「小学校社会/6学年/歴史編」の版間の差分

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=== {{ruby|日清|にっしん}}戦争 ===
==== {{ruby|日清|にっしん}}戦争について ====
[[ファイル:Une partie de peche.jpg|250px|right|thumb|:日清戦争のころの{{Ruby|風刺|ふうし}}画「魚{{Ruby|釣|つ}}り遊び
:魚(={{ruby|朝鮮|ちょうせん}}を釣り上げようとする日本と中国(清)、横どりをたくらむロシア]]
1894年、{{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}半島で、朝鮮国内の{{Ruby|改革|かいかく}}をもとめる{{Ruby|内乱|ないらん}}が起きました。
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{{コラム|{{Ruby|岩倉具視|いわくら ともみ}}らの視察団|
[[画像:Iwakura mission.jpg|thumb|300px|使節団の人々<br>左から{{Ruby|木戸孝允|きど たかよし}}{{ruby|山口尚芳|やまぐち なおよし}}、岩倉具視、{{Ruby|伊藤博文|いとう ひろぶみ}}{{Ruby|大久保利通|おおくぼ としみち}}]]
 
1871年には、{{ruby|欧米諸国|おうべいしょこく}}{{Ruby|視察|しさつ}}のため送られた{{Ruby|岩倉具視|いわくら ともみ}}らの視察団が条約を改正してほしいと{{Ruby|交渉|こうしょう}}したが、欧米は、日本の法律が近代化されていないことなどを理由にして、条約の改正をことわっ断りました。
<!-- ※ 検定教科書では、傍注などで使節団について紹介されている。結局、使節団は条約改正には失敗するので、紹介の優先順位が低いのだろう -->
 
:(※ 検定教科書では、傍注などで使節団について紹介されている。結局、使節団は条約改正には失敗するので、紹介の優先順位が低いのだろう。)
}}
 
{{-}}
{{コラム|{{Ruby|鹿鳴館|ろくめいかん}}|
[[File:Chikamatsu Kiken buto no ryakuke.jpg|thumb|400px|鹿鳴館における舞踏会を描いた浮世絵]]
1883年には、東京に、洋風の建物である{{Ruby|鹿鳴館|ろくめいかん}}を建て、{{Ruby|欧米|おうべい}}}人もまねいて社交のための洋風のダンス・パーティーなども、日々(ひび)、ひらてみたが、まったく条約改正は進まず、失敗した。
<!-- ※ 日本文教出版の教科書に、章末コラムで、鹿鳴館のダンスパーティーの紹介あり。 -->
 
:(※ 日本文教出版の教科書に、章末コラムで、鹿鳴館のダンスパーティーの紹介あり。)
}}
 
{{-}}
* ノルマントン号事件(ノルマントンごう じけん)
[[ファイル:Normanton Incident(1886).jpg|280px|thumb|ノルマントン号事件をえがいた絵。ジョルジュ・ビゴー作「メンザレ号の救助」(『トバエ』9号、1887年6月)]]
 
1886年には、{{Ruby|和歌山|わかやま}}県の沖合いの海上で、イギリス船のノルマントン号が{{Ruby|沈没|ちんぼつ}}する事件が起きた。このとき、イギリス人船長らイギリス人は、イギリス人の乗員だけをボートで助けて、日本人は助けませんでした。日本人の乗客は、全員、{{Ruby|死亡|しぼう}}した。
 
この事件の{{ruby|裁判|さいばん}}は、{{Ruby|領事裁判権|りょうじさいばんけん}}({{ruby|治外法権|ちがいほうけん}})にもとづき、イギリス人の領事によって日本国内で行われました。
1886年には、和歌山県の沖合い(おきあい)の海上で、イギリス船のノルマントン号(ごう)が沈没する事件が起きた。このとき、イギリス人船長らイギリス人は、イギリス人の乗員だけをボートで助けて、日本人は助けなかった。日本人の乗客は、全員、死亡した。
この事件の裁判は、イギリス人の領事によって、日本国内で、おこなわれた。治外法権による領事裁判権にもとづき、イギリス人領事による裁判が、おこなわれたのである。
 
