「日本史/近代/戦前」の版間の差分

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9月、国民党と共産党は[[w:抗日民族統一戦線|抗日民族統一戦線]]を形成 ([[w:第2次国共合作|第2次国共合作]]) し、日中戦争は泥沼化を始める。日本の軍部では、拡大派が不拡大派を抑えて戦線は拡大の一途をたどることとなる。そして、この頃から、当時首都であった南京への爆撃が本格化し(南京への爆撃行為自体が国際法違反)、のちの南京事件への一歩を踏み出す。
 
11月中旬に上海を攻略するも、南京を制圧することで中国政府の降伏を狙う松井は己の考えを実戦で実行し成功させる必要に駆られていた。本来はこれで作戦目的を完了し、兵は3カ月に及んだ戦闘から解放されるはずだった。この時点で物質の現地での購買が徴発に変化し、軍紀が乱れていることは陸軍上層部にも知れ渡っていた。しかし、上海派遣軍を指揮する中支那方面軍指令部は11月15日に独断で南京追撃の敢行を決定しており、不拡大派の軍指令部はその報告 (19日) に対し即座に (20日) 作戦の対象地域から逸脱している旨を返す{{sfn|笠原 十九司|1997|pp=65-66}}も、命令に違反し19日に南京への進軍が始まる。しかし、参謀本部を無視し正式命令も無い状態で強行した南京進攻作戦は、進軍に停滞が発生すれば前進の停止を命じられる可能性が高い。それを回避し、軍上層部に独断の追認をさせるため、南京に急進撃をかける必要があった。しかし、上海派遣軍は既に疲労していた。そこで、中支那方面軍指令部は上海派遣軍と第10軍 (上海の制圧の際に後から投入されたので、軍に余力があり、南京進撃に積極的だった) に「南京1番乗り」を競わせたのだ。上海派遣軍は上海の制圧のための軍であり、後方支援部隊がなく、既に物質を現地での調達に頼っていたが、挑発され「1番乗り」を煽られ、徴発に変化し始めていた調達は上海戦後も帰れず南京進撃に駆り出された不満が現れ、エスカレートしていく。さらにこの派遣軍は北支事変が正式な戦争ではないとされたため、兵の組成が天皇の命令を伴わないものであり、法務部 (軍の行動を軍刑法に基づき取り締まる) が存在しなかった{{sfn|笠原 十九司|1997|p=60}}。南京事件前夜、既に十分な予兆が出ていた。
 
===== 南京陥落 =====
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この際に「後方支援部隊を増強する案」が提示されるも、「戦機を逃す」としてこれを拒否。
中国政府も南京の防御が厳しくなってきたため、12月2日、ドイツ大使を通じて和平条件(不拡大方針で'''日本が提示した'''トラウトマン和平工作)を認める意向が伝えられる{{Sfn|笠原 十九司|1997|p=78}}も、拡大派中心になっていた軍や近衛内閣の閣僚はこれをないがしろにした{{Sfn|笠原 十九司|1997|p=78}}。中国政府は遷都し、南京は首都ではなくなった。ところが、拡大派の主張する「中国一撃論」(南京を落とせば中国は屈服するというもの)に乗せられ、総勢16万以上の日本軍がいよいよ南京城内<ref group="注釈">南京はヨーロッパの古い城址と同じように市街を城壁で囲んでいた。</ref>の攻略に取り掛かる。日本は南京から放射状に伸びる幹線道路を用いて外側から包囲し中心に進む作戦を採り、戦線から離脱した中国軍兵士を全員殺害する<ref group="注釈">日本も批准し公布した[[w:ハーグ陸戦条約|ハーグ陸戦条約]]に違反する(兵器を捨て投降した者を殺傷したこと、助命せざることを宣言したこと)。</ref>
 
