大勢の家来を江戸と領地に往復させるので、大名に多くの費用がかかり、大名の{{Ruby|経済|けいざい}}力を弱められました。
参勤交代のときの大名の一行は長い行列ができるので、これを '''大名行列''' と言いいます。
[[ファイル:Sankiko01.jpg|thumb|600px|none|{{Ruby|園部|そのべ}}藩(現在の{{Ruby|京都府|きょうとふ}})参勤交代行列図 (1) ({{ruby|南丹|なんたん}}市文化博物館{{Ruby|蔵|ぞう}})]]
[[ファイル:Sankiko03.jpg|thumb|600px|none|園部藩参勤交代行列図 (3) (南丹市文化博物館蔵)]]
参勤交代によって、道路などの設備が整います。またや{{Ruby|宿場町|しゅくばまち}}もでき整備されていきました。
{{コラム|関所|
* {{Ruby|関所|せきしょ}}
[[画像:Ishibe shukubanosato02s3200.jpg|thumb|280px|関所の様式の門。観光テーマパークでの復元。]]
{{Ruby|警備|けいび}}上の理由から、街道には、通行を制限する {{Ruby|関所|せきしょ}}がおかれました。関所では、通行者は、関所の役人に、通行許可証である手形(てがた)を見せる必要があった。
関所では、とくに江戸に入る{{Ruby|鉄砲|てっぽう}}と{{Ruby|出女|でおんな}}は、厳しく調べられた。鉄砲は{{Ruby|反乱|はんらん}}をおそれたためです。「出女」は、参勤交代で{{Ruby|人質|ひとじち}}として江戸に住まわせた女(妻)のことで、こっそりと帰国することをおそれたためです。}}
徳川家光は、「生まれながらの{{Ruby|将軍|しょうぐん}}」と言われており、つぎのような話が残っています。
| 1635 || 日本人の海外{{ruby|渡航|とこう}}の禁止,海外にいる日本人の帰国の禁止
|-
| 1637 || {{Ruby|島原|しまばら}}・{{ruby|天草一揆|あまくさ}}の{{ruby|一揆|いっき}}(島原の{{ruby|乱|らん}})が起きる
|-
| 1639 || ポルトガル船の来航を禁止する
幕府は12万人ほどの大軍を送り、4か月ほどかかってこれをしずめました。
これを '''{{Ruby|島原|しまばら}}・{{Ruby|天草一揆|あまくさ}}の{{Ruby|一揆|いっき}}''' または '''島原の{{Ruby|乱|らん}}''' といいます。
<!-- ※ 光村図書の教科書で「島原の乱」という表記が使われています。他社の教科書では、「島原・天草の一揆」という表記が多い。-->
{{コラム|伊能忠敬|
伊能忠敬は、50才のときに、天文学や測量のための勉強をはじめました。そして、55才のときに、自費で北海道の南岸の測量を行いました。56才のとき、地図づくりのための測量を、{{Ruby|幕府|ばくふ}}に願いでました。幕府は、忠敬の地図づくりの才能を{{Ruby|認|みと}}め、忠敬に地図づくりの許可を出しました。
それから17年間、忠敬は、地図づくりのため、日本の全国各地を歩きました。忠敬が歩いたきょりは3万km以上になります。
<gallery>
ファイル:Nihonbashi bridge in Edo.jpg|葛飾北斎『{{ruby|富嶽三十六景|ふがくさんじゅうろっけい}}』 1. 江戸日本橋(えどにほんばし)
ファイル:Lightnings below the summit.jpg|『富嶽三十六景』 32. {{Ruby|山下白雨(|さんかはくう)}}
ファイル:Red Fuji southern wind clear morning.jpg|『富嶽三十六景』 33. {{Ruby|凱風快晴(|がいふうかいせい)}}
File:東海道五十三次之内 川崎 六郷渡舟-Ferry Boat Crossing the Rokugo River MET DP122176.jpg|歌川広重『{{ruby|東海道五十三次|とうかいどうごじゅうさんつぎ}}』
</gallery>
== {{Ruby|明治|めいじ}}時代 ==
=== {{Ruby|明治維新|めいじいしん}}と自由{{Ruby|民権|みんけん}}運動 ===
〜<big>~西洋に学べ</big>〜<br>~
1868年(明治元年)、新政府は大名などに対して政治の方針をしめすため、<big>五箇条の御誓文</big>(ごかじょう の ごせいもん)を、<big>明治天皇</big>(めいじてんのう)より出させた。
