「小学校社会/6学年/歴史編」の版間の差分
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この土器は、食べ物を{{ruby|煮炊|にた}}きしたりするための、今でいう なべ のような物です。
今から約1万2000年前から約3,000年前までの間の時代のことを、
なお、これらの土器は、肉を煮炊きしたり、木の実や山菜のアク(苦味)をぬくために煮炊きしたのだろうと考えられています。
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'''~米づくりがはじまる~'''
[[Image:YayoiJar.JPG|right|250px|thumb|{{ruby|弥生|やよい}}
いまから2400年ぐらい前のころ、ユーラシア大陸や{{ruby|朝鮮|ちょうせん}}半島あたりの人々から、米による{{ruby|稲作|いなさく}}が、日本に伝わりました。
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この時代の農具の多くは、まだ、木製です。ただし、米作りとともに鉄器の技術も日本に伝わっているので、一部では鉄を用いた農具も見つかっています。
{{ruby|穂|ほ}}から米をとる
*{{ruby|弥生|やよい}}
また、このころ、土器は、{{ruby|縄文|じょうもん}}土器よりも うすくて かたい '''{{ruby|弥生|やよい}}土器''' をつくるようになりました。「{{ruby|弥生|やよい}}」とは、学者が発見した場所が、{{ruby|東京|とうきょう}}の弥生町(現在の{{ruby|中野|なかの}}区)だったので、弥生の土器という意味で、「弥生土器」とよばれています。
縄文土器と弥生土器の形のちがいについては、弥生時代のころには、土器をつくる技術が進歩したので、土器の形が かわったのだろう、と考えられています。
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* 古墳の{{ruby|副葬|ふくそう}}品
[[File:KofunSoldier.jpg|thumb|left|140px|はにわ。{{ruby|武装|ぶそう}}男子立像({{ruby|群馬|ぐんま}}県{{ruby|太田|おおた}}市出土)
[[画像:HaniwaHorse.JPG|thumb|190px|はにわ。(馬形{{ruby|埴輪|はにわ}}
古墳からは、鏡や玉、{{ruby|剣|つるぎ}}などの副葬品が発見されている。ほかにも、'''はにわ''' という、土を焼いて作られた人型や馬型などの置き物が発見されています。
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この大和政権の政府を 大和{{ruby|朝廷|ちょうてい}} と言い、その最高{{ruby|権力|けんりょく}}者を {{ruby|大王|おおきみ}} といいます。
[[File:Inariyama sword.JPG|thumb|350px|right|真ん中の、{{ruby|縦|たて}}に長いものが、{{ruby|発掘|はっくつ}}された{{ruby|鉄剣|てっけん}}。
{{ruby|埼玉|さいたま}}県の{{ruby|稲荷山|いなりやま}}古墳から見つかった{{ruby|鉄剣|てっけん}}には、「ワカタケル大王」という名が{{ruby|刻|きざ}}まれた文が発見されました。この文から、この地方の王は、ワカタケル大王に使えていたことがわかります。
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役人の心がまえを記したものです。豪族などに対して、役人としての心がまえを述べたものでしょう。
{| style="border:1px solid #777; background-color:#ffffdd; width:100%; margin:0.25em 0"
| style="padding:0.25em 0.5em" |<span style="font-size:117%; color: #000">'''十七条の憲法(要約)'''</span>:
1条 争いをやめ、なかよくしなさい。
2条 仏教を保護しなさい。
3条 {{Ruby|天皇|てんのう}}の命令には
12条 農民などの{{ruby|民|たみ}}から、かってに税やみつぎ物をとっては、いけません。▼
17条 重要なことを決めるときには、話し合いで決めなさい。
|}
聖徳太子らの行った重要な{{ruby|政策|せいさく}}には、外交政策もあります。ユーラシア大陸の一部を支配していた '''{{ruby|隋|ずい}}''' という{{ruby|帝国|ていこく}}との外交です。
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外交の結果、日本は隋と国交を結びました。また、隋の文化や制度は日本よりも進んでいたので、日本は多くの文化や制度を
==== そのほかの{{ruby|改革|かいかく}} ====
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[[File:Shakyamuni Triad Horyuji2.JPG|thumb|法隆寺の{{ruby|釈迦三尊像|しゃかさんぞんぞう}}(金堂)]]