船長は軽い罪に問われただけで、日本人の多くは、これ日本への差別的な判決して、感じた。なお、船長は禁錮刑(きんこけい)3ヶ月になっました。
 
この一連の事件を<big> '''ノルマントン号事件</big>(ノルマントンごう''' じけん 、英語:Normanton Incident ノーマントン・インシデント)といいます
 
:<!-- ※ 日本文教出版と教育出版の教科書に、ノルマントン号事件の紹介あり。 -->
 
この事件をきっかけに、国民のあいだで、条約改正をのぞむ声が、大きくなりました。
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{{-}}
* 関税自主権の回復
[[ファイル:Munemitsu Mutsu 2.jpg|thumb|150px|陸奥宗光(むつ むねみつ)]]
[[ファイル:Jutaro Komura.jpg|thumb|150px|小村寿太郎(こむら じゅたろう)]]
 
{{ruby|日清|にっしん}}戦争の直前の1894年に、外務大臣の{{Ruby|陸奥宗光|むつ むねみつ}}が、イギリスとのあいだで条約の一部改正に成功し、日本での{{Ruby|領事裁判権|りょうじさいばんけん}}({{ruby|治外法権|ちがいほうけん}})をなくすことに成功した。つまり、日清戦争の直前の1894年に、日本で罪をおかした外国人を、日本の法律で裁判(さいばん)できるようになった。
 
そのあと、日清戦争で日本が勝利すると、ロシア・フランスなども領事裁判権(治外法権)をなくすことに同意しましたが、日本の関税自主{{Ruby|権|けん}}は{{Ruby|認|みと}}めませんでした。
 
そのあと、{{Ruby|露|にちろ}}戦争で日本が勝利したことにより日本の国際的な地位が高まると、ロシア・フランスなども治法権をなくす務大臣の{{Ruby|小村寿太郎|むらじゅたろう}}の各国に同意の{{ruby|交渉|こうたがょう}}により1911年に日本の関税(かんぜい)自主権(じしゅけん)、みとめなかっ回復しました。
 
そのあと、日露戦争で日本が勝利したことにより日本の国際的な地位が高まると、各国は、関税自主権の改正にも応じるようになり、外務大臣の小村寿太郎(こむら じゅたろう)の各国との交渉により、1911年に日本の関税自主権は回復した。
 
つまり、日本政府は、すべての輸入品に自由に関税をかけられるようになりました。
 
 
{{clear}}
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日露戦争のあと、韓国では、日本の支配が強まりました。
 
そのころ、日本政府の中では、日露戦争後のこれからの{{Ruby|韓国(「|かんこく}}({{Ruby|大韓帝国」)|だいかんていこく}})とのかたをめぐって、日本の政府内では、いろいろな意見がありました。
 
{{Ruby|伊藤博文|いとうひろぶみ}}は、日本の財政{{Ruby|難|なん}}などを理由に、韓国を日本の一部にするのは、反対でした。
韓国を日本国の一部にしようとか、あるいは、韓国は日本にとって外国のままとして韓国の支配をしようとか、いろいろな意見があった。
 
しかし、仕事で韓国を{{Ruby|訪問|ほうもん}}していた伊藤博文を、朝鮮の青年が、伊藤博文は朝鮮を侵略しようとしているにちがいないと考え、暗殺しました。
 
伊藤博文(いとう ひろぶみ)は、日本の財政難(ざいせいなん)などを理由に、韓国を日本国の一部にするのは、反対でした。
 
しかし、仕事で韓国を訪問していた伊藤博文を、韓国の青年が、伊藤博文は韓国を侵略しようとしているにちがいないと考え、この青年が伊藤博文を暗殺してしまいました。
 
その後、日本政府内では、韓国を日本の領土にしようという意見が強まりました。
 
そして、1910年に、韓国は日本に{{Ruby|併合|へいごう}}されました。こうして、韓国は日本の植民地になりました。
:(※ 編集者への注意: 韓国を「植民地」という呼称の根拠については、中学『[[中学校社会 歴史/韓国併合]]』に説明があるので、不満や疑問があれば、そちらを参照のこと。)
 
