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また、画像などは、その画像を制作した著作者による著作物であり、私の制作した画像でないかぎり、その画像は私の著作物ではありませんので、ご注意ください。
 
 
== このページの利用法への文句への反論について ==
よく、新参のウィキペディアンが、私のこの投稿者ページの長い記述について、「ブログみたいな場所と勘違いしてるんじゃないか?」みたいな批判します。
 
ですが、私はかなり多くの記事をwikibooksで書いていますので、この内容はほとんど、それらの記事の執筆時に考えていたことや、あるいは今後の執筆をするための準備のものです。
 
たとえば、私は
:[[高等学校商業 経済活動と法]]
:[[高等学校工業 工業材料]]
:[[高等学校工業 電子回路]]
 
などの各単元の主著者です(2019年の時点)。
 
私は小学校や中学校のwikibooks教科書も書いているので、新参の人はてっきり私を小中レベルの文系科目の学力しかない人だと勘違いして、
その勘違いの上に、
「素人が知ったかぶりの評論をしている」とでもいいたげな批判を、議論ページやトークページでしますが、しかしそれらの批判はすべてピント外れです。
 
共著なども含めれば、私の著作は
:[[高等学校化学II]]
:[[高等学校生物/生物II]]
などの多くがあります。
 
そして、これらの著作を書くために、大学レベルの理工書なども購入したうえで書いています。(実際、該当するwikibooks教科書の単元のいくつかに、そういう参考文献の紹介をしている。2019年の時点では。)
 
そういった大学レベルの学力があるうえに、さらに私は小中学校の検定教科書を購入して読んだうえで、ようやく私は、このページにwikibooks教科書側には書けない個人的な解釈などを書いているのです。
 
私に偉そうな文句をつけるなら、最低限、大学レベルの専門科目の勉強をしたうえで、検定教科書も読み込んで、さらにwikibooks教科書に検定教科書などの最新版の知見なども加えられるようになった上で、文句をいいましょうね。自治厨の口先ばっかし君たち。
 
== 自分用メモ ==
スタブの
 
『このページ「高等学校世界史B/ティムール朝とオスマン帝国」は、書きかけです。』
 
とかのメッセージで、どこがどう書きかけなのか、書いた本人の自分でも忘れる。なので今後は、どこが書きかけなのか、追記しておこう(特に専門外の文系分野)。暗記科目とか、ほんと、まったく内容を覚えてないので、書きかけがどこかも完全に忘れる。
 
 
 
;よく忘れるタグ一覧
:<nowiki> <references/> </nowiki> スラッシュの位置は最後。
:<nowiki> <!-- 非表示タグ --></nowiki>
 
 
 
== 雑記 ==
国の行政って、じつは事務系の行政も、官僚が科学者や技術者と協力して動かしてるんですよ。
 
私が昔勤務してた会社の工場、扱ってる製品が国の研究所に納められる製品だったから、たびたび官僚が見学しにきて、説明を受けにきてましたもん。
 
そういう技術の説明を聞いて、科学的に理解できる事務官僚が行政を動かすのよね。
 
なので、口先だけの連中は、行政では、お呼びでないの。
 
 
 
== 文章の書き方 ==
「頭痛が痛い」とか「馬から落馬する」とか、そういうのを二重言葉といい、これを文法的に間違ってる表現だと批判する文系の人も多い。
 
だが、それは文系だけのローカルなルールである。
 
講談社ブルーバックス『論理が伝わる 世界標準の「書く技術」』(倉島保美)では、文章が長い場合や文構造の複雑な場合などは、二重言葉を必要に応じて用いるべきだと言っている。
 
文系学屋の自己満足の表現技法は、実社会では役立たない。
 
文系の学会や出版社などだと、二重言葉を直されるが、しかしそもそも、その文系の業界そのものが、多くの実社会では不要扱いされているのが、社会の実情である。
 
レポートの書き方などの指導法も結局、理科系の人の書いた解説書のほうが、上流社会では信用されている。
 
 
 
あと、別の書籍だけど「象は鼻が長い」という文章の主語は「象」なのか「鼻」なのかという議論があって、「象は」は主語ではなく「主題」であるという学説もある。(三上文法でよくある議論)
 
欧米式の主語という概念だけでは、日本の文法の主格は説明しきれないという説もある。
 
こういう「主題」という観点を考えると、必ずしも「頭痛が痛い」は文法的なマチガイとも言い切れないとも、持論を述べておこう。
 
 
 
== 透視図法 ==
※ 透視図法について、通説の不正確な説明を正す編集をしても、利用者 Honooo が差し戻すので、
自分の利用者ページに掲載する。
 
しかも
<pre>
2020年3月19日 (木) 11:07‎ Honooo トーク 投稿記録‎ 54,060 バイト -451‎ まあせいぜい俺は熟練者でござい―って鼻を上に向けて,一生,未来永劫威張っていろよ。
</pre>
とコメントを残すだけで透視図について調べようとしないので、
 
もう相手にならない。
 
世間のイラストレーターのみなさん、ウィキペディアンの大半というのは、この程度(私が下記で説明するレベル)のパース知識も無くて美術の編集をしようとするのが、ウィキペディアンのレベルですよ。
 
----
 
[[File:Compression Depth diagram japanese.svg|thumb|650px|透視図法(一点透視)の正しい使い方<br>※ 『[[中学校技術/材料と加工に関する技術を利用した製作品の設計・製作#キャビネット図|キャビネット図]]』とは、中学校の技術科で習う製図技法のひとつ。(※リンク先はwikibooks中学技術科)]]
 
直線を引いて一点透視や二点透視を近似的に描く透視図法は、遠くにあるモノを描く場合でしか使えません<ref>西澤晋『リアルなキャラクターを描くためのデッサン講座』 (漫画の教科書シリーズ No.03) 、誠文堂新光社、2009年7月31日発行、146ページ</ref>。
 
もし近くにある小さいものを描くときは、(直線的な透視図法ではなく)右図のキャビネット図のように描くほうが適切です。(キャビネット図とは、中学の技術家庭科の技術分野で習った、図法の一種です。)
 
[[File:立方体のキャビネット図.svg|thumb|300px|left|立方体のキャビネット図]]
{{-}}
[[File:Cabinet drawing and perspective corresponding japanese.svg|thumb|500px]]
 
キャビネット図も、右図の例のように、遠くに消失点のある透視図を近似的に描いたモノであるとも解釈する事も出来ます。
 
ただし、キャビネット図(上手左の図)そのものの描きかただと、側面・上面の圧縮が強すぎるので、美術用にリアルな絵を書く場合には、側面・上面の長さを右図のように、やや延長(おおむね1.5倍くらいに長さを倍増)して使うほうが自然に見えます。
 
けっして、右図のダメな例のように、近くのものを見る場合には、奥行きを圧縮しない状態では、被写体の近くに消失点が存在することは、アリエナイのです。
 
 
 
※ 以上、私の透視図の編集。
 
まあ、高校生にココまで教える必要があるかどうかは意見が分かれるが(芸術家の村上隆なんかは、こういう幾何学的なデッサンの感じの技法も高校生くらいからは教えるべきだとニコニコ動画『芸術闘争論』で述べている。高校はもう義務教育ではないので。)
 
でも、普段から美術について手を動かしていてパースを体得していたら、どう考えても Honooo のような編集にはならないワケで。
 
 
※ 教科書への追記
[[File:Eye level and vanishing point diagram japanese.svg|thumb|600px|]]
 
ついでに アイレベルとパースとの関係の説明用の図(右図) →
 
{{-}}
[[File:Perspective misunderstanding of distance ratio japanese.svg|thumb|600px]]
 
この例のように、
 
近い者を見る場合には、視線と被写体上面の高さの差 h の影響が大きくあります。
 
このため、水平方向の距離比 <math> \frac{x_b}{x_a}</math> ではなく、
 
目の位置を中心とした距離比 <math> \frac{r_b}{r_a}</math> で考える必要があります。
 
 
被写体の上面の多く見える構図の場合、右図のように被写体は近くにあるハズです。
 
だとすると、高低差 h の影響が大きいハズです。
 
ならば、(たとい水平方向の距離で考えると被写体前面と被写体後面の距離の変化は大きくとも、)
 
目を中心とした距離の変化率で考えると、(高さの影響のため)長さの変化はあまり大きくないのです。
 
よって、近くにある小さい被写体を見下ろすときにパースを強く表現するのは、マチガイなのです。
{{-}}
[[File:パース奥行き圧縮する場合.svg|thumb|600px|消失点が被写体に近い場合]]
 
 
いっぽう、もし消失点が近い場合には透視の効果が効いてくるわけですが、この場合には右図のように、上面図・側面図に対応する角度θ(シータ)が小さくなっている場合が普通です(このような場合、高さの差h<sub>2</sub>は小さいので)。だとすると、対応する奥行きは必ず圧縮されるハズです。
 
つまり、被写体が比較的に大きく、そのため被写体の高さが消失点に近いのが、消失点に近い場合には普通です。
 
その他、被写体がもし遠くにある場合も、同様に角度θが小さくなるので距離比で考えると、かならず側面・上面の奥行きは強く圧縮されることになります。
 
 
数学的には距離比よりも角度θで考えたほうが正確なのですが(数学的には余弦定理(よげんていり)などで計算できる)(※リンク: 『[[高等学校数学I/図形と計量#正弦定理、余弦定理]]』)、しかし美術としてなら近似的には距離比でもそこそこ近似できます。
{{-}}
 
直線を引いて一点透視や二点透視を近似的に描く透視図法は、本来なら角度θで計算すべき側面・上面の長さを、近似的に距離比で計算することに由来しています。
 
建築物や風景画などでパースによる直線的な作図による被写体の縮小が有効な理由も、比較的に遠くにあるモノを描いているからです。
 
よって、冒頭で参考文献とともに紹介したように、遠くにあるモノを描く場合でしか直線透視図法は本来なら使えない<ref>西澤晋『リアルなキャラクターを描くためのデッサン講座』 (漫画の教科書シリーズ No.03) 、誠文堂新光社、2009年7月31日発行、146ページ</ref>わけです。
 
 
:※ 私の高校時代に経験したかぎり、高校2~3年の芸術科目のレベルは、このような、やや専門的な議論のできるレベル(ただし当時は書店で技法書も不足してたので、ここまで技法は整理されてないが)。
:「音楽」科目だが、高校2~3年の選択音楽を履修したグループの人たちは、卒業式で、上級式を見送るためにベートベン第九をドイツ語で歌わされてたもんだ。うちの高校、ドイツ関係の学問の高校だったし。大学付属校の2年以上の選択芸術科目ってのはそういうレベル。
 
== 他のウィキブックシアンの出鱈目 ==
過去に何度も、個別記事のトークページなどで議論を行ったが、
しかし  利用者:椎楽 やその同調者たちはなんの具体案も出さす、
 
記事を批判するだけであった。
 
検定教科書もロクに買ってこない。買ってきても、手を動かして自分で書きはせず、既存の私の記事に文句をつけるだけだった。しかも連中が買ったとしても1冊だけ。
 
 
ひょっとしたら彼らからすれば建設的な提案のつもりかもしれないが、
 
しかし彼らの脳内だけの自称建設的なだけである。
 
 
なので、私は自分の意見を残すため、利用者ページに残すしかないのである。
 
 
少なくとも、わるいけど  利用者:椎楽 ごときに「被害妄想に基づく罵倒」とか言われたくない。
 
 
「です・ます」調で文句を書きさえすれば、自分のしてるのは冷静な議論だと思ってる連中が、サヨク界隈には多い。
 
 
いいから手を動かせよ、口先連中ども。
 
自治ヅラ、管理者ヅラすんな。
 
 
 
なお、ロクに教科書も買ってこないで文句だけつけるヤツがバカにされる行為は、べつに私が初めてではなく、
 
過去に管理者Tomzo氏などが法学の編集なども、法学書をあまり買わないで通説も確認もせずに持論を述べる人のそういう人の編集を「タワゴト」と言っている。
 
当然である。
 
彼ら買わない人は、致命的に、編集しようとする分野の読書量が少ないのだ。なので、たった1冊を読んで、自分好みに本の内容を解釈するだけである。
 
 
 
 
 
 
具体案・対案を出さないで形式的な「議論」で自分の存在感アプールをしたがる人、
こういう人は、「ものづくり」的な場所からは追い出す必要がある。
 
 
そうしないと、具体案を出す責任感のある人に、膨大な負担が掛かるからである。
手を動かす人や、カネを出している人に(書籍の購入費もカネだぞ)、負担が掛かるのである。
 
 
そもそも「議論」とは、知識不足の人たちの集まりだからこそ、議論が発生する。
 
 
たとえば画家が、画法についての自説の正しさを証明したいなら、
議論は最低限で十分であり、あとは絵画作品を発表したほうが早い。
 
 
なので、もし批判相手に専門技能があれば、
批判された側は議論の必要すらもなく、自分で手を動かして実証することもできる。
 
 
つまり、議論に参加するには、資格や前提が必要であり、
 
・なるべく手を動かして確認できる分野では、手を動かそうとするか? という参加条件の資格
・政治のように個人では手を動かした実験などの困難な分野であり、仕方なく議論する必要があるか? という議題の前提
・上述のような重いテーマを扱うために、自分にある程度の専門知識があることを証明できるか?
 
このような前提が必要である。
 
 
教育の分野は、けっして芸能の人気投票ではないので、手を動かさない視聴者の意見は不要である。
 
公教育などは、未来の生産者である労働者を育てるためのものである。
 
 
 
なので、(手を動かせる分野なのにかかわらず)手を動かして生産しようとしない連中には、けっし迎合してはならない。
 
 
手を動かして確認を取ることにより、間違った「理解」は淘汰され、本当の正しい「理解」だけが残る。
 
 
残念ながら学問では、哲学や社会学など、分野じたいが、手を動かさない連中に迎合している分野もある。
 
 
 
言葉は容易にウソをつく。
 
:「赤は青い。」
 
これは矛盾であるが、しかし文法的には間違ってない。
 
これが言葉だ。このような矛盾であっても、文学には必要である。
 
 
そして、手を動かさない人間の脳内も、こういう知能レベルである。
 
 
小説として人を楽しませる文章ならともかく、「議論」を名乗る人間の文章ですら、
こういう知能レベルなのが実情だ。
 
だから間違った文章を唱える芸能視聴者みたいな気分の「議論」厨を、手を動かすことにより淘汰しなければならない。
 
 
 
本来なら、具体案を出さない 利用者:椎楽 のような自称・編集者たちを、管理人グループは彼らを排除するべきである。
 
しかしwikibooks管理者たちの精神性も、文系の悪癖のような手を動かさないことを美徳としている気質の人たちなので、自称・編集者たちを排除しない。
 
 
昭和後半~平成初期の時代「理系」が尊敬されてたのは、理系が手を動かすからである。
 
教育学部卒の漫画家・江川達也も、「理系」のように(議論よりも)「手を動かせ」と、各所のエッセイで述べていたものである。
 
 
 
よく、「新しいことにチャレンジしなければ、失敗もしないけど、成功もしない」と言われる。
 
恋愛でも「異性に愛の告白をしなければ、フラれる事もないが、愛が成就することもない」というのも。
 
具体案を出さない人たち、手を動かさない人たちもコレ。
 
「私はコクったことないので、よって私はフラれたことないので、モテモテだ」と述べているようなアタマのおかしい愚か者である。
 
 
 
=== 高校数学のリーマン積分の件 ===
駿台出版の参考書では微分積分をリーマン積分の定義に基づいて紹介している。しかし、ウィキブックスでは、それを紹介すると差し戻しされる出鱈目っぷりである。
 
https://ja.wikibooks.org/w/index.php?title=%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%8F%97%E9%A8%93%E5%8F%82%E8%80%83%E6%9B%B8/%E6%95%B0%E5%AD%A6&oldid=139024
 
犯人はIP「115.37.87.204」。
 
このIPは、自分が駿台の数学講師陣よりも優秀だと勘違いしているのだろうか??
 