12月7日に、南京の調略も間近と見た方面軍司令部は、「南京城攻略要領」「南京入城後における処置」「南京城の攻略及び入城に関する注意事項」を作成するも、実際にはことごとく破られる。それは略奪行為ならびに失火、放火を禁じたが、ここまで食糧を補給せずに行軍中の徴発、略奪を強要し、厳寒(12月)の頃にまともな耐寒装備や野営等の準備も無い進軍(→火で暖をとるようになる)を強要しておきながら禁止してももはや効力が無いに等しい。さらに「軍隊と同時に多数の憲兵、補助憲兵を入城せしめ、不法行為を摘発せしむ。」などと述べられているが、無謀な南京進軍は前述のように法務部などを揃えておらず、12月17日の時点では城内に7万いた日本軍兵士に対する憲兵はわずか17名に過ぎなかった。
 
12月11日、各新聞が華々しく南京調略を報じ、祝賀の提灯行列があるなど、翌日にかけて全国で南京を落としたことを祝される。ところが、この時点ではいまだ銃声が止むことはなく、依然として戦闘は継続状態にあった。そもそもこれは、各新聞やメディアが「南京一番乗り」を競い、一部の部隊が壊れた城壁の瓦礫に旗(日章旗)を立てた<ref group="注釈" name="南京1番乗り">この部隊、その後中国軍に逆包囲され全滅に近い損失を出す。</ref>ことを「南京一番乗り」として報じたことが元凶の誤報であったが、真実は国民に伝わることはなかった。
 
12月12日になると、中国軍に脱走するものが現れ、「日本軍が内部まで攻めてくる」と南京城内の市民に情報が広まる。目の前には、一目散に逃げ出さんと走る脱走兵。この2つの効果により、一部の民衆も脱出せんと走り出し、街路は人で埋め尽くされる。ところが、この流れは挹江門の前で「南京死守」の方針の下門を塞ぐ兵によって止まってしまう。ここで、なんとしても逃げ出さんと進む脱走兵と命令に従い武力で門を塞ぐ部隊とが、同士討ちを始めた{{Sfn|笠原 十九司|1997|p=136}}ことにより、門の前には屍が並ぶ。しかも、この門を超えても長江を渡航するのに必要な船舶は中国軍の計画に伴い全て接収されていた。結局、自らの力で泳いで渡航しようとした者は1.5キロの川幅の途中で波に呑まれ、あるいは12月とあって凍える冷たさの水で体力を使い果たし、長江に沈んでいった。また、筏や棒切れなどを使用して川の中州にたどり着いても、日本軍に撃たれ、ごくわずかの者に運がまわった。
 
先述の同士討ちに関してだが、中国軍内部でも退却命令の遅れなどの混乱が発生し、これにより「南京死守」の命令に行動する兵士とそうでない兵士が混在した。河からも逃げ出せず、周囲を日本軍に囲まれ、「誰彼構わず皆殺しにする」という日本軍の噂が広まった結果、ほとんどの中国軍兵士は装備を捨て、武器を捨て、一なるになることによって何とか生き延びようとした。兵士は「平服」を求め、窃盗をはたらく者まで現れたという<ref group="注釈">混乱の現れとも言えるだろう。</ref>。
 
12月13日、南京攻略。その後日本軍はしばらく滞留した。そして、日本軍は軍門に下った者までも殺す<ref group="注釈">既に国際法違反。</ref>だけでなく、「便衣兵(一般人に紛れた軍人)を探す」として特に詮索もせず<ref group="注釈">正式には軍事裁判を開くなどの手順を踏まなければならない。</ref>多くの成人男性を虐殺した。これにより、その後も2月頃まで'''約<u>20万</u>人'''<ref group="注釈" name="東京裁判">信頼性の無い説が多いが、論争に晒されることもある。なお、戦後の東京裁判は戦争犯罪者1人1人の功罪が取り上げられ、全体像は深掘りされていない。</ref>が殺害され{{Sfn|笠原 十九司|1997|pp=224&ndash;225}}、おびただしい物質が強奪された。この'''虐殺及び略奪、強姦など言語道断の人としてあるまじき愚かな行為'''を一般に「南京事件」と呼ぶ。なお、拡大派の思惑通りとはならず、南京を落としても中国は屈さなかった。結局、海軍の思惑で始まった南京戦は、軍上層部の名誉的な予想とは別の意味合いで歴史に名を残したが、中国政府を倒すことはできず、日本にとっても何の利益も生まなかったのだ。
 