1868年、新政府は元号を「{{Ruby|明治|めいじ}}」と改め、新政府は「{{Ruby|江戸|えど}}」の地名を「{{Ruby|東京|とうきょう}}」と改めました。1869年に、新政府は{{Ruby|京都|きょうと}}から{{Ruby|東京|とうきょう}}に{{Ruby|都|みやこ}}(首都)を移しました。この年号が明治の時代を '''明治時代''' といいます。
内容は、現代風に訳すと・・・
:・政治は、会議で広く意見を聞いて政治を行う。
::原文 :広く(ひろく)会議(かいぎ)を興し(おこし)、万機公論(ばんき こうろん)に決す(けっす)べし。
新政府は武士などに対して政治の{{Ruby|方針|ほうしん}}をしめすため、'''{{Ruby|五箇条|ごかじょう}}の{{Ruby|御誓文|ごせいもん}}''' を出しました。
:・身分の上下によらず、みんなで心を合わせて、政治や仕事を行っていく。
::原文 :上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。
{| style="border:1px solid #777; background-color:#ffffff; width:100%; margin:0.25em 0"
:・みんなの願いを実現するようにしよう。
| style="padding:0.25em 0.5em" |<span style="font-size:117%; color: #000">'''五箇条の御誓文(現代語{{Ruby|訳|やく}})'''</span>:
::原文 :官武(かんぶ)一途(いっと)庶民にいたるまで、おのおのその志(こころざし)を遂げ(とげ)、人心(じんしん)をして倦(う)まざらしめんことを要す。
:* 政治は、会議で広く意見を聞いて行おう。
:* 身分の上下によらず、みんなで心を合わせて、政治や仕事を行っていこう。
:・昔からの、わるいしきたりは、やめよう。
::原文 :旧来(きゅうらい)の陋習(ろうしゅう)を破り、天地(てんち)の公道(こうどう)に基づく(もとづく)べし。
:* みんなの願いを実現しよう。
:・知識を外国からも学んでいって、日本国を発展させていこう。
::原文 :智識(ちしき)を世界に求め、大いに(おおいに)皇基(こうき)を振起(しんき)すべし。
:* 古い、よくないしきたりはやめよう。
このように、あたらしい日本の政治では、なるべく日本国民みんなで政治を行おう、という政治を行う方針であることを、大名などに示した(しめした)。
:* 知識を外国からも学び、日本を{{Ruby|発展|はってん}}させていこう。
また、1868年、元号を明治に変更した。
|}
1871年には、明治政府は、{{ruby|藩|はん}}を{{Ruby|廃止|はいし}}し、かわりに県や府をおきました。そして、それらの県や府の地方政治では、政府の任命した役人を{{Ruby|知事|ちじ}}として送りました。これを {{Ruby|廃藩置県|はいはんちけん}}といいます。
このような、{{Ruby|幕末|ばくまつ}}から明治時代はじめごろに行われた一連の{{ruby|改革|かいかく}}を {{Ruby|明治維新|めいじいしん}}といいます。
1868年、新政府は「江戸」(えど)の地名を「東京」(とうきょう)に改めた。1869年に、新政府は東京を首都にした。明治天皇は京都から東京にうつった。
1871年、{{Ruby|江戸|えど}}時代の身分制度はなくなり、農民や町民・差別を受けていた人は「平民」となり、身分上は解放されました({{ruby|四民平等|しみんびょうどう}})。 平民は、{{Ruby|江戸|えど}}時代とはちがい、職業や住む場所を変えられるようになりました。名字を、平民も持てるようになりました。
年号が明治の時代を<big>明治時代</big>(めいじ じだい)という。
1871年には、明治政府は、藩(はん)をやめさせて、かわりに県・府をおきました。そして、それらの県や府の地方政治では、政府の任命した役人を知事(ちじ)として送りました。
これを<big>廃藩置県</big>(はいはん ちけん)と言います。
このような、幕末から明治時代はじめごろに行われる一連の改革を<big>明治維新</big>(めいじ いしん)という。(次にしめす改革も、明治維新に含まれる場合もあります。)
