「小学校社会/6学年/歴史編」の版間の差分

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=== 産業 ===
==== 農業 ====
{{Ruby|幕府|ばくふ}}{{Ruby||はん}}は、{{Ruby|新田|しんでん}}の開発に力を入れた。
 
その結果、開墾(かいこんが進み、{{Ruby|江戸|えど}}時代の中ごろには、日本全国の田畑の耕地面積は、{{Ruby|豊臣秀吉|とよとみひでよし}}のころと比べて、ほぼ<big>2倍</big> に広がりました。
 
幕府や藩の財政は百姓農民からの年貢ねんぐにたよっており、財政をゆたかにするために農業を発達させる必要がありました。
 
江戸時代は{{ruby|貨幣|かへい}}が全国的に流通していたので、武士は年貢ねんぐの米を売って貨幣(かへい)に現金化していました。
 
ねんぐの米は江戸や{{Ruby|大阪|おおさか}}にある {{Ruby|蔵屋敷|くらやしき}} に運ばれ、商人によって売りさばかれ現金化されました。<!-- ※ 教育出版の教科書で、「蔵屋敷」を紹介 -->
 
年貢米は江戸や大阪にある<big>蔵屋敷</big>(くらやしき)に運ばれ、商人によって売りさばかれ現金化されます。(※ 教育出版の教科書で、「蔵屋敷」を紹介。)
 
全国各地の海産物や、各地の特産物も、ほとんどは大阪にあつめられました。
 
そして、大阪から、あつめられた産物が、全国各地に売り飛ばされました。
 
 
このように、大阪は、各地の産物があつめられたので、大阪は「天下の台所」(てんか の だいどころ)であると言われました。
 
 
なお、江戸は「将軍の おひざもと」だと言われました。江戸時代の中ごろには、人口が100万人をこえる大都市になった。
 
 
このほか、全国各地で、用水(ようすい)や洪水対策などのための土木工事も進んだ。
 
農地に水を引く灌漑(かんがい)のための用水路(ようすいろ)が、全国各地にできた。
 
:(※ おぼえなくていい : )箱根上水(はこね じょうすい) や 玉川上水(たまがわ じょうすい) は江戸時代に出来た。
 
 
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[[File:Japanese old threshing machine,Senba-koki,Katori-city,Japan.JPG|thumb|left|220px|千歯こき]]
 
* {{Ruby|発展|はってん}}:農具の発達
{{ruby|備中ぐわ(|びっちゅう}}ぐわ{{Ruby|千歯こき(|せんば}}こき{{ruby|千石どおし(|せんごく}}どおしなどが開発されました。
 
:{{ruby|備中ぐわ(|びっちゅう}}ぐわ) ・・・ 耕すための農具で、深く耕せる。
:千歯こき(せんばこき ・・・ 稲(いね)の穂(ほ)から米つぶを脱穀するための道具。くし状の部分が鉄製で、何本もの、くし状の「こき」があるので、一度に多くの穂(ほ)を脱穀(だっこく)できる。
 
:{{Ruby|千歯|せんば}}こき…{{ruby|稲|いね}}の{{Ruby|穂|ほ}}から米つぶを{{ruby|脱穀|だっこく}}するための道具。くし状の部分が鉄製で、何本もの、くし状の「こき」があるので、一度に多くの穂を脱穀できる。
:千石どおし(せんごくどおし)、とおみ ・・・ もみを、ふるい分ける。
 
[[Image:Mizuguruma,human power waterwheel,katori-city,japan.JPG|thumb|right|140px|水車(みずぐるま)、踏み車(香取市)]]
* (※ 範囲外: ) 踏み車(ふみぐるま) ・・・ 灌漑(かんがい)用の水車である踏車(ふみぐるま)なども開発された。
 
踏車は、人間が(自転車のペダルみたいに)踏んで回す水車なので、重力に逆らって水を高いところにあげられるという仕組みである。
 
竜骨車(りゅうこつしゃ)という、かんがい用の農具もあります。形は踏車とちがいますが、竜骨車も、農民が足で踏んで(ふんで)動かすことで、水がくみあがる仕組みです。
 
:{{ruby|千石|せんごく}}どおし、とおみ…もみをふるい分ける。
 
* 肥料
なたね油やごま油の しぼりかす が、肥料として使われた。農家が金(かね)を出て買う
 
魚の いわし は、干して(ほして)、肥料か」して使わ{{Ruby|呼|よ}}ばた。る、イワシによるを{{Ruby|乾燥|かんそう}}させて固めた肥料のことを「ほが使われていまか」という(※<!-- ※ 日本文教出版の教科書で「ほしか」の名前を紹介。-->
 
 
 
* 商品作物
:(※<!-- ※ 教育出版や日本文教出版「日本の歩み」の教科書で紹介。 -->
 
農民が、売ることを目的に、綿・なたね・茶・麻・あい、などの、今で言うところの商品作物(しょうひんさくもつ)が作られるようになった。 農村でも貨幣(かへい)が使われるようになっていた。
 
* その他、
(範囲外 :) 江戸時代の中ごろから、外国から伝わった作物も、つくられるようになった。さつまいも、じゃがいも、かぼちゃ・とうもろこし、などである。
 
 
==== 陸路の交通 ====
全国を道でつなぐため、街道(がいどう)が出来た。
 
[[ファイル:Hiroshige le pont Nihonbashi à l'aube.jpg|300px|right|thumb|江戸の日本橋の、ようす。五街道は日本橋が起点。画:歌川広重『東海道五十三次』より。]]
[[File:Memorial_Portrait_of_Hiroshige,_by_Kunisada.jpg|thumb|歌川広重(うたがわ ひろしげ)]]
江戸の日本橋(にほんばし)を起点とする幹線道路(かんせんどうろ)としての街道が5本あるが、これを<big>五街道</big>(ごかいどう)という。読みは「ご<big>が</big>いどう」ではなく「ご<big>か</big>いどう」なので、まちがえないように注意。
 
