そのため、貿易船の多くは、東南アジアまで出かけることも、多くありました。
しかし、{{Ruby|幕府|ばくふ}}はキリスト教の信者が団結して幕府の命令を聞かなくなることを幕府はおそれて、幕府はキリスト教を信じることを禁止しました。
[[Image:Jesus on cross to step on.jpg|thumb|300px|キリストの踏み絵]]
さらに、3代{{Ruby|将軍|しょうぐん}}の{{Ruby|徳川家光|とくがわいえみつ}}のころに、日本人が海外に行くことを禁止しや、外国にいる日本人が日本に帰国することも、を禁止しました。
:このころ、九州現在の{{Ruby|長崎|ながさき}}県にある{{Ruby|島原半島(|しまばらはん}}半島や現在の{{Ruby|熊本|くまもとう、長崎}}県)やにある{{Ruby|天草島(|あまくさじま、熊本県)}}で、キリスト教の信者の農民3万人あまりによる、大きな{{Ruby|一揆(|いっき)}}が起きました。
この島原・天草の一揆の理由目的は、禁教によるキリシタンへの{{Ruby|弾圧、|だんあつ}}および、領主による重い年貢ねんぐなどへの{{Ruby|反乱|はんらん}}ですした。
反乱軍の中心人物は、当時16才の<big>という{{ruby|若|わか}}さだった {{Ruby|天草四郎</big>(|あまくさ しろう)とも言われる<big>}}({{Ruby|益田時貞</big>(|ますだ ときさだ)}})という少年です。
幕府は兵数 12万人 ほどの大軍をおくって送り、4ヶか月ほどかかって、戦い、一揆これをしずめました。
この出来事れを<big> '''{{Ruby|島原の乱</big>(|しまばら の らん)と言う。<big>島原}}・{{Ruby|天草の一揆</big>(しまばら・|あまくさ }}の {{Ruby|一揆|いっき)}}''' または '''島原の{{Ruby|乱|らん}}''' とも言ういいます。
:<!-- ※ 光村図書の教科書で「島原の乱」という表記が使われています。他社の教科書では、「島原・天草の一揆」という表記が多い。-->
この戦いのあと、キリスト教への取りしまりは、いっそう{{Ruby|厳|きび}}しくなりました。
キリスト教を発見するためには、{{Ruby|踏|ふ}}み絵(ふみえ)を用いた絵踏み(えふみ)が行われました。
{{コラム|踏み絵(ふみえ)による絵踏み(えふみ)|
この時代、キリスト教は禁止されてい ましたが、かくれてキリスト教を信じる人 達たちがい ました。このような 隠れキリスト教徒人を取り 締しまるため、 {{Ruby|幕府 |ばくふ}}は人々に キリスト教の神であるイエス・キリストが 描かれた(えがかれた )銅板の踏み絵 (ふみえ)を踏ませるという 、 絵踏み (えふみ) をさせて、 絵踏 みをしめな いものかった者はキリスト教徒であるとして {{Ruby|処罰 |しょばつ}}しました。 ▼
▲この時代、キリスト教は禁止されていたが、かくれてキリスト教を信じる人達がいた。このような隠れキリスト教徒を取り締まるため、幕府は人々にキリストが描かれた(えがかれた)銅板の踏み絵(ふみえ)を踏ませるという、絵踏み(えふみ)をさせて、絵踏みをしないものはキリスト教徒であるとして処罰した。
}}
[[ファイル:Plattegrond van Deshima.jpg|thumb|300px|1824年、もしくは1825年ごろに描えがかれた出島の鳥瞰かん図(空から見た図)。扇おうぎの形をしている。]]
そして{{Ruby|江戸幕府|えどばくふ}}は、貿易の相手を、キリスト教を広めるおそれのないオランダと中国(ちゅうごく、※ チャイナのこと)だけにかぎり、{{Ruby|長崎|ながさき}}で貿易することにしました。
長崎には、オランダとの貿易のために{{Ruby|出島|でじま}}という人工の島がつくられました。長崎のその人工の島は、その出島(でじま)といいます。