このIPは「「大学受験参考書」なので、大学受験との関連が不明確な記述を除去」とか言っている。(笑)
 
 
 
削除申請を出されているので、サブページに保存しておこう。
 
[[利用者:すじにくシチュー/リーマン積分に基づく高校数学の微分積分]]
 
ユーザー「令和少年」や「峰浦景勝」は、駿台出版も知らないのだろうか? 科学新興社の『モノグラフ』シリーズの積分にも書いてある程度のレベルの内容なんだが・・・。
 
ユーザー「令和少年」の学歴は、自称・進学校の中学(当時)らしいが・・・。
 
 
検定教科書用のページからリーマン積分の記述を除去する議論は、まだワカルよ? たしかに検定教科書には無いが。
 
でもさあ、ワルいけど、駿台出版とかモノグラフのレベルもわからない人に、口出しされたくない。そんぐらい、一般の書店で内容を確認できるでしょ。
 
バカの一つ覚えで、駿台出版とか予備校とかの状況も分からずに、「検定教科書用で消されたから、参考書ページでも消すべきなんだ!」と思ってそう。
 
自治厨ユーザーをバカにして悪いが、でも、本体の管理人がそういう出版状況の説明を自治厨にサボっているのが悪いんだよ。というか、私はすでに過去の議論で何度も説明している。
 
== ウィキブックス日本語版への抗議 ==
まず、根本的な前提として、ウィキペディアなどでの選挙や、記事のあり方をめぐる投票は、本来は人気投票の場所ではないですが、しかし実際には、編集者どうしの人気投票の場になっています。
 
ウィキペディアには、あまり専門知識が無いのに、管理者になっている人も、ちらほら居ます。そういう人に、過去に私は「編集が間違っている」と、あるウィキペディア管理者に文句を言われたこともあります(当時は、別の一般編集者が私を擁護してくれた)。「管理者」というと、頭がよさそうですが、しかし実態は、ネットで拾ってきた程度の情報しか知らない人が管理者をしています。まるで、2ちゃんねらー連中や、ツイッター連中です。
 
そして、管理者選挙などで投票をする有権者の人も、2ちゃんねる連中と同じような知的レベルなので、あまり専門知識の無い人が、管理人に選ばれます。
 
このため、ウィキ系のプロジェクトでは、専門知識の有無ではなく、人気とりの活動をしている人が、チラホラいます。
 
 
そういう人は、たいてい、自分では記事を書かずに、他人の書いた記事にばかり文句をつけます。しかし、文句が多い割りに、いっこうに彼らは自分では記事をロクに書かないのです。
 
また、もし専門書などの文献などで明確なマチガイであると主張できるなら、その文献を出すべきですが、しかしそれもしないです。単に、自分がわからないだけなのに「間違っている!」と記事を消す人も、よくいます。
 
そういう、文句ばかりで記事を書かずに手を動かさないのに、あたかも品質管理の仕事をしているかのようなフリをする人が、ウィキペディア系には多くいます。(おそらく、選挙などの際に、自分の影響力を増したいのでしょう。なので、実績を作っているツモリなのでしょう。)
 
 
 
さて、ウィキブックス日本語版にも、私の編集に文句はつけるけど、対案を出さない、自治厨きどりの困った人がいる。そして管理人が、そういう人に、修正要求を出さない。管理人が、その場しのぎか、選挙むけの大衆ウケなのか、仕事をサボっている。
 
 
具体名を挙げると、文句はつけるけど、対案を出さない、困った人ユーザーとは、たとえば「令和少年」や「峰浦景勝」である。 「よらしむべし、知らしむべからず」とでも思ってるんだろうか。何様のつもりだろうか? 議論ページで、彼らに抗議を出しても修正しないので、利用者ページで私の声明を出すことにする。
 
いっぽうユーザー「椎楽」は私をよく批判するが、一応は私が対案を彼に求めたら出すので、一応、教科書を書く気が本気であるのはワカル。
 
この私の抗議は、他ユーザーへの「個人批判」といわれるかもしれないが、だったら、私の受けている、対案の無い「批判」もまた、私への個人攻撃である。
 
 
彼らの精神の特徴って、「『好き嫌い』と『真偽』の区別がついていない」ってことなんだよね。
 
 
「マジメな俺が不快感を覚える記述だから、間違ってるハズだ」って発想。
 
まあ、私も批判的・挑発的な書き方を編集でよくするが。
 
 
でもね、私が批判的に書くのは、論点を分かりやすくする目的なんですよ。
 
そもそも官僚答弁や公文書みたいに、あいまいだったり玉虫色な表現で教科書を記述してたら、教育にならないでしょ。
 
「おそらくは ~~~ であるかもしれないという説もあるといわれている・・・」とか教科書で書いてたら、ロクに教育にならないじゃんかよ。
 
で、実際に社会科の自衛隊の記述なんて、まさに検定教科書が婉曲表現名ワケだ。
 
 
まさかね、私が婉曲表現をできない人だと勘違いしていないか?
 
あるいは、「婉曲表現のできる自分は賢い!」とでも勘違いしてない。
 
 
あと管理人は、管理人業務をサボルをヤメロ。たとえば、削除申請のページで、削除するのかしないのかの判定が放置されているページが、いくつもアル。
 
もし、存続の価値があると思うなら、削除申請を出した人に、反対意見を言うべきだ。その通知を申請者にすべしだし、削除申請を濫用しないように呼びかけるべきだ。
 
いっぽう、削除に賛成なら、堂々と削除すればいい。
 
しかしwikibooks日本語版の管理人は、そのどちらの仕事もサボっている。削除もせず、存続決定も判定しない。選挙目当ての玉虫色だろうか?
 
それでも私がwikibooksを使うのは、アメリカ人を信用しているからである。日本の連中なんぞ、信用しとらん。
 
教科書のオープンソース化の国際化対応をしようと思ったら、現状では、wikibooks以外に選択肢が無いんだよ。
 
国内サイトの enpedia では、外国への国際化対応ができない。
 
仕方なく wikibooks を使ってるんだよ。
 
== すべての科学「法則」は単なる傾向 ==
文系の学問では、「法則」とは言われる学説でも、実は統計的な「傾向」でしかないとは、しばしば指摘されることである。
 
しかし、実は理系の学問でもそうだろう。
 
 
実際、有機化学は、そういう立場である。「マルコフニコフ則」とか。
 
しかし物理学などでは、「傾向ではない」と主張する物理学者もいるが、しょせんはその物理学者の主張ですら、学説でしかない。
 
困ったことに、物理学者は、その個人の信念を、教育カリキュラムの形で、学生に押し付けてくる。
 
 
特に困ったことに、「量子力学」を信仰する物理学者に、その押し付けの傾向が強く、もはや大学教科書そのものが量子力学ではそういう押し付けスタイルになっている。
 
 
しかも困ったことに、日本憲法の悪しき「大学の自治」および「学問の自由」により、そういう物理学者の宗教を規制できない。
 
戦前の軍部大臣現役武官制による軍部の横暴のように、戦後の「学問の自由」による学者の横暴である。
 
 
 
実は、ほとんどの物理法則は、地球の周辺でしか実験をできてない。
 
なので、実は、「実験的事実」と言われるものでも、地球の周辺での実験結果でしかない。
 
 
なので、アポロ宇宙船とか国際宇宙ステーションなどで行われた宇宙での実験とかは、その検証範囲を拡張するための実験だという意義がある。
 
 
地球周辺でないものは(冥王星などは)、(実験でなく)観測しかできてない。
 
 
では、「実験」と「観測」の違いとは何か?
 
 
「実験」とは、何度でも起こすことができるので、検証のために何度も実験をすることができる。
 
 
いっぽう、気象などの「観測」は、観測者の意思では起こすことができない。地震や台風は、人間では起こせない。
 
 
 
実験でも、特に、信頼性の高い実験式は、多種多様な実験によって裏付けられる。
 
 
また、化学と古典物理学での実験の違いとして、
 
:古典物理学は、実験時の実験パラメーター(実験変数)を、数%ほどの小ささでも微調整できる。たとえば、質量1kgの物体での実験を検証するために、と質量1.3kgとか質量0.85kgとか、微妙に質量を変えて追試もできる。
 
:化学は、パラメーターを微調整できない。たとえば、原子番号1の元素と原子番号2の元素の間を知りたいと思っても、原子番号1.3とか原子番号0.8とかの元素は無い。
 
 
 
現代物理学(特に量子力学)と言われるものの幾つかの理論は、実は化学と同様、パラメーターの微調整ができない分野である。
 
なので、本質的に量子論には、化学の法則と同様の不確実性が付きまとう。
 
 
これは、数学・物理学の用語でいえば、現代物理学実験のいくつかでは、微分的な実験がされてない、と事である。
 
 
なのに現代物理学の公式で微分方程式がよくつかわれるのは、単なる信仰である。
 
古典物理学で微分方程式の活用が成功したし、古典物理実験ではパラメーターの微分的実験ができるので、なので古典物理を微分方程式で記述するのは妥当である。
 
 
 
しかし、物理学者は、微分実験のできない分野にも、それを適用した。なので、シュレーディンガー方程式などの微分方程式には、実は実験的根拠が無い。
 
 
 
私から言わせれば、もはや量子力学は「物理学」ではない。量子力学は、「化学」の悪い浅知恵である。
 
社会学が総合科学みたいなフリをしていたが、最近の社会学では色んな学問・学閥の悪い部分が合わさって社会学者の質が悪化してるのと同様に、量子力学も物理と化学との総合的な科学を目指したが、もはや質の悪い部分が合わさり、悪化した。
 
 
 
比喩が汚くなるが、もしも食事の味噌汁にウンコが1滴でも混ざったら、どんなに薄めても飲みたくないでしょ。
 
量子力学は、ウンコ(微分的実験ができてない)の混ざった味噌汁(微分方程式)のようなものだ。廃棄すべきだ。理論をゼロベースから見直して実験結果のみに基づいてすべきだ。
 
 
数学では、「すべての定義は仮説である」と考える一派がある。ヒルベルトが幾何学原論で主張した発想だ。
 
ユークリッド幾何と非ユークリッド幾何のように定義の異なる幾何学が数学には内在するので、なので「すべての定義は仮説である」と必然的に考えるしかないのだ。
 
 
しかし、物理学者は、この発想に従わない。
 
べつに個人的に従わないだけなら自由だが、しかし社会に押し付けないでほしい。
 
やっぱ物理学者は淘汰されるべき悪だ。戦前の軍部と同様の悪だ、こいつら。
 
 
 
物理学者は幼稚である。
 
本当の科学的な「法則」の理解とは、法則の限界を認めることである。たとえば、数学では5次方程式の一般解が無いという限界を認めることにより、ガロア理論などを進歩をした。
 
しかし、物理学者は、近世でのニュートン物理への信仰だったのが近代には量子論と相対論への信仰に変わっただけであり、理論の限界の可能性を認めない。
 
 
相対論ですら、天文観測の「重力レンズ」などの観測結果があっても、実は、宇宙に関しては観測レベルである。物理学者の誰もアンドロメダ星雲とかの遠い星で実験できないもんな。
 
単に、天体望遠鏡などで観測される情報をもとに推測しているだけである。
 
つまり、相対論ですら、宇宙においては実験による検証ではなく、観測結果による制限的な検証でしかない。
 
 
真の物理「法則」の理解とは、こういう人類の限界を認めることだ。いうなれば、「観測法則」と「実験法則」を区別するべきだ。
 
ニュートン力学ですら、冥王星の運動とかはもはや、実験法則ではなく観測法則でしかない。
 
もちろん、今後の目標として、「宇宙ロケットなどで宇宙進出して、実験できる空間の範囲を広げよう」と目指すのはいい。
 
でも、まだ進出できてない範囲まで、あたかも物理法則が確認されたかのようにふるまうのは、もはや科学的な態度ではないので、やめてほしい。
 
なのに、物理学者には、このような注意深さは無く、もはや物理学者は幼稚である。
 
要するに、小学生の子供くらいの児童向けの説明の、「科学法則があたかも広大な宇宙全体に通用する」を鵜呑みにした馬鹿のまま大学の理科教師になったような連中が、物理学者である。
 
 
本当は、「現代の人類の科学法則は、実験では地球だけでなく月でも実験で確認されています。」「また、観測によって、冥王星や銀河系などの観測で得られる情報をもとに、学説を吟味しています。」であるべきだ。
 
しかし、小学生の子供には、「実験」と「観測」の区別はつかない。また、吟味という発想も分からない。
 
こういう小学生レベルのちょっと理科マニアなだけのニワカ野郎のまま大人になったのが物理学者だ。
 
== 科学界には「一次史料」的な考えが大学ですら理科教育に無い ==
歴史学では、史料の信憑性に「一次史料」・「二次史料」などの等級をつける。
 
たとえば、何らかの理由で「この史料は信用できる」と判断した当時の古文書や、
当事者の残した史料で「とりあえず当時の人々の感想を知るために読む価値がある」と判断した史料を「1次史料」という。
 
一方で、よほど信憑性の乏しい史料や、
当時の噂話の又聞きの又聞きとかで伝言ゲームみたいになっててロクに検証されてない単なる風説とか、
 
あるいは著者が正直でなく偽書の可能性・虚偽の割合の高そうな史料を「四次史料」「五次史料」など数字の大きい等級をつける。
 
数字が小さい(等級の数字が1に近い)ほど信憑性は高くなる。
 
 
 
しかし自然科学には、このような理論に等級をつける習慣が無い。だが現実には、自然科学の中にも、等級の悪い理論はある。
 
まず、自然科学において信憑性の高い情報とは、実験事実そのものだろう。(説明を単純化するため、実用性や普遍性などは「信憑性」とは別の要因とする。)
 
 
多くの人でも追試実験または追試観測できる実験ほど、信憑性が高い。
 
小学校や中学校で習うような、実験事実・観測事実そのものの傾向をまとめた理論を「一次理論」としよう。
 
個々の実験結果そのものは、そもそも理論でないとしよう。
 
 
たとえば、中高で習うメンデレーエフの周期表の学説が、一次理論としよう。
 
それらの個々の実験の結果から導かれる「一次理論」的な学説である。
 
 
ただし、ここでいう「一次」の評価には、あまり実用性の評価は入れないとしよう。実用性の観点を入れると、評価が主観的になりブレるからである。
 
 
また、将来的に反例が見つかる場合であっても、とりあえず現時点で可能な実験で反例が見つかってなければ「一次理論」としよう。
 
 
ニュートン力学は相対性理論あたりの実験・観測(マイケソンモーレーや重力レンズなど)で反例がみつかったわけだが、それでも、古典的な実験に基づく実験結果そのものをまとめたわけだから、ニュートン力学も「一次理論」としよう。
 
 
化学の「元素」の考えは、化学反応そのものの物質の種類をまとめた理論なので元素は「一次理論」だが、しかし「原子」の理論は別である。
 
 
化学反応において、実際に原子1個1個の動きを観測することは現代の人類には未だに不可能なので、化学において「原子」の理論は「一次」でなく「二次」的な理論である。
 
 
電子顕微鏡などで、固体の金属結晶などの「原子」らしきものは観察できるが、しかし一般の物質の化学反応においては未だに電子顕微鏡でそのような観察はできてないと思われる。
 
少なくとも寡聞にして、私はいくつも科学書を読んできたが、そういう顕微鏡観察での化学反応観察の例をひとつも読んだことが無い。
 
 
小学校で習う理科の理論は、実験結果に近い「一次」的な理論であり、さらに実用性の高い理論で、さらに追試実験が子供でも容易な理論などの条件を満たす理論が選ばれてるわけだ。
 
 
 
中学校や高校で習う理科の理論も、ほとんどが「一次」理論であるが、追試実験が子供には困難だったり(たとえば原子力などの分野)、そういうのが中学あたりに回されるわけだ。
 
 
で、実験そのものをまとめた一次理論をもとに、誰かが提唱した学説を「二次理論」または「三次理論」・「四次理論」のように、2以上のと等級をつけてと言おう。
 
等級の数字が大きいほど、より派生的な理論になるとしよう。
 
 
 
高校くらいなると、一次理論か二次理論かの判別の難しい理論が出てくるわけだ。
 
 
たとえば、価電子の理論などは、人類の誰も価電子を直接は観測してないし、単に、電気分解などの実験結果から「たぶん、化学反応の決め手になる8個のアレは電子だろう」と類推しただけである。
 
実際、「オクテット説」とか、「八偶説」みたいに、電子の名前の入らない感じで提唱されていたわけだ。
 
 
 
さて大学で習う理論でも一次理論はあり、たとえば電磁気の「マクスウェルの方程式」の4つの基本方程式は、実験事実そのものをベクトル式で言い換えただけなので、あれも一次理論である。
 
そしてマクスウェル方程式を連立して得られる電磁波の仮説の存在(ヘルツの追試実験では「電磁波」の磁場成分までは検証できていない)、1.5次的な理論か、もし等級を悪くしたとしても、せいぜい2次までの理論であろう。
 
 
マクスウェルの電磁波についての予測が当たったからって、その学説を一次理論とする風潮は悪い風潮であり、やめるべき風潮である。
 
あくまで「実験結果そのものをまとめたのが一次理論」、「実験結果から派生した予想、または実験で検証された式から得られる予想が二次理論」としよう。
 
もちろん、予測能力の高い理論は、実用性や教育効果の観点からは良い理論であるための「必要条件」ではあるけれど、しかしけっして実験にもとづく一次理論としての「十分条件」ではない。
 
 
 
