「小学校社会/6学年/歴史編」の版間の差分

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({{Ruby|発展|はってん}}) 江戸時代の中ごろから、さつまいも、じゃがいも、かぼちゃ・とうもろこしなど、外国から伝わった作物もつくられるようになりました。
 
=== 教育・学問 ===
* {{Ruby|儒学|じゅがく}}
{{Ruby|徳川家康|じゅがく}}をはじめとして{{ruby|幕府|ばくふ}}は、幕府を保ちつづけるには'''{{Ruby|儒学|じゅがく)などの}}'''と{{ruby|呼|よ}}ばれる道徳的な学問が必要だと考え、武士に儒学を学ばせました。
 
儒学では、平和に必要なのは、忠義の大切さや、子の親への忠孝の大切さなど、上下関係にもとづく忠孝や礼儀が、社会の平和に必要だと考えられていた。
 
このように上下関係にもとづき平和を求めるという儒学の内容が、幕府の士農工商などの身分差別の制度にも都合が良かったので、儒学が武士に学ぶべきとされる学問になった。
 
 
* 教育
[[File:Terakoya for girls.jpg|thumb|right|寺子屋のようす。]]
百姓農民や町民などの{{Ruby|庶民|しょみん}}は、「読み」(日本語'''{{Ruby|寺子屋|てらこや}}'''で文字の読み)、「書き」(日本語の習字)、「そろばん」(算数のこと)などを<big>寺子屋</big>(てらこや)でんだびました
 
当時の外国では、文字の読み書きの出来できる庶民は少なく、世界各国の中でも、日本は{{ruby|識字率|しきじりつ}}(文字を読める人の{{Ruby|割合|わりあい}})い国であった。
 
また、{{Ruby|貸本屋|かしほんや}}などの書店も、増えていった。
 
* 儒学以外の学問
いっぽう、ヨーロッパの政治や道徳や宗教などに関する学問を学ぶことは、日本の社会をまどわし日本を{{Ruby|混乱|こんらん}}におとしいれる{{ruby|危険|きけん}}な学問であるろう、いうふうなことが江戸幕府に考えられており、西洋の政治に関する学問の多くは禁止をされ、西洋道徳を学ぶことも禁止されていました。
 
一方、日本の古典や歴史を学ぶことは幕府は{{ruby||みと}られていました。ためたとえば{{Ruby|万葉集|まんようしゅう}}などの古典や、{{Ruby|古事記|こじき}}{{ruby|日本書紀|にほんしょき}}などの歴史書について学んだり研究したりする者もあらわました。
 
 
 
* {{Ruby|蘭学|らんがく}}
ヨーロッパの医学や農学や科学技術など、キリスト教や政治道徳に関係以外のヨーロッパ無い学問を学ぶことは、江戸時代のなかばの18世紀はじの初めごろ、8代{{Ruby|将軍|しょうぐん}}である{{ruby|徳川吉宗|とくがわよしむね}}{{Ruby|改革|かいかく}}などにより、西洋の科学技術などの研究が{{Ruby||みと}}められていっました。
当時はオランダ語を通して西洋の科学を学んでいたので、ヨーロッパから取り入れた学問のことを<big>蘭学</big>(らんがく)と言った。蘭とはオランダのことです。
吉宗は青木昆陽(あおき こんよう)にオランダ語の研究をさせた。青木昆陽はサツマイモの栽培を広めた。
 
当時はオランダ語を通して西洋の科学を学んでいたので、ヨーロッパから取り入れた学問のことを<big> '''{{Ruby|蘭学</big>(|らんがく}}''' 言っいいました。とはオランダのことです。
 
* 医学書『ターヘル・アナトミア』の{{Ruby|翻訳|ほんやく}}
[[画像:Kaitai shinsyo01.jpg|right|thumb|500px|『解体新書』。とびら絵は底本『ターヘル・アナトミア』のとびら絵とはまったく{{Ruby||こと}}なっている。]]
[[File:Ontleedkundige Tafelen replica.jpg|thumb|240px|right|『ターヘル・アナトミア』(複製)。]]
 