江戸時代の身分制度はなくなり、農民や町民は平民になりました(「解放令」(かいほうれい))(四民平等)。 平民は、江戸時代とは違い、職業や住む場所は変われるようになりました。名字を、平民も持てるようになりました。
武士は士族(しぞく)と変わりました。士族は、刀を差すことを禁じられました。武士は、働かなくても貰えてた(もらえてた)国からの給料も、江戸時代とはちがって、明治時代になってからは、しだいに、もらえなくなりました。
公家と大名は華族(かぞく)となりました。
天皇の一族は、皇族(こうぞく)とされました。
また、えた・ひにんなどの差別をされていた人たちも平民としてあつかう、解放令(かいほうれい)が出された。
武士は、江戸時代に持っていた特権を失いました。
武士は{{ruby|士族|しぞく}}と変わりました。士族は、刀を差すことを禁じられるなど、江戸時代の{{Ruby|特権|とっけん}}を失いました。また、公家と大名は{{Ruby|華族|かぞく}}となりました。そして、{{Ruby|天皇|てんのう}}の一族は、「{{Ruby|皇族|こうぞく}}」となりました。
{{コラム|岩倉具視(いわくら ともみ)らの視察団|
[[画像:Iwakura mission.jpg|thumb|300px|使節団の人々<br>左から木戸孝允(きど たかよし)、山口尚芳(やまぐち なおよし)、岩倉具視、伊藤博文(いとう ひろぶみ)、大久保利通(おおくぼ としみち)]]
1871年に、明治政府は、{{Ruby|欧米諸国|おうべいしょこく}}の政治や産業のしくみや産業のしくみを勉強するために、{{Ruby|岩倉具視(|いわくら ともみ)}}など50人の日本人による使節団を欧米諸国に送りました。
そして、使節団は、じっさいに欧米に行き、そこで欧米のことを色々と勉強してきました。
帰国後、使節団にいた人たちは、欧米の政治の知識など、国づくりの知識を、日本に持ちかえりました。
また、この使節団といっしょに、60人の留学生も同行して、欧米のようすを学びました。
また、この使節団といっしょに、60人の留学生(りゅうがくせい)も同行して、欧米のようすを学びました。
[[File:First female study-abroad students.jpg|thumb|同行した女子留学生]]
この留学生のなかには、女子留学生も5人いました。女子留学生そのなか中には、当時7才だった、{{ruby|津田梅子(|つだ うめこ)}}という小さい当時6才の少女の子もいました。
女子留学生は帰国後、女子のための学校をつくったりるなど、女子のための教育などの分野で活躍したりやくしました。
}}
==== {{ruby|富国強兵|ふこくきょうへい}} ====
明治時代の日本では、日本を強い軍隊を持った国にしようという動きが高まりました。これを{{ruby|富国強兵|ふこくきょうへい}}といいます。そのためには、
===== 富国強兵(ふこくきょうへ軍制の{{Ruby|改革|かい)かく}} =====
政府は、{{Ruby|欧米|おうべい}}の軍制に習った{{Ruby|改革|かいかく}}として、1873年に '''{{Ruby|徴兵令|ちょうへいれい}}''' を出し、満20才以上の男子に、身分に関係なく3年間{{Ruby|兵役|へいえき}}の義務を課しました。
===== 軍制の改革 =====
政府は、欧米の軍制に習った改革として、1873年に<big>徴兵令</big>(ちょうへいれい)を出し、満20才以上の男子に、3年の間、兵士になる兵役(へいえき)の義務を課した。この徴兵制は、江戸時代の武士だけに軍事が独占されていた時代とちがい、徴兵制では農村などの平民にも兵役の義務がかされ、士族・平民の区別なく徴兵をされた。
※徴兵令において、当初は 長男や徴兵のかわりに税金を{{Ruby|納|おさ}}めた者などは徴兵を{{Ruby|免除|めんじょ}}されていました。しかし、1889年には免除規定はすべて{{Ruby|廃止|はいし}}され、ほぼ全ての20才以上の男子が徴兵されました。
江戸時代は、武器を持てるのは武士だけの特権だった。このため、徴兵制によって軍事の特権のなくなった士族からは不満があった。また、農村などの平民からも、労働力をうばわれるので、農村からの不満があった。
===== {{Ruby|地租|ちそ}} =====
政府の徴兵制を主導者は、江戸時代の武士のような個人的な武芸にたよる戦闘では、近代的な兵器をあやつる戦闘では勝てないことを知っていて、このため徴兵制を導入した。
