「小学校社会/6学年/歴史編」の版間の差分
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== 長く続いた戦争(昭和時代前半) ==
=== 満州事変 ===
[[File:Manchukuo map 1939.svg|thumb|600px|満州国の位置。Manchukuoが満州国。]]
中国大陸の東北部にある満州で、日本軍により1931年に{{ruby|満州国|まんしゅうこく}}が建国されました。
==== 満州事変 ====
日本の一部の軍人は、中国北部の満州に出張していた日本軍を{{Ruby|指揮|しき}}して、中国の満州を{{Ruby|占領|せんりょう}}しようとたくらみました。
そして日本軍は1931年に、満州を占領する口実をもうけようとして、自作自演の事件を起こしました。
日本軍は、この事件を中国側のしわざだと断定し、日本軍は、中国の都市を占領しました。
そして1932年に、日本軍は満州国の建国を{{Ruby|宣言|せんげん}}しました。
これを、 '''{{Ruby|満州事変|まんしゅうじへん}}''' といいます。
{{-}}
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| 年 || おもなできごと
|-
| 1931 || {{Ruby|満州|まんしゅう}}事変が起きる
|-
| 1932 || 満州国が成立<br />同じ年に、日本で軍人たちが大臣らを殺害する事件(五・一五事件)が起きる
|-
| 1936 || 日本で軍人たちが大臣らを殺害する事件(二・二六事件)が起きる
|-
|
|-
|}
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* {{ruby|五|ご}}・{{Ruby|一五
[[ファイル:May 15 Incident.jpg|thumb|500px|五・一五事件を報じる新聞]]
このころ
:しかし、当時の{{Ruby|一般|いっぱん}の人々は、ひどい不景気のため、政治家に絶望していたため、犯行におよんだ軍人を、一般の人々は支持しました。このような決定のせいで、のちに、軍人による、政治に圧力をくわえるための殺人事件が、ふえていくことになりました。
また、このため日本は、'''まるで軍人が政治を支配しているかのような状況になってしまいました。'''
* {{Ruby|二|に}}・{{Ruby|二六|にろく}}事件
1936年の2月26日にも、軍人が大臣たちを殺害する事件が起きました。
=== 日中戦争 ===
=== 日中戦争の開戦 ===
1933年、 {{ruby|日中|にっちゅう}}戦争 が始まりました。
=== 広がる戦場 ===
1939年にヨーロッパで、ドイツがポーランドに
ポーランドの西半分は{{Ruby|占領|せんりょう}}されてしまいましたが、イギリスとフランスが、ドイツを相手に戦いました。
この
その後、ドイツ軍がフランスに
フランスがドイツに{{Ruby|降伏|こうふく}}したので、ドイツの同盟国の日本は、東南アジアでフランスの植民地にされていたベトナムを占領しました。
日本にとっても、中国を支援している
しかし、日本がベトナムを占領すると、アメリカは、日本に対して、
これによって、日本とアメリカとの対立は、ますます深まりました。
[[ファイル:Second world war asia 1937-1942 map en6.png|thumb|300px|日本による占領{{Ruby|地域|ちいき}}の{{Ruby|拡大
:※英語で書かれた画像です。参考程度にしてください。]]
[[ファイル:USS West Virginia;014824.jpg|300px|thumb|真珠湾攻撃で燃え上がるアメリカ軍の軍艦([[w:ウェストバージニア (戦艦)|ウェストバージニア]])。]]
その直後
日本は、アメリカの要求を飲まなかったので、日米の交渉はまとまりませんでした。
そして、石油が
こうして戦場は、中国だけでなく、東南アジアや太平洋にも広がっていきました。
なお、これらの周辺{{Ruby|地域|ちいき}}での戦争のことを、{{Ruby|太平洋
日本軍は、太平洋戦争のはじめごろは、東南アジア各地をどんどんと{{Ruby|占領|せんりょう}}して、勢力を
しかし、日本軍による東南アジアの占領地では、現地の住民を強制的に重労働させたりしたので、いくつかの地域では日本に対する反対運動も高まりました。
また、日本軍は物資の{{Ruby|補給
初めのうちは勝利していた日本軍も、アメリカが体勢をたてなおして{{Ruby|反撃|はんげき}}に出てくると、日本軍は各地で負けはじめました。
また、日本軍は補給にますます苦労するようになり、戦うまえに{{Ruby|餓死|がし}}や病死などで死んでしまう日本兵も、東南アジアの各地で出てきました。
日本の新聞やラジオなどでは、日本が負けていることは、かくされていました。
=== 戦時中の{{Ruby|暮|く}}らし ===
==== {{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}や{{Ruby|台湾|たいわん}}などの人々 ====
また、日本国内で、{{Ruby|徴兵|ちょうへい}}のため、それまで日本で働いていた日本人の労働者が足りなくなったので、{{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}半島や{{Ruby|台湾|たいわん}}から、朝鮮の人々を労働者として日本に連れてきて、日本の工場や鉱山などで{{ruby|厳|きび}}しい労働をさせました。
====
{| class="wikitable" style="float:right"
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| 年 || おもなできごと
|-
| 1938年<br>昭和13年 || 国家総動員法ができる<br> ガソリンの使用が制限される
|-
| 1939年 ||
|-
| 1940年 || {{Ruby|砂糖|さとう}}・塩・しょうゆ・マッチなどが
|-
| 1941年 || 米が配給制になる
|-
| 1942年 || 衣類が
|-
| 1944年 || {{ruby|学童疎開
|-
|}
1938年、国民全員を戦争に総動員させるために {{Ruby|国家総動員法|こっかそうどういんほう}} が出されました。
