑の面積や,田の{{Ruby|収穫高|しゅうかくだか}}である'''{{ruby|石高
検地帳によって耕作者が
* '''{{Ruby|刀狩
1588年に、豊臣秀吉は'''{{Ruby|刀狩令|かたながりれい}}'''という、農民から刀や{{Ruby|鉄砲|てっぽう}}などの武器を{{Ruby|没収|ぼっしゅう}}する命令
'''{{Ruby|刀狩令|かたながりれい}}'''
==== 朝鮮出兵 ====
日本を統一した秀吉は,つぎに,外国を{{Ruby|征服
この戦争を
秀吉の朝鮮出兵は2度あります。
最終的に日本は朝鮮・明の連合軍に敗北しました。
1598年に日本国内で秀吉
{{-}}
:
:
:
:* 朝鮮人の捕虜が日本に連行されたり,物品の{{Ruby|略奪りゃくだつ}}などを通して、朝鮮の{{ruby|陶器|とうき}}の文化が日本に伝わる。{{Ruby|佐賀|さが}}県の{{Ruby|有田|ありた}}焼,{{Ruby|鹿児島|かごしま}}県の{{Ruby|薩摩|さつま}}焼,{{Ruby|山口|やまぐち}}県の{{Ruby|萩|はぎ}}焼など、今では,その地方の特産品の一つになっている。
などのことが起こりました。}}
==== 徳川家康 ====
[[File:Tokugawa_Ieyasu2.JPG|thumb|300px|徳川家康]]
1590年,秀吉の命令によって,家康の領地が関東に移され
朝鮮出兵では,家康は兵をおくる義務はなく,家康は兵力をたくわえることができました。
豊臣秀吉が{{Ruby|亡|な}}くなると,徳川家康の勢力が強まりました。
* {{Ruby|関ヶ原|せきがはら}}の戦い
[[File:Sekigaharascreen.jpg|thumb|500px|関ヶ原の戦い<br>絵の右側にいるのが東軍。絵の左側にいるのが西軍。]]
1600年、{{Ruby|関ヶ原|せきがはら}}(今の{{Ruby|岐阜|ぎふ}}県)で、徳川家康が率いる軍と,豊臣秀吉が率いる軍が戦いました。これを '''関ヶ原の戦い''' といいます。結果は,徳川家康が率いる軍の勝利でした。
* {{Ruiby|江戸幕府|えどばくふ}}
:1603年,{{Ruby|朝廷|ちょうてい}}から{{Ruby|徳川家康|とくがわいえやす}}は {{Ruby|征夷大将軍|せいいたいしょうぐん}} に任命されました。
:家康は{{Ruby|江戸|えど}}(今でいう{{Ruby|東京|とうきょう}}に'''{{Ruby|幕府|ばくふ}}'''を開きました。これが'''江戸幕府'''であり,この時から'''江戸時代'''が始まりました。江戸時代は260年ほど続きます。
* 大阪城を
:1614年
そして,この戦争で豊臣氏が負けたので,豊臣氏は,ほろぼされま
* 江戸の工事
[[File:Edo P detail.jpg|500px|thumb|江戸城]]
江戸のまちは,江戸幕府より前は,政治の中心地になったことがなかったので,やや不便
* 1616年 徳川家康が{{Ruby|死亡|しぼう}}しました。
{{-}}
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==== まとめ : 信長・秀吉・家康 ====
{| class="wikitable" style="float:right"
|+ {{ruby|信長|のぶなが}}・{{Ruby|秀吉|ひでよし}}・{{Ruby|家康|いえやす}}の時代
| 織田信長 <br>[[File:Odanobunaga face.png|150px|織田信長の顔。]]|| 豊臣秀吉 <br>[[File:Toyotomi hideyoshi face.png|150px|豊臣秀吉の顔。]]|| 徳川家康 <br>[[File:Tokugawa Ieyasu2 face.png|150px|徳川家康の顔。]]
|-
| 1534 {{Ruby|尾張|おわり}}(現在の{{Ruby|愛知|あいち}}県の西部)の大名の子として生まれる || 1537 尾張に農民の子として生まれる || 1542 三河(現在の愛知県の東部)の大名の子として生まれる
|-
| 1560 {{Ruby|今川|いまがわ}}氏を破る || ||
|-
| 1562 家康と連合する || || 1562 信長と連合する
|-
| 1573年 {{Ruby|足利|あしかが}}氏を{{Ruby|京都|きょうと}}から追い出す<br />
|-
| style="text-align: left;" colspan="3" | 1575 '''{{Ruby|長篠|ながしの}}の戦い'''で,信長と家康の連合軍が,武田の軍をたおす