聖徳太子は、607年に, 現在の{{ruby|奈良|なら}}県に{{Ruby|法隆寺|ほうりゅうじ}}を建てさせました
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古事記には、神話の時代から{{Ruby|推古|すいこ}}天皇にいたるまでの出来事が書かれています。
また、日本の歴史書である『{{ruby|日本書紀|にほんしょき}}』が720年に完成しま
{{clear}}
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朝廷からは、おそらく行基は、民衆をそそのかす{{Ruby|危険|きけん}}人物だろう、と思われていたのです。
大仏を作るのは、とても多くの労働力を必要とするので、朝廷には、人々の支持が必要でした。このため、民衆にしたわれていた僧の行基の活動を{{Ruby|認|みと}}めま
{{-}}
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{{Ruby|東大寺|とうだいじ}}にある {{Ruby|正倉院|しょうそういん}} には、{{ruby|奈良|なら}}時代の美術品や、{{Ruby|聖武天皇|しょうむてんのう}}が愛用した道具などが{{Ruby|収|おさ}}められています。
<gallery widths="250px">
Image:RED LACQUERED CABINET Shosoin N2.JPG|{{Ruby|赤漆文欟木御厨子|せきしつぶんかんぼくのおんずし}}
Image:8Lobed Mirror Inlay Shosoin.jpg|
Image:Silver Backed Bronze Mirror Shosoin.JPG|{{Ruby|金銀山水八卦背八角鏡|きんぎんさんすいはっけはいのはっかくきょう}}
Image:LADIES UNDER TREES SCREEN4th Shosoin.JPG|{{Ruby|鳥毛立女屏風|とりげりつじょのびょうぶ}}第4(部分)
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:{{Ruby|桓武天皇|かんむてんのう}}は794年に都を{{ruby|京都|きょうと}}の '''{{ruby|平安京|へいあんきょう}}''' にうつしました。
[[画像:HeiankyouMapJapanese.svg|
奈良から平安京への寺院の移転は禁止されました。
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藤原氏は、天皇が{{Ruby|幼|おさな}}いときは、藤原氏の者が{{Ruby|摂政|せっしょう}}となり政治の{{ruby|実権|じっけん}}をにぎり、天皇が成人しても藤原氏は{{Ruby|関白|かんぱく}}という地位になり実権をにぎり、政治を行いつづける、という手法で権力を強めました。
<!-- 日本文教出版の教科書で、藤原の一族について「関白」という言葉が紹介されている。-->
道長は、次の歌をよみました。
:<big>「この世をば わが世とぞ思{{ruby|ふ|(う)}} {{ruby|望月|もちづき}}の 欠けたることも なしと思{{Ruby|へ|(え)}}ば」</big>
(この世は、望月(満月)のように何も欠けているものがなく、{{ruby|私|わたし}}(道長)のためにあるようなものだ。)
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[[File:十二単です.JPG|thumb|150px|left|十二単、京都{{Ruby|御所|ごしょ}}にて]]
{{Ruby|平安|へいあん}}時代には、貴族の衣服
男の{{ruby|貴族|きぞく}}の服は {{ruby|束帯|そくたい}} になり、女の貴族の服は {{ruby|十二単|じゅうにひとえ}} となりました。
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文学の物語では『{{ruby|源氏|げんじ}}物語』という{{ruby|創作|そうさく}}の物語が、貴族である{{ruby|紫式部|むらさきしきぶ}}によって書かれました。貴族の「{{ruby|光源氏|ひかるげんじ}}」という人物を主人公にして貴族の{{ruby|恋愛|れんあい}}などを書いています。
▲「源氏物語{{ruby|絵巻|えまき}}」も{{ruby|描|か}}かれました。
{{ruby|随|ずい}}筆では、貴族である{{ruby|清少納言|せいしょうなごん}}が『枕草子』を記しました。清少納言が 日常生活や自然を観察して、感想を述べたものです。
絵画には、日本の風景などを書いた {{ruby|大和絵|やまとえ}} が
<!-- 「大和絵」は、教育出版と光村図書が紹介している -->
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{{-}}
=== 室町文化 ===
* {{Ruby|書院造
[[File:Takagike Kashihara JPN 001.jpg|thumb|400px|書院造]]
