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== 長く続いた戦争(昭和時代前半) ==
<!-- ※ 編集者への注意: レイアウトの都合上、時代名「昭和」を表示するために、この節を残しています。除去しないでくさい。 -->
=== 世界恐慌 ===
:(※ 小学校の範囲です。検定教科書では、満州事変といっしょに、語られることが多いです。)
 
大正時代には、日本は、そこそこ豊かになりました。
 
しかし、このような繁栄(はんえい)は、長続きしませんでした。
 
 
昭和に入ると、1929年にアメリカで、とても大きな不景気が発生しました。
 
そして、その不景気が世界中におよんで、世界中が不景気になりました。
 
日本も、大きな不景気になりました。そして日本では、多くの会社や工場が、つぶれました。
 
 
== 満州事変 ==
[[File:Manchukuo map 1939.svg|thumb|600px|満州国の位置。Manchukuoが満州国。1939年ごろ。]]
中国大陸の東北部にある満州で、日本軍により1931年に満州国(まんしゅうこく)が建国されます。
 
=== 満州事変 ===
[[File:Manchukuo map 1939.svg|thumb|600px|満州国の位置。Manchukuoが満州国。]]
(※ 範囲外: ) 昭和時代に入ると、不景気がひどくなったので、まずしい人々は、政治家や大企業に失望して、かわりに、軍人などの、政治家でもない大企業でもない人々に期待するようになりました。
中国大陸の東北部にある満州で、日本軍により1931年に{{ruby|満州国|まんしゅうこく}}が建国されました。
 
==== 満州事変 ====
日本の一部の軍人は、中国北部の満州に出張していた日本軍を{{Ruby|指揮|しき}}して、中国の満州を{{Ruby|占領|せんりょう}}しようとたくらみました。
 
そして日本軍は1931年に、満州を占領する口実をもうけようとして、自作自演の事件を起こしました。
この少し前のころ、中国大陸では、清(シン)が革命でほろんで、あたらしく中華民国(ちゅうかみんこく)が出来ていました。
 
日本軍は、この事件を中国側のしわざだと断定し、日本軍は、中国の都市を占領しました。
 
そして1932年に、日本軍は満州国の建国を{{Ruby|宣言|せんげん}}しました。
(いろいろな事情があって、)日本の一部の軍人は、中国北部の満州(まんしゅう)に出張していた日本軍を指揮して、中国の満州を占領しようと、たくらみました。
 
これを、 '''{{Ruby|満州事変|まんしゅうじへん}}''' といいます。
:(※ どういう事情で、こういう たくらみ になったかは、小学校のレベルをこえるので、wikibooksでは説明を省略する。)
 
そして日本軍は1931年に、満州を占領する口実をもうけようとして、自作自演(じさくじえん)の事件を起こしました。
 
どういう事件かというと、南満州鉄道(みなみ まんしゅう てつどう)の線路を爆破したのです。
 
日本軍である関東軍は、この鉄道爆破(ばくは)事件を中国側のしわざだと断定し、日本軍は、奉天(ほうてん)など中国の都市を占領しました。
 
そして1932年に、日本軍は満州国の建国を宣言した。
 
 
これを、 <big>'''満州事変'''</big>(まんしゅう じへん)という。
 
当時の日本政府には、満州の日本軍を止める力がなく、日本政府は満州国の建国を認めてしまいました。
 
「満州国」は、独立国とはいうものの、満州は日本の保護国で、実際は満州は日本の領土のような状況であった。
 
[[File:Lytton Commission at railway.jpg|thumb|300px|鉄道の爆破の現場を調査している国際連盟の調査団。]]
 