|-
| 1576 {{Ruby|安土城|あづちじょう}}を築く || ||
|-
| 1582 {{Ruby|明智光秀|あけちみつひで}}におそわれ,<br />信長は自害する({{ruby|本能寺|ほんのうじ}}の変) || <br>1582 秀吉が光秀をたおす ||
|-
| || 1583 {{Ruby|大阪城|おおさかじょう}}を築く ||
|-
| || 1588 '''{{Ruby|刀狩|かたながり}}'''を命じる ||
|-
| || 1590 日本を統一する || 1590 秀吉の命令で,関東に領地をうつす
|-
| || 1592 {{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}をせめる ||
|-
| || 1597 ふたたび朝鮮をせめる ||
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| || || 1600 関ヶ原の戦いで勝つ
|-
| || || 1603 {{Ruby|征夷大将軍|せいいたいしょうぐん}}になり,'''{{Ruby|江戸幕府|えどばくふ}}'''をひらく
|-
| || || 1615 豊臣氏をほろぼす
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つぎのような うた があります。
'''{{Ruby|織田|おだ}}がつき
'''すわりしままに
「{{Ruby|羽柴|はしば}}」とは,豊臣秀吉のことです。秀吉は,「豊臣秀吉」と名乗る前には,「羽柴秀吉」と長く名乗っていました。
「織田」とは,織田信長のことです。
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「徳川」とは,徳川家康のことです。
:※ この うた
ヒント:織田は「もちをついて」、つまりもちをやわらかくしています。羽柴は「もちをこね」、つまり織田がついたもちをさらにやわらかくしています。そして徳川は「すわりしままに食う」、つまりもちを作っていないのにもちを食べています。
{{clear}}
{| class="wikitable"
|+
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|-
|}
織田信長は「逆らうものは{{Ruby|排除|はいじょ}}する」という{{Ruby|姿勢|しせい}}をとり、豊臣秀吉は「逆らうものは{{Ruby|従|したが}}わせる」という姿勢をとり、徳川家康は「逆らうものは従うまで待つ」、つまりチャンスを{{Ruby|探|さぐ}}るという姿勢をとっています。
{{clear}}
=== ヨーロッパから伝わってきた言葉 ===
戦国時代のころ,ヨーロッパとの貿易により,ヨーロッパの商品や科学技術が日本に伝わりました。
食べ物のパン({{Ruby|pão
コップもポルトガル語の {{Ruby|copo
<!-- ※ 日本文教出版の小6の教科書『日本のあゆみ』や,教育出版の教科書で,カステラなどについて紹介されている。 -->
服の上から着る「マント」とその言葉も,この時代に,つたわってきました(なお,マントの語源はフランス語です)おそらく,{{Ruby|宣教師|せんきょうし}}などが,マントをまとっていたのでしょう)。
円をかくために使う「コンパス」とその言葉も,この時代に,つたわってきました(なお,コンパスはオランダ語です)。
<!-- ※ 日本文教出版の小6の教科書『日本のあゆみ』で,マントやコンパスなどについて紹介されている。また,国語の教科書で,外来語として紹介される場合もある -->
なお,いくつかの日本語や中国語もヨーロッパに伝わっていきました。
「{{Ruby|茶
「{{Ruby|坊主|ぼうず}}」が,{{Ruby|bonzo|ボンゾー}}と,ポルトガル語になりました。
当時の日本人がヨーロッパ人を'''「{{Ruby|南蛮人|なんばんじん}}」'''と{{Ruby|呼|よ}}んだので,日本によるヨーロッパとの貿易を'''{{Ruby|南蛮貿易|なんばんぼうえき}}'''といいます。
<!-- ※ 小学教科書の章末コラムなどで,「南蛮」の用語がある。日本文教出版,教育出版など -->
[[File:Namban-13.jpg|thumb|left|350px|{{Ruby|南蛮屏風|なんばんびょうぶ}}(※ 一部分)<br>南蛮貿易のようすがかかれています。日本人がえがいたものです。]]
{{-}}
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