== 開国(かいこく)と{{ruby|戊辰戦争(|ぼしんせんそう)}}戦争 ==
=== 黒船の来航 ===
[[ファイル:Commodore-Perry-Visit-Kanagawa-1854.jpg|thumb|300px|left|黒船来航]]
[[ファイル:Matthew Calbraith Perry.jpg|thumb|300px|ペリー]]
[[画像:Matthewperry.jpg|200px|thumb|日本の{{Ruby|浮世絵|うきよえ}}に描えがかれたペリー。 嘉永7年(1854年)頃]]
1853年にアメリカ合衆国の4隻(よんせき)の{{ruby|軍艦(|ぐんかん)}}が日本今の浦賀(うらが、{{Ruby|神奈川|かながわ}}県の港)の{{Ruby|浦賀|うらが}}にあらわれ、4隻4せきの軍艦をひきいたアメリカ人の<big> '''ペリー</big>(Perry)''' 日本にが開国を日本に求め、アメリカ大統領からの国書を{{Ruby|幕府|ばくふ}}に、わたしました。
当時、日本に来た4隻このアメリカの船は、色が黒かったので、<big>'''{{ruby|黒船</big>(|くろふね)}}''' と日本の人からも言われました。
アメリカの軍艦は、{{ruby|蒸気船(|じょうきせん)}}と言われるもので、石炭などを燃料とした蒸気機関によって動く最新式の船であり、船の煙突えんとつからは煙けむりがもうもうとあがっていました。この蒸気船は、それまでのオランダの船でよく見られた{{Ruby|帆船(|ほせん)}}とは違ちがい、蒸気船は最新式の船でした。
ペリーは日本について事前にオランダの本などから研究していたので、日本人は権力者の命令に弱いということを知っており、わざと幕府のある{{ruby|江戸|えど}}に近い関東の浦賀に黒船で、やってきたのです。当時の日本では、{{ruby|長崎|ながさき}}が外国との外交の{{ruby|窓口|まどぐち}}でしたが、ペリー達はまったく長崎に行こうとはせず、幕府と直接に{{Ruby|交渉|こうしょう}}をしようとする態度(をとりましたいど)です。
このようなアメリカの船と、ペリーの態度を見て、日本人はおどろきました。とりあえずそこでペリーに、返事を出すまで時間がかかるので、一1年後に、もう一度、日本に来てもらうように、たのみました。
幕府は、事態(じたい)を重く考え、{{ruby|朝廷|ちょうてい}}にも報告をして、{{Ruby|諸国|しょこく}}の大名にも相談をしました。相談のあいては、外様大名もふくみます。
いっぽう、アメリカが日本に開国をせまった目的は、日本で燃料や水の{{ruby|補給(|ほきゅう)}}を日本でおこな行うために立ち寄りたいることができるよいう理由にすることが、主な目的でした。当時のアメリカは、中国大陸の({{Ruby|清(|しん)}})と貿易をおこなっていたり、太平洋で{{ruby|捕鯨(読み:「|ほげい」・・・、意味:「クジラ}}({{Ruby|鯨|くじら}}を{{Ruby|捕|とり」の}}ること))を行っていたので、日本で補給が出来できると都合が良かったのです。
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そして11年後の1854年に、ペリーがふたた再び、日本に来きました。1854年の交渉では、もはや幕府はアメリカの開国要求をことわりきれず、ついに日本は開国をしますした。
日本とアメリカとの間で条約がむすばれ、<big> '''{{ruby|日米和親条約</big>(|にちべい わしんじょうやく)}}''' が結ばれ(むました。この日米和親条約により、今の{{ruby|静岡|しずおか}}県にあるの下田と今の{{Ruby|北海道|ほっかいどう}}にある{{ruby|函館|はこだて}}が開港され、アメリカ船に燃料や水・食料などを補給すばることが決まりました。また、下田にアメリカの領事館がおかれ)ました。
「条約」とは、国とほかの国とのあいだの、国どうしの約束のことです。日本とアメリカ(米国、べいこく)とのあいだの条約なので、「日米和親条約」という名前になっているわけです。
[[ファイル:Ii Naosuke.jpg|thumb|right|250px|井伊直弼 (いい なおすけ)]] ▼
