「中学受験社会/歴史/上巻」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
藤原家→藤原氏。こっちは受験用なので、「一族」などの言い回しではなく、中学範囲の氏姓制度の先取りもかねて藤原「氏」に言い回しを統一。源「氏」や平「氏」と同様。 |
査読など。こちらは中学受験用のため、常用漢字のルビは基本的に削除。 |
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* 西暦
{{ruby|西暦|せいれき}}は、イエス・キリストが生まれたとされる年を西暦1年として表します。今は{{CURRENTYEAR}}年です。西暦1年より前の年を「{{ruby|'''紀元前'''|きげんぜん}}(B.C.) 〇年」と表します。なお、西暦1年以降の年
* 世紀
「{{ruby|世紀|せいき}}」とは、100年ごとに区切って、年を数える単位で
== {{ruby|旧石器時代|きゅうせっきじだい}} ==
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==== {{ruby|岩宿遺跡|いわじゅくいせき}} ====
[[ファイル:ObsidianOregon.jpg|thumb|250px|アメリカ合衆国オレゴン州レイク郡で採取された黒耀石]]
群馬県の '''岩宿遺跡''' からは、一万年以上前にできた地層から打製石器のかけらが見つかっています。岩宿遺跡の石器は、'''{{ruby|相沢
相沢により、群馬県の関東ローム層の地層から、石器のような{{ruby|黒耀石|こくようせき}}の欠片が発見されま
== {{ruby|縄文時代|じょうもんじだい}}――土器の使用 ==
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[[File:Yoshinogari-iseki tateanashiki-juukyo.JPG|thumb|250px|right|弥生時代の竪穴式住居 (復元、吉野ヶ里遺跡) 。]]
縄文時代
[[File:Kasori midden preserve north.jpg|thumb|200px|{{ruby|加曽利貝塚|かそりかいづか}}の北貝層断面]]
縄文人の{{ruby|集落|しゅうらく}}があったと考えられる場所からは、貝がらなどを含む、生活ごみが発掘されました。このような場所を<span style="color:red">'''{{ruby|貝塚|かいづか}}'''</span> と言います。
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{{clear}}
== {{ruby|弥生
〜'''米づくりがはじまる'''〜<br>
[[Image:YayoiJar.JPG|right|250px|thumb|弥生式土器
紀元前の5世紀ごろ、ユーラシア大陸の中国 や朝鮮半島
米作りは、まず西日本に伝わり、西日本から東日本へと、米作りが広がっていき、東北地方まで広がりました。
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* 弥生式土器
また、このころ、土器は、縄文土器よりも うすくて かたい <span style="color:red">{{Ruby|'''弥生式土器'''|やよいしきどき}} </span>をつくるようになりました。'''弥生土器''' とも呼ばれます。「弥生」
縄文土器と弥生土器の違いは、弥生時代のころには、土器をつくる技術が進歩したので、土器の形が 変わったのだろうと考えられています。
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<gallery widths="200px" heights="200px">
Image:Takayukasikisouko.JPG|高床式倉庫 妻側より (復元、神奈川県、大塚・{{Ruby|歳勝土|さいかちど}}遺跡)
File:Yoshinogari-iseki takayukashiki-souko.JPG|高床式倉庫 (復元、吉野ヶ里遺跡)
</gallery>
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[[ファイル:DotakuBronzeBellLateYayoi3rdCenturyCE.jpg|thumb|銅鐸 (日本の青銅器)]]
大陸や朝鮮半島から米作りがつたわると
青銅 とは、銅 と すず(金属のひとつ) とを溶かしてまぜあわせた金属でつくられた、合金 です。
青銅器には、銅剣 や、{{Ruby|銅矛|どうほこ}} 、{{Ruby|銅鐸|どうたく}} 、{{Ruby|銅鏡|どうきょう}} などがあります。
<gallery widths="200px" heights="200px">
File:Koujindani Remains 03.JPG|銅矛と共に出土した銅鐸 (島根県・出雲市の{{ruby|荒神谷|こうじんだに}}遺跡) 。古墳時代の遺跡。
ファイル:YayoiBronzeSpearTip1-2ndCenturyKyushu.jpg|弥生時代の銅矛 (九州で出土、1–2世紀)
</gallery>
青銅器は、おもに祭りに使われ
* {{Ruby|登呂遺跡|とろいせき}}
[[File:2004年08月25日竪02.JPG|thumb|240px|right|登呂遺跡
静岡県の{{Ruby|登呂|とろ}}遺跡 からは、たて穴式住居と、高床式倉庫 が見つかっています。水田の跡もあります。水路やあぜ道は、矢板 という板で、仕切られています。
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まわりを{{Ruby|濠|ほり}} でかこまれた {{Ruby|'''環壕集落'''|かんごうしゅうらく}} である。
人骨からは矢尻が刺さっているものも見つかってい
堀の内側からは、多くの高床倉庫が見つかっています。