18世紀のおわりごろ、オランダの医学書が日本語へと訳(やく)された。翻訳書(ほんやくしょ)を出したのは、小浜藩(おばまはん、今でいう福井県)の医者の<big> '''{{Ruby|杉田玄白</big>(|すぎた げんぱく}}''' と、中津藩(なかつはん、今でいう大分県)の医者の<big>'''{{Ruby|前野良沢</big>(|まえの りょうたく}}''' の二人がかりである。オランダの医学書が日本語へと{{Ruby|翻訳|ほんやく}}されて出版されました
 
杉田たちは、オランダの医学書『ターヘル・アナトミア』を見て、人体の{{Ruby|内蔵|ないぞう}}{{Ruby|解剖図(|かいぼうず)}}図が、とても正確に書かれていであることにおどろいた、と言われています。そして、日本の医学が、ヨーロッパよりも遅れている(おくれている)ことに、杉田たちは気づき、ヨーロッパの医学書の翻訳を決意しました。
 
[[File:Sugita_Genpaku.jpg|thumb|left|杉田玄白(すぎたげんぱく]]
杉田と前野の協力により、オランダ語で書かれた医学書の『ターヘル・アナトミア』(オランダ語:Ontleedkundige tafelen「オントレートクンディヘ・ターフェレン」)が日本語に訳され、翻訳版(ほんやくばん)が<big>『解体新書』</big>(かいたいしんしょ)として出されたのである。
 
これが、西洋の本を日本語に訳した本のうち、日本では初めての本格的な翻訳書りました。
[[File:Sugita_Genpaku.jpg|thumb|left|杉田玄白(すぎたげんぱく]]
 
翻訳の当時は、日本語で書かれたオランダ語の辞書は無くて、なかっいへんため、非常に時間がかかり、オランダこの医学書の「ウェインブラーウ(まゆ)は、目の上に生えている毛である。」というような一文でさえ、翻訳するのに1日かかったといいます。翻訳本の出来上終わるまでには4年ほどの年月がかかりました。
これが、西洋の本を日本語に訳した本のうち、日本では初めての本格的な翻訳書になった。
 
「{{Ruby|神経|しんけい}}」・「{{Ruby|動脈|どうみゃく}}」など、その当時オランダ語に対応する日本語がなかった言葉は、この翻訳のときに前野と杉田が考えた言葉です。
 
:<!-- ※ 光村図書の教科書で「動脈」「神経」などが杉田たち由来のことを紹介して -->
翻訳の当時は、日本語で書かれたオランダ語の辞書は無くて、たいへんに時間がかかり、オランダ医学書の「ウェインブラーウ(まゆ)は、目の上に生えている毛である。」というような一文でさえ、翻訳するのに1日かかったといいます。翻訳本の出来上がるまでには4年ほどの年月がかかった。
 
まだオランダ語に対応する日本語が無い言葉もあって、「神経」(しんけい)・「軟骨」(なんこつ)・「動脈」(どうみゃく)・「盲腸」(もうちょう)・「十二指腸」(じゅうにしちょう)などの言葉は、この翻訳のときに前野と杉田が考えた言葉である。
 
ついでにまた、杉田と前野は、翻訳のときの苦労話などを書いた本である{{Ruby|蘭学事始』(|らんがくことはじめ)という本を}}』にしました。
:※ 光村図書の教科書で「動脈」「神経」などが杉田たち由来のことを紹介してある。
 