併合後は、日本が韓国の政治のありかたを支配するようにしたため、韓国では、日本の支配への反発も高まり、1919年には韓国で日本の支配に反対する独立運動も起こりましたが、この独立運動は失敗しました。
これによって、「韓国」(かんこく)という国はなくなったので、日本は、朝鮮半島の地域を「朝鮮」(ちょうせん)と呼ぶ(よぶ)ようになりました。
 
=== 明治時代の{{ruby|経済|けいざい}}の変化 ===
(※ 韓国の併合時、日本は、韓国とは、正式な「戦争」は、していません。)
イギリスなどから輸入した機械をもとに、{{Ruby|生糸|きいと}}などを生産しました。
 
原料の綿などは、{{ruby|併合|へいごう}}した{{Ruby|併合|へいごう}}や、{{Ruby|獲得|かくとく}}した{{Ruby|満州|まんしゅう}}などから安い{{Ruby|値段|ねだん}}のものが輸入されたため、日本の農家は{{Ruby|打撃|だげき}}を受けました。
この韓国併合は、もし本当に「併合」(へいごう)ならば、日本と韓国とが対等なハズなのですが、しかし実際には、併合後は、日本が韓国の政治のありかたを支配するようになりました。
 
生糸や綿製品は、日本の輸出品になりました。
なので、韓国では、日本の支配への反発も高まり、1919年には韓国で、日本の支配に反対する独立運動も起こりましたが、しかし、この独立運動は失敗しました。
 
1901年、{{Ruby|日清|にっしん}}戦争の{{ruby|賠償|ばいしょう}}金をもとにして{{Ruby|福岡|ふくおか}}県の{{Ruby|北九州|きたきゅうしゅう}}で{{Ruby|八幡製鉄所|やはたせいてつじょ}}が{{Ruby|操業|そうぎょう}}されました。
=== 明治期の経済の変化 ===
明治のはじめごろ、国は工業をさかんにするため、官営の工場を経営していた。しかし、政府にとっては財政の負担だった。また、政府が工場の経営をすると、民間の工場の仕事をうばっていることにも、なってしまう。
なので、政府は官営工場の民間への払い下げを1880年代に行った。
 
農業では、小作人が増えました。
この払い下げをうけた会社が、三井(みつい)・三菱(みつびし)・古河(ふるかわ)などの大会社であった。
 
農村などで{{Ruby|収入|しゅうにゅう}}が少ない農民は、都市に出稼ぎに行くこともありましたが、せんい工場などで働く女性は、長時間労働で、安い{{Ruby|賃金|ちんぎん}}で、働かされました。しかし、日本の輸出品の生糸や綿製品などは、この女工などの、安い賃金の労働によって、ささえられていました。
イギリスから輸入した紡績機(ぼうせきき)をもとに、生糸を生産。イギリスの紡績機は、蒸気機関を動力として用いる、最新の紡績機だった。日本でも、紡績機を改良していった。
 
原料の綿などは、併合した朝鮮や、獲得した満州などから安い値段のものが輸入され、そのため日本の農家は打撃を受けた。
 
生糸(きいと)や綿(めん)製品は、日本の輸出品になっていった。
繊維工業を中心に、日本の軽工業は発展していった。
 
=== {{Ruby|足尾銅山|あしおどうざん}}の{{Ruby|鉱毒|こうどく}}事件 ===
[[Image:Ashio Copper Mine circa 1895.JPG|thumb|250px|1895年頃の足尾銅山]]
{{Ruby|栃木|とちぎ}}県にある{{Ruby|足尾銅山|あしおどうざん}}では、{{Ruby|明治|めいじ}}時代ごろには、全国の生産の3分の1の銅を生産していました。
 
