「小学校社会/6学年/歴史編」の版間の差分
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このようにして、日本は、アジアで初めて、憲法にもとづいて議会政治を行う近代国家となった。
== {{ruby|日清|にっしん}}戦争と{{Ruby|日露|にちろ}}戦争 ==
=== {{ruby|日清|にっしん}}戦争 ===
==== {{ruby|日清|にっしん}}戦争について ====
[[ファイル:Une partie de peche.jpg|250px|right|thumb|:日清戦争のころの{{Ruby|風刺
:魚 1894年、{{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}半島で、朝鮮国内の{{Ruby|改革|かいかく}}をもとめる{{Ruby|内乱|ないらん}}が起きました。
中国({{Ruby|清
そして、日本軍と
[[画像:Location-of-Liaodong-Peninsula.png|thumb|200px|リャオトン半島の位置]]
[[File:《马关条约》签字时的情景.jpg|thumb|right|300px|none|下関条約の調印の様子。 向かって左に着席するのが日本の伊藤全権、右が清国の李全権]]
1895年、日清戦争の講和条約として、
:* 中国({{Ruby|清|しん}})は、{{ruby|朝鮮|ちょうせん}}の独立を{{Ruby|認|みと}}めること。
:* リャオトン({{Ruby|遼東|りょうとう}}半島を日本にゆずる。
:* {{Ruby|台湾|たいわん}}を日本にゆずる。
:* 中国は、{{Ruby|賠償|ばいしょう}}金として3億円をはらう。なお、これは当時の日本の財政{{Ruby|収入|しゅうにゅう}}の約3倍の金額であった。
朝鮮が独立国となったことにより、朝鮮が中国の属国でなくなったので、1897年に、朝鮮は国名を「{{Ruby|大韓帝国|だいかんていこく}}」と改めました。
<!-- 教育出版や日本文教出版『日本の歩み』などには「大韓帝国」の国名も書いてある。 -->
==== {{Ruby|三国干渉|さんごくかんしょう}} ====
ロシアは、ドイツとフランスと組んで、日本にリャオトン半島を中国に{{Ruby|返還|へんかん}}するように要求しました。
この、ロシア・ドイツ・フランスによる、リャオトン半島を清国へと返還させる要求を {{ruby|三国干渉|さんごくかんしょう}} といいます。
<!-- ※ 光村図書の教科書で、傍注で、三国干渉について書いてあります。 -->
日本は、三国干渉の要求に{{ruby|従|したが}}い、中国ににリャオトン半島を返還しました。
=== {{Ruby|日露|にちろ}}戦争 ===
===== {{Ruby|日露|にちろ}}戦争 =====
* {{ruby|日英同盟|にちえいどうめい}}
({{Ruby|発展|はってん}}:)義和団の事件のあとも、ロシアは兵力をひかず、ロシア軍は満州にい続けました。
そして、ロシアは冬でも凍らない港が、軍事上の理由で必要だったため、{{ruby|朝鮮|ちょうせん}}半島や中国に勢力を{{Ruby|拡大|かくだい}}することを目指しました。
いっぽう、中国に{{Ruby|利権|りけん}}を持つイギリスにとっては、この{{Ruby|政策|せいさく}}が不都合でした。
さらに当時のロシアは、ロシア国内で東西に長いシベリア鉄道を建設していました。もしシベリア鉄道が完成すると、軍隊の兵士や軍事物資も、すばやく送れるようになるので、イギリスにとっては、ロシアはとても{{Ruby|危険|きけん}}な国でした。
そこでイギリスは、この政策に{{Ruby|対抗|たいこう}}するため、1902年に日本とイギリスとの間で '''{{Ruby|日英同盟|にちえいどうめい}}''' を結びました。
ロシアの勢力の拡大をおそれ、日本の政府は戦争を決意しました。一方、ロシアの政府も、大国であるロシアとすれば小国にすぎない日本をおそれる必要はないので、日本との戦争もかまわないという{{Ruby|強硬|きょうこう}}な{{Ruby|姿勢|しせい}}を強めていきました。
* {{ruby|日露|にちろ}}戦争
1904年、日本は{{ruby|日露|にちろ}}戦争の開戦にふみきりました。陸地での戦争では、日本は苦戦の末、ロシアに勝利しました。
[[ファイル:Tsushima battle map-ja.svg|thumb|300px|right|ロシア艦隊は日本海南西部で撃破された。]]
日本海海戦では、海軍の {{Ruby|東郷平八郎|とうごうへいはちろう}}率いる連合{{Ruby|艦隊|かんたい}}が、ロシアの艦隊をやぶりました。