中国(中華民国)は、日本のこの行動を、侵略だとして、国際連盟(こくさい れんめい)に うったえました。
 
そして、国際連盟は、調査団を送って調べた結果、「満州国」の建国を認めないと決議しました。
 
この決議に、ただ1国だけ反対した日本は、国際連盟に反発して、国際連盟を脱退しました。
 
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| 年 || おもなできごと
|-
| 1931 || {{Ruby|満州|まんしゅう}}事変が起きる
|-
| 1932 || 満州国が成立<br />同じ年に、日本で軍人たちが大臣らを殺害する事件(五・一五事件)が起きる
|-
| 1933 || 国際連盟、満州国の独立を認めないと決議する<br />日本は国際連盟を脱退する
|-
| 1934 || 日本、満州国に皇帝・溥儀(ふぎ)を就任させる
|-
| 1936 || 日本で軍人たちが大臣らを殺害する事件(二・二六事件)が起きる
|-
| 1937 || 日中戦争が始まる<br />日本軍はペキンやナンキンなどを占領する
|-
| 1932 || 満州国が成立<br />同じ年に、日本で軍人たちが大臣らを殺害する事件(五・一五事件)が起きる
| 1941 || 日本が、アメリカ・イギリスなどを相手に戦争(太平洋戦争)を始める
|-
| 1936 || 日本で軍人たちが大臣らを殺害する事件(二・二六事件)が起きる
| 1944 || 空襲(くうしゅう)がはげしくなり、集団疎開(しゅうだん そかい)が始まる
|-
| 19451937 || 広島と長崎に原爆日中戦争投下され始まる<br />日本が敗戦(ペキンやナンキンなどを{{Ruby|占領|せん)をみとめ、戦争が終わりょう}}す
|-
|}
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* {{ruby||ご}}{{Ruby|一五事件(ご・|いちご じけん)}}事件
[[ファイル:May 15 Incident.jpg|thumb|500px|五・一五事件を報じる新聞]]
このころ(1932年)、日本政府は{{Ruby|満州|まんしゅう}}の問題を、中国との話し合いで解決しようとしていた。しかし1932年の5月15日、日本軍の一部の軍人らが総理{{Ruby|官邸|かんてい}}に乱入して、総理たちを殺事件起こりました。この一部の軍人が総理を殺害した殺人事件を <big>'''{{ruby||ご}}{{Ruby|一五|いちご}}事件'''</big>(ご・いちご じけん) と言う。
 
:(※<!-- ※ 「五・一五事件」の名称は検定教科書の範囲内。日本文教出版の教科書に記載あり。) -->
 
:しかし、当時の{{Ruby|一般|いっぱん}の人々は、ひどい不景気のため、政治家に絶望していたため、犯行におよんだ軍人を、一般の人々は支持しました。このような決定のせいで、のちに、軍人による、政治に圧力をくわえるための殺人事件が、ふえていくことになりました。
:(※ 範囲外 :)犯人の軍人たちは、法律で処罰されることになった。
 
また、このため日本は、'''まるで軍人が政治を支配しているかのような状況になってしまいました。'''
:だが、当時の一般の人々は、ひどい不景気のため、政治家に絶望していた。なので、犯行におよんだ軍人を、一般の人々は支持してしまう。だから、多くの人々は、軍人の刑を軽くするべきだという意見だった。このため、政府は世間の声におされて、犯人の軍人への刑罰を軽くしてしまった。(このような決定のせいで、のちに、軍人による、政治に圧力をくわえるための殺人事件が、ふえていくことになる。)
 
* {{Ruby|二|に}}・{{Ruby|二六|にろく}}事件
1936年の2月26日にも、軍人が大臣たちを殺害する事件が起きました。
 
=== 日中戦争 ===
また、このため日本は、'''まるで軍人が政治を支配しているかのような状況になってしまった。'''
 
* 二・二六事件(ににろく じけん)
1936年の2月26日にも、軍人が大臣たちを殺害する事件が起きた。
 
== 日中戦争 ==
=== 日中戦争の開戦 ===
1933年、 {{ruby|日中|にっちゅう}}戦争 が始まりました。
1937年7月7日と8日に、ペキン(北京)の近くで、訓練中の日本軍に、何者からか、数発の銃弾(じゅうだん)が日本軍へと打ち込まれた事件があった。
 
{{コラム|(※範囲外:)盧溝橋事件|これを日本軍は中国軍の発砲だと考えたので、戦闘準備を始めるが、まだ攻撃の許可をもらっていないので中国軍への攻撃は中止した。このとき、中国軍が日本軍の戦争開始と誤解して、日本軍を攻撃した。
 
はたして誰が発砲したかについては、いまだに不明である。
じつは現地では、ひとまず7月11日に日中の現地軍どうしで、ひとまず停戦(ていせん)の約束が結ばれた。
だが、25日にも、中国軍が日本軍を攻撃する事件が起こり、26日にも中国軍が日本軍を攻撃する事件起きたので、日本政府は中国が停戦協定をやぶったと考え、ついに7月28日に日本軍による攻撃が始まり、本格的な戦争になっていく。
この7月28日ごろを日中戦争の開始時期と考える学説もある。}}
 