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しかし、室町時代になり、{{ruby|雪舟|せっしゅう}}は、水墨画と仏教を分けて考え、仏教にとらわれずに、自然の風景などの水墨画をえがきました。
{{コラム|雪舟|雪舟は、{{ruby|幼|おさな}}いとき、今の{{ruby|岡山|おかやま}}県の{{ruby|興福寺|こうふくじ}}に{{ruby|預|あず}}けられていました。しかし雪舟はそこで{{ruby|修行|しゅぎょう}}をせず絵ばかりかいていました。そこでおこった{{ruby|和尚|おしょう}}は雪舟を柱にしばりつけました。しばらくして和尚が様子を見に行くと、雪舟の足元にねずみがいたので、追いはらおうとしましたが、ねずみは動きません。雪舟が、なみだでかいたねずみだったのです。和尚は、それ{{ruby|以降|いこう}}、絵をかくのを{{Ruby|認|みと}}めました。}}
[[File:Sesshu - View of Ama-no-Hashidate.jpg|thumb|600px|雪舟の水墨画、『{{ruby|天橋立図|あまのはしだてず}}』]]
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==== 本能寺の変 ====
[[File:Sengoku period 1582.png|thumb|400px|1582年の領地の様子]]
1582年,{{ruby|中国|ちゅうごく}}地方へと勢力をひろめるため,{{ruby|織田|おだ}}軍は{{ruby|豊臣秀吉|とよとみひでよし}}などに命じて,中国地方の大名の{{ruby|毛利|もうり}}と戦争をしていました。信長はこれを{{ruby|支援|しえん}}するため中国地方に向かうとちゅう,信長は{{ruby|京都|きょうと}}の{{ruby|本能寺|ほんのうじ}}にとまっていました。
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そして記録によって,田畑の面積や,田の{{Ruby|収穫高|しゅうかくだか}}である'''{{ruby|石高|こくだか}}''',その田畑を耕す農民の名前などが記録される {{Ruby|検地帳|けんちちょう}} が作られました。
検地帳によって耕作者がはっきりしたので,農民は田畑を持つ{{Ruby|権利|けんり}}を{{Ruby|認|みと}}められましたが,同時にねんぐを{{Ruby|納|おさ}}める義務を負うことになり,土地を勝手に はなれることができなくなりました。また,かつての{{Ruby|荘園|しょうえん}}のように土地の権利がはっきりしない土地がなくな
* '''{{Ruby|刀狩|かたながり}}'''
1588年に、豊臣秀吉は'''{{Ruby|刀狩令|かたながりれい}}'''という、農民から刀や{{Ruby|鉄砲|てっぽう}}などの武器を{{Ruby|没収|ぼっしゅう}}する命令を出しました。
表向きの理由は,{{Ruby|京都|きょうと}}の{{Ruby|方広寺|ほうこうじ}}に大仏を作るので材料の鉄が必要であるためですが、秀吉の実際のねらいは,{{Ruby|一揆|いっき}}を防ぐため
<div style="border:1px solid #000000;">
:{{Ruby|百姓|ひゃくしょう}}が刀・やり・鉄砲などの武器をもつことを禁止する。ねんぐを出ししぶり,一揆をおこすものは,{{Ruby|厳|きび}}しくばっする。
:とりあげた刀は,大仏をつくるためのくぎなどにするから,百姓は仏のめぐみで,この世だけでなく,あの世でも救われるだろう。
</div>
※「百姓」とは,農民や漁民などのことです。
==== 朝鮮出兵 ====
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* {{Ruby|関ヶ原|せきがはら}}の戦い
[[File:Sekigaharascreen.jpg|thumb|500px|関ヶ原の戦い<br>絵の右側にいるのが
1600年、{{Ruby|関ヶ原|せきがはら}}(今の{{Ruby|岐阜|ぎふ}}県)で、徳川家康が率いる軍と,豊臣秀吉が率いる軍が戦いました。これを '''関ヶ原の戦い''' といいます。結果は,徳川家康が率いる軍の勝利でした。
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食べ物のパン({{Ruby|pão|パオ}})やカステラ({{Ruby|pão de castela|パオ・デ・カステラ}}),カボチャ,また,衣服のカッパやボタン,カードのカルタ({{Ruby|cartas|カールタス}}),食べ物のテンプラも,日本に伝わりました(※外国語での表記は参考です)。
コップもポルトガル語の {{Ruby|copo|コッポ}} が由来です。お{{Ruby|菓子|かし}}の{{Ruby|金平糖|こんぺいとう}}の語源も,ポルトガル語の{{confeito|コンフェイト
<!-- ※ 日本文教出版の小6の教科書『日本のあゆみ』や,教育出版の教科書で,カステラなどについて紹介されている。 -->
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江戸時代、いまの{{Ruby|沖縄|おきなわ}}県は「{{Ruby|琉球|りゅうきゅう}}」という王国でした。