オランダとの貿易は、この出島のなか中でだけ行われました。また、オランダ人は、この出島にしか住めませんでした。
幕府は、普通の日本人を、この出島に入れさせませんでした。出島に入れる日本人は、幕府の役人や、許可を得た日本人だけでのみに制限していました。
:(このような、江戸幕府による、外国人と日本人との交流を減らして(へらして)いった対外す{{Ruby|政策は、のちに江戸時代の1800年ごろから<big>|せいさく}}を '''{{Ruby|鎖国</big>(|さこく)と言われはじめ、明治時代から「鎖国」}}''' という用語が広がりいます。)
江戸幕府は長崎のオランダ{{Ruby|商館長(オランダ|しょうかんちょう)}}に、外国のようすを幕府に報告(ほうこく)させるための報告書(ほうこくしょ)の提出を義務づけました。
このように日本でのヨーロッパ人と日本人とのかかわりを制限していった結果、いったん、日本では、江戸幕府が貿易の利益と西洋についての情報を{{Ruby|独占|どくせん}}しました。
{{コラム|{{Ruby|発展|はってん}}:オランダとの貿易|
こうして、貿易の利益と、外国についての情報は、幕府が独占(どくせん)しました。
オランダとの貿易での輸入品のほとんどは、 {{Ruby|生糸 (|きいと )}}・ {{Ruby|砂糖 (|さとう )}}・毛織物で すした。ときどき、ガラスや望遠鏡や時計などの、めずらしいもの のも輸入されました。 ▼
* 朝鮮との貿易
[[File:Chōsen Tsūshin-shi Raichō-zu.jpg|thumb|400px|'''朝鮮通信使''' 江戸の町を朝鮮通信使の一行がおとずれた様子です。]]
徳川家康の時代に、対馬藩(つしまはん)を通して朝鮮(ちょうせん)との貿易が行われます。秀吉の時代には朝鮮出兵により貿易が中断(ちゅうだん)しましたが、江戸時代に入り日本と朝鮮との国交が回復し貿易が再開します。鎖国のあいだも朝鮮との貿易は幕府に許され、貿易が続き(つづき)ます。
3代将軍の家光の時代からは、日本で将軍がかわるたびに、朝鮮からの通信使(つうしんし)が訪れるようになります。朝鮮からの通信使を <big>朝鮮通信使</big>(ちょうせん つうしんし) と言います。
このころ、朝鮮とは、豊臣秀吉のころの朝鮮出兵のせいで、日本と朝鮮と貿易が、とだえていましたが、対馬藩(つしまはん)の努力によって、貿易が再開しました。
* 発展的な内容
▲オランダとの貿易での輸入品のほとんどは、生糸(きいと)・砂糖(さとう)・毛織物です。ときどき、ガラスや望遠鏡や時計などの、めずらしいものの輸入されました。
日本からの輸出品は、金・銀・銅や陶磁器(とうじき)などです。 ▼
▲日本からの輸出品は、金・銀・銅 などの金属や {{Ruby|陶磁器 (|とうじき )}}などで すした。
}}
=== 江戸時代の北海道と沖縄 ===
* {{Ruby|北海道|ほっかいどう}}
{{ruby|江戸|えど}}時代、{{Ruby|北海道|ほっかいどう}}は「えぞ」とよばれており、アイヌ民族がと{{Ruby|呼|よ}}ばれる民族も住んでいました。
現代でアイヌは、こ現在の北海道のいく南部にある {{Ruby|松前藩|まつかの民族をまえはん}}とめて、アイヌ民族と呼んでい貿易をさせられますした。
アイヌの人が持ってくるサケやコンブを、わずかな米などと {{Ruby|交換 |こうかん}}していたといいます。 ▼
アイヌは、松前藩(まつまえはん)と貿易をさせられていました。
▲アイヌの人が持ってくるサケやコンブを、わずかな米などと交換していたといいます。
このような不公平な貿易におこったアイヌの人たちが、17世紀の中ごろ、反乱を起こしました。'''シャクシャイン'''という人物を中心に{{Ruby|反乱|はんらん}}を起こしました。