江戸時代の税は米などの農産物などであり、農作物のできなどによって税の{{Ruby|収入|しゅうにゅう}}が増減するので、政府にとっては不安定な制度だったため、政府は税の制度をあらため、土地をもつことにかかる税金がかかるようにしました。
これを「{{ruby|地租|ちそ}}」といいます。
:※ ただし、徴兵制には、当初は免除規定がいくつかあって、一家の主(あるじ)や、長男や、徴兵のかわりに代金を払った者などは徴兵を免除された。だが、のちに免除規定は廃止され1889年には、ほぼ全ての20才以上男子が徴兵された。
===== 地租(ちそ)義務教育 =====
[[File:明治日本での学校に通った子どもの割合.svg|thumb|400px|学校に通った子どもの{{ruby|割合|わりあい}}(※「1973年」は「1873年」の{{ruby|誤|あやま}}りです)]]
江戸時代の税は米など農産物であり、農作物の不作・凶作などによって税の収入がへるので、政府にとっては不安定な制度であった。
1872年に、日本全国の子どもに義務教育を受けさせるため、{{Ruby|欧米|おうべい}}の制度を参考に6才以上の男女に義務教育を受けさせるという{{Ruby|学制|がくせい}}を{{Ruby|発布|はっぷ}}しました。
このため、政府は税の制度をあらため、土地をもつことにかかる税金がかかるようにしました。
しかし、学校の建設費や授業料の{{ruby|負担|ふたん}}が大きく、また当時の子供は働き手であったので労働力をうばわれることから反発がありました。
これを「地租」(ちそ)といいます。
===== 義務教育(ぎむきょういく) =====
[[File:明治日本での学校に通った子どもの割合.svg|thumb|400px|学校に通った子どもの割合]]
1872年に、日本全国の子どもに義務教育(ぎむきょういく)を受けさせるため、<big>学制</big>(がくせい)を出した。学制の内容は、6才以上の男女に義務教育を受けさせるという内容です。
しかし、学校の建設費の負担や授業料の負担が大きいので反発があり、また当時の子供は働き手であったので労働力を取られることからも反発があった。
このような理由で就学率(しゅうがくりつ)は低く、実際に学校に通ったのは、一部の子であった。
(就学率とは、学校に通っている者の割合のこと。)
しかし、日本のしょうらいを考えて、学校の建設に必要なお金を寄付(きふ)をしてあげる人なども、そのころは、いました。
さて、明治のはじめは就学率が低かったものの、明治の終わりごろには就学率は高くなり、ほぼ100%の就学率になっていった。
義務教育の制度は、欧米を手本にした制度です。
このような理由で{{Ruby|就学率|しゅうがくりつ}}(学校に通った者の{{Ruby|割合|わりあい}})は低く、実際に学校に通った者は、一部でした。
さて、明治のはじめは就学率が低かったものの、明治の終わりごろには就学率は高くなり、ほぼ100%になりました
{{コラム|明治の学校の教科|
学校の教科に関しついて言え、江戸時代には国語(読み書き)、算数(そろばん)しか教えていませんでしたが、明治時代になってから、理科も教えられるようになった。(江戸時代の子供への教育は「読み・書き・そろばん」だっりました。)
また、算数の教育が始まり、漢数字をもちいていた江戸時代の和算(わさん)にかわり、明治時代からは、いまの小学校の算数でならうようなアラビア数字をもちいた洋算(ようさん)が始まった。
外国の歴史や地理についても教えられるようになり、ヨーロッパの歴史や地理についても教え始めた。
図画などの美術など外国の地理や歴史についても教育もえ始めまっした。
他に、体育や家庭科などの教科も作られ、それらのおよび教科書がも作られました。
}}
* 福沢諭吉
* 『学問のすすめ』
[[File:Yukichi Fukuzawa 1891.jpg|200px|thumb|{{Ruby|福沢諭吉(|ふくざわ ゆきち)。明治20年(1887年)頃の肖像<br>福沢は、江戸時代は下級武士の家の生まれだったが、蘭学を学んでいた。福沢は西洋の知識が深かったので、明治政府の使節団に参加されてもらい、ますます西洋の知識が深くなった}}。]]
西洋の学問を学習するぶ熱が高まっていき、それに応ずる思想も現れました。
{{Ruby|福沢諭吉|ふくざわゆきち}}は、下級武士の家の生まれだったが、{{Ruby|蘭学|らんがく}}を学んでいました。かれは西洋の知識が深かったので、明治政府の使節団に参加させてもらい、ますます西洋の知識を深めました。