この日米和親条約により、下田(しもだ、静岡県にある)と函館(はこだて、北海道)が開港され、アメリカ船に燃料や水・食料などを補給することが決まりました。また、下田にアメリカの領事館(りょうじかん)がおかれました。
さらに1858年に、{{Ruby|幕府|ばくふ}}の{{Ruby|大老|たいろう}}であった {{Ruby|井伊直弼|いいなおすけ}} はアメリカと {{ruby|日米修好通商条約|にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく}} を結びました。しかし、この条約は{{Ruby|朝廷|ちょうてい}}}の許可をとらないまま結ばれた条約でした。また幕府は、イギリス・オランダ・ロシア・フランスとも、同様の条約を結びました。
また、開国に反対の主張をしていた 諸藩の武士たちを、幕府は {{Ruby|弾圧 |だんあつ}}していき 捕とらえて {{Ruby|処刑 |しょけい}}などの {{Ruby|処罰をしていきます。この鎖国派への弾圧を「 {{Ruby|安政 の大獄」(|あんせい }}の {{Ruby|大獄|たいごく )}}」と 言いいます。 ▼
▲[[ファイル:Ii Naosuke.jpg|thumb|right|250px|井伊直弼(いい なおすけ)]]
さらに1858年に、アメリカと<big>日米修好通商条約</big>(にちべい しゅうこう つうしょう じょうやく)を幕府の大老の<big>井伊直弼</big>(いい なおすけ)は結びました。しかし、この条約は朝廷の許可をとらないまま、結ばれた条約でした。
さて、また幕府は、イギリス・オランダ・ロシア・フランスとも、同様の貿易の条約を、結びました。これを、安政の五カ国条約(あんせいの ごかこくじょうやく)と言います。
幕府の井伊直弼による条約締結は、日本を欧米の侵略から守ろうとする考えのものでしたが、当時の庶民の多くは、まだ、欧米の強大な軍事力を知らず、幕府の態度は、臆病者(おくびょうもの)だと思われていました。
▲また、開国に反対の主張をしていた諸藩の武士たちを、幕府は弾圧していき捕らえて処刑などの処罰をしていきます。この鎖国派への弾圧を「安政の大獄」(あんせいのたいごく)と言います。
[[File:Sakuradamon01s3200.jpg|250px|thumb|桜田門。]]
のちの1860年、直弼は江戸城の{{ruby|桜田門(|さくらだもん)}}の近くを通っていたときに、「安政の大獄」による弾圧に反対をしていた浪士(ろうし)者によって、暗殺されてしまいますした。この、井伊直弼が死んだ暗殺事件を「{{Ruby|桜田門外の変」(|さくらだもんがい}}の へん)変」と言います。
* 不平等条約(ふびょうどう じょうやく)
日米修好通商条約の内容は、日本にとって不利な内容で、不平等な条約でした。
:日本に関税自主権がない。
:アメリカ人の治外法権(ちがい ほうけん)<br>日本国内で外国人が犯罪をおかしても、日本の法律では処罰(しょばつ)できませんでした。
: 日本に関税自主権(かんぜい じしゅけん)が無い。<br>日本への輸入品に 、税をかける {{Ruby|権利 |けんり}}が 、日本には 、ありませんでした。輸入品にかける税を <big> {{ruby|関税 </big>(|かんぜい )}}と 言いい、国が関税を自由に決 まめられる権利を <big> '''{{Ruby|関税自主権 </big>(|かんぜい じしゅけん )}}''' と 言いいます。日本には、関税自主権がありませんでした。 ▼
この、アメリカ人など外国人が、日本の法律では処罰されないことを<big>治外法権</big>(ちがい ほうけん、英語:Extraterritoriality)と言います。<big>領事裁判権</big>(りょうじ さいばんけん)とも言います。
:アメリカ人の{{ruby|領事裁判権|りょうじさいばんけん}}({{Ruby|治外法権|ちがいほうけん}})がある。
▲:日本に関税自主権(かんぜい じしゅけん)が無い。<br>日本への輸入品に、税をかける権利が、日本には、ありませんでした。輸入品にかける税を<big>関税</big>(かんぜい)と言い、国が関税を自由に決まる権利を<big>関税自主権</big>(かんぜい じしゅけん)と言います。日本には、関税自主権がありませんでした。