五街道(ごかいどう) と、そのほかの道である 脇街道(わきかいどう) などによって、東北から山陰・山陽地方までが道でつながった。
 
九州や四国も、それぞれの島の内部が、道で、つながった。
 
 
五街道は、東北地方の南部の今でいう福島県から京都までしか、つながっていない。
 
日光へと向かう 五街道のうちの街道が<big>日光街道</big>(にっこうかいどう)である。
 
 
 
日光街道は、北関東の宇都宮(うつのみや)のあたりで、ふたまたに分かれていて、宇都宮から福島の白河(しらかわ)へと向かう奥州街道(おうしゅうかいどう)に分岐(ぶんき)している。 (※ 宇都宮・白河など、細かな地名は、おそらく教科書の範囲外なので、学校対策では、おぼえなくてよい。)
 
以上の二本の街道が、五街道への北への方面である。
 
 
次に京都方面について、説明する。
 
京都の方面へと江戸から向かう街道は3本あるが、そのうちの2本は、じつは、途中(とちゅう)で合流(ごうりゅう)する。
 
五街道のうちの一つである<big>甲州道中</big>(こうしゅうどうちゅう)は、長野県の信濃(しなの)の諏訪(すわ)のあたりで、五街道のうちの別の一つである中山道(ちゅうさんどう)と合流する。
甲州道中の名前は「甲州」道中だし甲府(こうふ)を通るが、じつは長野県の信濃まで、つながっている。
 
五街道のうちの一つである<big>東海道</big>は、太平洋ぞいの街道であり、京都まで他の街道とは、つながっていない。東海道の経路は、今でいう神奈川県 → 静岡県 → 愛知県 → 京都 の経路である。
当時の用語で言えば、小田原(おだわら、神奈川) → 駿府(すんぷ、静岡) → 名古屋(なごや、愛知) → 京都 である。
 
東海道は、もっとも人々の行き来が、さかんだった。
 
 
* 宿場(しゅくば)
街道には、旅行者が寝泊まり(ねとまり)するための<big>宿場</big>(しゅくば)が、もうけられた。
 
東海道には53の宿場があり、<big>東海道五十三次</big>(とうかいどうごじゅうさんつぎ)と言われた。
 
 
街道には、通行者が場所をわかりやすいように、並木(なみき) や 道しるべ が、もうけられた。また街道の道のりの約4キロメートルごとに塚(つか)がもうけられ<big>一里塚</big>(いちりづか) が、もうけられた。一里(いちり)とは、長さの単位(たんい)であり、今でいう約4キロメートル。
 
 
* 通信の発達。飛脚(ひきゃく)
郵便物をとどけるため、人が走ったり馬をつかって運ぶ<big>飛脚</big>(ひきゃく)の仕事が発達した。
 
幕府が管理する飛脚を 継飛脚(つぎひきゃく) という。町人のあいだでは 町飛脚(まちひきゃく) が利用された。
 
 
* 関所(せきしょ)
[[画像:Ishibe shukubanosato02s3200.jpg|thumb|280px|関所の様式の門。観光テーマパークでの復元。]]
 
:※ 検定教科書には「関所」は無い。
 
警備(けいび)上の理由から、街道には、通行者の取り調べるため通行を制限(せいげん)する<big>関所</big>(せきしょ)が、おかれた。
関所では、通行者は、関所の役人に、通行許可証である手形(てがた)を見せる必要があった。
 
関所では、とくに江戸に入る鉄砲(てっぽう)と、江戸から出る女は、きびしく調べられた。鉄砲の取り調べは、反乱を恐れて(おそれて)、のことである。江戸から出る女は、参勤交代で人質として江戸に住まわせた女である、大名の妻が、こっそり江戸から故郷(こきょう)へ帰国(きこく)することを恐れて、である。
 
<big>「入り鉄砲に出女」</big>(いりでっぽうに、でおんな)と言われ、これら2つは、きびしく調べられた。
 
==== 海上交通の発達 ====
船は、大量の荷物を、少ない人物で運べます。しかも、一度、船に積めば、目的地までは途中で積み替えをする必要がありません。
 
このため、大量の商品を運ぶには、海上交通をつかうと、時間はかかるが安く運びやすい。このような理由で、海運(かいうん)が発達した。
また、船も改良され発達した。
 
[[ファイル:Osaka Maritime Museum Naniwamaru.jpg|thumb|江戸時代のころの船の復元]]
 
* 航路
東まわり航路
:東北地方の太平洋側から、太平洋側を通り、江戸までをむすぶ航路。
 
 
農民が、売ることを目的に、綿・なたね・茶・{{Ruby|麻|あさ}}・あい、などの商品作物が作られるようになりました。 農村でも{{ruby|貨幣|かへい}}が使われるようになっていきました。
西まわり航路
:日本海側の東北地方から、瀬戸内海を通り、大阪までをむすぶ航路。
 
* その他
({{Ruby|発展|はってん}}) 江戸時代の中ごろから、さつまいも、じゃがいも、かぼちゃ・とうもろこしなど、外国から伝わった作物もつくられるようになりました。
 
=== 江戸時代の学問 ===
* 儒学(じゅがく)
徳川家康をはじめとして幕府は、幕府を保ちつづけるには儒学(じゅがく)などの道徳的な学問が必要だと考え、武士に儒学を学ばせた。