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しかし、日本は、降伏の決断をできず、そのまま戦争を続けました。
 
すると、1945年の8月6日に、アメリカが、{{Ruby|広島|ひろしま}}に{{Ruby|原子爆弾|げんしばくだん}}(原爆)を投下しました。広島の街は{{Ruby|一瞬|いっしゅん}}で焼きつくされて{{Ruby|破壊|はかい}}され、広島では10万人以上が{{Ruby|亡|な}}くなりました。また8月9日には長崎にも原子爆弾が投下され、8万人ほどが{{Ruby||な}}くなりました。
 
{{clear}}
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==== 戦争が終わったけれど… ====
* 満州の第2次世界大戦での{{Ruby|消滅犠牲者|ぎせいょうめつ}}
 
: 中国 - 約1000万人
満州は、いったんソ連軍の占領下に入り、そのあと中華民国に渡されました。そして、国家としての「満州国」は、消滅しました。満州の地に取り残された日本人は、戦争がおわっても、日本にもどれなかった人もいました。(中国残留(ちゅうごく ざんりゅう) )
: {{ruby|朝鮮|ちょうせん}} - 約20万人
: ソビエト{{Ruby|連邦|れんぽう}} - 約2000万人
: 日本 - 約310万人、そのうち軍人が約230万人、民間人が約80万人
 
第2次世界大戦の全体の死者は約6000万人にのぼると言われています。
中国大陸で、なんらかの事情で肉親と分かれることになってしまった子供は、中国人の大人に引き取られて育てられました。(中国残留孤児(ちゅうごく ざんりゅう こじ))
 
* {{Ruby|満州国|まんしゅうこく}}の{{Ruby|消滅|しょうめつ}}
* シベリア抑留(よくりゅう)問題
ソ連の占領地では、シベリアに連れていかれた日本人もいました。
{{clear}}
* 各国の第2次世界大戦での犠牲者(ぎせいしゃ)
:(※ 数字は覚えなくもいいだろう。)
 
{{Ruby|満州|まんしゅう}}は、いったんソビエト{{Ruby|連邦|れんぽう}}軍の{{Ruby|占領|せんりょう}}下に入り、そのあと中国にわたされ、国家としての「満州国」は、{{Ruby|消滅|しょうめつ}}しました。満州の地に取り残された日本人は、戦争がおわっても、日本にもどれなかった人もいました(中国残留)。
: 中国 - 約1000万人
: 朝鮮 - 約20万人
: ソ連 - 約2000万人
: 日本 - 約310万人、そのうち軍人が約230万人、民間人が約80万人、
 
* シベリア{{ruby|抑留|よくりゅう}}問題
その他、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、東南アジアなどで犠牲者が多数
ソビエト連邦の占領地では、シベリアに連れていかれた日本人もいました。
 
{{clear}}
第2次世界大戦の全体の死者は6000万人にのぼると言われています。
 
* 原子{{Ruby|弾|ばくだん}}{{ruby|後遺症|こういしょう}}
{{Ruby|広島|ひろしま}}{{ruby|長崎の地域|ながさき}}では、なんとか原子{{Ruby|弾|ばくだん}}投下生きのびても{{Ruby|放射線|ほうしゃせん}}による{{Ruby|被害|ひがい}}によって、後遺症に苦しむ人がてきました。
 
{{ruby|後遺症|こういしょう}}によってぬ人も、たくさん多数てきました。
 
== アメリカ占領下戦後の日本 ==
=== あたらしい国づくりアメリカ統治下の日本 ===
==== あたらしい国づくり ====
1945年8月に日本が降伏し、日本は、アメリカ軍を中心とした連合国軍に占領されました。
1945年8月に日本が{{Ruby|降伏|こうふく}}し、日本は、アメリカ軍を中心とした連合国軍に統治されました。
 
そして連合国軍は、日本政府に民主化のための指令を出し、日本政府は民主化のための{{Ruby|改革|かいかく}}を次々と実行していきました
 
また、日本軍は解散させられました。
 
1945年の終戦によって{{Ruby|憲法|けんぽう}}を改正することが決まったのですが、内容を考えるのに時間がかかり、すぐには作れませんでした。
 
また、農業の改革では、それまで大きな農地をもっていて人を{{Ruby|雇|やと}}っていた地主からは、政府はいったん農地をとりあげ、それらを実際にその農地を耕していた人たちに安い{{Ruby|値段|ねだん}]であたえました(農地改革)。
1945年の終戦によって憲法をつくり変えることが決まったのですが、内容を考えるのに時間が掛かるので、すぐには作れませんでした。
 