しかし、鉱石の{{Ruby|処理|しょり}}の安全{{Ruby|対策|たいさく}}が不十分なまま、工場からの{{Ruby|排水|はいすい}}中に有毒物質の「{{ruby|鉱毒|こうどく}}」が周辺の{{Ruby|渡良瀬川|わたらせがわ}}に流れこみ、川の魚が死に、農作物などはかれていきました。
 
作物だけでなく、目や{{Ruby|胃|い}}などの{{Ruby|内臓|ないぞう}}の病気にかかっていった人が増え、死者も出ました。
八幡製鉄所(やはたせいてつじょ)の創業が1901年に北九州で始まった。
 
[[ファイル:Shozo Tanaka.jpg|thumb|200px|田中 正造]]
この八幡製鉄所が、日本での重工業の発展の、きっかけになった。八幡製鉄所は、日清戦争の賠償金をもとに、たてられた。
{{Ruby|衆議院|しゅうぎいん}}議員の {{Ruby|田中正造|たなかしょうぞう}}は、これらの原因は足尾銅山の鉱毒のせいであるとして議会でうったえましたが、政府は対策をとりませんでした。
 
田中正造は、{{Ruby|世論|せろん/よろん}}にうったえるため、議員を辞め、{{Ruby|天皇|てんのう}}に{{Ruby|直訴|じきそ}}しようとしましたが、天皇の近くで{{ruby|警官|けいかん}}に取りおさえられました。
 
しかし、直訴のことが新聞などに報道され、この足尾銅山の鉱毒事件が世間に広く知られました。
こうして日本の製鉄業が発達したので、日露戦争のあとには、日本でも 大型の機械を作れるようになった。大型の船も、つくれるようになった。
 
このため、軍艦(ぐんかん)や大砲(たいほう)なども、日本でつくれるようになった。
 
 
 
農業では、小作人が増えた。
 
 
農村で収入が少ない農民は、都市に出稼ぎにいったりした。
貧しい農家の娘などは、紡績工場などの工場などで女工(じょこう)としてはたらくこともあった。
 
女工は、長時間労働で、安い賃金(ちんぎん)で、はたらかされた。それでも、その娘には、ほかに仕事先がないので、その仕事先で、はたらかざるをえなかったのだろう。
 
日本の輸出品の生糸や綿製品などは、この女工などの、安い賃金の労働によって、ささえられていたのである。
 
1925年の『女工哀史』(じょこう あいし)という細井和喜蔵(ほそいわきぞう)という機械工(きかいこう)の労働者が自らの体験をもとに書いた本に、1925年と時代は少しあとの時代だが、このような女工たちのつらい状況が書かれている。
 
 
=== 足尾銅山(あしお どうざん)の鉱毒(こうどく)事件 ===
[[Image:Ashio Copper Mine circa 1895.JPG|thumb|250px|1895年頃の足尾鉱山]]
栃木県にある足尾銅山では、明治時代ごろには、全国の生産の3分の1の銅を生産していた。
ここで公害事件がおき、鉱石の処理の安全対策が不十分なまま、工場からの排水(はいすい)中に有毒物質の「鉱毒」(こうどく)が周辺の渡良瀬川(わたらせがわ)に流れ込み、川の魚が死に、農作物などは枯れて(かれて)いった。
 
作物だけでなく、人間も病気になっていった。死者もふえていった。目(め)の病気にかかったり、胃(い)などの内臓の病気にかかっていった人がふえてきた。
 
[[ファイル:Shozo Tanaka.jpg|thumb|200px|田中 正造(たなか しょうぞう)]]
衆議院議員の<big>田中 正造</big>(たなか しょうぞう)は、これらの原因は足尾銅山の鉱毒のせいであるとして議会でうったえた。だが、政府は対策をとられなかった。
 