 
このようにして、<big>日中戦争</big>(にっちゅうせんそう)が始まった。
 
※ なぜ北京の近くに日本軍がいたかというと、「義和団の乱」という事後の処理について1901年に世界各国と中国が結んだ議定書(ぎていしょ)にもとづいて、日本軍などの外国軍が中国に駐留(ちゅうりゅう)していたからである。(べつに、「日本軍が侵略したから北京にいた」というワケではない。)
 
=== 広がる戦場 ===
1939年にヨーロッパで、ドイツがポーランドにめこんで、第二次世界大戦が始まりました。
 
ポーランドの西半分は{{Ruby|占領|せんりょう}}されてしまいましたが、イギリスとフランスが、ドイツを相手に戦いました。なお、このころソビエト連邦は、ポーランドの東半分を占領しました。なお1941年からソ連はドイツを相手に戦いましました
 
このころ日本は、ドイツ・イタリアと{{Ruby|同盟|どうめい}}を結んでいました。
 
その後、ドイツ軍がフランスにめこみ、フランス軍は敗北しました。ドイツ軍フランスを占領しました。
 
フランスがドイツに{{Ruby|降伏|こうふく}}したので、ドイツの同盟国の日本は、東南アジアでフランスの植民地にされていたベトナムを占領しました。
 
日本にとっても、中国を支援して(と思われる)フランスの拠点を占領でき、東南アジアの{{Ruby|資源|しげん}}も手に入るので、ベトナム占領には好都合な面もありました。
 
しかし、日本がベトナムを占領すると、アメリカは、日本に対して、(アメリカからの)石油や鉄の輸出を禁止しました。イギリスも、アメリカの動きと同じように、日本との貿易を制限しました。
 
これによって、日本とアメリカとの対立は、ますます深まりました。
 
[[ファイル:Second world war asia 1937-1942 map en6.png|thumb|300px|日本による占領{{Ruby|地域|ちいき}}{{Ruby|拡大(1937|かくだい}}(1937年から1942年)<br>※ 英語で読みづらいので、読者はイメージをつかんだけにしてください。]])
:※英語で書かれた画像です。参考程度にしてください。]]
 
[[ファイル:USS West Virginia;014824.jpg|300px|thumb|真珠湾攻撃で燃え上がるアメリカ軍の軍艦([[w:ウェストバージニア (戦艦)|ウェストバージニア]])。]]
 
その直後のころ、日本はアメリカとの戦争をおそれ、アメリカとの戦争にならないように{{Ruby|交渉|こうしょう}}しますが、アメリカから{{Ruby|厳|きび}}しい条件を出され、満州事変よりも前の状態に日本の海外領土をもどすようにと、日本は要求されました。
 
日本は、アメリカの要求を飲まなかったので、日米の交渉はまとまりませんでした。
 
そして、石油がいと、兵器が動かせないので、日本が{{Ruby|危機|きき}}におちいることを恐れた日本政府は、1941年12月にハワイの{{Ruby|真珠湾|しんじゅわん}}にあるアメリカ軍基地を攻撃し、同じ時期に日本軍は東南アジアのイギリス領マレー半島も攻撃して、日本とアメリカ・イギリスとの戦争が始まりました。
 
こうして戦場は、中国だけでなく、東南アジアや太平洋にも広がっていきました。
 
なお、これらの周辺{{Ruby|地域|ちいき}}での戦争のことを、{{Ruby|太平洋戦争|たいへいようせんそう}}戦争といいます。なお、「アジア・太平洋戦争」ということもあります。
 
:<!-- ※ 最近では「アジア・太平洋戦争」と呼ぶ提案もされているし、そういう検定教科書(日本文教出版)もある。しかし、「太平洋戦争」という表記も、ひきつづき光村図書などの検定教科書で使われている。 -->
 
日本軍は、太平洋戦争のはじめごろは、東南アジア各地をどんどんと{{Ruby|占領|せんりょう}}して、勢力を広げ{{Ruby|拡大|かくだい}}していきました。
 
:(※ 範囲外 :) 東南アジアで、日本軍が戦った相手は、イギリス軍やオランダ軍などです。インドネシア軍やミャンマー軍などとは、日本は戦ってません。当時、東南アジアは、ヨーロッパ諸国の植民地でした。)
 