しかし、日本は大きく戦力を{{Ruby|消耗|しょうもう}}しており、軍事費を使いきっていたため、戦争の続行が{{Ruby|難|むずか}}しくなりました。
いっぽうのロシアでも政府に反対する{{Ruby|革命|かくめい}}の動きが起き始め、ロシア政府も戦争の続行が難しくなりました。
そこで日本は{{Ruby|状況|じょうきょう}}が日本に有利なうちに講和をしようと考え、アメリカに仲立ちをしてもらって、アメリカのポーツマスで日本とロシアは講和条約をむすんだことで、日露戦争が終わりました。
;講和条約
[[ファイル:Jutaro Komura.jpg|thumb|200px|小村寿太郎]]
アメリカ大統領であるルーズベルト(ローズベルト)が仲立ちとなり、日本の代表は外務大臣の '''{{ruby|小村寿太郎|こむらじゅたろう}}''' で、ロシアの代表はヴィッテでした。
<!-- ※ 日本文教出版の教科書で、ルーズベルトやヴィッテの名前を紹介しています。 -->
1895年、日露戦争の講和条約として、次のことが決定されました。
:* 日本の朝鮮での{{Ruby|優越権|ゆうえつけん}}を{{Ruby|認|みと}}めること。
:* 日本に南満州の鉄道の{{Ruby|権利|けんり}}をゆずりわたすこと。
:* 日本は、ロシアから{{Ruby|樺太|からふと}}の南半分の領土をゆずり受けること。
:* 日本は、リャオトン半島の一部の権利を得ること。
日本は講和を急いだため、{{Ruby|賠償|ばいしょう}}金をとりませんでした。このことが国民の反発を{{Ruby|呼|よ}}び、{{Ruby|東京|とうきょう}}の{{Ruby|日比谷|ひびや}}では焼き{{Ruby|討|う}}ち事件が起きました。国民からすれば、戦争で多くの{{ruby|負担|ふたん}}をしたにもかかわらず、賠償金をとれないことを不満に感じたのであった。
日露戦争の前、開戦を、多くの国民が支持しました
[[ファイル:Akiko Yosano younger.jpg|thumb|200px|与謝野晶子(よさの あきこ)]]
歌人の
'''君死にた{{Ruby|まふ|(もう)}}ことなかれ'''
<pre>
あ{{Ruby|ゝ|(あ)}} {{Ruby|を|お}}とうとよ 君を泣く
君 死にた
末
親の なさけは まさりしも
親は {{Ruby|刃
人を
人を
二十四までを そだてしや 」
</pre>
(以下省略)
与謝野晶子の詩は、当時の日本国民の多くから、反戦の気持ちを遠回しにうたった詩として
===== 条約改正 =====
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| 1858 || 江戸幕府が不平等な条約を結んだ
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| 1868 ||
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| 1871 || 日本の使節団が{{Ruby|欧米|おうべい}}を{{ruby|視察|しさつ}}する<br />視察のさい、条約改正を
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| 1883 || {{Ruby|鹿鳴館|ろくめいかん}}を開き、{{ruby|舞踏会|ぶとうかい}}を行う
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| 1886 || ノルマントン号事件が起こる
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| 1889 ||
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| 1894 || {{Ruby|陸奥宗光|むつむねみつ}}によってイギリスとの間で{{ruby|領事裁判権|りょうじさいばんけん}}({{Ruby|治外法権|ちがいほうけん}}が{{ruby|撤廃|てっぱい}}される<br />{{ruby|日清|にっしん}}戦争が起こる
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| 1904 || {{ruby|日露|にちろ}}戦争が起こる
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| 1911 || {{ruby|小村寿太郎|こむらじゅたろう}}が{{Ruby|関税自主権|かんぜいじしゅけん}}の回復を達成する
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