また、1945年の選挙制度の改革では、女性にも選挙{{Ruby|権|けん}}があたえられました。また、選挙に投票できる年{{Ruby|齢|れい}}が男女とも20才以上になりました。なお、現在は2015年の改正により男女とも18才以上となっています。
憲法の改正よりも先に、選挙法の改正が行われました。
 
1946年4月に、{{Ruby|衆議院|しゅうぎいん}}選挙が行われ、女性も選挙に投票と{{Ruby|立候補|りっこうほ}}ができるようになりました。そして、数十人ほどの女性議員が当選しました。
民主化のための改革では、選挙制度の改革や、農業の制度の改革がありました。
 
そして1946({{ruby|昭和|しょうわ}}21年11月3日には '''{{Ruby|日本国憲法|にほんこくけんぽう}}''' が制定され、1947年の5月3日に{{ruby|公布|こうふ}}された。日本国憲法では、これまで制限されていた{{Ruby|言論|げんろん}}の自由が{{Ruby|保障|ほしょう}}され、また、男女平等が原則になりました。
1945年の選挙制度の改革では、女性にも選挙権が与えられました。また、選挙に投票できる年齢が男女とも20歳以上になりました。
 
==== いろいろな{{Ruby|改革|かいかく}} ====
また、戦時中には{{Ruby|政党|せいとう}}を結成することが禁止・制限されていましたが、戦後になって、政治家は政党を結成できるようになりました。
 
そのほか、いろいろな{{Ruby|改革|かいかく}}により、{{Ruby|経済|けいざい}}では、労働者は 労働に関する{{Ruby|交渉|こうしょう}}を行う 労働組合 を結成できるようになりました。
また農業の改革では、それまで大きな農地をもっていて他人を働かせてた地主からは、政府はいったん農地をとりあげ、それらを実際にその農地を耕していた人たちに安い値段で与えました。(農地改革)
 
このほか、それまでの大{{ruby|企業|きぎょう}}が、{{Ruby|独占|どくせん}}的であるとみなされ、複数の{{ruby|企業|きぎょう}}として{{Ruby|分割|ぶんかつ}}されました。
 
=== 戦後の{{Ruby|暮|く}}らし ===
そして、1946年4月に、衆議院選挙が行われ、女性も選挙に投票と立候補ができるようになりました。そして、数十人ほどの女性議員が当選しました。
 
 
そして1946年(昭和21年)11月には<big>日本国憲法</big>(にほんこく けんぽう)が制定され、翌年の5月3日に交付された。日本国憲法では、言論の自由が保障され、また、男女平等が原則になりました。
 
=== いろいろな改革 ===
また、戦時中には政党をつくることが禁止・制限されていましたが、戦後になって、ふたたび、政治家は政党をつくれるようになりました。
 
学校での教育内容も、平和や民主主義を大切にする内容にされました。でも、教科書をあたらしく作るのが間に合わなかったので、戦前の教科書のうちの軍国的な記述を すみ で、黒く塗り(ぬり)隠した(かくした)教科書を、しばらくは使いました。(「すみぬり教科書」)
 
 
また、民主化とはあまり関係のないことですが、学校での教育期間の制度が、小学校を6年間、中学校を3年間、高校を3年間、など現在に近い制度になりました。
 
戦後の義務教育は、小学校6年間と中学校3年間の合計9年間です。(なお、戦前の義務教育は6年間でした。)
 
 
また、それまで学校では男女別々の教室で学んでいましたが、戦後は、男女とも同じ教室で学ぶようになりました。
 
また、民主化とは あまり関係ないですが、学校給食の制度が始まりました。
 
 
 