流体力学のナヴィエ方程式などは、精度はともかく、とりあえず実際の流体を人類が観測してみて、「たぶんこういう方程式だろう」と提唱した式なので、とりあえず1次理論である。
 
 
材料力学の応力などの方程式は、実際に材料に過重を加える実験などして、どのくらいの力の大きさで破壊するかを観測して検証できるので、とりあえず一次理論である。
 
 
ただし、工業高校で習うような理論でも、結晶の「転位」などは、まともに観測されてないので(少なくとも教科書に、「転位」とやらの観測写真などは無い)、「二次」以降の理論である。
 
 
「転位」に相当する実験事実の一次理論は、
:「一般に合金は硬度が高い。」という傾向、
:「曲げなどの変形加工をすると、金属材料は硬度が増す。」という傾向、
:「炎や高温の油で長時間の加熱をしたあとに徐冷すると、金属は固体のままでもやわらかくなる。」という傾向、
である。
 
しかし「転位」は、あくまで派生的であり、上述のこういった実験結果をまとめて考え出された派生的な学説なので、顕微鏡などで直接観測されないかぎり二次理論である。
 
 
大学で習う、
熱力学の「ギブスの相律」 f=C-P+2 は、しょせん二次理論である。
 
実験事実は、相図において
:「1成分系では最大3相まで共存できる」、
:「2成分系では最大4相まで共存できる」、
:「3成分系では最大5相まで共存できる」
である。たしかに、合金などの一般的な相図を見ても、2成分系は最大4相までである。
 
(なお、「ギブスの相律」自体は、熱力学の考察から得られたのであり、べつに合金の考察で得られたのではない。)
 
 
 
マクスウェルの方程式が、たとえ古典物理の方程式の連立から得られても、あくまで1.5次~2次理論として扱うべきなように、ギブス相律もまた、2次理論として扱うべきだろう。
 
 
価値ある二次理論であっても、二次理論はあくまで二次理論として扱うべきであり、けっして一次理論にしてはいけない。
 
 
比喩的だが、測定器の国家二次標準器をけっして国家一次標準器にしてはいけないように、二次理論は(直接の実験にもとづかないので)けっして一次理論にしてはいけない。
 
 
 
さて、現代物理と言われる分野があるが、実は、この分野の多くは、直接の実験はできていない。
 
実際に観測する物理量は、電流や電圧などの古典物理的な量、もしくは、光を回折格子を使って色を見たりなどの波長(人が実際に見るのは「色」)などの古典物理の量の観測である。
 
 
つまり、「現代物理」の分野は、分野そのものが、理論 と 実験の現場 が食い違っており、古典物理から派生した等級の数字の高い(悪い)分野である。
 
 
また、現代物理の「解析力学」や、「量子力学」のシュレーディンガー方程式は、そもそも特定の実験に'''基づいていない'''。
 
そもそも解析力学が分野横断的に考えられた学説であるからだし、解析力学はそのような分野横断の手段として微分積分を使っているし、量子力学も解析力学を手本にしてるからだ。
 
なので、本質的に、これらの式から派生した理論は、けっして直接の実験に基づかない2次以上の次数の悪い派生理論である。
 
 
教科書では学説の成功例ばかり書かれるので、「解析力学」や「量子力学」などこれらの分野が無敵なように錯覚しがちだが、
実際は予測を外したりなどの失敗もあり、たとえばノーベル賞学者の中村修二は自分たちの青色ダイオード開発が物理学者から「量子力学にありえない」と批判されたと、物理学者を中村の自伝著書で批判している。
 
 
「量子論」と言われる分野でも、高校で習うような光電効果や、元素ごとの放電光のスペクトル分布などは、多くの元素で追試実験できるので、一次理論である。
 
ただし、光電効果に書かれているアインシュタインの「光粒子」の学説は、実験事実そのものではなく、派生的な二次理論である。
 
なぜなら、光電効果で実験事実そのものをまとめるなら、単に、波長と電圧と金属の元素の種類だけで十分だからだ。
 
 
相対性理論のマイケソンモーレー実験から得られるローレンツ収縮などの学説も、単に実験事実を言い換えただけである。(アインシュタインよりもローレンツのほうが提唱が早い。アインシュタインはそれらの実験事実をもとに、相対論を提唱しただけ。)
 
相対論は、あくまで二次理論である。ローレンツ収縮などが、一次理論である。
 
 
大学教育でアインシュタインの学説を教えてもいいが、しかし、それをあたかも普遍の真実かのように教えるのはヤメルべきだ。(量子論と比べたら相対論はだいぶ実験的でマシだが、それでも抑制すべきだろう。)
 
ウンコの混ざった味噌汁は、もはや食べ物にならない。
 
二次理論と混せこぜになった元・一次理論は、もはや一次理論ではない。
 
まとめると、
 
:今までの間違った理科教育: 一次理論と二次理論の混同。特に大学で混同がひどい。
 
:これから改革すべきこと: 一次理論と二次理論の峻別。
 
 
 
 
本当に優れた理論って、決定的な実験事実があるから一次理論になるか、せいぜい二次理論どまりなんだけど、
 
しかし、世間の馬鹿は、3次理論・4次理論のよう等級の大きい理論(学説)ほど、予備知識が必要なので、
 
それら高次の派生理論を優れた理論かと錯覚する。
 
 
3次理論など等級の高い理論は、その学説を理解・検証するための予備知識が多いから、
:予備知識を多く知ってる → 勉強家
という、幼稚なイメージだ。
 
たとえば、世間の馬鹿が、やたらと長い小説や哲学書や思想書を読んでる人を、あたかも「知識人」・「天才」などと錯覚するようなものである。
 
しかし、それは馬鹿の錯覚なのである。現代の自称「哲学者」にマトモな科学者がいないことからも分かるだろう。
 
 
小学校レベルだと、参考書が(検定教科書と比べて)ある程度は分厚いので、小学レベルでは長い本を読めるほど賢い子なので、その錯覚のまま大人になった馬鹿たちが、4次理論など等級の大きい理論を「高尚」だと誤解する。
 
 
 
そして困ったことに、現代の欧米の大学カリキュラムを作ってる科学者もまた、この程度のレベルの低い大人である。
 
日本の大学もそうである。
 
 
 
なので、世界中で大学の研究が投資不足になり先行き不安になり、ぜんぜん企業で実用化されてないわけだ。
 
だって、大学のもともとの研究学説が、三次理論・四次理論とかばかりで信憑性がアヤシイんだもん。
 
超弦理論とか、実験に基づかずにさんざん理論展開して派生したあげく、結局、ロクな成果を出せず行き詰ってるでしょ。
 
量子論とか素粒子論とかの分野も、さすがに超弦まで酷くないけど、でもアレも研究者のメンタリティが超弦に近いのよ。
 
少なくとも、現代の量子論などの教科書は、ろくに実験事実との検証をしておらず、教科書を読んでも、一部の実験を除いて実験方法がロクに書かれてない。もっとも、電磁気学の教科書にもその傾向(ろくに教科書で実験方法を説明してない傾向)は強くあるが。
 
== 日本の教育は三等国 ==
近年、大学入試の混乱や大学内の先行き不安感が激しいが、根本的な原因は、日本人の教育がことごとく「畳の上の水練」であることだ。これに尽きる。
 
たとえば、英語の能力を測りたいなら本来なら簡単で、実際に欧米人の書いた文書の翻訳でもさせればいい。
 
実際、欧米人はそう判断する。
 
それにネット上には、膨大な未翻訳文書が転がっている。
 
著作権の問題があるが、だったらウィキペディアには膨大な未翻訳の海外記事もある。
 
 
いくら大学入試の英語の成績がよかろうが、実際に翻訳が出来なかったら仕事でも海外の文献調査でも役立たずである。
 
べつに英会話や海外旅行だけで役立たずなのではなく、学術研究のために海外の学術文献を読む際にすらも役立たずである。
 
しかし、日本のような教育制度や選抜試験では、原理的にこういう実務的な試験は無理である。
 
 
日本人って頭おかしくて、目の前の人の実務能力より、なにかのコンテストの成績を重視するんですよ。
 
日本はそういう土人国家。
 
そりゃねえ、子供のピアノ大会とかバレエダンスとか、そういう実用性の乏しい芸術なら、コンテストの成績とかを重視するのもアリでしょう。
 
児童教育なら、企業の競争に子供をさらさないためにも、そういうコンテスト重視もアリかもしれんよ?
 
 
でもねえ、一般の実用品の商売とか企業の経営とか工業品の設計とかの実務で、それをやったらアウトですよ。
 
日本人はそういうアウト連中ばかりのアホ国。
 
児童教育の発想のまま、大人教育をしてしまっている、東洋のキチガイ馬鹿国家が日本だよ。
 
なので、明治維新の直後のような、近代化を始めたばかりの幼稚な時代でしか、日本の教育はパフォーマンスが無い。
 
マッカーサーの言うように日本は幼稚な国なのだよ。ほら、朝鮮半島とか見ると、幼稚だろ。日本もあれと同じ、
 
 
だいたい「筆記試験」なんてのは、そもそも税金と同じで必要悪な強制であり、最低限のものにすべきなのである。
 
なので、日本の大学入試みたいな選抜試験は、もう不要である。
 
 
経理の能力を見たいなら、実際に簿記検定でもすればいい。
 
工業設計も同じで、実際に材料力学計算なり電気回路計算でもさせればいい。それでも文盲レベルのバカは落とせる。
 
 
なのに、日本企業はバカなので、わざわざ専門外の国文学のような試験とかで選抜する大学入試の成績で新卒採用を判断する。
 
日本企業は、なんでこうバカなのか。
 
せめて、高校で習った科目で試験するにしても、経理マンの採用なら政治経済の成績で選ぶべきだろ。
 
 
もっとも、高校の政治経済もクソで、簿記も教えないし、商法も教えない。リーガルマインドみたいなのは育たない。
 
経済学的な分析法の涵養もアヤシイ。
 
 
要するに、もう普通科高校そのものがクソだ。あんなの学んでも、思考力は身につかない。
 
最低限の知識なら中学レベルで、ほぼ十分だ。高校レベルのアレは、単に覚えることが増えただけで、補足知識でしかない。
 
 
作家でも、工業高校卒の作家はいろいろといる。
 
高校ではないが、司馬遼太郎も工業系の学校の卒業生だし、田中角栄もそういう工業系学校の卒業生だ。
 
 
結局、企業はバカなのだし、消費者もバカなのだ。
 
日本企業が優秀だというのは大嘘だ。アメリカのパクリをしてきただけだ。
 
アメリカのパクリでもノーベル賞を取れるのだ。
 
というか、そもそもノーベル賞の審査員は、技術者としては全く優秀でない。
 
大学教授の物理学者や化学者などの、民間企業で働いてない技術素人の大学教員が、審査員だからだ。医学部を除いて、大学教授は実務能力がアヤシイ人たちばかりですよ。
 
IBMは半導体でノーベル賞を輩出した企業だが、いまでは製造業から撤退している。
 
もはやノーベル賞は疫病神だ。
 
ロボトミー手術ですらノーベル賞を取れる。
 
 
また、そもそも大企業の研究員も優秀ではない。大企業の実態は商社マンで、本当に中枢の仕事をしている人物は、まったくの別人だ。
 
日本の大企業は近年、技術不足が指摘されるが、実は昔からそうったのだろうな。
 
本当は下請け企業の成果や、地方の機械工業とか地方の港湾沿いの化学メーカーとかの成果だったのを、商社である大企業の都会の電機メーカーが演技をして、あたかも自社開発したかのように装った演技をしてきただけだろう。
 
その演技のために、大企業は東大とかの理系卒を雇って、数学まがいのゴミ論文を書かせて学会発表してきた。量子力学とかの用語を使ってね。
 
なので、東大理系もやはり馬鹿。
 
実は戦前から、徴兵されたくない物理学者たちが、量子力学を誇大にアピールしてきたと、橋爪大三郎『戦争の社会学』にも書いてあった。日本は原爆の原料のウランも未入手なのに、物理学者は「量子力学で原爆を開発できます!}ってバカ軍部を騙してね。
 
要するに消費者がバカなのだ。(なお、日本の軍部もいちおうは量子力学の研究のしている。証拠があって、海軍省か何かの戦時中に出した工学書があって、兵器用の初歩の材料工学かなんかのついでに、量子論の初歩の話を解説している本があった(あまり大した技術は書いてない)。その本を、私が法政大学の学生時代に小金井の地下図書館の閉架でそういう読んだ。)
 
消費者がバカなので、馬鹿の代表的知識人である東大とか京大とかも馬鹿である。
 
本当に賢いのは、歴史には名を残してない、あまたの無名の技術者たちだ。
 
 
大企業「メーカー」(自称)(笑)の技術力は演技で、バカ消費者むけの演技だから、大学の教育もバカ消費者向けの演技だ。
 
バカ学者のくせに「自分は頭いい」と持ってる馬鹿学者が、弟子として都合のいいバカを選抜するために、選抜試験で「こいつは天才」だと思ってバカを選抜する。
 
バカの拡大再生産だね!
 
日本の大企業はバカなので、パソコンのOSも作れないしCPUも作れないし、マザーボードも作れない。この分野はすべて外資の独壇場だ。
 
何も不思議なことは無い。
 
 
 
結局、学問は自分の頭で考えるしかない。
 
日本バカ国民は勘違いしている。バカ日本人「日本の教育は高度だけど、経済は三流だね」と。
 
違うのだ。日本は教育も三流なのだ。
 
まあ、アメリカの劣悪な四流の初等中等教育と比べればマシかもしれないが、そもそも馬鹿アメリカ教育のような劣悪としか日本教育が比較できない時点でもう、日本の教育は劣悪だ。
 
 
== メモ: 電磁波が磁場の波だという実験的な証明は、実はされてない。 ==
マクスウェル理論の予言した電磁波を実験的に証明したとされる「ヘルツの放電実験」で証明されたのは、「放電実験」の名の通り、放電を通しての(おそらく電場の)の遠隔伝達である。
 
なので、電場の遠隔伝達の証明にはなる。また、電波の偏波の証明にもなっている。(ヘルツは受信機の向きをいろいろ変えたりして、偏光性を証明した)
 
だが、その電波の遠隔実験が電場の波かどうかは、ヘルツの実験だけでは不明。
 
しかし、事前に別の学者によって光が波であることや、光の偏光性などが分かっていた事が分かっていた。
 
なので、「電波」はおそらく波だろう、という推測は妥当。
 
 
しかし、電場に磁場が伴うかどうかは、偏光性の実験だけでは不明。
 
少なくとも、物理学の教科書を読んでも、「電磁波で方位磁石が動きました。」なんで実験例は書いてない。そりゃあ、ラジオ波とかの1000kHzとかに追随して動く方位磁石なんて、無いもんな。
 
よほどの低周波(1ヘルツ以下)とかなら、もしかしたら方位磁石を動かせるかもしれないが、しかし、そういう実験例は寡聞にして聞かない。
 
 
なお、ヘルツの実験回路にコイルはついているが、しかし、このコイルは高電圧を作るための変圧器であり、けっして周波数選択などを行うためのものではない。
 
 
ヘルツの実験の時点で、すでに光学の偏光素子が知られていた。また、マクスウェルも、光は電磁波だと予言している。
 
なので、ヘルツの検証した放電の遠隔作用の性質が、光の性質と似ているので、光は電場の波であるというのは、ほぼ間違いない。
 
 
しかし、この実験結果のどこにも、磁場の波は観測されていない。放電という現象はあるが、しかし「放磁」という現象は無いので、どうやっても直接的には磁場の波を観測できない。
 
 
マクスウェルの予言が当たったことは、マクスウェルの理論の実用性の証明にはなるので、高校や大学などでのマクスウェル理論の教育的な意義はありそうだが、しかし、マクスウェル理論が真実かどうかは別の話。
 
実は、磁場の波は観測できず、証明されてない。
 
 
なお技術史的には、発電技術による高電圧や高周波の発電こそが、無線通信のためのブレークスルーである。
 
ライデン瓶などによる放電では、とてもじゃないが、通信インフラとしての実用性は無い。
 
欧米人を含む世間の連中は馬鹿なので、発電技術などを知らないので、マクスウェルとヘルツだけがえらいと思ってる(あとは、せいぜいエジソンとか。マクスウェルも偉いが)。
 
== 中学校公民の人権教育の偽善 ==
『[[中学校社会 公民/被差別部落とアイヌ問題]]』では同和利権のことを語れないので、[[w:同和利権]]を参照せよ。
 
なお、「同和」とは「同胞融和」の略語である。しかし、実際には、在日朝鮮人集落の住民など、まったく日本国民の同胞ではない外国人集団も混じっている。
 
学校でならう「江戸時代の『えた・ひにん』に基づく差別というのは、たしかに明治時代ごろには、そういう差別も過去には存在したが、しかし20世紀後半以降の現在での日本の「部落」差別の問題はそっちではなくて、どっちかというと、実は移民への差別のほうである。なので、西日本で「部落差別」が深刻なわけだ。
 