田中正造は、世論にうったえるため、天皇に直訴(じきそ)しようとした。そのため、議員をやめて、それから天皇に直訴しにいったが、天皇の近くで警官に取り押さえられた。
 
だが、直訴のことが新聞などに報道され、この足尾銅山の鉱毒事件が世間に広く知られた。
 
 
=== 明治の学問や文化の変化 ===
==== 医学 ====
[[ファイル:Kitasato Shibasaburo.jpg|thumb|130px|北里 柴三郎]]
;{{Ruby|北里柴三郎|きたざと しばさぶろう)]]}}
;北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう)
 
{{Ruby|北里柴三郎|きたざとしばさぶろう}}は、ドイツに留学し、そこでドイツの医学者コッホといっしょに研究し、{{ruby|伝染病|でんせんびょう}}である{{Ruby|破傷風|はしょうふう)という伝染病}}の治療法(ちりょうほう)の発見しました。そして北里の名前は世界に広まり、また、日本の医学も世界に{{Ruby||みと}}められていきました。
 
北里は帰国したあと、北里は研究所(いわゆる「北里研究所」)をつくりました。この研究所から、{{Ruby|赤痢菌|せきり きん}}を発見した{{ruby|志賀潔|しが きよし}}や、へび毒などの研究で活やくした{{Ruby|野口英世|のぐち ひでよ}}など多くの医学者が育ちました。
 
<gallery widths="100px" heights="130px">
ファイル:Kitasato Shibasaburo.jpg|北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう)
ファイル:Kiyoshi Shiga.jpg|志賀 (しが きよし)
ファイル:Noguchi Hideyo.jpg|野口 英世(のぐち ひでよ)
</gallery>
 
 
[[ファイル:Noguchi Hideyo.jpg|thumb|130px|野口 英世]]
;{{Ruby|野口英世|のぐち ひでよ)]]}}
野口は、北里の研究所で学んだのち、アメリカにわたり、ヘビ毒の研究で、大きな成果をあげました。その後、アフリカのガーナにわたり、{{Ruby|医療|いりょう}}活動および、{{Ruby|黄熱病|おうねつびょう}}などについて研究しましたが、野口自らが黄熱病に{{Ruby|感染|かんせん}}してしまい、1928({{ruby|昭和|しょうわ}}3)年に{{Ruby|亡|な}}くなりました。
;野口 英世(のぐち ひでよ)
野口は、北里の研究所で学んだのち、アメリカに渡り、ヘビ毒(へびどく)の研究で、大きな成果をあげた。その後、アフリカのガーナにわたり、医療活動および、黄熱病(おうねつびょう)などの感染病の感染経路を研究した。しかし、野口みずからが黄熱病に感染してしまい、1928(昭和3)年に野口英世はなくなりました。
 
[[File:Ghana (orthographic projection).svg|thumb|left|ガーナ]]
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{{clear}}
==== 文学 ====
明治時代になると、小説が流行ってし、{{Ruby|夏目漱石|なつめそうせた(は}}ってき{{Ruby|樋口一葉|ひぐちいちよう}}などの小説家が登場しまし
 
そして、明治時代に、夏目漱石(なつめ そうせき)や樋口一葉(ひぐち いちよう)などの小説家が登場した。
 
<gallery widths="130px" heights="160px">
ファイル:Natsume Soseki photo.jpg|夏目漱石(なつめ そうせき)
ファイル:Portrait-of-Ichiyo-Higuchi.png|樋口 一葉(ひぐち いちよう)
</gallery>
 
:{{Ruby|夏目 漱石|なつめ そうせき}}は、小説家であるした。もともとは教員の仕事につい師としいており、主に英語を教えていました。なので、彼の作品には、教としての経験や英文学の知識などもとにいかした手法の作品が多いもあります。漱石の作品としては、『{{Ruby|坊|ぼ}}っちゃん』『{{Ruby|吾輩は猫である』(|わがはい}} {{Ruby|猫|ねこ}} ある)、『坊っちゃん(ぼっちゃん)などの作品有名あります
 