国を発展させるには、国民の一人ひとりが自分の頭で物事の善悪などを考えられるようになる必要があり、
:「一身(いっしん)独立(どくりつ)して、一国(いっこく)独立(どくりつ)する」
と、福沢は『学問のすヽめ』(がくもんのすすめ)という本を書いて主張した。
かれは『学問のすすめ』を書きました。その{{Ruby|冒頭|ぼうとう}}には
また、物事をきちんと考えられるようになるためには、きちんとした内容の本などを読み、学問をするのが良いことを述べた。
福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)は『学問のすすめ』を出版し、勉強をしないと、単純な仕事しかできないので地位のひくい仕事にしかつけずに貧しい生活しか出来なくなる、というふうなことを福沢は説いた。
「天は 人の上に 人を造らず 人の下に 人を造らず と いへり」
:※ 『学問のすすめ』は、民衆の平等の理想をもとめた本では、ありません。<br>『学問のすすめ』は、勉強をしないと安い賃金(ちんぎん)の仕事にしかつけないので、貧しく(まずしく)なり不平等な目にあう、と説いた本です。もし「民主主義」という言葉をつかって本の内容を説明するならば、民主主義では学問をしないと貧しくなる、と説いた本です。
まず、福沢は『学問のすすめ』の出だし(でだし)の冒頭(ぼうとう)の文では、
:<big>「天(てん)は 人(ひと)の上(うえ)に 人を造らず(つくらず) 人の下(した)に 人を造らず と いへり」</big>
という文があり、
人は生まれながらにして平等である、という内容である、アメリカ合衆国の建国(けんこく)した当時の独立宣言(どくりつせんげん)の内容を{{Ruby|紹介|しょうかい}}しました。
===== {{Ruby|文明開化(|ぶんめい かいか)}} =====
{| class="wikitable" style="float:right"
! 年 !! おもなできごと
|-
| 1869<br>((明治2)2) || {{Ruby|東京|とうきょう}}~{{Ruby|横浜|よこはま}}間に電信が開通する(東京-横浜 間)
|-
| 1870 || 人力車が使われ始まめる<br> 日刊新聞(『横浜毎日新聞』)の{{Ruby|創刊|そうかん}}
|-
| 1871 || 郵便制度が始まる
|-
| 1872 || 学校が始まる<br> 鉄道が開通({{ruby|新橋(|しんばし)-}}~横浜 間)に鉄道が開通<br> ガス灯がつく((横浜)<br>太陽暦の採用)
|-
| 1874 || 東京・{{Ruby|銀座|ぎんざ}}がレンガ街になる
|-
| 1890 || 電話の開通(東京-~横浜 間)に電話が開通する
|-
|}
明治のはじめごろ、政府は江戸時代ごろのちょんまげをやめてもよいという許可を人々に出ではなく、ざんぎり頭が流行しました。:「ざんぎり頭を たたいてみれば {{Ruby|文明開化|ぶんめいかいか}}の音がする」などと、ちまたで言われていた。洋服やクツなども、着てよいようになっました。
{{Ruby|東京|とうきょう}}や{{Ruby|横浜|よこはま}}、{{Ruby|大阪|おおさか}}などの大きな町には、ガス灯がつきはじめました。江戸時代には仏教の関係で禁止されていた牛肉やぶた肉などをたべる習慣がでてきて、牛肉屋や洋食屋が出てきました。
また、1876年には、刀を持ち歩くのをやめさせるように<big>廃刀令</big>(はいとうれい)が出された。
また、{{Ruby|牛乳|ぎゅうにゅう}}やパンなども、しだいに食べるようになった。
東京や横浜、大阪などの大きな町には、ガス灯がつきはじめた。牛肉や豚肉などをたべる習慣がでてきて、牛肉屋や洋食屋が出てきた。(江戸時代は、仏教の関係で牛や豚などの4本足の動物の肉を食べるのが禁止されていた。)
* {{Ruby|郵便|ゆうびん}}
牛乳やパンなども、しだいに食べるようになった。
1871年に{{Ruby|郵便|ゆうびん}}制度ができました。数年後には、全国{{Ruby|一律|いちりつ}}の料金制度ができました。
* 郵便(ゆうびん)
飛脚(ひきゃく)に変わり、1871年に郵便制度が出来た。数年後には、全国一律の料金制度ができた。
* 鉄道
1872年には、{{ruby|新橋(|しんばし)・}}~{{Ruby|横浜(|よこはま)}}間に、日本で最初の鉄道が開通しました。
* 新聞・雑誌の発行