つまり、中学校の社会科の人権教育は嘘をついている。これは根本的には、政府や行政がそういったウソ・ゴマカシをしている。
 
 
なお、公権力による外国人への(自国民のよりも不利な扱いをする)差別は許される。これは世界の常識である。実際、1990年代のテレビのTBS番組『ここが変だよ日本人』でも、ゲストとして出演してた東大生が、レギュラー外国人にそう主張していて討論していた。「プライオリティ」(優先順位)という言葉を使い、自国民にプライオリティがあると。
 
しかし、21世紀現在の日本の中学公民の教科書は、あたかも、そのような外国人への不利な扱いが、まるで違法なように主張している検定教科書もある。
 
 
また、日本国民どうしでも、実は法では奨励されていないが、単に、民間人どうしによる、好き嫌いなどの個人的な差別は合法である。
 
もちろん、一般の小売店や各種の販売店などで「相手が金を払っても、部落住民を相手に物を売らない」などの差別は、各種の業界の規制法に違反していて違法である場合が多い。
 
しかし、じつは「結婚差別」や「就職差別」は合法である。一般地区に住んでいる日本人どうしでも、貧乏人は結婚や就職で、相手方の親から、「あいつとは結婚しないでほしい」と反対され、差別される。もちろん合法だ。
 
就職でも、たとえば都市の住民は、田舎の企業への就職で差別されたりする場合もある。都市から来られても賃金を高い払えないからと、採用では地元出身者の優遇をしている中小企業も多い。もちろん合法だ。
 
 
また、民間人どうしどころか、公権力による低学歴への差別も日本にある。日本では、学歴が低いと、公務員などの就職では不利になる。そして、その学歴取得の機会も、学費の高騰や、教育内容の時代遅れ化や形骸化の問題もあり、富裕層に有利にできている。教員免許とか、馬鹿でも大卒だったりすると取得がラクになるし、最高学歴が高卒では教員免許を取得できない)。
 
公権力ですらそういう差別者なのだから、ましてや私企業による就職差別は、よほど、悪意にもとづくものだとか公言しないかぎり、許されているのが社会の実態である。
 
なのに、なぜ部落出身者や在日外国人だけ、結婚や就職を歓迎して優遇しないと「差別」だと言われるのだろうか?(反語疑問文)
 
 
結婚についていうと、民法では結婚はそもそも、婚姻に親の合意はいらない(中学校でも習う常識だ)。単に、市役所に婚姻届けを出せば、婚姻は成立する。
 
なので、そもそも親は、婚姻を禁止できない。親には、区役所の職員に弾圧できるだけの権利は無い。
 
また、親にも思想信条の自由があるので、子供が誰と結婚するのを応援したり反対したりするかは、親の権利である。
 
しかし日本政府は邪悪なので、親のこの正当な 思想信条の自由 を弾圧しようとしている悪だ。
 
 
また、そもそも結婚(婚姻)は、法的にも、男女どうしで親から独立した世帯を営むものであるとされている。なので、道徳的にすら、そもそも親には、子供が誰かと結婚するのを応援する義務も無いし、結婚したあとの子供の家庭を応援する道理は無い。
 
結婚したあとにも親から補助を受けようと思うような貧乏人は、そもそも、産まれてくる子供がかわいそうなので結婚しないでほしい。
 
単に、親は、結婚したあとの子供について、養育の義務を失う。
 
 
また、成人した子供について、親はそもそも、成人後の子とは、家族として親密に交流する法的義務は無い(子供が親の監督に従わないでよくなるのと同様に、親も、子供と親密に交流する義務も無くなるのが法律だ)。
 
なので、子供に「〇〇したら、家族としての(親密に交流するという意味での)縁を切る」と親が言うのは合法だ。
 
 
このように、民法学的には、そもそも中学の人権教育は、完膚なきまでに間違っている。
 
もはや、中学公民の人権教育のアレは、馬鹿むけの建前だろう。政治学者の故・丸山眞男のいう「顕教」と「密教」の、顕教のほうである。
 
というか、そもそも結婚差別や就職差別は合法な選別だからこそ、無くならないのである。そして経済発展的にも無くす必要も無い。(違法だったら、そもそも差別者は逮捕されたりするだろうが、そんな話は寡聞にして聞いたことない。)
 
つまり、政府は無くす必要もなく、そもそも無くせるだけの法的な強制力も持たないのに、民間人どうしの正当な思想信条にもとづく選別を「差別」と認定して批判しようとしているのである。
 
けっして、このような政府の恣意的な思想弾圧を許してはならない。
 
 
== プログラミングの勉強法 ==
そもそもプログラミングよりもITを通じた社会貢献(コントリビューション)のほうが必要なのだが(たとえばウィキペディアを更新するのも、立派な社会貢献)、とりあえず、もしプログラミングを勉強する場合は、勉強法は下記のとおり。
 
プログラム言語の正しい勉強法は人それぞれだが、しかし間違った勉強法のパターンは定型的である。
 
それは、けっして、プログラム言語の文法そのものの習得を目的には、してはいけないことである。
 
たとえば、自転車の歴史にくわしいけれど、肝心の自転車をこげない人、普通の企業では、いらないよね。このように、たとえ、そのひとの知識が正しくても、実社会では、正しいだけで実用法をともなわない知識は不要である。
 
プログラミングの目的は、一般的には、あくまでもアプリケーションを作ることである。たとえ、プログラム言語そのものを作るにしたって、実際にコンパイラなどのアプリを実装する人が必要である。
 
困ったことに、文法そのもののマニアのほうが、一見すると知識があるように見える。しかし、社会で不要である。
 
たとえその人が、個人作業ではアプリの作り方を知っていて実際にアプリを作っていたとしても、そのアプリやコードを普段から発表・公表していないかぎり、集団作業では迷惑である。
 
たとえるなら、抽象画の絵描き、みたいなもんである。絵描きだったら、普段から絵を描いて発表してね、ってのと同じである。プログラムは難解なので、一見して価値が分かりづらく、もし絵画に例えるなら抽象画みたいなもんだ。
 
絵描きにたとえるなら、客がある絵描きの事務所を訪れ、いま急に客の目の前で数日間も掛けて絵描きに絵を描いてもらって、そのイラストレーターが絵をうまく描けていたとしても、その絵を完成のあいだまで(絵描きの部屋で)客が待たされるのは(客にとって)時間の無駄だ。まして、その待機の間は客は仕事などが停滞して、むしろ客の人生にとって邪魔になる。
 
あるプログラマーが普段からアプリもコードも発表せずというのも、そういう迷惑な絵描き事務所と同じである。
 
 
なので、なるべく普段から作品にあたるアプリやコードを公開してくれる人であることが、必要である。
 
 
さて、アプリケーション制作のための学習では、とりあえず単純なアプリケーションを制作していくのがよい。
 
:四則演算だけの電卓のような簡単な計算アプリケーション、
:または、二次関数や三次関数などのグラフを図表にあらわすソフトなど、
比較的に簡単に作れる。
 
実社会でも必要な能力は、こちらである。
 
あるプログラム言語で、「Hello World」としか書けないサンプルコードしか公式サイトで紹介されない言語は、社会では、いらない。
 
あるプログラム言語の公式ブログなどで、ハローワールドのサンプルコードと、あとは数点のサンプルコードしか紹介しないような言語もあるが、そういう習慣は悪い習慣である。
 
なぜなら、単に文字を表示するだけなら、わざわざプログラムをする必要は無く、Windows「ペイント」のようなアプリでも充分だからだ。
 
ホームセンターでドリルを買っていく人の欲しい結果は、穴である。ドリルは手段でしかない。
 
プログラム言語も、手段でしかない。しかし、手段と目的を履き違えたような、プログラム解説本は市場に多い。
 
 
 
アプリケーションを作らない人がアレコレといってたりするが、実務を無視した机上の空論なので、知ったかぶりか思い上がりなので、放置でよい。なので、大学・学校などで習う、ポインタの知識とかは、よほど最先端のIT技術か、組み込み系にでもいかないかぎり、じつは、ほとんどの人の実用では、ほぼ不要である。
 
 
工業の技能の習得では、切削や折り曲げなどの基本的な技能を「単位動作」または「単位作業」などと呼ぶ。そして、どんな高度な職人技でも、単位動作の組み合わせでしかない。
 
アプリケーションもそれと同じで、実は高度なアプリでも、中身は、基本的なアプリの組み合わせである。
 
なので、市販の手抜きの自称「初心者むけ」プログラム解説本にあるような、羅列的に組み込み関数を説明したような本は、根本的に著者の思考が腐ってる。
 
 
習得させるべきは、アプリ開発のための単位動作である。けっして、組み込み関数そのものは学習目的ではない。
 
正しい発想は、「電卓をつくるのに、○○の組み込み関数やAPIが必要だから、しかたなく、その組み込み関数やAPIだけを習得する」のである。
 
 
例外的に特殊な仕事では、そうでなく羅列的な組み込み関数群の解説も、専門家のための確認には必要かもしれないが、しかし初心者には不要である。
 
 
たとえるなら、もし製造業で技術者が機械設計をするときに、機械要素を無視して量子論を語る人は不要である。電子回路設計をするときに、実用電子回路のデバイス特性を無視して量子論を語る人は不要である。たとえ、そのひとの量子論の知識が正しくても、設計の現場では邪魔である。
 
 
必要なのは「使える知識」である。「正しいだけの知識」を主張する人は、たいてい迷惑な人物である。
 
人間どうしの会話と同じである。
 
 
会話では、相手の聞きたがってそうな情報を提供しつつ、自分が相手に聞いてもらい情報も提供したり、自分の知りたい情報を相手から引き出したりするのが、
まともな大人のコミュニケーションである。
 
しかし「正しいから」といって、相手に当分のあいだは不要になりそうな知識を長々と何時間も羅列的にしゃべる人は、単なる、精神異常者であり社会不適合者である。
 
しかしIT業界の人間は甘やかされてる人も多いので、こういう社会不適合なコミュニケーションをする人が多い。
 
そして出版でも、そういう社会不適合なようなIT解説書も書店には多い。
 
 
組み込み関数・API中心の学習中心ではなく、単位作業的なアプリケーションの組み合わせで考えることの利点として、もしプログラミング言語やOSが変わっても、応用が利くという長所がある。
 
組み込み関数中心の学習の場合、もしそれが特定のOSの提供するAPI組み込み関数の場合、OSが変わったりすると、技術を覚えなおしになる。
 
 
それでも(プログラム言語の組み込み関数を中心とした学習でも)、もし標準C言語のような、黒いコマンド端末のコンソール画面に文字の表示されるだけの技術なら、組み込み関数を中心に学習するのもよい。だが、現在のグラフィカルでマルチメディアなアプリケーション開発を学ぶ場合、そのようなOS特有の組み込み関数中心の学習は、応用がきかなくなり、ベンダーロックインされる。
 
今までのIT学習法の、組み込み関数、組み込みAPI中心の羅列的な学習法は、コマンド端末の隆盛だった1980年代ごろの時代の学習法に基づいており、パソコンのOSの性能が未熟だった時代の学習スタイルである。まったく、グラフィカルなアプリ開発のための技術習得では、実用的な学習スタイルではなく、もはや時代遅れの学習スタイルである。
 
== 動くコードを書く人を信用しよう ==
たとえば、イラストレーターの界隈では、絵をかかないで作品を発表しない人が、どんなにイラストの技術論をかたっても、まったく実際の絵描き職の界隈からは信用されない。
 
仮にその、絵を描かないでイラストの技術論をかたってる人の主張のなかに、部分的に正しい点もあったとしても、
 
そんな一部の長所を何ヶ月もの時間を使って探すよりも、
 
実際に絵をかける絵描きに金を払って技術論の著作でも執筆してもらったほうが安上がりで早い。
 
 
まして、そもそも、その(絵を描かないで技術論をかたる)人の技術論が正しい保証すら、無い。
 
しかし、実際に絵をかける人の技術論なら、すくなくとも、その人の絵をマネするくらいには、役立つ。
 
 
 
プログラミングの世界でも同様である。
 
信用するなら、つたないアプリでもよいので、実際に動作するプログラムのコードを書ける人、
もしくは、実際に動作するアプリの製作者を、信用しよう。
 
 
そして、そういう人を見分けられるようになるには、ためしに自分でも実際になんらかのアプリケーションを制作してみるのがよい。
 
というのも、IT技術では、実装のさいの制約がいろいろとあるのだ。
特定のミドルウェアをいくつもインストールしないといけないとか、それらミドルウェア郡の文法にしたがわないといけないとか。
 
 
そして、実はネット上の電子掲示板などのアマチュアのIT評論家のなかには、そういう実装の確認をあまりしてない人が、そこそこ多くいる。
 
新しい規格やIT情報などが出現すると、それを勉強するが、しかし肝心のプログラミングで実験しない人は、けっこう多いのである。
 
たとえば、新しいプログラム言語が出てくると、その言語の情報をネットで勉強するのだが、
しかし、まったく、実際にコンパイルして実行ファイルを作って確認したりはしないで、ただネット上の文字のみの情報を追いかけているような人。
 
こういう類(たぐい)の人は、けっこう多い。プログラマーでも、そういう、実験をしたがらない人が多くいる(日本企業では、なかなか首にできない)。
 
 
また、日本では、そういう動くコードの書けない人でも、「基本情報技術者」みたいな名前の資格を取れてしまう。
 
資格試験は、必ずしも特定のプログラム言語を目的にしたものではないので、試験でもプログラム技能は問われないが、しかし消費者のなかには、それに胡坐(アグラ)をかいて、いつまで経っても資格試験だけの肩書きのための机上の知識を求めていて、肝心のアプリ製作を始めようとしない人は けっこういるようだ。
 
 
IT技術は膨大にあるので、すべてを実験するのは困難だが、しかし、せめて、本人の一番得意とする分野のIT技術くらいは、
実際にコンパイル、ビルド、実行などの実験くらい、しておいてほしいものである。
 
 
 
自動車の開発では、最終的には実際にその自動車を組み立てて、走行試験などの実験をする。
 
ITでも同様、最終的には、そのソフトを実際にビルドして実験する必要がある。
 
 
現在では、製品レベルの高度なアプリは、ミドルウェアを使って集団作業で分業で設計するのが主流なので、そのミドルウェアの機能に制約される。
 
ミドルウェアを使わないで開発することは、開発費や検証作業が膨大になり、非現実的である。
 
 
こういう、ミドルウェア郡の対応状況などは、たいてい、ぜんぜんISO規格などに規格化はされてない。
 
なので、対応状況を調べるには、実際に実験をして調べるのが確実である。
 
 
 
さて、実際の企業などでのIT業務は集団作業であるので、開発に採用するプログラム言語などの技術は、教育をしやすい技術であることも重要である。
 
そのプログラム言語の、初心者むけの解説書や解説サイトや電子掲示板などが、
(すくなくとも日本では)充実していることも、重要である。そのコミュニティが、情報のやりとりをしやすいコミュニティであることも、重要である。
 
 
けっして、BSDコミュニティのように、ハッカー気取りの老害で閉鎖的で教育も不熱心なあげく、Linuxに淘汰された馬鹿コミュニティのようなハッカー気取りの馬鹿の真似はしてはならない。
 
 
また、ユーザー側からの視点でも、使用するOSの普及状況による制約、ネット環境の回線速度などの限界による制約、いろんな制約がある。
 
極端な例をあげると、たとえばゲーム開発で、
もしWindowsでない新規のOSをあなたがアセンブラなどを活用して設計して、
その新OS上で動くゲームソフトを設計しても、
 
世間のほとんどのPCゲーマーはWindowsユーザーなので、独自OS上のゲームなんて、ユーザーにはメリットが無い。
 
なので、現実的な実装の確認できない技術には、あまり価値が無い。
 
 
極端な例をいうと、ポインタだのC++だのの文法を勉強しているだけで、なんのアプリも作らない人(大学生で、よくいる)よりかは、
 
ゲームソフトなどをRPGツクールなどでもいいので実際に制作する人のほうが、プログラミング技術としては優秀である。
 
日本の大企業がIT企業でも大卒を採用するのは、単なる学歴フィルターでしかないし、大学レベルのプログラミングなんて信用してない。
 
 
もしIoT家電などの組み込み系ならポインタとかそういう知識も必要かもしれないが、同時に電子回路などのハードウェア実装の知識もある程度は必要なので、
 
どっちにしろ、実装を無視してる人はいらないし、いても実務の邪魔である。
 
 
 
さて、wikipediaおよびwikibooksの仕組みでは、アプリケーションをアップロードするようには、できてない。
 
また、原則的にwikipediaは、GitHubのようなコード公開サイトではない。
 
 
なので、ウィキペディアでは、プログラミング技術は あまり細かく教えられない。
 
なので、プログラミング勉強でのウィキペディアの利用は、
あくまで初心者段階での、少しのあいだだけ、書籍購入費などの費用を節約するための手段として割り切って、
 
実際の勉強は、無料の勉強なら外部サイトや外部ブログなどで行おう。あるいは書店で有料の本を購入しよう。
 
 
 
 
 
 
;ITの勉強の仕方について追記
* linuix 関係
まず、書店にある、Linuxの勉強法は、方向性が かなり間違っている。
 
なぜ、 Linux の用途がサーバーだけなのか?
 