 
ついでに杉田と前野は、翻訳のときの苦労話などを書いた本である『蘭学事始』(らんがくことはじめ)という本を記した。
 
杉田玄白らの翻訳(ほんやく)のときの苦労話が、『蘭学事始』(らんがく ことはじめ)という本に書かれている。
 
* {{Ruby|国学|こくがく}}
 
江戸時代のなかばごろから、{{Ruby|国学|こくがく}}と{{Ruby|呼|よ}}ばれる、{{ruby|儒教|じゅぎょう}}や仏教の考えにとらわれない立場で、日本古来の古典や文化の研究をする学問が生まれてきて、このような学問を <big>国学</big>(こくがく) というました
* 国学(こくがく)
江戸時代のなかばごろから、儒教や仏教の考えにとらわれない立場で、日本古来の古典や文化の研究をする学問が生まれてきて、このような学問を <big>国学</big>(こくがく) という。
[[File:本居宣長02.jpg|thumb|本居宣長]]
<big>{{Ruby|本居宣長</big>(|もとおり のりなが)が}}は、{{Ruby|古事記|こじき}}』の研究を行い、本居宣長(もとおり のりなが)は<big>'''古事記{{ruby|』</big>(こじき|でん}}'''』を記し、国学を高めたまし
宣長の研究は『古事記』のほかにもあって、平安時代の紫式部の『源氏物語』についても研究している。
 
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[[ファイル:Ino Tadataka stamp.jpg|thumb|left|伊能忠敬を描いている切手、1995年発行のがえがかれた切手]]
* 測量(そくりょう)
[[File:地方測量之図.jpg|thumb|400px|江戸時代の測量(そくりょう)のようす]]
<big>'''{{ruby|伊能忠敬</big>(|いのう ただたか}}'''は、日本全国を地図をつくるために細かく調べる測量(そくりょう)する旅をして、正確な日本地図である『{{Ruby|大日本沿海輿地全図』(|だいにほんえんかい よちぜんず}}』を作りました。
 
{{コラム|伊能忠敬|
伊能忠敬は、50才のときに、天文学や測量のための勉強をはじめました。そして、55才のときに、自費で北海道の南岸の測量を行いました。56才のとき、地図づくりのための測量を、{{Ruby|幕府|ばくふ}}に願いでました。幕府は、忠敬の地図づくりの才能をみとめ、忠敬に地図づくりの許可を出しました。
 
それから17年間、忠敬は、地図づくりのため、日本の全国各地を歩きました。忠敬が歩いた距離きょりは3万km以上に なります。
 
地図の完成のまえに、71才で忠敬は{{Ruby|亡|}}くなってりままいますが、弟子たちが、日本全国の地図を完成させました。
 
そして、忠敬の弟子たちにより、とても正確な日本地図が、できあがりました。
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=== 江戸時代の文化 ===
* 絵画
[[ファイル:Beauty looking back.jpg|thumb|210px|『見返り美人図』 菱川師宣の筆。]]
絵画では、えがかれる対象が町人や女性などのようすになり、それらの絵を版画(はんが)を利用して印刷する<big> {{Ruby|浮世絵</big>(|うきよえ}} が、絵描き画家<big>{{Ruby|菱川師宣</big>(|ひしかわ もろのぶ}}によって広まりました。浮世絵は、何度も印刷できたため、安く売られ、町人も簡単に入手できました。
 
また、風景画では{{Ruby|歌川広重|うたがわひろしげ}}、{{Ruby|葛飾北斎|かつしかほくさい}}などの人物が活やくしました。
鈴木晴信が版画の多色刷りの方法である 錦絵(にしきえ) を開発し、化政文化では浮世絵が大流行して、多くの絵描き(えかき)が出た。浮世絵は、何度も印刷できたため、安く売られ、町人も簡単に入手できた。
 