江戸時代の初めごろ、琉球王国は{{ruby|薩摩藩|さつまはん}}(現在の{{Ruby|鹿児島|かごしま}}県の西部)によって支配されていました。そして、薩摩藩によって、琉球は
薩摩藩は、以前から琉球が行っていた中国との貿易を続けさせ、その貿易の利益を薩摩藩が手に入れました。
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これとはべつに、条件のわるい土地にすまわされたり、祭りへの参加を禁じられるなど、差別をされた人々がいました。このような人々を 「えた」「ひにん」 といいます。
※大人の方へ 小学校の検定教科書では、「えた」「ひにん」の言葉はなく、中学で学習することとなっています。
江戸時代の日本の人口における武士の{{ruby|割合|わりあい}}は人口の7%ほどです。なお江戸時代の人口の数は 約3000万人 です。
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ヨーロッパの学問を学ぶことは、日本を{{Ruby|混乱|こんらん}}におとしいれる{{ruby|危険|きけん}}な学問だと考えられており、禁止されていました。
一方、日本の古典や歴史を学ぶことは{{ruby|認|みと}}められていました。そのため、{{Ruby|万葉集|まんようしゅう}}などの古典や、{{Ruby|古事記|こじき}}・{{ruby|日本書紀|にほんしょき}}などの歴史書について学んだり、研究したりする者も現れました。
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また、杉田と前野は、翻訳のときの苦労話などを『{{Ruby|蘭学事始|らんがくことはじめ}}』に記しました。
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</gallery>
<!-- ※ 光村図書と教育出版と日本文教出版の教科書で、坂本龍馬
※ 光村図書の教科書で、幕府の井伊直弼
※ 教育出版の教科書に、桂小五郎
※ 日本文教出版の教科書に、岩倉具視
* {{Ruby|生麦|なまむぎ}}事件・{{Ruby|薩英|さつえい}}戦争
:1862年に{{Ruby|神奈川|かながわ}}県の{{Ruby|生麦|なまむぎ}}で、{{Ruby|薩摩藩|さつまはん}}(現在の{{Ruby|鹿児島|かごしま}}県の西部
戦後、薩摩では政治の{{Ruby|方針|ほうしん}}を切りかえ、イギリスなどから制度を学び、藩の強さを高める方針へと変わりました。そして薩摩藩では、下級武士であった'''{{Ruby|西郷隆盛|さいごうたかもり}}'''や'''{{Ruby|大久保利通|おおくぼとしみち}}'''らが、イギリスの援助も受けて、彼らが改革の中心になっていった。
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このような理由で{{Ruby|就学率|しゅうがくりつ}}(学校に通った者の{{Ruby|割合|わりあい}})は低く、実際に学校に通った者は、一部でした。
さて、明治のはじめは就学率が低かったものの、明治の終わりごろには就学率は高くなり、ほぼ100%になりました。
{{コラム|明治の学校の教科|
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|}
明治のはじめごろ、江戸時代ごろのちょんまげではなく、ざんぎり頭が流行し
{{Ruby|東京|とうきょう}}や{{Ruby|横浜|よこはま}}、{{Ruby|大阪|おおさか}}などの大きな町には、ガス灯がつきはじめました。江戸時代には仏教の関係で禁止されていた牛肉やぶた肉などをたべる習慣がでてきて、牛肉屋や洋食屋が出てきました。
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歌人の {{Ruby|与謝野晶子|よさのあきこ}}は、「君死にた{{Ruby|まふ|(もう)}}ことなかれ」という、戦場にいる弟を思いやる詩を書きました。
<div style="border:1px solid #000000;">
:'''武家諸法度'''
あ{{Ruby|ゝ|(あ)}} {{Ruby|を|お}}とうとよ 君を泣く
君 死にた{{Ruby|まふ|(もう)}}こと なかれ
1,909 ⟶ 1,905行目:
人を殺せと {{Ruby|を|(お)}}しえしや
人を殺して 死ねよとて
二十四までを そだてしや
</
(以下省略)
1,954 ⟶ 1,949行目:
{{コラム|{{Ruby|鹿鳴館|ろくめいかん}}|
[[File:Chikamatsu Kiken buto no ryakuke.jpg|thumb|400px|鹿鳴館における舞踏会を描いた絵]]
1883年には、東京に、洋風の建物である{{Ruby|鹿鳴館|ろくめいかん}}を建て、{{Ruby|欧米|おうべい}}}人もまねいて社交のための洋風のダンス・パーティーなどを日々開いたが、まったく条約改正は進まず、失敗しました。
<!-- ※ 日本文教出版の教科書に、章末コラムで、鹿鳴館のダンスパーティーの紹介あり。 -->
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