:日本国内で外国人が犯罪をおかしても、日本の{{Ruby|法律|ほうりつ}}では{{Ruby|処罰|しょばつ}}できませんでした。アメリカ人など外国人が、日本の法律では処罰されないことを と言います。 '''{{ruby|領事裁判権|りょうじさいばんけん}}''' または '''{{Ruby|治外法権|ちがいほうけん}}''' といいます。
* 開国による {{ruby|経済 |けいざい}}の変化 ▼
:輸出品として、 {{Ruby|生糸 (|きいと )}}や茶が輸出されたので、それらの産業が {{ruby|発展 |はってん}}しました。 ▼
:国内で品物が不足し、物価が上がりました。輸出によって、国外に品物を多く輸出し 過すぎたり、買い 占しめなどが起こっ たりしたからです。貿易をしていない米や麦の {{Ruby|値段 |ねだん}}も上がりました。 ▼
▲:輸出品として、生糸(きいと)や茶が輸出されたので、それらの産業が発展しました。
▲:国内で品物が不足し、物価が上がりました。輸出によって、国外に品物を多く輸出し過ぎたり、買い占めなどが起こったからです。貿易をしていない米や麦の値段も上がりました。
:貿易によって、日本の金が流出しました。このため、幕府は金貨の質を下げたので、ますます物価は上がりました。
このような品不足や物価の{{ruby|上昇|じょうしょう}}などにより、{{Ruby|庶民|しょみん}}のくらしは苦しくなっていきましった。そのため {{ruby|一揆(|いっき)}} や 打ち壊こわし が起きました。
庶民だけでなく下級武士にも、開国に不満を持つ者が増えていきま すした。 ▼
また、日本の世間から、欧米の国をやっつけ てしまえようとする考えが出 てき始めま すした。このような考え 方を <big>{{ruby|攘夷 </big>(|じょうい )}}と 言いいます。 (※ 「攘夷」の用語は範囲外)▼
▲庶民だけでなく下級武士にも、開国に不満を持つ者が増えていきます。
攘夷 {{Ruby|論 (じょうい|ろん )}}だけでなく、 さらに世間では、国学などの影響(えいき{{Ruby|朝廷|ちょう )もあって 、朝廷い}}や {{Ruby|天皇 |てんのう}}を {{Ruby|盛 |も}}り上げて 、{{Ruby|敬 おう(|うやま }}おう )という 、{{Ruby|尊王論 (|そんのうろん )}} という考え 方が出てきま すした。 (※ 範囲外)▼
尊王論と攘夷論が加わり、 組み合わせた尊皇攘夷論 (そんのうじょういろん)という 、組み合わせた考え 方が出てきました。 (のちに、尊皇攘夷論は、朝廷に許可を得ず勝手に開国した幕府への {{Ruby|批判 |ひはん}}にかわり、やがて幕府を 倒たおそうという運動へと変わっていきま すした。 )▼
大人の方へ:上の「尊王論」「攘夷論」「尊王攘夷論」はすべて小学校範囲外です。
▲日本の世間から、欧米の国をやっつけてしまえとする考えが出てき始めます。このような考えを<big>攘夷</big>(じょうい)と言います。(※ 「攘夷」の用語は範囲外)
▲攘夷論(じょういろん)だけでなく、さらに世間では、国学などの影響(えいきょう)もあって、朝廷や天皇を盛り上げて、敬おう(うやまおう)という、尊王論(そんのうろん)という考えが出てきます。(※ 範囲外)
▲尊王論と攘夷論が加わり、尊皇攘夷論(そんのうじょういろん)という、組み合わせた考えが出てきました。(のちに、尊皇攘夷論は、朝廷に許可を得ず勝手に開国した幕府への批判にかわり、やがて幕府を倒そうという運動へと変わっていきます。)
薩摩藩と長州藩は攘夷の実力行使に出ましたが、外国に負けました。
<gallery widths="200px" heights="200px">
File:Sakamoto Ryoma.jpg|坂本龍馬(さかもと りょうま)
File:Saigo Takamori.jpg|西郷隆盛(さいごう たかもり)
File:Shinsaku Takasugi.jpg|高杉晋作(たかすぎ しんさく)
</gallery>
:<!-- ※ 光村図書と教育出版と日本文教出版の教科書で、坂本龍馬(さかもと りょうま)、西郷隆盛(さいごう たかもり)、勝海舟(かつ かいしゅう)、大久保利通(おおくぼ としみち)の紹介あり。
:※ 光村図書の教科書で、幕府の井伊直弼(いいなおすけ)とか勝海舟(かつかいしゅう)の紹介あり。 ▼