まあ、「デスクトップ用途が知りたければ、雑誌(『日経リナックス』とか)を読め」ってことかもしれんが。
 
でも、そういう事だって、ちゃんと初心者に紹介する必要あるでしょ。技術書の出版社は仕事をサボっちゃアカンよ。
 
 
あと、サーバー用途で使うにしろコマンドが微妙に古い。資格書に「yum」とかあったけど、yumは廃止される予定じゃん。
 
まあ、これも雑誌で最新情勢の確認できるのかもしれんけど、だったら、やっぱ「雑誌で確認しろ」という事も教える必要があるよなあ。
 
 
* 機械語やアセンブラ
あと、機械語の勉強で気づいたが、最初にインテル記法とかAT&T記法とかを覚えさせるのはマチガイ。
 
 
まず、実際に流通しているOS(Windowsなど)で、実際のアセンブリコードがどうなってるかとか、じっさいの機械語がどうなるかを確認すべきだ。
 
小学校や中学校で習うITの授業だって、マズは実社会で流通しているソフトの動作から習う。
 
そうしないと、二度手間の確認作業になってしまう。
 
英語と同じで、英語では、細かい文法を習うよりも前に例文を英語では習うが、機械語の周辺の学習もそれと同様。
 
あと、日本規格のCASLを覚えるのは、あまり得策ではない。日本では教育用にCASLが提案されていて工業高校でも教えているが、しかしCASL学習は実務とのギャップで二度手間になる。
 
私も2001年ぐらいにCASLの本を読んだが、結局、2019年の今まで身につかなかった。
 
どうしてもCASLを学ぶなら、あらかじめ、X86系とかWindows周辺での機械語の実例をある程度は身につけてから、CASLを学習するほうが良いだろう。(資格試験ではダメかもしれんが。つまり、資格試験が、なんか実務からズレている。)
 
 
* サル真似の日本人IT技術書
おそらくだが、日本のプログラミング教育やIT教育は、アメリカの教科書や技術書を翻訳しただけの猿真似である。
 
なので、英語圏で存在しない書籍は、日本にも無い。
 
たとえば、パソコン初心者むけの Windows32 API の本なんて、日本には無いが、アメリカにもなさそうである(少なくとも、そういう入門書は、日本語に和訳されていないし、日本の出版市場でも和訳書を確認できない)。(※ 入門書でなく、リファレンスマニュアル的な分厚い書籍なら、すでに出版されている。)(※ ネットにwin32APIの有名な解説サイトは日本語であるが、しかし初心者むけではない。)
 
なので仕方なく、私がウィキブックスでプログラミング初心者むけに[[Windows API]]を書き始めたような状況である。
 
また、たぶんだが、大衆は自己中心的なので、実際にIT技術で社会を改善するよりも、資格試験とかの対策本を買うような人が多いのだろう。
 
== 中学校教育での議論や報告書の教育の間違い ==
中学校の国語での議論の教育で、「お互いの意見の妥協点を見つけましょう」とかあるけど(※ 東京書籍の中3国語など)、しかし、それは間違いなのである。
 
まず、この考え方のまずいところとして、悪人に悪用されて、悪人が過剰な要求を議論の形式でしてくるのである。
 
 
 
悪人「お前はオレに100万円を払うべきである! 」
 
善人「はあ? 借金もしてないのに、あなたにそんなことする理由ないでしょ?」
 
悪人「理由がないだと、だったらどう理由がないのか説明したまえ!!」
 
善人「は? なんでそんなことを説明しないといけないんですか?」
 
悪人「あ、おまえ、説明の議論から逃げたな! よって私の意見が正しいのが証明された!! 私の勝利!!!」
 
 
みたいな感じ、にである。
 
 
これは極端な例であるが、これを薄めた感じの悪人というか馬鹿は、世間に多く存在する。
 
「お前はオレに100万円を払うべきである! 」では極端だろと思っても、しかしちょっと言い方をかえて、「金持ちは貧乏人に金を施すべきである!!」とか「男は女に金を(以下略)!!」とかのような、あたかも博愛主義的な意見に言い換えて、意味不明な要求をしてくる悪人が多いのである。
 
つまり、「議論」の形式をした、タカリや嫌がらせをしてくる人間がいる。そして困ったことに、世間のバカは、それが議論のフリをしたタカリであることに気付かない。
 
残念ながら、日本の大人のけっこうな割合は、そういうレベルの馬鹿である。
 
 
 
また、民主主義の教育としても、無理矢理な意見の妥協は間違っている。
 
なぜなら民主主義というのはそもそも、多様な異なる意見が同じ時期に同じ場所に存在してもいい制度である。
 
国会議員の野党は、与党の定めた法律には原則的には従うが、けっして意見に賛同しているわけではない。与党の意見に強硬に反対する野党議員や野党政治家すらいる。
 
 
なのに、与党案が国会で採決されたからとして、ひとつの意見しか認めないなら、それは全体主義や独裁主義である。
 
 
もちろん、国会や県議会などの会議などは、その団体の行動を決めるために採決なども必要であろうし、ある議員が自分の案への賛成派を増やすためには、ほかの議員との妥協も必要だろう。
 
しかし、議論はけっして政治家の会議だけではない。
 
 
また、政治の議論としてすら、中学教科書の「議論」の教育は間違いである。たとえば、どんなに多くの有権者が支持しても、実現不可能な政策は実現不可能である。
 
外交でも、アメリカも中国も妥協はしてくれない。
 
2009年ごろの民主党政権の鳩山政権の沖縄の基地移転問題の顛末を考えれば分かるだろう。
 
日本は、学校での議論教育が間違っているのである。
 
 
 
 
まして、科学技術では、知識人や技術者などは一切、馬鹿の意見には妥協してくれない。
 
実際、たとえば医者は、馬鹿のニセ医学には一切、妥協しない。
 
 
 
議論の教育の間違いだけでなく、報告書の教育にも間違いがある。
 
ある教科書出版社の報告書の教育では、あいかわらず「起承転結などの構成を意識して」とか書いてある教科書出版社もあるし、困ったもんだ。
 
まあ、「企業などでの実務では、物語ではないのだから起承転結では書かないように意識する」って意味ですかね(笑)。
 
報告をするときは、要点を先に書くのは、ほぼ企業での決まりごとである(大学はそうでもないかもしれないが、しかし「大学のほうが間違っている」と、企業では見られている)。
 
たとえば、電話セールスとかの営業トークって、要点をなかなか話さないでしょ。アイツら電話営業セールスは、たとえば電気関係や通信関係の企業などだと、あたかも公共機関の関係者であるかのように装ったりするでしょ。もはやペテン師ですよ。
 
で、要点を先に話さない・書かない報告のスタイルってのも、ペテン師どもの話法と同じだって、マトモな企業の実社会では、見られてるんだよ。
 
このように、心にヤマしい事がないなら、要点を先に話せるんだよ。つまり、そうしないヤツは、もはやペテン師で社会悪だ。
 
表現の自由 とか 言論の自由 とかの都合で、しかたかく、要点を先に話さないスタイルも法的には認められているだけに過ぎない。
 
 
 
さて、議論の教育でマシな教育をしてる教材はですね、参考書ですよ。旺文社の参考書がいちばん良くて、大人でも使えそうな内容である。
 
他社の参考書はそれよりは子供向けで(大人用としては)劣るが、検定教科書よりかは、はるかにマシである。
 
 
たぶん、検定教科書では原理的に無理なんでしょうな。
 
ほら、たとえば「自衛隊は実質的に軍隊である」という事すら、社会科の検定教科書では教えられないでしょ?
 
たぶん、それと同じで「議論」の教育も、公教育や子供むけの教育では根本的に難しいんですよ。
 
 
 
 
 
「議論」ってのは、べつに「したから偉い」んじゃなくって、国政などのために「しかたなく行う」ものですよ。
 
たとえば、近所でスーパーで買い物をするときに、「議論」が必要ですかね?
 
買い物のときに店員に議論をふっかけても、営業の邪魔だから迷惑だし、店から追い出されるぞ。
 
 
ビジネス以外の若者文化でも同様だ。
 
たとえば、ミュージシャン志望の若者が、楽器の練習をなにもせず、音楽の流行について友人と議論をしたら、夢に近づけるんですか?
 
たとえば、イラストレーター志望の若者が、イラストを書く練習をせずに、イラストの流行について議論をしたら、夢に近づけるんですか?
 
 
そういう事ですよ。一人で練習したり勉強したりできることは、いちいち「議論」の必要は無いんです。
 
なのに議論ばかりしたがる人は、つまり、自分からは何も練習してなくて勉強もしてない、なのに、なんか「通」(つう)ぶりたい、
なんの努力もしてない馬鹿で怠惰のくせに褒められたがってるゴミ野郎ってことだ。
 
 
そういえば大学なんかでも、議論ばかりしてて実験も統計調査もしない学部ってのは、アレですね。
 
 
 
議論の必要な場合とは、たとえば国政や自治体の政治などのように、住民みんなが参加者みたいな場合に、しかたなく代議をするんですよ。
 
公共機関でも、しかたなく職員などによる議論は必要かもしれない。
 
でも、民間企業では、オーナー企業なら、議論は ほぼ不要だ。
 
 
科学みたいに実験で確認できるような分野でも、議論の価値は低い。科学で必要なのは、「議論」ではなく、実験や計算などの「検証」である。
 
科学的検証も広い意味での「議論」なのかもしれないが、少なくとも中学教育で習うような「議論」とは科学的検証は大きく違う。
 
== メモ書き: 高校歴史教育のダメな点 ==
(2018年5月27日に初公開)
 
高校の日本史教育のダメな点は、知識の根拠が書かれてない事である。
 
たとえば、五カ条の誓文について、検定教科書では、しばしば、「天皇が神々に誓約する形として出された」などと紹介される。しかし、検定教科書を読んでも、どのような史料にもとづき、史実がそうであるかを証明できたかの根拠は、教科書には無い。
 
 
もし数学教育だったら、定理を教える時は証明とセットに教えるので、論理的思考の教育にもなる。
 
しかし歴史教育の場合、証明が書かれてないのだ。
 
百歩ゆずって、小学校や中学での歴史教育なら、人生で初めて習う内容が多いし、証明まで授業では出来無いのは、時間的に仕方が無い。
 
しかし、問題は高校教育である。
 
中学でも『五カ条の誓文』なんて習ってるわけだから、本来なら高校では、もっと知的に質の高いこと(たとえば根拠など)を教えるべきなのであるが、しかし残念ながら、現状の高校教育は、暗記させる教育内容が細かくなっただけである。
 
百歩ゆずって、高校に入ってから新しく習う分野なら、暗記させるだけってのも仕方無い。
たとえば、大正期の政治家の山本権兵衛なんて、中学では習ってない人物であるから、そういう歴史人物については暗記させるだけになるのも仕方は無い。
 
問題は、すでに中学で習ったことについても、教育内容は暗記のオンパレードであるという事だ。
 
 
近年、「文系は馬鹿」とよく言われるが、理系教育と文系教育の質の差は、けっして知識の細かさではなくて、証明の有無の差なのである。
 
理系教育には証明がついているから、新説が発見された時などの教育内容の修正も容易だし、学校でまだ教わってない事にも予想が立てられるし、数学のように実験設備を使わない分野ならば学生だけでも研究するのが容易なのである。
 
しかし、文系教育には、教育内容に証明の欠けている教育課程も多く、そのため、研究者には検証の手間が雪だるま的に蓄積していき、教材があまり役立たないのである。
 
コンピュータのプログラムの業界では、「バグのないことの検査をされてないソフトウェアは、資産ではなく負債」という表現がある。
 
文系教育の現状も同様である。現在の文系科目の教育内容では、証明が大幅に欠落しているので、研究者には検証の手間が膨大に掛かり、膨大な作業負担になるのだ。
 
また、学生が論理的に教育内容の理解をしようとすると、教科書以外にも専門的な文献を探すなど、膨大な検証の作業が必要になるので、不可能である。しかも、その専門的な文献がどこにあるのかすら、なんて題名の学術書がどういう理由でオススメなのかすらも、教科書ではロクに説明されてない。
 
なので、つくづく文系教育が役立たない。
 
早い話、現状の文系教育は馬鹿の拡大再生産。
 
:歴史科目の教育内容に証明が無い → なので思考力などの低い馬鹿でも東大とか京大にも入れる → 馬鹿だけど東大卒・京大卒なので学閥により歴史学会で権力を握る → そしてバカ学者の書いたバカ向けの日本史の検定教科書が作られる → ますます、思考力の低い馬鹿が東大とかに入る → 馬鹿が歴史学会で権力を握る → (以下、繰り返し)
 
『聖徳太子』と『厩戸王』と『厩戸皇子』とか、『ABCD包囲網』と『ABCD包囲陣』とか、『鎖国』の表現の是非とかも同様である。
なぜ、そのように言い換えをしたいかは、検定教科書には書かれておらず、単に、「この言い方をしろ」って(事実上の)命令してるだけである。なので、読んでて、あまり役立たない。
 
たしかに『ABCD包囲』なんとかは網(アミ)ではないが、しかし『ABCD包囲網』について当時の文献を読むときには、21世紀ごろになってから言い換えられた『包囲陣』ではなく『ABCD包囲網』って元々の表現の知識も必要だ。
 
『聖徳太子』が死後に何十年〜何百年も立ってから厩戸王につけられた名前だとしても、厩戸王の死後に書かれた歴史史料を読む場合だってあるだろう。
 
こういうふうに、時と場合に応じて必要な知識は変わるから、どんな場合にも対応できるように、用語の根拠も必要なのである。しかし、検定教科書に用語の根拠は無く、歴史学会あたりが決めた用語を押し付けるだけである。
 
== センター試験は難問である ==
2ちゃんねるとかでさ、「マーチ合格は3ヶ月の勉強で余裕!」とか言ってる馬鹿っているじゃん。あれ、本人はまともに合格点を取れない馬鹿だよね。
 
あと、もしマーチが簡単な問題を出したとしても、競争相手の受験生だって、同じ入試問題を解くのだから、結局、そんなに簡単には合格点を取れない。
 
 
で、本題の「センター試験は良問!」「センター試験は簡単!」と言ってる教育評論家も、それと同じ。
 
そりゃあ、浪人して受験勉強ばかりしてたら、そのうちセンター試験も多く解けるようになるよ? でも、それって、教育政策的に意義あるの?
 
センター『世界史』なんて、受験評論家の和田秀樹(東大卒の医者)ですら、センターの『世界史』は難しいって著書で言ってたりするんだぜ。
 
そういう科目が含まれた地歴公民を、国立理系の大受験生の足切りにするのに、果たして意義あるの?
 
 
たぶん、「センター試験は良問!」「センター試験は簡単!」って言ってる馬鹿評論家は、本人はまともに合格点を取れないよ。
 
昔、センター試験の初期のころの、まだ手探り状態だった時に、入試で突破しただけでしょ。もしくは、共通一次時代とか。
 
 
 
あと、センター試験は東大医学部ですら地歴公民は1科目までなので、実は高校で習う地歴公民の知識のバランスが欠けてても、センター入試を突破できる。
 
 
馬鹿なヤツほど、問題の難易度が分からないんだよな。
 
そういう馬鹿は「自分は答えを知ってる」問題が簡単な問題であり、 「自分でも答えを知らない」問題は難しい問題であると主張する。
 
または、教科書にとりあえず説明してある事項ならば、たとえ本文外の表に書かれた知識でも「簡単な問題である」と主張する。
 
でも、違うんだよ。
 
 
難易度の正しい評価基準は
:「教科書を理解していれば解ける問題か?」と
:「そもそも、その教科書は、マジメに全教科を勉強していれば、高校3年以内に解けるようになる問題か?」
の2点で、大学入試の難易度を考えるべきだ。
 
センター地歴公民は、明らかにバランスの悪い勉強法を、受験生に要求している。実際、理系の学生は、センター地歴公民を1科目(「地理」または「倫理政治経済」)に絞って勉強せざるを得ない現状である。センター理科の基礎科目と比べて地歴公民は、明らかに学習に掛かる時間が多すぎる。
 
また現状、センター地歴公民は、どう考えても、高校3年間の時間では、理解が追いつかない。あれを「理解した」と言ってる評論家は、たぶん、なんにも理解できてない馬鹿である。 アメリカのスタンフォード大学の歴史学教授が、日本の山川出版の教科書を「アメリカでは大学レベル」と言ってるくらいだ。
 
また、センター数学は、短い時間で多くの問題を解かせるので、時間切れになりやすい。
 
なので、解法を知ってても、試験なれしてないと高得点を取れないことでも有名であり、センター数学は悪評が高い。
 
でも馬鹿評論家は、「センター数学は高校教科書に書いてある解法で解けるから、センター数学は簡単だ。これが解けないヤツは馬鹿」とか言い出す。お前が馬鹿なんだよ。
 
 
* 高校生に相応しいのか?
大学の歴史研究者育成のための基礎トレーニングとしては、山川などの高校の地歴公民の教科書は、すばらしいだろう。
 
でも私は、山川や帝国書院などのあの教科書が高校生に適したトレーニングとは思わない。
 
 
たとえば、「債権」と「債務」の違いすらロクにしらない高校2年生に、「○○年、アメリカが債権国になった」とか暗記させて、何の教育になるんだ?
 