活版印刷の技術は{{Ruby|幕末|ばくまつ}}の頃ころより輸入されていました。が、明治になって、出版活動がさかんになっりました。
1870年には、日本で新聞(しんぶん)が最初に出始め、日刊(にっかん)の「横浜毎日新聞」(よこはままいにちしんぶん)が発行された。そのあと、次々とあたらしい新聞が発行されていった。
* 暦(こよみ)
暦(こよみ)では、江戸までの太陰暦(たいいんれき)をやめて、明治からは太陽暦(たいようれき)に切りかわった。
一週間を7日にすることが決まり、一日が24時間と決まり、日曜日が休日と決まりました。
* 官営工場(かんえい こうじょう)
[[File:上州富岡製糸場之図 PNG.png|thumb|700px|当時の富岡製糸場(とみおか せいしじょう)]]
工業の近代化も必要であった。
政府みずから経営する官営(かんえい)の工場を建てた。機械は外国から買った。工場労働者を育成する技師は、外国から、よんできた。
群馬県の<big>富岡製糸場</big>(とみおか せいしじょう)が、官営の工場として有名。富岡製糸場では、フランスから技師を、まねいた。富岡製糸場の働き手には、女性が全国から、あつめられた。
このような政府の経営する工場を、<big>官営工場</big>(かんえい こうじょう)と言う。このような官営工場を手本に、民間の工業を近代化させたので、官営模範工場(かんえい もはんこうじょう)とも言う。「模範」(もはん)とは手本という言う意味。
富岡製紙場で生産された絹は、欧米にも輸出され、「トミオカ=シルク」(Tomioka Silk)などとよばれた。
1870年には、日本で最初の日刊の新聞が発行されました。そのあと、次々と新しい新聞が発行されていきました。
* 官営工場
[[File:上州富岡製糸場之図 PNG.png|thumb|700px|当時の富岡製糸場]]
工業の近代化も必要だったため、政府が経営する '''{{Ruby|官営|かんえい}}工場''' を建てました。機械は外国から買いました。また、工場労働者を育成する技師は、外国から招きました。
中でも、{{Ruby|群馬|ぐんま}}県の{{Ruby|富岡製糸場|とみおかせいしじょう}}では、フランスから技師を招きました。また、働き手には、全国から女性が集められました。このような官営工場を手本に、民間の工業を近代化させていきました。なお、富岡製糸場は 2014(平成26)年に世界{{Ruby|遺産|いさん}}に登録されました。
==== 西南戦争 ====
{{Ruby|西郷隆盛|さいごうたかもり}}は、もとは新政府の中心的な人物のひとりだっでしたが、政治のすす進めかた方に不満をめぐって持ち、新政府をさっ去りました。
1874年ごろから九州の各地で、士族による反乱が起きた。1874年に江藤心平(えとう しんぺい)らが佐賀で反乱をおこしたが、政府軍によって、鎮圧(ちんあつ)された。江藤は死刑になった。
1874年ごろから九州の各地で、士族による{{Ruby|反乱|はんらん}}が起きました。
[[File:Battle-of-Tabaruzaka.jpg|thumb|400px|西南戦争のようす。左が官軍、右が西郷軍(「鹿児島新報田原坂激戦之図」小林永濯(こばやし えいたく)画、明治10年3月)。]]
ほかにも、反乱がおき、このような不平士族たちの指導者として、西郷隆盛がかつぎだされた。西郷も、その不平士族とともに、1877年に大規模な反乱が鹿児島で起きた。この鹿児島での西郷ひきいる反乱が西南戦争(せいなんせんそう)である。
[[File:Battle-of-Tabaruzaka.jpg|thumb|400px|西南戦争のようす。左が官軍、右が西郷軍。]]
だが、政府軍が勝ち、西郷たち反乱軍は負けた。
ほかにも、反乱がおき、不満を持った士族たちの指導者として、西郷隆盛が{{Ruby|担|かつ}}ぎ出されました。西郷も、その不平士族とともに、1877年、鹿児島で反乱を起こしました。これを {{Ruby|西南|せいなん}}戦争 といいます。
西南戦争のだが、政府軍が勝利したため、それ{{Ruby|以降|いこう}}、士族の反乱は、なくなっりました。
==== 国会をひらこう ====
[[File:Eiri jiyuu sinbun 1.jpg|thumb|板垣退助の演説。と、それをとりしまる{{Ruby|警官|けいかん}}。]]
[[ファイル:Itagaki Taisuke young.jpg|thumb|200px|板垣退助(いたがき たいすけ)。1880年ごろ(44才ごろ)]]