そのほか、いろいろな改革により、経済(けいざい)では、労働者は労働組合を結成できるようになりました。
 
このほか、それまでの大企業が、独占的であるとみなされ、いくつかの複数の企業として分割(ぶんかつ)されました。
 
 
==== 戦後のくらし ====
* 買い物
当時、食料は国から配給されていましたが、量が足りず、ほとんどの人は、食べものに{{Ruby||こま}}っていまし。なので、都市の人は、鉄道にのって、遠くの農家などに、食べ物を買いにいきました。
 
また、違法な「やみ市」(やみいち)が出来て、公定価格の数十倍もの値段で食料や日用品などを売っていましたが、それでも買う人がたくさん、いました。
 
また、違法な「やみ{{Ruby|市|かかく}}」と{{Ruby|呼|よ}}ばれるふつうの価格の数十倍もの{{Ruby|値段|ねだん}}で食料や日用品などを売る{{Ruby|市|いち}}が開かれましたが、それでも買う人がたくさん、いました。
やけあと などの野原で、野菜をつくる人などもいました。
 
焼けあとなどの野原で、野菜をつくる人などもいました。
 
* 海外からの引き上げ
日本兵として外国に行ってた人や、戦時中に仕事などとして外国に行ってた人たちが、しだいに日本に引き上げてきました。
 
 
=== 日本国{{ruby|憲法|けんぽう}} ===
[[File:あたらしい憲法の話 三原則.png|thumb|当時の文部省の社会科教科書『あたらしい憲法のはなし』での日本国憲法の3原則を表したし絵。]]
[[File:あたらしい憲法のはなし 戦争放棄.png|thumb|当時の文部省の社会科教科書『あたらしい憲法のはなし』での戦争放棄の原則を表したし絵。]]
 
この1946年11月3日に公布されたしい憲法である'''日本国憲法'''では、 
 
:国民が主権者とされ (<big>国民主権</big>(こくみんしゅけん) )
:{{ruby|主権者|しゅけんしゃ}}は国民であること ('''国民主権''')、
:軍隊をもたずに永久に戦争をしないこと (<big>戦争放棄</big>(せんそう ほうき) )、
:軍隊をもたず永久に戦争をしないこと ('''平和主義・戦争{{Ruby|放棄|ほうき}}''')、
:すべての日本国民は人間としての基本的な権利をもっている (<big>基本的人権(きほんてきじんけん)の尊重(そんちょう)</big>)、 
:すべての日本国民は人間としての基本的な{{Ruby|権利|けんり}}をもっている ('''基本的{{Ruby|人権|じんけん}}の{{Ruby|尊重|そんちょう}}''')、 
の3つの原則が決められました。
 
ほどの3う3つの原則のことを、「日本国憲法の三大原則」といいが決められした
 
なお、{{Ruby|天皇につい|は、天皇んのう}}は日本のまとまりの{{Ruby|象徴|しょうちょう}}とされました。
 
{{コラム|警察予備隊|1950年、日本では、軍隊の代わりに {{Ruby|警察予備隊|けいさつよびたい}} がつくられました。これが、のちの自衛隊のもとになります。}}
このほか、男女平等になったので、家庭の制度では、父親と長男を特別に尊重する制度が、なくなりました。
 
都道府県の知事も、(日本人の)住民が直接に選挙で選ぶ制度になりました。
 
=== 戦後の学校 ===
* 青空教室
{{Ruby|空襲|くうしゅう}}などで、学校の校舎(こうしゃ)が焼けてしまったので、終戦後には、授業を校庭などで行うことが多かっくなりました。このような、戦後の外での授業のことを '''青空教室'''(あおぞら きょうしつ) といいます
 
学校での教育内容も、平和や民主主義を大切にする内容にされました。しかし、教科書をあたらしく作るのが間に合わなかったので、戦前の教科書のうちの軍国的な記述をすみで黒くぬりつぶした教科書をしばらく使いました(「すみぬり教科書」)。
* すみぬり教科書
戦後になり、戦前の教科書の記述の一部は軍国主義的であるとして、戦後の教育には不適切だと考えられたので、新しい教科書ができるまでの間、それまでの教科書の記述の一部に、墨ぬりが行われた。これを '''すみぬり教科書'''(すみぬりきょうかしょ) という。
 