でも馬鹿な評論家は、「教科書に『○○年、アメリカが債権国になった』と書いてあるから、この問題は基礎レベルだ」とか言い出す。
 
民法の内容も知らない子に、「日本では○○時代の○○年に民法が制定された」とか暗記させて、何の教育になるの?
 
 
結局、法律や経済学など、歴史以外の他学問の知識のバランス無しでは、歴史学の勉強では大した理解に到達できない。
 
 
 
* 教育改革の努力と「教育すべき」とは別問題
センター試験の試験問題を作成するのは、その時代の全教科書のチェックなどが必要で、センター問題の作成には膨大な手間が掛かるので、教育学的にはセンター試験問題は貴重な問題でもある。
 
でも、そのことと、センター地歴公民のアレを高校生に解かせる必要があるかは、別である。司法試験とか司法書士試験だって改革をしているが、高校生に要求すべき知識ではないのと同様に。
 
私が思うに、センター地歴公民のアレは、大学生(文系)や教員志望者に要求すべき知識だ。
 
結局、2000年ごろまでの文系大学バブルを参考にセンター試験は制度設計されており、また検定教科書もその文系バブル時代に合わせて作られている。
 
 
もちろん、高校教育の関係者の改革の努力は認めるが、しかし、そのことと「高校生に要求すべきか?」は別である。
 
マスコミでは、「センター改革で記述問題を導入か」とか議論になってるが、本質はそこではなく、そもそも5教科の教育内容のバランスが不適切になってるのである。
 
 
 
 
== センター試験の地歴公民の悪問 ==
=== センター政治経済の悪問 ===
第二次大戦後の日本での、労働組合法の制定の年度と、傾斜生産方式の年度と、経済安定化9原則の年度の順序が、2018年度センター試験で出題されている。
 
たしかに検定教科書に書いてある話題だが、年度の順序は政治学でも経済学でもない。
 
だいたい、人生で必要な知識は「傾斜生産方式とは何か? なにが原因で、それが必要になったか?」とか「経済安定化9原則とは何か? なにが原因で、それが必要になったか?」という理解であるし、若い高校生に必要な知識も、そうであろう。
 
経済安定化9原則の直接の原因は「復金インフレ」であり、「傾斜生産方式」とは直接の関係は無い。
 
GHQが労働組合を合法化したのは多くの高校生は知ってるだろうけど、それが傾斜生産方式の前か後かなんて、教科書を読んでて普通は意識しないし、検定教科書だって、そういう説明はしてない。
 
センター出題者の「多くの検定教科書に書いてありさえすれば、どんな問題でも出題してよい。」などと考えている意図が透けて見える。
 
* 前川レポート
2018年度センター試験で「前川レポート」の内容が出題。私は30年以上生きてきたが、初めて知ったぞ。2000年以降の生まれの高校生に必要な知識かしら?
 せいぜい、レーガン・サッチャーの新自由主義と絡めて「中曽根政権で、規制緩和や市場開放が行われた。」とかの知識で常識的には十分かと思うが。
 
=== センター「世界史」は悪問である ===
2018年のセンターで「フェビアン協会」について出題されたらしいが、私は「フェビアン協会」が何だったか、私は覚えてないです。
 
そんなことを知らなくても、wikibooksで世界史の教科書を古代史から現代史まで著作することは可能だ。
 
ニューオリンズを建設したのがフランスだってことも、私は知らない。南ティロルの位置なんて、私は覚えてない。
 
イェルサレムを占領したのが第何回十字軍だったか、私は覚えてない。『ローランの歌』の時代なんて、知らない。
 
ヘンリ2世とヘンリ3世の違いなんて、覚えちゃいねえよ。
 
 
=== 2016年のセンター地理Bの本試験はゴミクズである ===
南アフリカ共和国で英語が公用語かどうかとか、イギリス連邦にインドが含まれてるかどうかとか、この年度のセンター試験で問われてるが、そんな知識、社会で必要なのかね?
 
南アフリカ共和国で英語話者が多いのは、セシルローズなどイギリス植民地支配の歴史から、想像つきますよ?
でも、「英語が公用語かどうか?」まで、私は知らないし、そんなマニアック知識は検定教科書でも強調されていない。
 
世間常識で必要なのは、せいぜい「インドと南アフリカでは英語話者が多い。」「イギリスの旧植民地のなかには、イギリス連邦に加盟している国もある」くらいだろ。それにエジプトやミャンマーはイギリス植民地だったがイギリス連邦には加盟してない。植民地支配の歴史を知ってからと言って、解ける問題でもない。
 
この年度の問題は、他の問題も、重箱の隅をつつくような問題が多く、読んでて呆れて腹が立ってくる。
 
 
受験評論家が受験制度を擁護して言う「センターは高校の教科書レベルだ。センター試験は国立二次試験と比べたら簡単なほうだ。」なんて、ウソっぱちですよ。正しくは「教科書レベルでも解ける問題も部分的に用意されている」ってだけ。
 
センターの「英語」教科や「数学」教科は、国立二次試験と比べて簡単なのかもしれないし教科書レベルに近いかもしれないけど、地歴公民は、ぜんぜん簡単じゃないし教科書レベルを大幅に越えてますよ。
 
私、地理Bのすべての検定教科書を読んだけど、イギリス連邦にどこの旧植民地が所属してて、どこの旧植民地が所属してないかなんて、まったく分からないよ。
 
 
== でもセンター英語も難しいですよ、という話 ==
ちょっとプライベートな話になるんだけど、私が高校生のとき、地元の塾の同級生で、高校も私と同じで、英語の得意な同級生がいたんだ。その同級生、英検1級とかも持ってる子だったの。(なお、私の出身高校は、独協大の付属校なので、それなりに英語を志望する子が多く集まってる高校。)
 
でも、その子でもセンター受験の際、「センター試験の英語は難しい」と言ってた。これがセンターの難易度の現実ですよ。どうやら、英単語が難しかったらしい。
 
西暦2000年ごろの話だから、今と難易度が違うかもしれないけど、でも、とにかく彼が「難しかった」と言ってたのは事実。
 
べつに、センター英語が悪問とは言わん。しかし、難しいのは事実だ。
 
 
そりゃあ、センター英語に出る単語は、単語集とかに書いてある内容なのかもしれんよ。勉強すべき基本的な単語かもしれんよ。
 
でも、そのことと「簡単かどうか」は別。
 
 
なのに、どうも世間は
:「勉強すべきこと = 覚えられて当然のこと = 簡単なこと」
と混同して勘違いしているような気が・・・(世間の多くの連中の思考回路が小学生レベルなんだろうね。小学校のテストでは、覚えやすいことばかり出るから。
 
バカ評論家は大学で専門用語を詰め込んでも、思考回路が低いままなんだろうね)。
 
 
そして、こういう勘違いにもとづいて、日本の教育政策が立てられている、もしくは教育学者が教育論を主張しているような。
 
 
そりゃあ、東大・京大とか東北大とかの国立二次試験の英語テストと比べたら、センター試験の英語は簡単かもしれんよ。
 
 
でも、それは、他の入試と比較すれば「比較的には簡単」「相対的には簡単」というだけであり、けっして、高校生にとって「絶対的に簡単」ではないハズ。つまり、それほど難関校に合格するための入試は難しい。
 
どうも、こういう相対的な観点が、日本の自称・教育評論家に欠けてるような。
 
私は一応、大学受験では「そこそこ難関」とされるマーチ理系や芝浦工業大などに現役で合格した経験があるが、それでも「センター英語は難しい」と高校3年のときに感じましたよ。
 
そりゃあ、教育学者なんて文系の連中ばかりだし、理系科目の勉強をあまりしなくていいんだから、その学者は英語が得意かもしれないが。
 
だからって、理系志望の高校生とか、教育学と英語以外にも他に色んなことを勉強しないといけない若い子にも「覚えられて当然!」って要求するのは間違ってるでしょってこと。
 
 
最近、入試改革の英語の試験改革案(民間試験の導入)に反対したい連中が、デマで「センター入試の英語なんて簡単。教科書の勉強をしてれば普通にセンター突破できるよ。」とかホザく連中が多く、しかも残念なことに大学教員にもそういうデマを担ぐ教員がいる。しかし、そういうデマ教員にダマされてはいけませんよ。
 
「民間試験には、こういう欠陥がある!」とか主張してるけど、仮に欠陥があったとしても、そのこととセンター試験の難易度は別でしょ。
 
少なくとも、センター試験の難易度について、大学教員たちがウソをつくのを見るのは、私にとって不愉快だ。
 
どうも大学の学者は、民間試験賛成派と反対派の党派の権力闘争みたいなことをしてるらしい。
 
本来、学問ってのは、こういう権力闘争やら党派主義を超越して、事実を客観的に分析するものなんだがなあ。なのに、そういうことの出来ないで、党派で物事を語る大学教員の多いこと。
 
 
残念ながら大学教授や教育学者でも、「勉強すべきこと・勉強させるべきこと」と「細かく覚えさせること・細かく覚えて当然のこと」との区別がロクについてないらしい。困ったもんだ。馬脚をあらわしてくんないかなぁ。
 
「勉強すべきこと」と「覚えることの違い」ってのは、たとえば小中学校とかの社会科の地理の教科書にある具体的エピソードが分かりやすい例で、検定教科書には、たとえば○○県の農家の山田さん(仮名)とかの農業の具体的エピソードが書いてあったりするけど、そういう具体例は暗記の必要が無いってような事。
 
 
 
思うに、高校で覚えるべきことは、勉強の仕方である。
 
だいたい、高校は義務教育では無いんだから、高校で習うことに実社会での必要性は低い(「無い」とは言ってない)。なので、文法(英文法や日本の古典文法など)や高校レベルの数学・物理・理科などの基礎理論さえ練習しておけばいい、ってのが本来あるべき姿。
 
英単語などの、あとの各論的な知識は、どこにどんな感じの事が書いてあったかを目次的に覚えておけば実用では十分である。
 
仕事で必要になったら、各論は、参考書などで、その箇所を読み込めばいいんであって。
 
 
もちろん「どこにどんな感じの事が書いてあったかを目次的に覚えておく」には、目次よりも先のことを勉強をしておく必要がある。
 
英単語なら、単語集などで一度は目を通す必要があるだろうし、テストで単語力を評価するのも妥当だろう。
 
なので、入試などで、やや難しいことを出しておくことも、知識の全体像を教えるためには必要である。
 
 
 
もっとも、世間の教育評論家どもは「大学で覚えるべきことは、勉強の仕方」というが・・・。まいったな、本来なら高校生の段階で勉強の仕方を教えないといけないのに、それを日本の教育者たちはサボってきたわけか。
 
 
とにかく、「センター英語は簡単」的なデマが悪い。これのせいで、日本国民の各人の学力の自己評価がズレるのである。
 
 
一説には「日本の中学高校で習うことは、英語圏なら小学生でも知ってることだ」という。そうかもしれないね。
 
だからといって、「日本人でも高校生なら、英語圏の小学生レベルの英文が読めても当然!!」って主張はオカシイでしょ。
 
そんだけ、日本人やアジア圏の人間にとって、英語の学習は難しいんですよ。英語圏の人だって、日本人なら小学生でも読める和文でも、むこうの人はまったく読めないでしょ。
 
 
なのに、なんで私ごときでも出来る、この程度の思考すらも、しかし日本では教育学者や英語学者ともあろう人たちですら、ロクにできない人たちばかりなのか。
 
 
すげえ根本的な問題として、日本の大学教員って、ちょっと馬鹿な、受験マニアだっただけの人たちも混ざってるんですよ。きっと昭和戦後の昔、マトモな論文やら研究成果が書けなくても東大・京大とかを卒業すれば大学教員になれた時代が昔あったのだろうね。英語教育に限らず。
 
過去の大学で、単なる大学卒・院卒の受験マニアが自惚れただけの馬鹿でも大学教員になれた時代があったの。
 
 
そんな馬鹿の学者だから、私みたいな一介の理系の人間にすら劣る教科書すら、ロクに書けない学者ばかりなの。
 
ああ、そうだった、もはや教科書すら書けないような学者でも、日本では大学教員をしてるんだった。
 
大学教員ってのは本来、大人向けにマジメな学問の教科書を書けるような人達でもあったんだと思うんだが・・・。
 
== 批判: 2017年定義変更されたキログラム原器は、プランク定数をもとに定義できてない。 ==
まず、ニュースで『産総研、シリコン単結晶を高精密計測し質量再定義する値を決定 』
https://www.nikkan.co.jp/articles/view/00447907?twinews=20171025
とある。
 
これらのニュースによると、プランク定数をもとにキログラムの定義を算出するのに成功した、と産総研や米国NISTなどが発表している。
 
しかし、彼ら(産総研や米国NISTなど)の主張は間違いである。
 
彼らが成功したのは、'''キログラム原器をシリコン材質に変更するための、シリコン素材の物性測定に成功した'''だけである。(シリコン単結晶へと、キログラム原器の材質を変更する予定がある。それ以前は、プラチナ系の合金を原器の材質にしている。)
 
 
記事をよく読むと分かるように、このプランク定数を実験的に算出するのに、測定により、「重さ」と「体積」と「シリコンの格子定数」などを計測する必要がある。
 
これの計測によって判明することは、原器中に含まれる原子数でしかない。(いわゆる原子数密度)
 
たとえ、どんなに精度よく、シリコン球体の体積中の原子数を計測できたとしても、けっして、'''プランク定数を測定したことには。ならない'''。
 
なぜなら、ある体積中の原子数の計測から、誤差ゼロで算出できる量とは、'''単なる密度'''でしかない。けっして、プランク定数ではない。
 
 
よって、2017年の産総研や米国NISTなどの発表内容は間違いであり、真実は、「2017年定義変更されたキログラム原器はプランク定数をもとに定義できてない。」
 
なぜなら、キログラム原器のシリコン素材への材質変更の案件と、プランク定数への変更の案件とは、'''別件'''である。しかし報道では、これらが同じ案件だと誤解されているし、NIST自身が混同している。(そして産総研はNISTの下請けでしかない。)
 
 
さて報道内容によると、レーザーなどによって、原子数をシリコン球の原子数や格子間隔など正確に数えたらしい。(原子数は膨大なので、おそらく統計的な処理をしたのだろう。)
 
ともかく、このレーザー測定によって、キログラム原器の材質が将来的にシリコンに変わる可能性が高いし、シリコンへ材質変更すること自体は妥当だろう。半導体産業などでも安定的に高純度のシリコン単結晶を製作する技術が蓄積されている。(2017年以前は、プラチナ(白金)90%、イリジウム10%からなる合金製の金属塊)
 
 
しかし、シリコンへの材質変更は、けっして「プランク定数をもとにキログラムの定義を算出するのに成功した」ことには、ならない。
 
 
よって、キログラム原器の材質変更の案件と、プランク定数への変更の案件とは、別件である。
 
シリコンの単結晶の物性測定により、プランク定数がより精度よく測定できる可能性はある。しかし、そのことは、けっして、プランク定数にもとづく質量再定義という案件の妥当性を意味しない。
 
 
 
 
== 大学よりも高校のほうが、研究機関として優秀なんですよ ==
東京書籍の高校物理の検定教科書で、「副実像の公式」というのがある。
 
この公式は、近年の日本の高校生が発見した公式であり、ニュースにもなっている。
 
熊本県立の宇土高等学校の科学部の発見した公式だ。
 
 
他にも、高校生・高専生の発見した理論は、いくつもある。例えば国立米子工業高等専門学校の物質科学の学生が、卵の卵膜か何かで、燃料電池の実験ができる事を発見している。
 