===== 地獄の終焉 =====
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#*  「軍隊と同時に多数の憲兵、補助憲兵を入城せしめ、不法行為を摘発せしむ。」などと述べられているが、無謀な南京進軍は前述のように法務部などを揃えておらず、12月17日の時点では城内に7万いた日本軍兵士に対する憲兵はわずか17名に過ぎなかった。
# 12月11日、各新聞が華々しく南京調略を報じ、祝賀の提灯行列があるなど、翌日にかけて全国で南京を落としたことを祝される。ところが、この時点ではいまだ銃声が止むことはなく、依然として戦闘は継続状態にあった。
#* そもそもこれは、各新聞やメディアが「南京一番乗り」を競い、一部の部隊が壊れた城壁の瓦礫に旗(日章旗)を立てた<ref group="注釈">この部隊、その後中国軍に逆包囲され全滅に近い損失を出す。< name="南京1番乗り"/ref>ことを「南京一番乗り」として報じたことが元凶の誤報であったが、真実は国民に伝わることはなかった。
# 12月12日になると、中国軍に脱走するものが現れ、「日本軍が内部まで攻めてくる」と南京城内の市民に情報が広まる。目の前には、一目散に逃げ出さんと走る脱走兵。この2つの効果により、一部の民衆も脱出せんと走り出し、街路は人で埋め尽くされる。ところが、この流れは挹江門の前で「南京死守」の方針の下門を塞ぐ兵によって止まってしまう。ここで、なんとしても逃げ出さんと進む脱走兵と命令に従い武力で門を塞ぐ部隊とが、同士討ちを始めたことにより、門の前には屍が並ぶ。しかも、この門を超えても長江を渡航するのに必要な船舶は中国軍の計画に伴い全て接収されていた。結局、自らの力で泳いで渡航しようとした者は1.5キロの川幅の途中で波に呑まれ、あるいは12月とあって凍える冷たさの水で体力を使い果たし、長江に沈んでいった。また、筏や棒切れなどを使用して川の中州にたどり着いても、日本軍に撃たれ、ごくわずかの者に運がまわった。
# 中国軍内部でも退却命令の遅れなどの混乱が発生し、河からも逃げ出せず、周囲を日本軍に囲まれ、「誰彼構わず皆殺しにする」という日本軍の噂が広まった結果、ほとんどの中国軍兵士は装備を捨て、武器を捨て、一般人になることによって何とか生き延びようとした。
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# 12月13日に南京を攻略する。
#* 日本軍は軍門に下った者を殺す<ref group="注釈">既に国際法違反。</ref>だけでなく、「便衣兵(一般人に紛れた軍人)を探す」として特に詮索もせず<ref group="注釈">正式には軍事裁判を開くなどの手順を踏まなければならない。</ref>多くの成人男性を虐殺した。
# その後も2月頃まで'''約20万人'''<ref groupname="注釈">信頼性の無い説が多いが、論争に晒されることもある。なお、戦後の東京裁判は戦争犯罪者1人1人の功罪が取り上げられ、全体像は深掘りされていない。<" group="注釈"/ref>が殺害され、おびただしい物質が強奪された。
#* なお、拡大派の思惑通りとはならず、南京を落としても中国は屈さなかった。
#** 結局、海軍の思惑で始まった南京戦は、軍上層部の名誉的な予想とは別の意味合いで歴史に名を残した。