{{clear}}
 
{{Ruby|樋口 一葉|ひぐち いちよう)や与謝野 晶子(よさの あきこ)など、}}は小説この明治時代作品出てきは『けくらべ』、『にごりえ』などがあります
 
樋口 一葉(ひぐち いちよう)は小説家であり、代表作は、『たけくらべ』、『にごりえ』などである。
与謝野 晶子(よさの あきこ)は短歌の作家であり、代表作は、『みだれ髪』、『君死にたまふことなかれ』などである。
 
{{clear}}
 
== {{Ruby|大正|たいしょう}}時代 ==
=== 第一次世界大戦 ===
1914年((大正3)、ヨーロッパで 第一次世界大戦 おきました。
 
日本も、{{Ruby|日英同盟|にちえいどうめい}}を理由に、この戦いに参加して、イギリスを助けました。
 
この戦いでは、日本は、直接の{{ruby|被害|ひがい}}を受けませんでした。
 
この第一次世界大戦で、イギリスの{{Ruby|陣営|じんえい}} が勝利したので、日本も戦勝国(せんしょうこく)のひとつなりました。
 
また、この戦争の間、日本は好景気でした。
 
しかし、米をはじめとして物価があがり、{{Ruby|暮|く}}らしが苦しくなりました。
戦争のあいだ、日本は、外国への輸出が増えましました。ヨーロッパが戦争してたので、ヨーロッパの輸出が減ったからです。
 
このため、{{ruby|米騒動|の戦争のあいだめそうどう}}と{{Ruby|呼|よ}}ばれる騒動が、日本は好景気の各地起きました。
 
しかし、米を戦争が終わると日本じめとして物価の値段があがり、暮らしが苦しく不景気になりました。
 
その後、日本は好景気や不景気をくりかえしていきました。
このため、米騒動(こめそうどう)と言われる騒動が、日本の各地で起きました。
 
なお、1922年、ロシアで革命が起き、 ソビエト社会主義共和国{{ruby|連邦|れんぽう}} が成立しました。なお、「ソビエト連邦」「ソ連」などと言われることもあります。
 
<!-- 日本文教出版の検定教科書では正式名称を紹介していますが、日常語などでは「ソビエト連邦」「ソ連」のほうが一般的であるため、両方とも併記しています -->
さて、戦争が終わると、ヨーロッパの経済が復活(ふっかつ)してきたので、日本の輸出は減ってしまい、日本は不景気になりました。
 
その後、日本は好景気や不景気をくりかえしながら、大正時代のあいだの日本は、戦争にならずに、平和にすごしていきました。
 
 
なお、1922年、ロシアで革命が起き、<big>ソビエト連邦</big>(ソビエトれんぽう)が成立しました。
 
 
=== 平等な社会をめざす運動 ===
* 平塚らい{{Ruby|う(ひらつか らい|(ちょ)}}・市川房江
[[ファイル:Raicho Hiratsuka.jpg|thumb|200px|平塚らいてう(ひらつか らいちょう)<br>らいちょうは、{{Ruby|雑誌|ざっし}}において「もともと、女性は太陽であった。しかし今、女性は月である。ほかの光によって かがやく、病人のような青白い月である。{{ruby||わたし}}たちは、かくれてしまった私たちの太陽をさがさなければならない」というようなことを述べました。<br>(※]]
<!-- wikibooksWikibooksでは検定教科書と同様に、じ「らいてうの言い回」を採用することとを現代風に変えています。)]] -->
平塚らい{{Ruby|て|(ちょ)}}うは、女性の地位の向上や、女子の選挙{{Ruby|権|けん}}の{{Ruby|獲得|かくとく}}を目指す女性解放運動を主張しました。
 
