「日本史/近代/戦前」の版間の差分

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===== 南京陥落 =====
前述したように、軍内部での拡大派 (この作戦を敢行し主導権を握りたい) と現地の軍指揮官 (手柄をとりたい) のそれぞれの野心が働きあい、正式な命令も無いまま、一路南京に向かう。
しかし、前述の通り正式な軍ではないため後方支援部隊が無く、食糧は道中の村で調達した。その際、非戦闘員を含めた村人に略奪並びに殺傷行為を働く<ref group="注釈">1908年に定められた「[[s:陸軍刑法|陸軍刑法]]」で物質の掠奪を1年以下の懲役に処す旨を明記していたため、指令部が物質の住民からの徴発(=掠奪)を強いたことそのものが陸軍刑法に違反している。</ref>。彼らは戦闘に慣れていない後備兵であり、上海を落とせば凱旋できると家族や故郷のことを想い上海戦を敢行した矢先、南京へ駆り出された(それも複数の部隊で進軍を競わされた)のだ。彼らの怒り、ストレスの類がそのような行動を行わせたことは否定できない。この蛮行の原因が指令部にあることは言うまでもないだろう。規律が守られず、それを取り締まる法務部もいなかった。これらの村には、まだ近代化が進んでいない村も多く、情報が伝わらなかったが故に、日本軍の来襲を知らず、中国軍と間違えるなどもあった。南京は周囲へ放射状に幹線道路があり、南京を守る中国軍は南京の周辺全域で防御を敷いたため、沿線の村はほとんどが巻き込まれた。日本軍は予備兵中心のため、戦闘経験の無い者も多く、捕虜を殺害することを「楽しむ」者までいた。
 
メディアも必要以上に国民の戦意を煽り、国民にあたかも南京を制圧することで戦争が終結するように思わせ、国民を協力させる(拡大派の思うつぼ)。南京制圧が目前になると、祝福ムードが増し、ついに不拡大派の一部も南京攻略に同意する。当然ながらこの際に後方支援部隊を投入するなどの案が出されたものの、「戦機を逃す」としてこれを拒否した。
 
この際に「後方支援部隊を増強する案」が提示されるも、「戦機を逃す」としてこれを拒否。
中国政府も南京の防御が厳しくなってきたため、12月2日、ドイツ大使を通じて和平条件(不拡大方針で'''日本が提示した'''トラウトマン和平工作)を認める意向が伝えられるも、拡大派中心になっていた軍や近衛内閣の閣僚はこれをないがしろにした。中国政府は遷都し、南京は首都ではなくなった。ところが、拡大派の主張する「中国一撃論」(南京を落とせば中国は屈服するというもの)に乗せられ、総勢16万以上の日本軍がいよいよ南京城内<ref group="注釈">南京はヨーロッパの古い城址と同じように市街を城壁で囲んでいた。</ref>の攻略に取り掛かる。日本は南京から放射状に伸びる幹線道路を用いて外側から包囲し中心に進む作戦を採り、戦線から離脱した中国軍兵士を全員殺害する<ref group="注釈">日本も批准し公布した[[w:ハーグ陸戦条約|ハーグ陸戦条約]]に違反する(兵器を捨て投降した者を殺傷したこと、助命せざることを宣言したこと)。</ref>
 
12月7日に、南京の調略も間近と見た方面軍司令部は、「南京城攻略要領」「南京入城後における処置」「南京城の攻略及び入城に関する注意事項」を作成するも、実際にはことごとく破られる。それは略奪行為ならびに失火、放火を禁じたが、ここまで食糧を補給せずに行軍中の徴発、略奪を強要し、厳寒(12月)の頃にまともな耐寒装備や野営等の準備も無い進軍(→火で暖をとるようになる)を強要しておきながら禁止してももはや効力が無いに等しい。さらに「軍隊と同時に多数の憲兵、補助憲兵を入城せしめ、不法行為を摘発せしむ。」などと述べられているが、無謀な南京進軍は前述のように法務部などを揃えておらず、12月17日の時点では城内に7万いた日本軍兵士に対する憲兵はわずか17名に過ぎなかった。
 
12月11日、各新聞が華々しく南京調略を報じ、祝賀の提灯行列があるなど、翌日にかけて全国で南京を落としたことを祝される。ところが、この時点ではいまだ銃声が止むことはなく、依然として戦闘は継続状態にあった。そもそもこれは、各新聞やメディアが「南京一番乗り」を競い、一部の部隊が壊れた城壁の瓦礫に旗(日章旗)を立てた<ref group="注釈">この部隊、その後中国軍に逆包囲され全滅に近い損失を出す。</ref>ことを「南京一番乗り」として報じたことが元凶の誤報であったが、真実は国民に伝わることはなかった。
 
12月12日になると、中国軍に脱走するものが現れ、「日本軍が内部まで攻めてくる」と南京城内の市民に情報が広まる。目の前には、一目散に逃げ出さんと走る脱走兵。この2つの効果により、一部の民衆も脱出せんと走り出し、街路は人で埋め尽くされる。ところが、この流れは挹江門の前で「南京死守」の方針の下門を塞ぐ兵によって止まってしまう。ここで、なんとしても逃げ出さんと進む脱走兵と命令に従い武力で門を塞ぐ部隊とが、同士討ちを始めたことにより、門の前には屍が並ぶ。しかも、この門を超えても長江を渡航するのに必要な船舶は中国軍の計画に伴い全て接収されていた。結局、自らの力で泳いで渡航しようとした者は1.5キロの川幅の途中で波に呑まれ、あるいは12月とあって凍える冷たさの水で体力を使い果たし、長江に沈んでいった。また、筏や棒切れなどを使用して川の中州にたどり着いても、日本軍に撃たれ、ごくわずかの者に運がまわった。
 
先述の同士討ちに関してだが、中国軍内部でも退却命令の遅れなどの混乱が発生し、これにより「南京死守」の命令に行動する兵士とそうでない兵士が混在した。河からも逃げ出せず、周囲を日本軍に囲まれ、「誰彼構わず皆殺しにする」という日本軍の噂が広まった結果、ほとんどの中国軍兵士は装備を捨て、武器を捨て、一なるになることによって何とか生き延びようとした。兵士は「平服」を求め、窃盗をはたらく者まで現れたという<ref group="注釈">混乱の現れとも言えるだろう。</ref>。
 
12月13日、南京攻略。その後日本軍はしばらく滞留した。そして、日本軍は軍門に下った者までも殺す<ref group="注釈">既に国際法違反。</ref>だけでなく、「便衣兵(一般人に紛れた軍人)を探す」として特に詮索もせず<ref group="注釈">正式には軍事裁判を開くなどの手順を踏まなければならない。</ref>多くの成人男性を虐殺した。これにより、その後も2月頃まで'''約<u>20万</u>人'''<ref group="注釈">信頼性の無い説が多いが、論争に晒されることもある。なお、戦後の東京裁判は戦争犯罪者1人1人の功罪が取り上げられ、全体像は深掘りされていない。</ref>が殺害され、おびただしい物質が強奪された。この'''虐殺及び略奪、強姦など言語道断の人としてあるまじき愚かな行為'''を一般に「南京事件」と呼ぶ。なお、拡大派の思惑通りとはならず、南京を落としても中国は屈さなかった。結局、海軍の思惑で始まった南京戦は、軍上層部の名誉的な予想とは別の意味合いで歴史に名を残したが、中国政府を倒すことはできず、日本にとっても何の利益も生まなかったのだ。
 
===== 地獄の終焉 =====