:<!-- ※ シャクシャインは小学校でも習う。教育出版や光村図書の教科書で、章末コラムに書いてある。琉球も同様に習う。-->
* {{Ruby|琉球王国(|りゅうきゅう おうこく)}}王国
江戸時代、いまの{{Ruby|沖縄|おきなわ}}県は「{{Ruby|琉球」(|りゅうきゅう)}}」という王国でした。
江戸時代の初めごろ、17世紀に、琉球王国は{{ruby|薩摩藩|さつまはん}}(現在の{{Ruby|鹿児島|かごしま}}県の西部)によって支配されていました。そして、薩摩藩によって、琉球は年貢を取られるようになりました。
薩摩藩は、以前から琉球が行っていた中国との貿易をつづ続けさせ、その貿易の利益を薩摩藩が手に入れました。
=== 身分による支配 ===
{{Ruby|豊臣秀吉|とよとみひでよし}}の時代に、{{Ruby|刀狩|かたながり}}などによって、農民や武士とのあいだの身分の区別が決まっていきました。{{Ruby|江戸幕府|えどばくふ}}も、身分の区別を受けつぎますした。
武士は、城のまわりに住んで、役人として仕事をすることが、普通(ふつう)でした。
武士には、刀を持ち歩いてもよいいとか、名字(みょうじ)をなの名乗ってもいよい、などの{{Ruby|特権|とっけん}}がありました。
江戸時代は、武士の身分が 、一番、最も高 くなってい ですました。武士が、他の身分の 農民や町民など人を支配し ていま すした。 ▼
:※ なお、刀を、さや におさめたまま持ち歩くことを、「刀を差す」(かたな を さす)といいます。「刺す」ではありません。武士といえども、なにも犯罪などの事件が起きてないのに、刀を抜き出して持ち歩いてたら、さすがに処罰(しょばつ)されるでしょう。
[[File:江戸時代の人口割合.svg|thumb|400px|江戸時代の身分別の人口 {{Ruby|割合 |わりあい}}。<br>なお、「 {{Ruby|公家 」(|くげ )}}」とは、朝廷の関係者のこと。]] ▼
▲江戸時代は、武士の身分が、一番、高いです。武士が、他の身分の農民や町民などを支配します。
▲[[File:江戸時代の人口割合.svg|thumb|400px|江戸時代の身分別の人口割合。<br>なお、「公家」(くげ)とは、朝廷の関係者のこと。]]
農民の身分が2番目に高い、とされました。
江戸時代、農民は毎年 、年貢ねんぐを取られ ていま すした。 ▼
なお、農地で働いている農民のねんぐは、ふつうは米でした。
なおまた、農地で働いてる農漁民が払う年貢がなどは、何海産物をおさめる、ねんぐのかといようなものと、ふつうは、お米ですが、地域によっしては、ほかの農作物をそだてて、それを{{Ruby|納|おさ}}める場合もありますした。
農民や漁民をまとめて、 {{Ruby|百姓 (|ひゃくしょう )}}といいます。 ▼
また、漁民などは、海産物を、年貢のようなものとして、おさめる場合もあります。
いっぽう、職人や商人など、町人の多くは城下町 (じょうかまち)などの都市 (とし)に住んでいました。 ▼
▲農民や漁民をまとめて、百姓(ひゃくしょう)といいます。
このような、職人や商人のことを、 '''町民 (ちょうみん)'''といいます。 ▼
町民は、ねんぐのかわりに、町づくりのための費用などを納める必要がありました。
▲いっぽう、職人や商人など、町人の多くは城下町(じょうかまち)などの都市(とし)に住んでいました。
▲このような、職人や商人のことを、町民(ちょうみん)といいます。
町民これとはべつに、年貢条件のかわりるい土地にすまわされたり、町づく祭りへのための費用参加を禁じられるなどを、お差別をさめる必要れた人々がありいました。このような人々を 「えた」「ひにん」 といいます。
※大人の方へ 小学校の検定教科書では、「えた」「ひにん」の言葉はなく、中学で学習することとなっています。