: (※ 範囲外 :) ハッキリというと、日本が東南アジアを占領するよりも何百年か前から、ヨーロッパ諸国が、すでに東南アジアを侵略していたのである。
 
しかし、日本軍による東南アジアの占領地では、現地の住民を強制的に重労働させたりしたので、いくつかの地域では日本に対する反対運動も高まりました。
 
また、日本軍は物資の{{Ruby|補給|ほきゅう}}に苦労したので、占領した場所で、食料や{{Ruby|資源|しげん}}などを取り立てました。
 
初めのうちは勝利していた日本軍も、アメリカが体勢をたてなおして{{Ruby|反撃|はんげき}}に出てくると、日本軍は各地で負けはじめました。
 
また、日本軍は補給にますます苦労するようになり、戦うまえに{{Ruby|餓死|がし}}や病死などで死んでしまう日本兵も、東南アジアの各地で出てきました。
初めのうちは勝利していた日本軍も、アメリカが体勢をたてなおして反撃に出てくると、日本軍は各地で負けはじめました。
 
日本の新聞やラジオなどでは、日本が負けていることは、かくされていました。
そして、多数の日本兵が死にました。また、日本軍は補給にますます苦労するようになり、戦うまえに{{Ruby|餓死|がし}}や病死などで死んでしまう日本兵も、東南アジアの各地で出てきました。
 
=== 戦時中の{{Ruby|暮|く}}らし ===
日本の新聞やラジオなどでは、日本が負けていることは、隠されました。
==== {{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}や{{Ruby|台湾|たいわん}}などの人々 ====
また、日本国内で、{{Ruby|徴兵|ちょうへい}}のため、それまで日本で働いていた日本人の労働者が足りなくなったので、{{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}半島や{{Ruby|台湾|たいわん}}から、朝鮮の人々を労働者として日本に連れてきて、日本の工場や鉱山などで{{ruby|厳|きび}}しい労働をさせました。
 
==== 戦時中日本暮らし人々 ====
==== 朝鮮や台湾などの人々 ====
第二次世界大戦が始まって、朝鮮では、朝鮮の人々の名前を、日本風の名前に改める政策が行われました。この政策を'''創始改名'''(そうし かいめい)といいます。
 
また、日本国内で、徴兵(ちょうへい)のため、それまで日本で働いていた日本人の労働者が足りなくなったので、朝鮮半島や台湾から、朝鮮の人々を労働者として日本に連れてきて、日本の工場や鉱山などで働かせました。きびしい労働だったと言われています。
 
朝鮮や台湾でも徴兵を行い、朝鮮や台湾の人々は、日本軍の兵士として、戦場に送られました。
 
また、日本風の神社が、朝鮮や台湾にかぎらず、東南アジアや太平洋の島々の占領地などでも、各地でつくられました。
 
 
==== 日本列島 ====
 
{| class="wikitable" style="float:right"
|+ 中国との戦争中のできごと
| 年 || おもなできごと
|-
| 1938年<br>昭和13年 || 国家総動員法ができる<br> ガソリンの使用が制限される
|-
| 1939年 || (第二次世界大戦が始まる) <br> ネオンサインやパーマネントが禁止される
|-
| 1940年 || {{Ruby|砂糖|さとう}}・塩・しょうゆ・マッチなどが切符配給制になる<br> 国民服が制定される
|-
| 1941年 || 米が配給制になる
|-
| 1942年 || 衣類が切符配給制になる
|-
| 1944年 || {{ruby|学童疎開|がくどう そかい}}が始まる
|-
|}
 
1938年、国民全員を戦争に総動員させるために {{Ruby|国家総動員法|こっかそうどういんほう}} が出されました。
戦争が長びき、日本では物資が不足したので、日本では米(こめ)や日用品などは<big>配給制</big>(はいきゅうせい)になった。
 
さとう(砂糖)など戦争が長引き日本では物資が不足した他の食料品も日本では米や日用品などは 配給制または切符制(きっぷせい) になりました。
 
{{Ruby|砂糖|さとう}}など、その他の食料品も、配給制になりました。
切符制というのは、切符をもってないと、その物を買えない仕組みです。買うたびに、切符は減っていきます。
 
鉄などの金属も、使用が制限されました。
 
このため、アイロンは{{Ruby|陶器|とうき}}製になりました。また、ランドセルは、竹製になりました。
鉄(てつ)などの金属も、使用が制限されました。
 
このため、アイロンは陶器(とうき)製になりました。また、ランドセルは、竹製になりました。
 
このように、物(もの)は、使用できる量が、制限されました。
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そして、配給される量も、しだいに減っていき、生活は苦しくなっていきました。
 