:※ 教育出版の教科書に、桂小五郎(かつら こごろう)、高杉晋作(たかすぎ しんさく)、後藤象二郎(ごとう しょうじろう)の紹介あり。 ▼
:※ 日本文教出版の教科書に、岩倉具視(いわくら ともみ)の紹介あり。 -->▼
▲:※ 光村図書の教科書で、幕府の井伊直弼(いいなおすけ)とか勝海舟(かつかいしゅう)の紹介あり。
▲:※ 教育出版の教科書に、桂小五郎(かつら こごろう)、高杉晋作(たかすぎ しんさく)、後藤象二郎(ごとう しょうじろう)の紹介あり。
▲:※ 日本文教出版の教科書に、岩倉具視(いわくら ともみ)の紹介あり。
* {{Ruby|生麦|なまむぎ}}事件・{{Ruby|薩英|さつえい}}戦争
:1862年に 関東{{Ruby|神奈川|かながわ}}県の {{Ruby|生麦 (|なまむぎ 、神奈川県にある)}}で、 {{Ruby|薩摩藩 |さつまはん}}(現在の{{Ruby|鹿児島|かごしま}}県の西部}}の大名行列の前を横切ったイギリス人を薩摩藩の武士が 斬り殺 害す るという 生麦事件 (なまむぎ じけん)が起こりました。イギリスからの犯人の {{Ruby|処罰 |しょばつ}}要求を薩摩藩が受け入れなかったので、 {{ruby|翌年 |よくとし}}の1863年にイギリスは薩摩藩と戦争をしました。これ がを {{Ruby|薩英 戦争(|さつえい }}戦争 せんそう)でといいます。この戦争で薩摩は 負け敗北し、大きな被害を受け、薩摩はイギリスの実力を知 ることになり、薩摩は攘夷論をあきらめることになりました。 ▼
戦後、薩摩では政治の {{Ruby|方針 |ほうしん}}を 攘夷から切り 替かえ、イギリスなどから制度を学 んだりしてび、藩の強さを高める方針へと変わりました。そして薩摩藩では、下級武士であった '''{{Ruby|西郷隆盛 (|さいごうたかもり )}}'''や '''{{Ruby|大久保利通 (|おおくぼとしみち )}}'''らが、イギリスの援助も受けて、彼らが改革の中心になっていった。 ▼
・薩英戦争(さつえい せんそう) (※ 範囲外)
▲:1862年に関東の生麦(なまむぎ、神奈川県にある)で、薩摩藩の大名行列の前を横切ったイギリス人を薩摩藩の武士が斬り殺すという生麦事件(なまむぎ じけん)が起こりました。イギリスからの犯人の処罰要求を薩摩藩が受け入れなかったので、翌年の1863年にイギリスは薩摩藩と戦争をしました。これが薩英戦争(さつえい せんそう)です。この戦争で薩摩は負け、大きな被害を受け、薩摩はイギリスの実力を知ることになり、薩摩は攘夷論をあきらめることになりました。
▲戦後、薩摩では政治の方針を攘夷から切り替え、イギリスなどから制度を学んだりして、藩の強さを高める方針へと変わりました。そして薩摩藩では、下級武士であった西郷隆盛(さいごうたかもり)や大久保利通(おおくぼとしみち)らが、イギリスの援助も受けて、彼らが改革の中心になっていった。
・* {{Ruby|発展|はってん}}:{{Ruby|長州藩 (|ちょうしゅうはん )}}の {{Ruby|下関 戦争(|しものせき せんそう))}}戦争 (※ 範囲外)▼
▲・長州藩(ちょうしゅうはん)の下関戦争(しものせきせんそう)) (※ 範囲外)
[[ファイル:Choshu-Battery-Capture-Shimonoseki-1864.jpg|thumb|300px|欧米の連合艦隊の兵隊に占拠された下関の砲台]]
:1863年に、今の{{Ruby|山口|やまぐち}}県にある{{Ruby|下関海峡|しものせきかいきょう}}を通る外国船に、{{Ruby|長州藩|ちょうしゅうはん}}が、いきなり{{Ruby|砲撃|ほうげき}}を始めました。翌年、外国の連合{{Ruby|艦隊(れんごう|かんたい)}}、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの4カ4か国からなる連合軍により{{Ruby|反撃|はんげき}}を受け、下関の砲台を{{Ruby|占拠|せんきょ}}され、長州は負けました。
長州藩は、攘夷論のマチガイに気づき、改革を進めていきます。下級武士であった{{ruby|高杉晋作|たかすぎしんさく}}や{{ruby|木戸孝允|きどたかよし}}・{{Ruby|伊藤博文|いとうひろぶみ}}らが、イギリスの{{Ruby|援助|えんじょ}}も受けて、彼らが{{Ruby|改革|かいかく}}の中心にとなっていきますした。