いっぽう、政治のすすめかたをめぐって政府をやめてい去った {{Ruby|板垣退助(|いたがき たいすけ)}} は、西南戦争の前から、{{Ruby|言論|げんろん}}活動によって、政府へのを{{Ruby|批判を主張|ひはん}}しました。
1874年に、板垣は、政府に対しての求めで、選挙で選ばれた政治家による政治をおこなう国会を、すぐに設立するように求めました。
じつは当時の日本の政治には、まだ選挙の制度が無なかったので、{{Ruby|薩摩藩|さつまはん}}や{{Ruby|長州|ちょうしゅう}}藩の出身者など明治維新に{{Ruby|影響|えいきょう}}力のあった藩の出身者たちから成りのみで行われていましたつ(なりたつ)、。少数の政治家によって政治が決まっていた藩閥政治(はんばつ せいじ)だったのです。
この国会設立の要求のように、国民が政治に参加できる社会をもとめる運動を<big> '''自由{{Ruby|民権運動</big>(じゆう |みんけんうんどう)と言}}運動''' いいます。
自由民権運動は、はじめのうちは不平士族を中心とした運動でしたが、しだいに農民や商工業者などにも支持されていきました。
つまり、板垣は、自由民権運動を行いました。
しかし、1881年には、まだ、国会をひらくために必要になる、{{Ruby|憲法|けんぽう}}や{{ruby|法律|ほうりつ}}がありませんでした。
自由民権運動は、はじめのうちは不平士族を中心とした運動だったが、しだいに農民や商工業者などにも支持をされていきます。
このような理由もあり、政府は、すぐには国会を開かず、10年以内に国会を開くことを国民に約束しました。
しかし、1881年のときには、まだ、国会をひらくために必要になる、憲法(けんぽう)などの法律がありませんでした。憲法とは、その国の法律をつくるさいの基本となる考え方を定めたり、法律をつくるときの決まりごとや、国会の決まりごとなどを定めた法律です。
[[File:OKUMA_Shigenobu.jpg|thumb|left|大隈重信。]]
国会の決まり事をきめた法律すら、まだ出来てないので、まだ国会をひらくことが出来ません。
国会が開かれるのにそなえて、板垣退助は自由{{Ruby|党|とう}}を、{{Ruby|大隈重信|おおくましげのぶは{{Ruby|立憲改進党|りっけんかいしんとう}}を作りました。
このような理由もあり、政府は、すぐには国会を開かず、10年以内に国会(こっかい)を開くことを国民に約束しました。
[[File:OKUMA_Shigenobu.jpg|thumb|left|大隈重信(おおくま しげのぶ)。]]
国会が開かれるのにそなえて、板垣や、大隈重信(おおくま しげのぶ)は、それぞれ政党(せいとう)をつくりました。
[[ファイル:Itō Hirobumi.jpg|thumb|left|250px|伊藤博文(いとう ひろぶみ)]]
明治政府は、{{Ruby|伊藤博文(|いとう ひろぶみ)}}らをヨーロッパに送り、ヨーロッパ各国の憲法や政治のしくみを調べさせました。
そして、伊藤は、日本に帰国してから、{{Ruby|皇帝|こうてい}}の{{ruby|権力のつよ|けんりょく}}が強いドイツの{{Ruby|憲法|けんぽう}}を手本にして、大日本帝国新しい憲法の案(あん)をつくりました。
そして1889年、{{Ruby|明治天皇|めいじてんのう}}が国民にあたえるという形で '''{{Ruby|大日本帝国憲法'''(|だい にほん(にっぽん) ていこく けんぽう)}}'''が{{ruby|発布(|はっぷ)}}されました。
<div style="border:1px solid #000000;">
'''大日本帝国憲法'''の主な内容 ((現代語{{Ruby|訳)|やく}})
::第1条 大日本帝国は、永久につづ続く同じ{{Ruby|家系|かけい}}の{{Ruby|天皇|ほうりつ}}が治める。
::第3条 天皇は神のように{{Ruby|尊い(|とうと}}い)。
::第5条 天皇は議会の協力で{{ruby|法律|ほうりつ}}をつくる。
::第11条 天皇が陸海軍を{{Ruby|統率(|とうそつ)}}する。
::第29条 国民は、法律の{{Ruby|範囲(|はんい)}}内で、{{Ruby|言論|げんろん}}・集会および結社(けっしゃ)の自由を持もつ。
</div>
* 憲法の内容 (※ 範囲外)