日本では、「ほしがりません、勝つまでは」、「ぜいたくは{{Ruby|敵|てき}}だ、「足らぬ足らぬは{{ruby|工夫|くふう}}が足らぬ」のような標語ができました。
 
日本では、「ほしがりません、勝つまでは」とか「ぜいたくは敵(てき)だ」とかの標語(ひょうご)が言われました。
 
 
<gallery>
Image:Luxury is our enemy.JPG|「ぜいたくは敵だ
</gallery>
 
 
一定の年{{Ruby||れい}}に達した男は、軍隊に{{Ruby|徴士としてとら|ちょうへい}}されたり、工場などで働かされたりしました。
 
[[Image:Gakuto shutsujin.jpg|thumb|400px|学徒出陣(1943年((1943(昭和18))10月21日))]]
男子大学生(男子)も、「{{Ruby|学徒出陣|がくとしゅつじん}}」といって、兵士にとられました。
 
女学生や女性も、工場や農場などで働いたり、しました。
 
中学生も、工場や農場などで働かされました。
 
 
小学校でも、{{ruby|軍事教練|ぐんじきょうれん}} が行われるようになりました。
 
 
[[Image:Kokumin-Fuku.JPG|thumb|250px|国民服。]]
衣類などが不足してきたことや、ぜいたくを取りしまる意味もあり、男子の{{Ruby|服装|ふくそう}}として国民服が定められるなど、服装にたいする制限も{{Ruby|厳|きび}}しくなりました。
 
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==== {{Lang|ja|{{ruby|空襲|くうしゅう}}と{{ruby|疎開|そかい}}}} ====
1943年ごろからアメリカ軍は、太平洋で日本の海軍をどんどんと{{ruby|倒|たお}}し、アメリカ軍は太平洋の島々を占領していきました。
そして、1944年から、アメリカ軍による{{Ruby|空襲|くうしゅう}}{{Ruby|激|はげ}}しくなりました。
 
空襲では、とくに、{{Ruby|東京|とうきょう}}{{Ruby|大阪|おおさか}}などの都市が{{Ruby|攻撃|こうげき}}の対象にされることが多かったので、都市に住んでいる子どもたちは、親元からはなれて地方へと移り住む(うつりすむ){{Ruby|集団疎開|しゅうだん そかい}}を させられました。なお、「学童疎開」ということもあります
 
※ 子供たちの集団疎開のことを「学童疎開」(がくどうそかい)とも言います。
 
[[File:After Bombing of Tokyo on March 1945 19450310.jpg|thumb|400px|東京大空襲で焼け野原となった東京。]]
そして1945年3月10日、<big>に起こった '''{{Ruby|東京大空襲</big>(|とうきょう だいくうしゅう、英:Bombing of}}''' Tokyo)では、数万人もの人が なくなりました。
 
その後も、全国各地空襲はおこなわれ、日本全国で20約20~30万人ものひとが空襲で {{Ruby|亡|}}くなりました。(30万人がなくなった、ともいわれる。)
 
{{-}}
==== {{ruby|沖縄|おきなわ}} ====
1945年4月には、アメリカ軍が{{ruby|沖縄|おきなわ}}島に上陸し、3か月ちかくもの地上戦になり、住民も{{Ruby|巻|}}きこま、多くの人が {{Ruby|亡|}}くなりました
 
沖縄では日本軍は、アメリカによる占領を1日でも遅らせるために、ガマとよばれる自然にできた洞窟にこもって、戦闘をつづけました。
 
沖縄の学生は、男子学生は、中学生でも、日本軍として、いっしょに戦いました。
 
女子学生は、{{Ruby|看護師(|かんごし)}}師として、{{ruby|負傷|ふしょう}}兵の{{Ruby|看護|かんご}}などの仕事に当たりました。「ひめゆり部隊」などの女学生による看護部隊がありました。
 
この沖縄での戦闘により、沖縄県民の10万人ちかくが、なくなりました。なお、それまでの沖縄県民の人口は約60万人です。
 
[[File:Himeyuri Students.jpg|200px|thumb|ひめゆり部隊]]
[[File:Himeyuri Monument-2.jpg|200px|thumb|ひめゆり部隊の{{Ruby|慰霊碑|いれいひ}}(ひめゆりの{{ruby|塔|とう}})]]
 