おそらくは、米作りによって、食料生産が増えたので人口が多くなって、それぞれの集落で、多くの人口を養うために米の生産量を増やす必要が生じ
このような争い
この吉野ケ里遺跡は、弥生時代を知る遺跡として、代表的な遺跡です。
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この頃の日本にはまだ文字がありません。ですが、中国
その中国
中国
: (漢書にかかれた漢は、前漢である。前漢については後述。漢には、時代によって前漢と後漢がある。)
その頃、漢の人は日本を<span style="color:red">{{Ruby|'''倭'''|わ}} </span>と呼び、日本人を{{Ruby|'''倭人'''|わじん}}と
漢書によると、そのころの、日本は、100あまりの国に分かれており、漢の王朝へ、定期的に貢物 を持って、あいさつ に やってくるそうです。
日本は、{{Ruby|楽浪郡|らくろうぐん}} のむこうに、ある
{{コラム|中国の王朝の変化|
漢も、最初からあったわけではありません。
:{{Ruby|夏|か}} :古代文明の{{Ruby|黄河
:{{Ruby|殷|いん}} :そのあと、紀元前1500年ごろに、殷 という国が出きました。
:{{Ruby|周|しゅう}} :つぎに、紀元前1100年ごろに、周 が殷をほろぼします。
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:{{Ruby|漢|かん}} :その秦 が漢 に滅ぼされました。
漢は一度ほろびま
▲:さらに後漢が分裂します。
:三国時代 :多くの諸国の中から有力な勢力が三つ勝ち残った三国時代になりました。
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ここまで、国名だけを、まとめると
「殷
}}
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[[File:King of Na gold seal.jpg|260px|thumb|left|金印 (きんいん) 。漢委奴国王印]]
[[File:King of Na gold seal imprint 1935.jpg|thumb|right|金印の印文。漢委奴國王印文]]
漢の皇帝の{{Ruby|光武帝|こうぶてい}} は、日本の奴国王に<span style="color:red">'''金印'''</span>
金印は、江戸時代の1784年に、今の福岡県の博多湾の{{Ruby|志賀島|しかのしま}}で、発見されています。金印の印の面には、文字がほられ、「漢委奴国王」と、ほられています。「漢委奴国王」
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中国大陸の3世紀ごろの歴史書の '''『魏志』倭人伝''' では、日本の3世紀ごろは、国の数が30あまりになっていることが分かります。東夷伝では100あまりの国が、魏志倭人伝では30ほどの国まで減っているので、このあいだの長い年月に、統一が進んでいったことが分かります。
そして、これら30あまりの国を従えた <span style="color:red">'''邪馬台国'''</span> (やまたいこく) が、日本に ありました。邪馬台国
倭人伝によると、倭 の国では、もともとは男の王をたてていたようですが、戦争が続いたので、卑弥呼を女王にしたようです。
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邪馬台国の場所は、
もし、倭人伝の記述どおりの方向に場所を特定しようとすると、九州の南の太平洋の海の上に出てしまい
邪馬台国の場所の有力な説は、九州北部にあったという説と、奈良県の{{Ruby|大和
邪馬台国は、魏に、外交の使いを送ります。
卑弥呼は、魏の皇帝から、 '''親魏倭王''' (しんぎわおう) という称号の入った<span style="color:red">'''金印'''</span> をもらいます。そのほか、銅鏡を100枚と、絹の織物や、毛織物などを、日本は受け取ります。▼
▲卑弥呼は、魏の皇帝から、 '''{{Ruby|親魏倭王
倭人伝によると、卑弥呼の政治は、まじないや占いによるものだそうです。卑弥呼は、宮殿にこもりきりで、人々の前には、ほとんど姿を見せなかったらしいです。卑弥呼の弟が、宮殿に出入りをしていて、卑弥呼からの指示を人々につたえていたらしいです。実務は、弟など、卑弥呼でない人物が行っていたようです。▼
▲倭人伝によると、卑弥呼の政治は、まじないや占いによるものだ
卑弥呼が死ぬと、大きな墓が作られ、また、100人あまりの{{Ruby|奴隷|どれい}} が、いっしょに埋められました。
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服装は、女性は{{Ruby| '''貫頭衣'''|かんとうい}} という、布のまんなかに、顔をだすための穴をあけただけの服を着ていたようです。
▲また、税 (ぜい) の制度があると、倭人伝に書かれています。
== 古墳時代 ==
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[[画像:NintokuTomb.jpg|thumb|前方後円墳(ぜんぽう こうえんふん) 。仁徳(にんとく)天皇陵(てんのうりょう)と思われている大仙(だいせん)古墳<br />大阪府堺市]]
3世紀から4世紀ごろになると、王や豪族(ごうぞく)の墓では、大きな墓が、つくられはじめます。
このような、大きな王などをほうむった大きな墓を <span style="color:red"><big>古墳</big></span>(こふん) と言い、特に、近畿地方から瀬戸内海沿岸の地域に見られます。
この、3世紀ごろの時代から、7世紀ごろまでの時代を <big>古墳時代</big>(こふんじだい) と言います。
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