{{Ruby|砂糖|さとう}}など、その他の食料品も、配給制になりました。
鉄などの金属も、使用が制限されました。
このため、アイロンは{{Ruby|陶器|とうき}}製になりました。また、ランドセルは、竹製になりました。
このように、物(もの)は、使用できる量が、制限されました。
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そして、配給される量も、しだいに減っていき、生活は苦しくなっていきました。
日本では、「ほしがりません、勝つまでは」、「ぜいたくは{{Ruby|敵|てき}}だ、「足らぬ足らぬは{{ruby|工夫|くふう}}が足らぬ」のような標語ができました。
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Image:Luxury is our enemy.JPG|「ぜいたくは敵だ
</gallery>
一定の年{{Ruby|齢|れい}}に達した男子は、
[[Image:Gakuto shutsujin.jpg|thumb|400px|学徒出陣
男子大学生
女学生や女性も、工場や農場などで働
中学生も、工場や農場などで
小学校でも、{{ruby|軍事教練
[[Image:Kokumin-Fuku.JPG|thumb|250px|国民服。]]
衣類などが不足してきたことや、ぜいたくを取りしまる意味もあり、男子の{{Ruby|服装|ふくそう}}として国民服が定められるなど、服装に
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==== {{Lang|ja|{{ruby|空襲|くうしゅう}}と{{ruby|疎開|そかい}}}} ====
1943年ごろからアメリカ軍は、太平洋で日本の海軍をどんどんと{{ruby|倒|たお}}し、アメリカ軍は太平洋の島々を占領していきました。
そして、1944年から、アメリカ軍による{{Ruby|空襲
空襲では、とくに、{{Ruby|東京|とうきょう}}や{{Ruby|大阪|おおさか}}などの都市が{{Ruby|攻撃|こうげき}}の対象にされることが多かったので、都市に住んでいる子どもたちは、親元からはなれて地方へと移り住む
[[File:After Bombing of Tokyo on March 1945 19450310.jpg|thumb|400px|東京大空襲で焼け野原となった東京。]]
そして1945年3月10日
その後も、全国各地
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==== {{ruby|沖縄|おきなわ}} ====
1945年4月には、アメリカ軍が{{ruby|沖縄
沖縄の
女子学生は、{{Ruby|看護
この沖縄での戦闘により、沖縄県民の10万人ちかくが、なくなりました。なお、それまでの沖縄県民の人口は約60万人です。
[[File:Himeyuri Students.jpg|200px|thumb|ひめゆり部隊]]
[[File:Himeyuri Monument-2.jpg|200px|thumb|ひめゆり部隊の{{Ruby|慰霊碑|いれいひ}}(ひめゆりの{{ruby|塔|とう}})]]
そして、沖縄はアメリカ軍によって{{Ruby|占領|せんりょう}}されました。
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==== {{Ruby|原爆|げんばく}}投下と日本の敗戦 ====
ヨーロッパでは、日本と{{Ruby|同盟|どうめい}}を結んでいたドイツとイタリアが、アメリカやイギリスなどの連合国に{{Ruby|反撃|はんげき}}されました。そして、イタリアは1943年に連合国に{{Ruby|降伏
こうして、ヨーロッパでの戦争は終わりました。
[[ファイル:Nagasakibomb.jpg|thumb|left|170px|長崎に投下された原子爆弾の「キノコ雲」<br/>1945年8月9日]]
[[ファイル:AtomicEffects-Hiroshima.jpg|thumb|420px|原爆投下後の広島のようす。]]
そして1945年7月、連合国は、日本に降伏するように{{Ruby|宣言|せんげん}}を出しました。
しかし、日本は、降伏の決断をできず、そのまま戦争
すると、1945年の8月6日に、アメリカが、{{Ruby|広島|ひろしま}}に{{Ruby|原子爆弾|げんしばくだん}}(原爆)を投下しました。広島の街は{{Ruby|一瞬|いっしゅん}}で焼きつくされて{{Ruby|破壊|はかい}}され、広島では10万人以上が{{Ruby|亡|な}}くなりました。また8月9日には長崎にも原子爆弾が投下され、8万人ほどが{{Ruby|亡|な}}くなりました。
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8月8日、ソビエトは
こうした中、日本は{{Ruby|降伏|こうふく}}の決断をし、アメリカ・イギリス・ソビエトの代表が決めた日本の降伏の条件である
そして'''1945年
こうして日中戦争や太平洋戦
[[File:Imperial Rescript on the Termination of the War.ogg|thumb|終戦を知らせるラジオ放送({{ruby|玉音|ぎょくおん}}放送)の{{Ruby|音源|おんげん}}]]
* {{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}や{{ruby|台湾|たいわん}}
日本の敗戦により、{{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}や{{ruby|台湾|たいわん}}の人々は、日本の支配から解放されたので、
==== 戦争が終わったけれど… ====
* 満州国の{{Ruby|消滅|しょうめつ}}
満州は、いったんソ連軍の占領下に入り、そのあと中華民国に渡されました。そして、国家としての「満州国」は、消滅しました。満州の地に取り残された日本人は、戦争がおわっても、日本にもどれなかった人もいました。(中国残留(ちゅうごく ざんりゅう) )
中国大陸で、なんらかの事情で肉親と分かれることになってしまった子供は、中国人の大人に引き取られて育てられました。(中国残留孤児(ちゅうごく ざんりゅう こじ))
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