学校での教育期間の制度が、小学校6年間、中学校3年間、高校3年間など現在に近い制度になりました。戦後の義務教育は、小学校6年間と中学校3年間の合計9年間です。
{{-}}
== 戦後の国際社会 ==
第二次世界大戦後、戦前まで国際社会の平和をめざすための話し合いの場所であった国際連盟(こくさいれんめい)が、戦後は、戦時中の連合国を中心とする<big>国際連合</big>(こくさいれんごう)として作りかえられました。(日本では、国際連合のことを「国連」(こくれん)と略すことも多い。)
 
また、それまで学校では男女別々の教室で学んでいましたが、戦後は、男女とも同じ教室で学ぶようになりました。
第二次大戦後、植民地とされていたアジアやアフリカで、多くの国が独立しました。
 
そして、学校給食の制度が始まりました。
第二次大戦後は、国際社会のありかた などをめぐって、ソビエト連邦(そびえとれんぽう)とアメリカが、激しく(はげしく)対立しました。
 
{{-}}
そして世界各国は、アメリカを中心とする陣営(じんえい)と、ソ連を中心とする陣営(じんえい)とに、わかれました。
 
=== 戦後の国際社会 ===
第二次世界大戦後、戦前まで国際社会の平和をめざすための話し合いの場所であった{{Ruby|国際連盟|こくさいれんめい}}が、戦後は、戦時中の連合国を中心とする '''{{Ruby|国際連合|こくさいれんごう}}'''(国連) として作りかえられました。
 
第二次世界大戦後、日本の支配から独立し植民地とされていた朝鮮アジアやアフリカ朝鮮半島多く南北で、北はソビエト連邦占領し、南はアメリカが占領独立しました。
 
第二次世界大戦後は、国際社会のありかた などをめぐって、ソビエト{{Ruby|連邦|れんぽう}}とアメリカが{{Ruby|激|はげ}}しく対立しました。
朝鮮半島の北には「朝鮮民主主義人民共和国」(いわゆる、北朝鮮)という国がつくられ、南には大韓民国(いわゆる、 韓国)という国がつくられ、こうして朝鮮半島では2つの国家が出きました。
 
そして朝鮮半島で世界各国1950年に北朝鮮アメリカを中心韓国とのあする{{Ruby|陣営|じんえだで}}と<big>朝鮮戦争</big>(ちょうせソ連を中心とする{{ruby|陣営|じ せんそうえい}}とに英:Korean War) が起きわかれました。
 
第二次世界大戦後、日本の支配から独立していた{{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}では、朝鮮半島の南北で、北はソビエト連邦が{{ruby|占領|せんりょう}}し、南はアメリカが占領しました。
この戦争のとき、アメリカ軍を主力とする国連軍(こくれんぐん)が、韓国をたすけて、北朝鮮軍と戦闘しました。
 
朝鮮半島の北には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)がつくられ、南には{{Ruby|大韓民国|だいかんみんこく}}(韓国)がつくられ、2つの国家に分かれました。
ソ連は、北朝鮮を、援助(えんじょ)しました。
 
そして朝鮮半島では1950年に、北朝鮮と韓国との間で、'''朝鮮戦争''' が起きました。
中国は、北朝鮮をたすけて、中国は「義勇軍」(ぎゆうぐん)という形式で、正体は中国軍である部隊を送って、中国軍と国連軍とが戦闘した。
 
この戦争のとき、アメリカ軍を主力とする国連軍が、韓国を{{Ruby|援助|えんじょ}}し、ソ連は、北朝鮮を援助しました。この戦争は現在まで続いていますが、現在は休戦中です。
 
{{コラム|警察予備隊|
[[Image:Military exercise of NPR1.JPG|thumb|300px|警察予備隊でのバズーカの訓練]]
朝鮮戦争により、アメリカ軍が苦しくなると、アメリカは、日本を自分たちの陣営にくわえようとしたので、日本の占領政策を変えました。
 
アメリカは日本に軍隊をつくらせようとしましたが、日本国憲法のしばりがあって軍隊をつくれないので、かわりに「警察予備隊」(けいさつ よびたい)という組織を日本につくらせました。
 
この警察予備隊は、のちの自衛隊のもとになった組織です。
}}
 
[[ファイル:Yoshida signs San Francisco Peace Treaty.jpg|thumb|300px|サンフランシスコ平和条約での調印]]
 