大日本帝国憲法の内容では、まず、天皇が日本を統治すると定められた。そして実際の政治は、大臣(だいじん)が行うとされた。
つまり、日本を統治するのは、藩(はん)や幕府ではなく、華族(かぞく)でもなく、天皇である、ということである。
また、憲法では、軍隊は天皇(てんのう)が統率(とうそつ)するものとされた。宣戦や講和も天皇の権限になった。
つまり、政治家が勝手に戦争を初めたり講和したりするのを禁止している。
外国と条約をむすぶのも、天皇の権限である。
国民の権利は、法律の範囲内での自由や権利が、保証された。ただし、現在(西暦2014年に記述)の日本の権利とくらべたら、当時の権利は国民にとっては制限の多いものであった。
国民には兵役(へいえき)の義務があることが憲法にふくまれていた。
紹介した条文には書かれてないが、日本の帝国議会の議院(ぎいん)は<big>衆議院</big>(しゅうぎいん)と<big>貴族院</big>(きぞくいん)との2つの議院からなる<big>二院制</big>(にいんせい)であると、憲法で決められている。
* 議会
憲法発布の{{Ruby|翌年|よくとし}}1890年には、国会での議員を選ぶための選挙が行われた。つづいて、国会である<big> '''{{Ruby|帝国議会</big>(|ていこくぎかい)}}議会''' が同1890年に開かれました。
帝国議会の議院(ぎいん)は<big> '''{{Ruby|衆議院</big>(|しゅうぎいん)}}''' と<big> '''{{Ruby|貴族院</big>(|きぞくいん)と}}''' の2つの議院からなる<big>二院制</big>(にっていんせい)であっました。が、選挙で選ばれたのは 衆議院の議員のみ、であるした。いっぽうの一方、貴族院ではの議員は、{{Ruby|皇族|こうぞく}}や{{Ruby|華族|かぞく}}などの有力者から天皇が議員を任命していました。
1890年の衆議院議員選挙の選挙{{Ruby|権|けん}}は、税金を一定以上{{Ruby|納|おさ}}めた25才以上の男子にのみあたえられ、{{Ruby|有権者|ゆうけんしゃ}}は国民の約1.1%となっていました。
衆議院の立候補者に投票できる権利である選挙権(せんきょけん)は、国税の高額な納税(15円以上。)が必要で、実際に選挙が出来たのは人口の1%ほどに過ぎなかった。
また、満25才以上の男子に選挙権が限られた。
:(※ 範囲外: )現在(西暦2014年に記述)の日本のような20才以上の日本人なら誰でも選挙権のある普通選挙(ふつうせんきょ)とはちがい、この明治時代の選挙のような制限事項の多い選挙のしかたを「制限選挙」(せいげんせんきょ)と言います。
このようにして、日本は、アジアで初めて、憲法にもとづいて議会政治を行う近代国家となった。
== 日清戦争と日露戦争 ==
=== 日清戦争 ===
* 教育勅語(きょういく ちょくご)
==== 日清戦争について ====
議会(ぎかい)のしくみとは関係ないのですが、ちょうど同じ1890年、学校で日本は天皇中心の国であると教えるように『教育勅語』(きょういくちょくご)が出されました。
== お雇い(おやとい)外国人 ==
明治時代のはじめごろ、外国人の学者などに、日本政府は高い給料をはらって、日本に来てもらいました。
このような外国人のことを、お雇い外国人(おやとい がいこくじん) といいます。
明治の初めごろは、大学の先生は、お雇い外国人がほとんどでした。また、大学の授業も、英語(またはドイツ語)など欧米の言語で行われました。
明治時代に、日本の大学などで動物学を教えていたアメリカ人のモースは、日本で、大森貝塚を発見しました。この大森貝塚の発見が、きっかけとなり、日本各地で貝塚の調査や発掘が、始まりました。
モースのほかにも、東京駅の赤レンガの建物の設計をしたコンドル(人名)、など多数のお雇い外国人がいます。
:※ おやとい外国人はたくさんいるので、小学校では、すべては紹介しきれない。
=== 日清戦争と日露戦争 ===
==== 日清戦争 ====
===== 日清戦争 =====
[[ファイル:Une partie de peche.jpg|250px|right|thumb|日清戦争のころの風刺画(ふうしが)。フランス人のビゴー筆。「魚釣り遊び」(''Une partie de pêche'')<br/>魚(=朝鮮)を釣り上げようとする日本と中国(清)、横どりをたくらむロシア]]
1894年、朝鮮半島で、朝鮮国内の改革をもとめる内乱が起きました。
|