 
アメリカでも、高校生が、製薬の発見をしてる。アメリカで、製薬会社チューリング社による特許で高価なHIV薬を、アメリカの高校生が特許を使わない形で製造する方法を発見し、オープンソース化した。
 
 
でも日本の大学では、このような実験は、出来ないんですよ。
 
なぜなら、大学では、カリキュラムが過密で、そのカリキュラムを消化しないといけないから、研究をしてる時間が、ほとんど無い。
 
私も理系の大学に通ってたが、研究をできた時間は、大学4年生のときの最後の一年だけだったし、その研究時間も、就職活動などで、ほとんど使えない。私が4年生で研究の時間を取れたのも、電機大に進学する以前に、法政大で単位を取ってたら、単位に余裕があって、卒業年次には研究以外の科目を履修する必要が無かったから、という幸運もある。
 
 
卒業研究とは別に、1年のころの実習などで研究的な事もあったが、あまり研究時間が取れなかった。また、しょせん実習科目である。
 
 
私は高校生の頃、「大学に進学したら、いろいろと研究をさせてもらえる」のだろうと思ってたが、結局、日本の大学では、ほとんど研究をさせてもらえなかった。
 
日本の大学で習ったのは、なにかの科目の試験問題の解き方である。
 
 
さて、高校生の発見した副実像の公式で使う数学は、行列計算(数学Cに相当)である。2次正方行列である。今では数学Cが廃止されたため大学の範囲だが、昔は高校で習ってたレベルである。
 
でも、大学で覚えさせられる数学は、これよりもずっと難しいですよ。3次以上の行列の対角化とか固有値とかの計算を、'''短時間で'''計算する練習とかをするんですよ。少なくとも工学部ではそうだ。
 
で、それをしないと単位が入らないし、進級できない。そして、行列の計算でそういう練習をしても、たったの4単位が入るだけである。(卒業までの約120のうちの、4単位。)
 
 
それでも、大学の数学の授業はまだマシで、ヒドイのは工学や物理などの専門科目である。物理や工学では、いくつもある実験の、解き方の分かった特定の条件の問題を、数式で表して短時間で解析的に解く練習をするんだ。でも、実務では不要なんだよな。
 
まず、実験をすれば、いちいち計算をしないでも、答えが求まる。そもそも、物理学者は、まず実験により答えを求めている。
 
また、たとえ理論を数式で表すにしても、物理学者は、その理論を短時間で計算する方法を覚えて、筆記で計算する練習などは、してない。
 
そして、せっかく努力して、それら工学・物理の公式を覚えて、その計算問題を解けるようになっても、「単に暗記科目を勉強しただけ」と数学者・物理学者にような連中に侮られる(あなどられる)。(私は法政の通ってた一時期、法政を進級できなかったので、他大の数学科に移ろうとした。父親が立教大の数学者に相談したところ(私の兄が立教の法学部卒なので、立教に相談のツテがあった)、「数学科は工学部のような暗記科目ではない」と言われたという。)
 
工学の授業を暗記だと侮るなら、そもそも、なんで工業大学で工学計算を必修にするんだ? 日本の大学教員どもは、ふざけるんじゃない。
 
 
数学や物理を学ぶことによる論理性の習得などが目的なら、もはや高校の数学で、ほとんど、その目的は達している。なんのために、大学の数学や物理の授業があるんだ?
 
工学の計算は、工業高校で習う程度で、実用上は充分である。しかも、高校だから定期試験は、100点満点中、30点以上をとれば済むんだよな。高校でたとえ赤点で追試になっても、追試問題には、本試験とほとんど同じ問題が出る。いっぽう大学の場合は、高校よりも遥かに難しい試験問題で、60点以上で、追試無しだったりするんだ(実際、私が体験した)。
 
 
大学進学直前に父親から聞いた話では、「工業大学の低学年では、工業高校で習うような計算をする」と聞いていた。
 
しかし、法政大に進学したら、そんな授業は無かった。大学高学年むけの教科書をつかって、試験問題を解くという授業だった。
 
で、私は法政を進級できなかったので電機大に移ったわけだが、その電機大ですら、似たような授業である。
 
 
昔の大学では、大学の低学年では工業高校で習うような計算をしてたのかもしれないが、2000年以降、そんなのは無いのだろう。
 
 
そんな大学工学の計算能力、不要なんだ。計算方法なんて、必要になったら調べればいいだけの事。そして、そもそも「短時間で」計算する必要なんて、仕事では存在しない。
 
そもそも工学の便覧とか工学公式集とかは、技術者が大量にある雑多な公式をいちいち暗記しなくても済むように、そもそも便覧とか公式集とかが市販されているのである。
 
そして、理科で使う数式ですら、基本的に高校レベルで、ほとんど代用ができる。
 
 
そもそも計算は、研究開発の出だしではないんだ。計算は、まず先に仮説を出したあとの検証方法でしかない。仮説を出す前に、まず先に、何かを試作するなどの実験が必要なんだ。
 
 
だからまず、研究のための、いろんな実験をしないといけない。
 
 
でも、日本の大学の授業は、そうなってないんだ。
 
実験をさせない、試作をさせないのが、日本の大学だ。もしくは、既に結果が分かった実験を、すでに知られている実験方法で実験するだけの、実習科目なのが、日本の大学での「実験」だ。
 
 
もはや日本では、大学よりも、高校の科学部みたいな場所のほうが、研究所としては優秀なんだ。
 
 
== 告発: 電気工学科はカリキュラムがメチャクチャ ==
私が法政大の電気工学科に在学していた頃の実体験である。
 
1年生で、電験1種の電磁気の過去問を演習する。電気学会の山田直平著の『電磁気学』の章末問題を解かせられる。
 
しかも、それを、短時間で解く練習をする。
 
2002年の電磁気の試験では、この教員が、試験の直前に、試験時間を短縮した。解答用紙には90分と書いてあったが、いきなり「試験時間を50分にする」と宣言した。
 
なお、のちにその教員は、異動になった。おそらく、教授会などで試験時間が決められてたのに独断で勝手に試験時間を変えたんだろう。
 
なお、電鍵1種の試験問題は、1問あたり30分として作られている。そのときの試験問題は5問だった。
 
 
そもそも、そういう国家試験問題を、1年生に出題する必要性がさっぱり分からないんだが? (なお電機大では、電子情報学科の3年次の選択科目で、同じ教科書を使っている。)
 
 
法政大の大学2年では、統計力学の授業があった。物理学者の加藤正昭が教員だった。当時の法政大の電気工学科に、熱力学の授業は無い。
カルノーサイクルも知らない学生に、フェルミ分布とか教えてるわけだ。
 
法政大には、そういう科目しかない。
 
しかし加藤さんは、一年の力学の授業も担当していて、こっちのほうは、普通の力学の授業だった。
 
おそらく、教授会か何かで、どっかの馬鹿教授が、熱力学もやらずに「統計力学を教えなさい」とか加藤さんに命令したんだろう。
 
 
2年のフーリエ解析の授業では、HPスウの教科書(森北出版)を使う。あの教科書に書いてある、いろんな工学応用問題が解けて、やっとフーリエ解析の単位(2単位)が入る。ラプラス変換の授業では、ラプラス変換を使った制御工学の公式を覚えて計算できるようにして、やっと単位(2単位)が入る(制御工学の公式なので、普通の解析学の教科書には書いてない公式である)。
 
定番教科書である裳華房の故・矢野健太郎(東工大名誉教授)の教科書に書いてあるような事を覚えても、フーリエ解析の試験問題は解けず、単位は入らない。
 
なので私は、法政大では、フーリエ解析・ラプラス変換の単位を取れなかった。
 
なお、いわゆる「電気数学」の授業は、当時の法政大には無い。とゆうか、「電気数学」の科目名で、HPスウの教科書(森北出版)を使う、フーリエ解析の応用問題の授業を、私はやられたんだが。
 
 
私は、こういう電気工学教育に嫌気が指したんで、他大の機械工学に移ったんですよ。法政大に嫌気がさしたんじゃなくて、「日本の電気工学自体に欠陥がある」と判断したんですね。実際その後、家電メーカーも半導体メーカーもボロボロになったし。
 
 
 
== 工業大学のカリキュラムはいろいろと腐ってる ==
いろいろと理系大学のカリキュラムを調べてみたが、どうも、まず偏差値トップクラスの高偏差値の工業大学のカリキュラムが腐ってるようだ。
 
で、この腐ったカリキュラムを、マーチだの理科大や芝浦工大などが真似してるので、日本中の理系大学がオカシイようだ。
 
 
まず、かつて故 矢野健太郎(東工大の名誉教授)などが数学教科書を書いてたような時代とは、もう、カリキュラムが違う。
 
たとえば、ある難関大学の2年のフーリエ解析のシラバスを見てみると、離散フーリエ変換とか、そういう雑多なことを教えてるんだ。
 
離散フーリエ変換とか、重要か?
 
離散フーリエ変換なんて、信号処理などの一部の分野でしか使わないぞ。(そもそも「信号」処理と言いながら、内容が、なんの情報処理にもなっていないが)
 
そしてその信号処理の理論自体、結局、あまり実務で使われてないぞ? 通常のフーリエ変換には、まだ使い道がある。物理の微分方程式を解く等の使い道だ。
 
しかし、そのフーリエ変換をまねて離散フーリエ変換だのの理論を構築しても、結局、なんの方程式も解けないのである。(離散フーリエは、けっして微分方程式の理論ではない。)
 
方形波などのデジタル波形であっても、そのデジタル波形をRLC線形電気回路に印加した場合電圧やら電流を解析的に厳密に求めたい場合には、離散フーリエではなく通常フーリエ変換を使う。
 
 
そもそも、デジタル波形をデジタル的に解析したい場合、デジタル電子回路の理論で、事足りる。要するに信号処理の理論は、淘汰されるべき破綻した理論だ。
 
 
「電気回路では複素数をよく使うし、RLC回路の解析でラプラス変換やフーリエ変換をよく使うから、デジタル回路でも類似の変換を考えたら役立つだろう」という仮説にもとづいて、世界各国の工学者が、離散フーリエ変換やらゼット変換とかを考えてみたわけだが、結局、役立ってない。
 
つまり、必要性があって作られたラプラス変換やフーリエ変換とは違い(「微分方程式を解く」という必要性があって、工学でのラプラス変換とフーリエ変換の理論は作られた)、必要性もなく離散フーリエ変換やらゼット変換やらは考えられた。
 
 
いちおう、離散フーリエやそれに類似する変換(ゼット変換など)で、差分方程式を解く事はできるのかもしれないが、そもそも高校数学の数列の解法で、実用上は充分だし、だいたい、離散なんとか変換の理論は単に、数列の理論を言い換えただけだったりする。
 
そして、数列の解法を暗記しないと試験時間内に解けないのと同じように、結局、離散なんとか変換の公式を暗記しないと解けないので、わざわざ離散なんとか変換を覚えても役立たない。
 
 
そもそもフーリエ変換ってのは、熱伝導のフーリエによる解析のように、不連続な微分方程式を連続的に解析手法である。矢野健太郎なども、そういうふうに教科書を書いてるわけだ。) フーリエさんは信号処理(デジタル波形の複素数列への変形)なんかしてねえよ、馬鹿教授。
 
数学の分からない馬鹿な工学者が、勝手にカリキュラムを変えて、どんどんと分かりづらいカリキュラムになってる。
 
本来なら、離散フーリエ変換をもちいたシステム解析などは、「信号処理」などの科目名で分けて教えるべきであるし、少なくとも矢野健太郎の時代はそうだったんだろう。
 
 
 
どうも、いくつかの工業大学では「フーリエ解析」の名前で、数学的なフーリエ解析の理論と計算ではなく、信号処理の理論を教えてるようだ。
 
特に電気系の学科で、その傾向が高い。
 
あるいは、ある大学では、そもそも「フーリエ解析」の科目自体がなく、「信号処理」という科目名で信号処理の数学理論をそのまま2年生か3年生で教えてるようだ。
 
ああ、頭が痛い。こんな馬鹿学者どもが、日本の電子工学の教育をしてるのか。
 
あのですね、馬鹿の電子工学者ども。デジタル信号処理以外でも、工学でフーリエ解析はたくさん使うんですよ。機械振動の解析とか、土木工学でも地震の影響の解析とか、そういう応用物理でも、フーリエ級数とかを使うんですよ。
 
だからね、信号処理の雑多な理論を教える前にまず、フーリエ解析の標準的な計算練習をする必要があるんですよ。それだけで2単位くらい、本来なら必要なんですよ。
 
矢野健太郎は、そういう物理計算を知ってるから、矢野のフーリエ解析の教科書では、信号処理ではなく微分方程式への応用を中心にフーリエ解析の教育をしたわけ。
 
なのに、そんなことも分からない馬鹿が、理系大学の電気電子工学のカリキュラムを作ってる。それも難関大学のな。
 
 
日本の馬鹿工業大学は、なんで普通に教育できないんだ? なんで、矢野健太郎あたりの書いたフーリエ解析の入門的な数学理論を教育できないのだろう? なんでカリキュラムを矢野健太郎の時代から劣化させるんだ?
 
フーリエ解析の定期試験なんてね、本来ならね、「次の関数をフーリエ変換せよ。ただしフーリエ変換の公式を○○(←あの公式)とする。」とか試験問題に書いて、実際に公式を使えるかどうかを確認するくらいで良いんですよ。
 
 
そんなのでも、実務では充分だ。
 
 
また、物理公式などの偏微分方程式の解き方としてフーリエ変換を使うときは、そもそも物理の教科書にその計算法が書いてあるので、フーリエ変換の公式は覚える必要が無い。
 
 
少なくとも、大学2年生に、(特定の分野でしか使わない)離散フーリエ変換の使い道を覚えさせるのは馬鹿げてる。
 
 
他にも、あたまの痛い事例がある。
 
ほかのある大学では、「制御工学」という科目名で、2年生あたりでラプラス変換をもちいた制御工学の応用を教える大学もある。どうも、その大学では、通常のラプラス変換は教えてない。
 
あのねえ、常微分方程式(定数係数)の解法としてラプラス変換を使うこともあるから、制御工学とは別の授業で、ラプラス変換の公式を別に教えてもらわないと、困るんですよね・・・。
 
普通の応用数学の教科書でラプラス変換を読めば、普通に最初のほうに微分方程式の応用が書いてあるのに、なんでわざわざ、一部の分野でしか使わない制御工学を前面に出したカリキュラム改悪をするのか?
 