 
{{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}戦争によるアメリカの苦戦によって、アメリカは日本を西側の{{Ruby|陣営|じんえい}}に加えようと考えました。そのためアメリカは、日本にあるアメリカ軍基地の{{Ruby|存続|そんぞく}}を条件として、日本の独立を早めようとしました。
 
いっぽう、1951年((昭和26)、国際社会では、日本の国際社会への復帰についての講和会議が、アメリカのサンフランシスコで開かれて、日本も講和会議に出席た。日本は、アメリカ・イギリスなどの48か国と平和条約(へいわじょうやく)を結びました。これを '''サンフランシスコ平和条約''' といいます
 
 
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; 平和条約の主な内容
 
:* 日本は、{{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}の独立を{{Ruby||みと}}める。
:* {{Ruby|台湾|たいわん}}{{Ruby|千島列島(|ちしまれっとう)}}列島{{Ruby|樺太|からふと}}の南半分を{{Ruby|放棄|ほうき}}する。
:* {{Ruby|沖縄|おきなわ}}{{Ruby|奄美諸島|あまみしょとう}}{{Ruby|小笠原諸島|おがさわらしょとう}}については、アメリカが治めることに同意する。 ※現在はアメリカの統治は{{Ruby|終了|しゅうりょう}}しています
 
::(※ wikibooksでは小学生むけに、条約の一部をやさしく書きかえています。)
 
</div>
 
また、サンフランシスコでの平和条約といっしょに、日本とアメリカとのあいだで、日本国内のアメリカ軍基地に、引き続きアメリカ軍がとどまるための条約である {{Ruby|日米安全保障条約|にちべいあんぜんほしょうじょうやく}} が結ばれました。なお、略して「{{Ruby|安保|あんぽ}}」などということもあります。
( 中国(中華民国・中華人民共和国)は、この会議にまねかれませんでした。なので、1951年では、まだ、日本と中国とのあいだの国交は回復していません。)
 
また、サンフランシスコでの平和条約といっしょに、日本国内のアメリカ軍基地に、ひきつづきアメリカ軍がとどまるための条約である <big>日米安全保障条約</big>(にちべい あんぜん ほしょう じょうやく) が日本とアメリカとのあいだで結ばれました。(略して「安保」(あんぽ)とか、「安保条約」(あんぽじょうやく)とか、「日米安保」(にちべいあんぽ)などと言う場合もあります。)
 
なお、{{ruby|朝鮮|ちょうせん}}戦争のころ、{{Ruby|経済|けいざい}}的には、日本はアメリカ軍から大量の物資の注文をうけたので、日本は好景気になり、日本の産業が復活するきっかけになった。
 
なお、朝鮮戦争のころ、経済的には、日本はアメリカ軍から大量の物資の注文をうけたので、日本は好景気になり、日本の産業が復活するきっかけになった。
 
そして1952年には、日本は独立し、{{Ruby|主権|しゅけん}}を回復しました。
 
しかし{{Ruby|沖縄|おきなわ}}は, 1972年まで, ひきつづきアメリカの統治下におかれることになりました
 
* 国際連合への日本の{{Ruby|加盟|かめい}}
そして翌年の1952年には、日本は独立を回復し、主権を回復した。
日本は、独立後も、ソビエト{{Ruby|連邦|れんぽう}}が{{Ruby|加盟|かめい}}に反対していたため、しばらくは国際連合に加盟できませんでした。
 
しかし,1956年に、日本とソビエト連邦との国交が回復したこともあり、ソビエト連邦も日本の国連加盟に反対をしなくなり、1956年に日本は国際連合の加入を{{Ruby|認|みと}}められました。
しかし沖縄は、ひきつづきアメリカの統治下におかれることになった。
 
=== 戦後の{{Ruby|発展|はってん}} ===
なお、ソ連とは、サンフランシスコの平和条約では、講和していない。ソ連は日本の北方領土の国後島などを不法に占拠しているので、講和を見送ったのです。(※ ソ連と日本の国交回復は、1956年に行われます。)
第二次世界大戦のあと、日本の産業は、工業を中心に成長していき、「もはや戦後ではない」ともいわれました。
 