師川 重信(もろかわ しげのぶ) :美人画(びじんが)で有名。
 
歌川広重(うたがわ ひろしげ) :風景画で有名。
 
葛飾北斎(かつしか ほくさい) :風景画で有名。作品に『富嶽三十六景』(ふがく さんじゅうろっけい)など。
 
『富嶽三十六景』より、一部を紹介。
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ファイル:Nihonbashi bridge in Edo.jpg|葛飾北斎{{ruby|富嶽三十六景|ふがくさんじゅうろっけい}}』 1. 江戸日本橋(えどにほんばし)
ファイル:Lightnings below the summit.jpg|『富嶽三十六景』 32. 山下白雨(さんかはくう)
ファイル:Red Fuji southern wind clear morning.jpg|『富嶽三十六景』 33. 凱風快晴(がいふうかいせい)
File:東海道五十三次之内 川崎 六郷渡舟-Ferry Boat Crossing the Rokugo River MET DP122176.jpg|歌川広重『{{ruby|東海道五十三次|とうかいどうごじゅうさんつぎ}}』
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浮世絵は、貿易をとおして外国にも紹介され、ゴッホなどの西洋の画家にも影響えいきょうをあたえました。
[[Image:Toshusai Sharaku- Otani Oniji, 1794.jpg|210px|thumb|役者絵。東洲斎写楽の筆。]]
東洲斎写楽(とうしゅうさい しゃらく) :役者絵(やくしゃえ)で有名で歌舞伎(かぶきやくしゃ)役者などを描いた。
 
 
 
浮世絵は、貿易をとおして外国にも紹介され、ゴッホなどの西洋の画家にも影響をあたえた。
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画像:Hiroshige Van Gogh 2.JPG|歌川広重の()と、ゴッホの{{Ruby|模写|もしゃ}}()
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Van Gogh - Portrait of Pere Tanguy 1887-8.JPG |ゴッホの作品。 人物の後ろに、浮世絵がえがかれている。
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* 人形浄瑠璃
物語を、{{Ruby|三味線|しゃみせん}}などを{{Ruby|伴奏|ばんそう}}にしてリズミカルに節をつけて、{{Ruby|操|あやつ}}り人形をうごかしながら物語を語るという<big>{{ruby|人形浄瑠璃</big>(|にんぎょうじょうるり}}元禄期の大阪や京都で、はやり流行しました。
 
[[File:Chikamatsu Monzaemon.jpg|thumb|近松門左衛門]]
人形浄瑠璃の{{ruby|脚本|きゃくほん}}家である<big> '''{{ruby|近松門左衛門</big>(|ちかまつ もんざえもん}}''' 有名で、活やくしました。近松の作品には{{ruby|曽根崎心中』(|そねざきしんじゅう}}』や『{{ruby|国性爺合戦』(|こくせんや かっせん}}』などがあります。,
実際の歴史上の事件などをえがいた作品があります。
 
ほかにも、江戸時代にはすもう、花火、季語の入っていない俳句である {{ruby|川柳|せんりゅう}} が流行しました。
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=== そのほかの江戸の文化 ===
相撲(すもう)も、江戸時代には、ありました。ただし、江戸時代よりも前から、相撲(すもう)はありました。
 
江戸時代の相撲(すもう)では、寺や神社の修理の費用をあつめるために、料金をとって相撲をみせる、勧進相撲(かんじん ずもう)が流行しました。
 
 
うちあげ花火(はなび)が、江戸時代から、はじまりました。もともと、戦国時代に、鉄砲などの火薬をつくっていた職人(しょくにん)たちが、江戸時代に花火の職人になったようです。
 
隅田川(すみだがわ)などの川ぞいで、打ち上げ花火が行われたようです。
 
 
「なかぬなら、なくまでまとう、ホトトギス」のように、5・7・5でうたうけど、季語の入ってない うた を、川柳(せんりゅう)といいます。
 
この川柳も、江戸時代に柄井川柳(からい せんりゅう)という人が広めました。
 
 
 
食事では、1日3食がふつうになりました。また、江戸では、屋台(やたい)が流行し、そば・うどん・すし・てんぷら などの屋台が人気でした。
 
 
:(※ wikibooks編集者への注意) 江戸時代の俳句とか小説などの文芸は、小学校の歴史の範囲外。小学の国語では習う。学習時間の節約のため、小学歴史からは除去。
 
== 開国(かいこく)と戊辰戦争(ぼしんせんそう) ==