女性の地位の向上や、女子の選挙権の獲得を目指す女性解放運動(じょせい かいほううんどう)が、平塚らいてう(ひらつか らいちょう)などにより主張された。
 
平塚らいてうは市川房江(いちかわ ふさえ)と協力して、新婦人協会(しんふじん きょうかい)をつくった。
 
平塚らいてうは{{Ruby|市川房江|いちかわふさえ}}と協力して、{{Ruby|新婦人協会|しんふじんきょうかい}} をつくりました。
 
* 全国水平社
1922年に、明治時代に四民身分上は平等となってからも差別をされつづけてきた{{Ruby|地域|ちいき}}の人たちが、差別なくす運動をするために'''{{ruby|全国水平社'''(|ぜんこく すいへいしゃ}}'''つくり結成しました。
 
なお、{{Ruby|山田 孝野次郎|やまだ このじろう}}{{Ruby|京都|きょうと}}で全国水平社を結成したことが、はじまりです。
 
 
* 選挙権
1925年(({{Ruby|大正|たいしょう}}14)、選挙制度が改正され、25以上のすべての男子が、衆議院に投票できる{{Ruby|選挙|せんきょ}}権を手に入れました。
 
また、同じ1925年、政府は {{Ruby|治安維持法|ちあんいじほう}}を制定して、政治や社会のしくみの{{Ruby|改革|かいかく}}運動を取りしまりました。
しかし、女性には、選挙権はありませんでした。
 
また、同じ1925年、政府は 治安維持法(ちあんいじほう) を制定して、政治や社会のしくみを変えてしまおうとする運動を取り締まりました。
 
=== 大正時代の{{Ruby|暮||く}}らし ===
 
大正時代の終わりまでには、{{ruby|東京|とうきょう}}や{{Ruby|大阪|おおさか}}など大都市では、バスやデパートなどが、日本に、すでに登場していました。
=== 大正のころの暮らし ===
大正時代の終わりまでには、東京や大阪など大都市では、バスやデパートなどが、日本に、すでに登場していました。
 
とくに、大きな駅のちかくに、デパートや劇場などが、ありました。
 
バスでは、女性がバスの乗務員(いわゆる「(バスガール」))として働いていました。
 
<!-- 光村図書や教育出版の教科書で、バスガールなどを習う -->
 
1925(大正14)年には、日本でラジオ放送が開始しました。
(※ 光村図書や教育出版の教科書で、バスガールなど習う。)
 
1925年(大正14年)には、日本でラジオ放送が開始しました。(※<!-- ※ 光村図書や教育出版の教科書で、ラジオ放送など習う。) -->
 
* {{Ruby|関東大震災|かんとうだいしんさい}}
1923年、関東地方で大きな{{Ruby|地震|じしん}}発生し死者・行方不明者は14万人以上にのぼりました。この地震を {{Ruby|関東大震災|かんとうだいしんさい}} といいます
死者・行方不明者は14万人以上であった。この地震を <big>関東大震災</big>(かんとう だいしんさい) と言う。(※ 光村図書や日本文教出版の教科書で、関東大震災など習う。)
 
<!-- ※ 光村図書や日本文教出版や東京書籍の教科書で、関東大震災などを習う。 -->
なお、この地震で、「朝鮮人が反乱を、くわだてている」という内容のデマ(「デマ」とは、かんちがいした連絡や伝言などのこと。)が飛びかい(とびかい)、多くの朝鮮人が殺される事件が起きた。
 
なお、このとき、「{{ruby|朝鮮|ちょうせん}}人が{{Ruby|反乱|はんらん}}をくわだてている」といううわさが飛びかい、多くの{{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}人が殺害される事件が起きました。なお、朝鮮人の中には{{Ruby|韓国併合|かんこくへいごう}}のため関東に働きに来ている人がいました。
 
東京に朝鮮人がいた理由については、当時は韓国併合後の時代だったので、仕事などで日本に働きにきていた朝鮮人がいたのです。
 
 
{{clear}}
== 昭和時代 ==
<!-- ※ 編集者への注意: レイアウトの都合上、時代名「昭和」を表示するために、この節を残しています。除去しないでくさい。 -->
=== 世界恐慌 ===
 
== 世界恐慌 ==
:(※ 小学校の範囲です。検定教科書では、満州事変といっしょに、語られることが多いです。)