これとはべつに、<big>えた</big> および <big>ひにん</big> と言われる、農民よりも身分が低くされ、条件のわるい土地にすまわされたり、祭りへの参加を禁じられるなど、差別をされた人々がいました。(※ 小学校の検定教科書では、「えた」「ひにん」の言葉は無い。中学では習う。)
江戸時代の日本の人口における武士の {{ruby|割合 (|わりあい )}}は人口の7%ほどです。なお江戸時代の人口の数は 約3000万人 です。 ▼
江戸時代の日本の農民の人口の割合は、人口の84%ほどです。
また、職業 (しょくぎょう)を勝手 (かって)に変える (かえる)ことは、 ゆる許されませんでした。 ▼
▲江戸時代の日本の人口における武士の割合(わりあい)は人口の7%ほどです。なお江戸時代の人口の数は 約3000万人 です。
また、女性の地位は、男性よりも低いとされ ていました。 ▼
江戸時代の日本の農民の人口の割合は、人口の84%です。 (※ こまかな数字は、おぼえなくて良い。「国民のほとんどが農民」とえも覚えれば、じゅうぶんである。)
*==== 農民への おふれ書き (おふれがき) ====▼
▲また、職業(しょくぎょう)を勝手(かって)に変える(かえる)ことは、ゆるされませんでした。
* 農民への おふれ書き
農民のくらしは、 贅沢(ぜいたく )をしないように、きびしく管理されました。 ▼
次のように農民の生活のきまりが、幕府によって定められました。
▲また、女性の地位は、男性よりも低いとされました。
==== 農民など ====
▲農民のくらしは、贅沢(ぜいたく)をしないように、きびしく管理されました。
「慶安の おふれ書き」(けいあんの おふれがき)によって、農民の生活のきまりが、幕府によって定められました。(※ 検定教科書では「慶安」の名前は出ないが、wikibooksではネットで調べやすくするため、紹介する。)
おふれ書きの内容は、現代風に訳すと次のような内容です。
<div style="border:1px solid #000000;">
'''農民への おふれ書き(おふれがき)'''
:一. 朝は早起きをして草を刈かり、昼には田畑の耕作をして、夜には{{Ruby|縄(|なわ)}}をつくって{{ruby|俵(|たわら)}}を編む(あむ)など、それぞれの仕事をしっかりと行うこと。
:一. 幕府の法令を怠おこたったり、地頭や代官のことを粗末そまつに考えず、また名主(村長)や組頭のことは真の親のように思って{{Ruby|尊敬|そんけい}}すること。
:一. 酒や茶を飲まないこと。
:一. 農民は麦・ひえ・あわ などの{{Ruby|雑穀(|ざっこく)}}などを食べ、なるべく米を食べないこと。
:一. 農民の服は、{{Ruby|麻(|あさ)}}と{{ruby|木綿(|もめん)だけであり}}のみとし、ほかの服は着てはいけない、。{{Ruby|裏地(|うらじ)}}にも他の布を使ってはならない。
:一. タバコ は、を{{Ruby|吸 うな(|す う}}わな )いこと。 ▼
</div>
以上の内容が おふれ書き の内容として有名ですが、他にもつぎのような内容も御触書にあります。 (※ おぼえなくても、大丈夫だろう。)
ほかにも、5~6けんの農民ごとに {{Ruby|五人組|ごにんぐみ}} をつくらせ、ねんぐや犯罪などに、共同で責任を負わせました。
<div style="border:1px solid #000000;">
:一. 名主(なぬし、村長のこと)は親のように敬え(うやまえ)。
</div>
ほかにも、農民の年貢や犯罪などに、共同で責任を負わせるため、<big>五人組</big>(ごにんぐみ)という集団を、村で5件ごとにつくらせた。
=== 産業 ===
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