日本経済は復興していき、工業は戦前の水準にまで、もどりました。
 
1950年代のなかごろから日本では、鉄鋼や自動車などの重化学工業が発達していきました。
* 国際連合への日本の加盟
日本は、独立後も、しばらくは国際連合に加盟できなかった。なぜなら、ソ連が日本の加盟に反対していたからである。
 
また、主なエネルギー{{Ruby|源|げん}}が石炭から石油に変わりました。
:※ 小学校の歴史の範囲外ですが、国際連合に加盟したい場合の決まり事として、アメリカ・ソ連・中華人民共和国・イギリス・フランスの5つの国のうち、どれか1か国からでも、加盟を反対されると、加盟できないという決まりがあるのです。
:たぶん、小学校6年社会科の後半で習う「公民」(こうみん)の分野で、国際連合の決まりごとについて、習います。
 
その他、プラスチック製品などの石油化学製品もつくられるようになっていったため、石油化学工場も増えていきました。
しかし,1956年に、日本とソ連との国交が回復したこともあり、ソ連も日本の国連加盟に反対をしなくなり、1956年に日本は国際連合の加入を認められた。
また、1950年代には「三種の神器」と{{Ruby|呼|よ}}ばれた 白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫などが{{Ruby|普及|ふきゅう}}していきました。
 
1960年代には、「3C」と呼ばれるクーラー・カラーテレビ・カラーテレビなどが普及していきました。
(※ ちなみに、スイスは2002年まで国際連合には加盟していない。)
 
この1950年代ごろから1970年代ごろまでの{{Ruby|経済|けいざい}}成長を 高度経済成長 といいます。
== 戦後の復興 ==
第二次世界大戦のあと、日本の産業は、工業を中心に成長してきた。
 
朝鮮戦争による特需による好景気もあり、日本経済は復興していき、工業は戦前の水準にまで、もどった。
 
=== 戦後の日本経済の発展 ===
1950年代のなかごろから日本では、鉄鋼や自動車などの重化学工業が発達していった。
 
また、エネルギー源が石炭から石油に変わった。
 
その他、プラスチック製品などの石油化学製品もつくられるようになっていった。
 
 
このため、石油化学工場も、瀬戸内海の海岸部などに、ふえていった。
 
1960年代には、白黒テレビや電気式洗濯機、電気式の冷蔵庫などの製品も普及していった。(当時は、この3つの製品が「三種の神器」と呼ばれた。) しかも、それらの工業製品を、日本国内で生産できた。
 
また、新幹線(しんかんせん)や高速道路も建設された。
 
1960年代になると、クーラーやカラーテレビも、普及してきました。
 
また、自動車も、一般の家庭にも、1960年代の後半ごろから普及してきました。
 
{{clear}}
[[ファイル:BillyMills Crossing Finish Line 1964Olympics.jpg|thumb|250px|東京オリンピック。10,000メートル000m走{{Ruby|優勝|ゆうしょう}}したミルズ(アメリカの選手]]
* 東京オリンピックと万国博覧会
アジアで最初のオリンピック(Olympic)が、1964年に東京で開かれました。(東京オリンピック)
 
この東京オリンピックのころ、{{Ruby|東海道新幹線(|とうかいどう しんかんせん)}}新幹線が開通しました。
 
* 農村から都市への移住
 
地方の農村で生まれ育った{{Ruby|若者|わかもの}}が、仕事などをもとめて、都市部に移住するようになりました。
 
地方からやってきた若者は、男の若者なら、おもに都会の工場などで働くことが、多くなていましです
 
当時は、中学校高校を卒業したら、すぐに{{Ruby|就職|しゅうしょく}}して働くのが普通ふつうでした。
 
やがて、{{Ruby|東京|とうきょう}}や{{Ruby|大阪|おおさか}}の都市部は、人が多すぎて住む場所が足りなくなり、その周辺の地域へも、農村から来た人たちが移住するようになりました。
 
やがて、東京や大坂の都市部は、人が多すぎて住む場所が足りなくなり、周辺の地域へも、農村から来た人たちが移住するようになりました。
 
 
* 公害や自然破壊
いっぽう、この1950〜601950~1960年代のころから、日本では、公害が、めだ目立ってきまそた。
 
都市部を中心として、大気や水がよごれてきて{{Ruby|被害|ひがい}}をうけた人もでてきました。
 
また、各地で、自然{{Ruby|破壊|はかい}}も行われました。
三重県の四日市(よっかいち)市では、工場のけむりが多すぎて、すでに1965年には、ぜんそく などの被害が出てきた。
 