このようにして、薩摩や長州は、実戦から、欧米の実力を知ることに知ることになりました。単純な {{Ruby|尊皇攘夷 |そんのうじょうい}}運動は マチガイ{{Ruby|誤|あやま}}りだと気づくようになりました。まずは、軍隊の近代化が必要と考え、そのためには改革が必要であり、そのためには改革をさまたげている幕府を 倒す必要があるという考えが高まりました 。幕府を倒お}}す 、つまり、倒幕(とうばく)をする必要がある 、という気運が薩摩や長州を中心に高まってきました。 ▼
▲このようにして、薩摩や長州は、実戦から、欧米の実力を知ることに知ることになりました。単純な尊皇攘夷運動はマチガイだと気づくようになりました。まずは、軍隊の近代化が必要と考え、そのためには改革が必要であり、そのためには改革をさまたげている幕府を倒す必要があるという考えが高まりました。幕府を倒す、つまり、倒幕(とうばく)をする必要がある、という気運が薩摩や長州を中心に高まってきました。
* {{ruby|薩長同盟 (|さっちょう どうめい )}}▼
[[ファイル:Sakamoto_Ryōma.jpg|thumb|200px |{{Ruby|坂本竜馬 (|さかもと りょうま )}}]] ▼
{{Ruby|薩摩|さつま}}と{{Ruby|長州|ちょうしゅう}}は、過去の歴史的な関係から、対立していました。
1866年に、{{ruby|土佐藩|とさはん}}(今の{{Ruby|高知|こうち}}県)の {{Ruby|坂本竜馬|さかもとりょうま}}(「竜」という漢字ではなく「龍」を使うこともあります) が両藩の仲立ちをして{{ruby|薩長同盟|さっちょうどうめい}}を結ばせました。
幕府は、薩長同盟を倒すため長州と戦争をしましたが、幕府が敗北しました。
▲[[ファイル:Sakamoto_Ryōma.jpg|thumb|200px|坂本竜馬(さかもと りょうま)]]
薩摩と長州は、過去の歴史的な関係から、両者は対立をしていました。薩摩藩も長州藩も、どちらとも近代的な軍隊を持ち幕府を倒そうとする改革を目指していたのに、両者は対立していました。
しかし、1866年に、土佐藩の<big>坂本竜馬</big>(さかもと りょうま)が両藩の仲立ちをして同盟を結ばせ、薩摩藩と長州藩との同名である<big>薩長同盟</big>(さっちょう どうめい)が1866年に結ばれました。
幕府は、イギリスが薩長同盟を倒すため摩や長州と戦争の{{Ruby|支援|しえん}}をしていましたが、いっぽう、幕府の征伐は失敗に終わりフランスの支援を受け、軍備や技術の{{Ruby|改革|かいかく}}をしました。
イギリスが薩摩や長州の支援をしていましたが、いっぽう、幕府はフランスの支援を受け、軍備や技術の改革をしていました。
{{clear}}
* {{Ruby|大政奉還(|たいせいほうかん)}}
[[ファイル:Tokugawa yoshinobu.jpg|thumb|300px|徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)]]
{{Ruby|江戸幕府|えどばくふ}}の15代{{Ruby|将軍・<big>|しょうぐん}}であった {{ruby|徳川慶喜</big>(|とくがわ よしのぶ)}} は、1867年に{{ruby|政権|せいけん}}を{{ruby|朝廷|ちょうてい}}にかえしました。土佐の藩主の山内豊信(やまのうち とよしげ)などが慶喜に朝廷に政権を返すことを助言しました。
この出来事のことれを、つまり徳川幕府が朝廷に政権を返したことを<big> '''{{Ruby|大政奉還</big>(|たいせい ほうかん)}}''' と言いいます。
こうして、約260年続いた江戸幕府の約260年の時代は終わりました。
また、鎌倉時代から約700年間つづいた武士の支配は、こうして終わりました。 ▼
{{clear}}
▲また、 {{Ruby|鎌倉 |かまくら}}時代から約700年間つづいた武士の支配は、こうして終わりました。
{{clear}}
== {{Ruby|明治|めいじ}}時代 ==
=== 明治維新と自由民権運動 ===
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