そして、沖縄はアメリカ軍によって{{Ruby|占領|せんりょう}}されました。
 
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==== {{Ruby|原爆|げんばく}}投下と日本の敗戦 ====
ヨーロッパでは、日本と{{Ruby|同盟|どうめい}}を結んでいたドイツとイタリアが、アメリカやイギリスなどの連合国に{{Ruby|反撃|はんげき}}されました。そして、イタリアは1943年に連合国に{{Ruby|降伏|こうふく}}し、ドイツは1945年5月に連合国に降伏しました。
 
こうして、ヨーロッパでの戦争は終わりました。
 
[[ファイル:Nagasakibomb.jpg|thumb|left|170px|長崎に投下された原子爆弾のキノコ雲<br/>1945年8月9日]]
[[ファイル:AtomicEffects-Hiroshima.jpg|thumb|420px|原爆投下後の広島のようす。]]
 
 
そして1945年7月、連合国は、日本に降伏するように{{Ruby|宣言|せんげん}}を出しました。
 
しかし、日本は、降伏の決断をできず、そのまま戦争中の状態つづけました。
 
すると、1945年の8月6日に、アメリカが、広島に原子爆弾(げんし ばくだん)を おとした。広島の街は一瞬で焼きつくされて破壊され、広島で10万人をこえる一般市民がなくなりました。また8月9日には長崎に原子爆弾がおとされ、8万人ほどがなくなりました。
 
(広島・長崎をあわせて、20万人ほどの人がなくなった、と考えられています。30万人という説もある。)
 
:※ 原子爆弾のことを略して「原爆」(げんばく)とも言う。
 
すると、1945年の8月6日に、アメリカが、{{Ruby|広島|ひろしま}}に{{Ruby|原子爆弾|げんしばくだん}}(原爆)を投下しました。広島の街は{{Ruby|一瞬|いっしゅん}}で焼きつくされて{{Ruby|破壊|はかい}}され、広島では10万人以上が{{Ruby|亡|な}}くなりました。また8月9日には長崎にも原子爆弾が投下され、8万人ほどが{{Ruby|亡|な}}くなりました。
 
{{clear}}
8月8日、ソビエトは日ソ中立条約をやぶって{{Ruby|満州|まんしゅう}}{{Ruby|樺太|からふと}}に攻めこみました。
 
こうした中、日本は{{Ruby|降伏|こうふく}}の決断をし、アメリカ・イギリス・ソビエトの代表が決めた日本の降伏の条件である <big>ポツダム{{Ruby|宣言</big>(ポツダム|せんげん、英語: The Potsdam Declaration) }}を受け入れ、1945年の8月14日に日本は降伏しました。
 
そして'''1945年(昭和20年)の8月15日'''には、{{ruby|昭和天皇|しょうわてんのう}}がラジオ放送で昭和天皇が国民に日本の降伏を発表しました。
 
こうして日中戦争や太平洋戦をふくむ第二次世界大戦は、りました。
 
[[File:Imperial Rescript on the Termination of the War.ogg|thumb|終戦を知らせるラジオ放送({{ruby|玉音|ぎょくおん}}放送)の{{Ruby|音源|おんげん}}]]
 
* {{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}{{ruby|台湾|たいわん}}
日本の敗戦により、{{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}{{ruby|台湾|たいわん}}の人々は、日本の支配から解放されたので、よろこんだと言われています。
 
==== 戦争が終わったけれど… ====
* 満州国の{{Ruby|消滅|しょうめつ}}
 
満州は、いったんソ連軍の占領下に入り、そのあと中華民国に渡されました。そして、国家としての「満州国」は、消滅しました。満州の地に取り残された日本人は、戦争がおわっても、日本にもどれなかった人もいました。(中国残留(ちゅうごく ざんりゅう) )
* 満州国の消滅
 
満洲は、いったんソ連軍の占領下に入り、そのあと中華民国に渡されました。そして、国家としての「満州国」は、消滅しました。満州の地に取り残された日本人は、戦争がおわっても、日本にもどれなかった人もいました。(中国残留(ちゅうごく ざんりゅう) )
 
中国大陸で、なんらかの事情で肉親と分かれることになってしまった子供は、中国人の大人に引き取られて育てられました。(中国残留孤児(ちゅうごく ざんりゅう こじ))