このため、{{Ruby|環境|かんきょう}}の{{ruby|改善|かいぜん}}や自然保護などを求める運動が、起こりました。
また、各地で、自然破壊も、された。
 
 
このため、環境の改善や自然保護などを求める運動が、起こるようになった。
 
{{clear}}
=== 日本の外交 ===
* {{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}半島
日本は{{Ruby|韓国|かんこく}}と、1965年に国交を回復しました。しかし、韓国は{{Ruby|島根|しまね}}県にある{{Ruby|竹島|たけしま}}を不法に{{Ruby|占拠|せんきょ}}しています
 
{{Ruby|北朝鮮|きたちょうせん}}とは、2002年に日本と北朝鮮の{{Ruby|首脳|しゅのう}}どうしで会議(日朝首脳会談)をししたが、国交回復ありしていません。
 
なお、この会議で、北朝鮮の首脳は、北朝鮮が日本人を{{ruby|拉致|らち}}(むりやり連れていくこと)したことを公式に{{Ruby|認|みと}}めました。
2002年に日本と北朝鮮の首脳どうしで会議(「日朝首脳会談」)をしましたが、国交回復はしていません。
 
* アメリカ
なお、この会議で、北朝鮮の首脳は、北朝鮮が日本人を拉致(らち)したことを公式に認めました。
1972年に{{ruby|沖縄|おきなわ}}はアメリカから日本に{{Ruby|返還|へんかん}}されました。そして沖縄は、日本の領土になりました。沖縄には今も、アメリカ軍の基地があります。
 
拉致(らち)とは、むりやり連れていってしまう事です。
 
* ロシア(ソビエト{{Ruby|連邦|れんぽう}})
ロシアとは、1956年に国交を回復しました。しかし、ロシアは{{Ruby|択捉|えとろふ}}島, {{Ruby|国後|くなしり}}島, {{Ruby|色丹|しこたん}}島, {{ruby|歯舞|はぼまい}}群島からなる北方領土を不法に占拠しています。
 
* アメリカ
1972年に沖縄はアメリカから日本に返還されました。そして沖縄は、日本の領土になりました。沖縄には今も、アメリカ軍基地があります。
 
* 中国
1972年に、日本と中国との国交が正常化しました。1978年には、日中平和友好条約を結びました。しかし、韓国は1954年から{{Ruby|沖縄|おきなわ}}県にある{{Ruby|尖閣諸島|せんかくしょとう}}を不法に占拠しています。
 
* ロシア
ロシアとは、ソ連時代の1956年に国交を回復しました。
 
== おわりに ==
しかし、北方領土の問題は、まだ残っています。
日本は戦後に{{Ruby|奇跡的|きせきてき}}な復興をとげ、非常に平和で豊かな国となりました。
 
しかし、日本や世界には{{Ruby|環境|かんきょう}}問題、{{Ruby|人権|じんけん}}問題などまだまだ課題が山積みになっています。
北方領土問題の場所は、歯舞(はぼまい)群島、色丹(しこたん)島、国後(くなしり)島、択捉(えとろふ)島です。
 
このような課題の解決をめざし、日本や世界は、また一歩 歩んでいかなければなりません。
 
さて、日本や世界の歴史は中学校や高校でまだまだくわしく学びますが、小学校でならう歴史はここまでです。
* 中国
1972年に、日本と中国との国交が正常化しました。
 
歴史は、昔のことを覚えるだけではなく、それを通して現代について考えるものでもあります。
1978年には、日中平和友好条約を結びました。
 
{{Ruby|下巻|げかん}}を読んで、日本の政治のしくみや世界とのかかわりについて学びましょう(下巻は[[小学校社会/6学年/下巻|こちら]]です)。
== おわりに ==
日本の歴史はまだまだ詳しく学びますが、小学校でならう歴史はここまでです。
 
歴史は、昔のことを覚えるだけではなく、それを通して現代について考えるものでもあります。
下巻を読んで、いまの時代の政治のしくみを勉強してください(『[[小学校社会 6学年 下巻]]』)。