 
私は仕事で論文を読んで、東工大や東大の機械工学の論文を読んでたら、常微分方程式をラプラス変換で解いてたぞ。ラプラス変換は普通、こういうふうに使うのが標準だよな? 歴史的にも、そういうふうに普及してきたんだし。電気回路の過渡現象の常微分方程式を、ラプラス変換で解くというのも、電気工学者ヘビサイドなどの発見した歴史がある公式で、有名な公式だし。
 
だからまず、大学のラプラス変換の授業では、普通に微分方程式への応用をやれよ。
 
 
どうも日本の学者には無能者がいて、制御工学やら信号処理やらの分野の学者には、無能が多いようだ。
 
実務を知らない馬鹿教授が、実務からズレた内容を教えてる。かつての高学年(3〜4年)のマイナーな専門科目を、低学年の2年生あたりに下ろして、多大な迷惑を与えている。
 
制御工学の公式では、機械は制御できないんですよ。制御の実務は、それぞれの現場の経験則(現場の実験で確認した実験式など)を使うんですよ。だから大学での、制御工学の難解な数式や計算練習は、役立たずだし、それどころか、役立たずな理論に権威を与えていまうから、もはや有害なんですよ。大学の制御工学や信号処理の授業は、有害なんですよ。
 
 
 
結局、電気工学での応用数学の教育で最善な方法は、普通に電気数学の教科書で、電気数学の教育をするのがベストなんですよ。なのに馬鹿な工学者が、それを変えようとして、信号処理だの制御理論だの特定分野を混ぜてカリキュラムに混乱を起こしている。いわゆる「無能な働き者」だ、彼らカリキュラムをいじくる工学者は。
 
工学部のフーリエ解析の教科書だけに書いてある離散フーリエ変換やらパワースペクトルがどうこうとかの信号処理の理論は、本来なら3~4年生の「信号処理」とかの授業で教えるべきなんであって、なのにそれを2年の電気数学とか教えようとするから、混乱が起きる。
 
そもそも、そんな信号処理やら制御工学の細かい公式なんて、在学中に習得する必要すら、無い。
 
まず、パルス1個分やノコギリ波1個分の電力スペクトルなんて覚えずとも、そもそも、たった1個のパルスの電力なんて、実用では問題にならないので、実務でフーリエ変換による電力解析は不要である。いっぽう、大量のパルス波形が繰り返し発生する場合の電力計算で必要な数学は、フーリエ「級数」であり、フーリエ変換ではないし、まして離散フーリエ変換ではない。
 
そして、その大量のパルス波形が発生する場合の電力の求め方ですら、実用上はフーリエ級数を無限項まで展開しなくても、せいぜい3項〜5項あたりまで近似展開すれば充分である。(工業高校なんかだと、こういうふうに近似するよな。)
 
そしてさらに、そのフーリエ級数の有限近似展開すらしなくても、測定器として電流計や電圧計や電力量計などを用いれば、実験的に電力が求まってしまうし、しかも、実験的に求められた値こそが、物理的に真実の正確な値である。
 
 
フーリエ級数ですら実務では、無限項の一般項を求める必要性は少ないのに、ましてや離散フーリエ変換などは使い道がないのである。
 
 
政治報道では、政治選挙の当選後3ヵ月は、マスコミは与党の当選政治家を褒めるらしく、ハネムーン(新婚期間)という。
 
離散フーリエ変換などの提唱当時の新理論なんて、せいぜい提唱後15年くらいまでをハネムーンとして、実務での使い道がなくても、大学院とかの選択科目とかで、希望者だけに離散フーリエ変換などを教えるべきだった。
 
なのに、役立たないままの理論が、理系大学では淘汰されず、「10数年前から教えてるから」とかの理由で定着してしまうのが、理系大学の教育カリキュラムのおかしさ、杜撰さ、稚拙さ、である。
 
 
そもそも、数学や物理学あたりに、このような役立たずの理論が多い。シュレーディンガー方程式は結局、役立たずの理論である。
 
当初、シュレーディンガーの理論などで、化学反応などを理論的に予測できるようになるかと思われてたのだろうが、結局、21世紀の現在でも、そうではない。(だからこそ、高校で習うような、シュレーディンガー方程式によらない一般化学の理論がある。)
 
研究ですら、産業などで実用化されている化学の、実際の研究手法は今だに、理科実験室みたいな場所で、試験管などで実際に化学反応を起こしてみる事である。けっして、シュレーディンガー方程式を解くことではない。
 
でも、シュレーディンガー方程式はノーベル賞を受賞している。
 
要するに昔のノーベル賞なんて、その程度の、ハネムーン的な賞なのだ。
 
湯川の中間子理論だって、結局、陽子と中性子のあいだに素粒子なんて、21世紀のいまでも見つかっていない。だけど湯川は、クラインゴルドン方程式の研究成果として中間子を提唱し、ノーベル賞を受賞した。これだって、ハネムーン的な賞でしかない。
 
 
本来なら、10〜20年ほどの(新理論における)ハネムーン期間が終わったあと、淘汰を激烈に行うべきであり、実用性が乏しかったり、実験結果と一致しない部分は、たとえノーベル賞の受賞理論だろうが、教育から追放・廃絶させるべきなのである。
 
 
さて、離散フーリエ変換やら信号処理なども、提唱直後はハネムーンでしかない。
 
理系大学のダメな処として、「ハネムーン」という発想がなく、実用性の確認できない理論を淘汰せず、そのため、教育内容がどんどん肥大化していき、カリキュラムが過密になっていく。そのせいで、1科目あたりの予習復習が時間不足になるのである。
 
 
数学科卒や物理学科卒の技術者は、信号処理論のこまかい用語も理論も、在学中には知らないぞ。
 
というか、「実務でつかうかもしれない」と思われようが、細かい事は、就職後に現場の研修で習えばいい。文科系の大学がそういう発想なので、大学では、本当に普遍性の高い事だけを精選して、学生に教え、雑多なことや普遍性の低い事はあまり教えない、というスタンスである。
 
しかし困った事に、どうも理系の大学には、そういう発想が無い。
 
それどころか、理系大学は、実務で使ってないことを、実務知らずの大学教員が「実務でも使うぞ!!」とウソを学生に教えて、不安をあおって、勉強させる。もはや霊感商法などのサギ師のような行動パターンである。
 
 
機械工学や電気工学の学生が、在学中に計算法を習得する必要のある理論なんて、数学と物理だけであり、あとは、公式集を必要なときに読めばいい。
 
常微分方程式などの数学と、物理の、力学の慣性モーメント計算や、それと同レベルの電磁気の初歩的な計算くらいだ。
 
それ以外の物理計算なんて、公式集を必要なときに読めばいい。機械工学や電気工学の個別の公式なんて、公式集を必要なときに読めばいい。
 
あとの科目は、せいぜい「知らないよりかは、少しは知ってたほうがイイ」だけだ。
 
 
考えてみれば、法学部なら、法律の個別の条文は覚えずに、小六法を必要なときに読んで参照するだけである。法学部で覚えるべきなのは、(おそらく)法学的な考えかたであり、個別の条文でもない。
 
しかし理工系の大学では、そういう「参照する」という発想がなく、工学の公式や専門的な物理の公式を暗記させようとする(そして定期試験では、短時間で計算させようとする)。
 
 
法学部や経済学部の、社会科学系の実学系のカリキュラムなどと比較すると、工学部のカリキュラムの欠陥が、上記のように分かる。
 
 
法学部では、道路交通法や軽犯罪法ですら、ろくに教えない。なぜなら、法学的な考え方を養成するのに役立たないから。そういう個別の法律は、就職後に実務で必要になった時に、勉強すれば良く、大学では、「その就職後の勉強のための基礎学力を養成する」という発想なので、刑法や商法などの基本的な法律しか、大学の学部では教えないのである。
 
 
なのに工学部では、そういう発想がなく、学部の時点で、衝撃波の流体力学の具体的な計算法やら、高電圧の具体的な計算法やら、そういう個別の事を、3年生あたり教えようとする。
 
書店を思い起こせば、大学教科書を販売している書店に行っても、法学書なら、有斐閣などの教科書出版社ですら大学卒業後の人のために実務書を何冊か出版してあるのに、いっぽう、工学書では、ほとんど、そういう本が無い。
 
 
そもそも、電気工事の知識すらない大学3〜4年生に高電圧工学やら発電工学の詳細を理解させるなんて無理でして、本来なら、そういう工学の詳細なんて、卒業後に専門書で教えれば良いだけである。大学では、感電事故などを卒業後に起こさないように、最低限の安全対策などを教えておけば、それでいいのである。
 
要するに大学教授が実務を分かってない馬鹿なのだが、こいつら馬鹿のくせに「自分は頭がいい」とか思ってるだろうな。
 
 
電気工学の授業なんて、電気工事的な作業の安全対策のための知識の定着をさせる事と、あとは学力養成として単に数学教育と物理教育の切り口が、電気方面なだけで良い。
 
機械工学も同様だ。機械加工などの安全対策のための知識の定着をさせる事と、あとは学力養成として単に数学教育と物理教育の切り口が、機械方面なだけで良い
 
結局、理工系の大学で理路整然と教えることのできる知識なんて、安全対策の知識と、数学と物理学だけだ。
 
 
その物理教育ですら、1年生では、時間の都合で、力学くらいしか計算練習できないんだよ(実際、カリキュラムを調べてみた)。
 
そもそも高校の物理では微分積分を使わないから、本来なら、微分で解析的に物理を理解しなおすだけで、時間が掛かる。
 
高校物理の微分化に必要な数学は、微分方程式であり、大学2年レベル終了後である。どう考えても、大学1年生には習得できない。
 
1年生や2年生は、せいぜい、物理数学の真似事をするだけである。
 
たぶん、3年生や4年生ですら、高校レベルの物理の公式を微分的に理解できてる人は少なくて、単に授業で習ったとおりの計算法をしてるだけだろう。そうしないと、進級できないし卒業できないから。
 
 
結局、アメリカみたいに、大学低学年の物理なんて、日本の高校物理レベルってのが、いちばん合理的である。
 
裏を返せば、おそらく日本の理系大学生は、ろくに物理を理解できてない。教師が黒板に書いた数式を覚えてるだけだろう。そういう連中が、やれ東大だの東工大だの早稲田や慶応だの理科大だのに、たくさん居るんだろう。
 
 
ハッキリいうと、もはや、角運動量や慣性モーメントなんて、大学1年には、理解できないんだ。
 
それよりも前に、まず、高校2年間で習った物理を、まず微分で理解しなおす必要がある。もちろん現在の大学には、そんな時間は無いか、ほとんど時間が与えられていない。
 
つうか、そもそも教養課程の物理教科書には、そういう微分公式が書いてあるハズなんだが・・・。しかし現在の理系大学では、そういうのを教えないんだな。少なくとも工学部では。
 
 
高校の熱力学なんて、もし微分で理解しなおそうとしたら、偏微分になってしまうからな。(実際、物理学科の熱力学の授業で、そういう偏微分の熱力学公式をたくさん習い、それだけで2単位くらいになる。)
 
 
結局、大学1年レベルの高等物理の入門は、駿台文庫の山本義隆の参考書のように、高校レベルの物理でいいから、その物理法則を微分積分で置き換えることに専念するのが、一番合理的である。そして本来なら、それだけで1年以上の年月は掛かる。
 
もし力学だけに限定して、高校物理を微分で表そうとしても、位置エネルギーとかで、ベクトルの線積分とか必要になるしな。
 
 
工学部の馬鹿教員どもは、そういう微分理解が「大学入学後の半年くらいで習得できる」と勘違いしてるが、それはもちろん勘違いであり、大学3年くらいまでに、微分方程式の計算練習やベクトル解析の計算練習などをたくさんして、ようやく、微分的な理解は身についてくる感覚である。
 
電気工学科とかで1年で教えてる電磁気学なんて、ろくに学生は理解しちゃあ、いないだろ。
 
 
私の場合、電磁気学の理解は、自分で書店に行って、矢野健太郎などのベクトル解析の教科書を何冊か書店で買って、計算練習して、それでようやく、「電磁気学で使う数学が、いくつか分かってきた」という感覚になった。
 
個人的な意見を言えば、電気工学科の低学年のカリキュラムなんて、「教養課程の物理の電磁気学を必修にする」くらいでいいんですよ。というか、高校がそういう場所だ。
 
高校の物理教育なんて、単に『物理』という1冊の教科書を丹念に読み解いたり、計算練習もするだけだ。
 
教養課程を低レベルだと思う意見も多そうだが、それは単に大学教養課程での採点基準が甘いだけだ。市販の「教養の物理」などのタイトルの大学教科書の内容は、そんなに簡単じゃないですよ。
 
 
日本の大学はね、科目数が多すぎなんですよ。もっと科目数を減らすべきですよ。各科目で計算練習の時間とかも、2~4単位ほど、とるべきなんですよ。「微分積分」4単位のほかに、「微分積分演習」4単位みたいにさ。その演習の時間で、例題とか基礎問題とかの練習をしてればいいんだよ。
 
微分積分や線形代数の単位(通年)が、たったの4単位なんて間違っていて、本来なら、線形代数だけで8~12単位くらい与えるべきなんですよ。
 
計算練習とかで、そんくらい大量の時間が、必要なんでずよ。
 
だいたい、高校で数学Cや複素数やらが、たびたび高校カリキュラムから外れるのに、大学1年生で、オイラーの公式やら、線形代数の固有値やら何やらを、そんなスグには理解できませんよ。
 
結局、単位基準の「授業時間の2倍の予習復習を、単位の基準にする」というのが、そもそも間違っているんですよ。
 
 
ひとむかし前のテレビ番組で、アメリカの大学の授業の理系科目を見ても、どう見ても、授業時間の2倍の予習復習なんて、してるようなレベルではなく、日本でいう高校レベルの内容だった。
 
 
そもそも予習復習の時間なんて、理系大学生は、ほとんど取れないんですよ。そもそも「復習」には、かなりの時間が掛かるんだよ。受験の浪人生なんて、高校レベルの復習にすら、数年の年月を掛けるんであって。
 
私なんて30歳すぎの大人になってすら、高校レベルの化学や生物など暗記科目の教科書を読み返して、いまだに新発見があるんだぜ(まあ、高校教科書も内容がどんどんと新しくなってるって事情もあるが)。
 
また、高校の教科書がどんどん新しくなってるって事もあるように、高校教科書の復習ですら、そんなに低レベルではない。いまや高校教科書でも、量子力学の初歩の不確定原理とかを教えてるし。
 
 
「復習に時間が掛からない」と勘違いしてる人は、たいした勉強をできていない人である。工業大学のカリキュラムを作ってる馬鹿教授は、こういう勘違いをした、たいした勉強のできてない人である。
 
 
そもそも1冊の教科書では、学力は身につかない。高校の数学Cだって、高校教科書 + 参考書による問題練習 + 入試対策問題集 という3段構えで、やっと習得している。
 
 
なのに理系大学の線形代数の教科書が1冊の教科書と授業週1~2コマの授業時間だけで、身につくわけがない。
 
医学部なら国家試験のための対策授業があるかもしれないが、理工学部にそんなの無いしなあ。
 
 
要するに、もはや日本の理工系大学では、基礎学力は身につかない。理工系の場合、日本の学校教育によって学力が身につくのは、高校まで、ですよ。高校カリキュラムをつくってる文部省が、そんだけ優秀って事だ。裏を返せば、理工系の大学のカリキュラムを作ってる理系の学者どもが、すさまじく無能で愚かだということ。
 
== 理系大学の混乱の原因のひとつは、文系学部ならある総論的な入門科目が存在していない事 ==
文科系では、専門科目でも大学1年むけの、初等的な科目がある。
 
法学部ですら、1年生むけに、初等的な教科書をつかって、その科目の総論的な講義をする。
 
たとえば有斐閣から出ている有斐閣アルマシリーズの、民法や刑法や会社法などの、ハンディサイズの教科書だ。
 
いきなり物権法とか債権法とかの詳細に立ち居らず、まず民法の総則とかを、1年や2年生むけに、初等的に講義するワケだよな。
 
別にアルマシリーズでなくてもいいが、法学部ですら低学年の授業では、教科書は低学年むけに、簡略化された教科書を使っているわけだ。
 
 
さらに詳細な民法や刑法や会社法などを習いたい人は、高学年になって、より詳細な民法や刑法や会社法などの、それぞれの科目を習いってワケ。
 
ある難関大学では、2年で民法を習うけど、3年でより詳細な民法を習う、などの時間割になってたりするワケだ。
 
 
商学部でも、簿記なら、低学年むけの初等的かつ総論的な簿記があって、それとは別科目で、高学年むけの専門的な簿記の授業もあるワケだ。
 
 
経済学部でも、いきなりミクロ経済学とか各論を教えるのではなく、まず「経済学入門」とかの科目名で、総論を1年生に教えるわけだ。
 
 
 
しかし'''日本の理系の大学では、低学年むけの初等的な総論科目の設置を、ぜんぜん行っていない'''のである。
 
理系の専門科目では、低学年の最初から、高学年でも、そのまま通用する各論の理論と計算法を、低学年で教えるのである。
 
たとえば機械工学科あたりの2年生あたりの材料力学の最初の授業では、けっして、材料力学の概論や入門を習うわけでなく、2年でいきなり、卒業後もそのまま使える材料力学の計算法を習う。
 
機械工学科だけでなく、電気工学科とか土木工学科とか、工学部のほとんどの学科の専門科目が、同様である。電磁気学でも土木構造力学も、いきなり、そのまま仕事でも使えるような計算法の各論を、習うのである。
 
数学科や物理学科なども、同様である。低学年むけに簡易な話題だけを集めた教科書というのが、そもそも理系のほとんどの科目に、ろくに存在していないのである。
 
 
例えば理系の大学1年の『微分積分』の教科書は、あれは別に、けっして、1年生むけに精選して解析学の総論の話題を選んでいるわけではない。けっして、民法や簿記の科目のように、1年むけの微分積分とは別の、2年以上むけの詳細な微分積分とかが、あるワケではない。
 
微分積分なんて膨大な分野だから、本来なら、たった1年の授業で終わるハズないのだが、しかし日本では、たった1年の授業で微分積分を終わらせるのである。
 
 
1年の微分積分の教科書では、高学年でもそのまま使える微分積分の各論の計算方の話題を、そのまま1冊の教科書にぶち込んでいるワケである。
 
線形代数の教科書も同様である。
 
 
とにかく日本の理系の大学では、低学年むけの簡略的な科目の設置を行っていないため、文科系の学部や諸外国と比べて、専門科目の時間割が、最低でも1年間ぶん、前倒しになっているのである(ヘタしたら科目によっては2年ほど、前倒しになっている)。
 
これが、日本の大学で理系が、忙しい原因である。要するに、カリキュラムをつくっている大学教授たちが、本来なら作るべき教科書、初等的・入門的だが総論的な教科書をつくらずに、教員が手抜きをして、専門科目をそのまま低学年に教えているわけである。
 
理系の大学では、そもそも教員たちの大学教育に関する常識が間違っており、そのため、文科系の教育では作られているハズの、低学年むけの総論科目の教科書が、理系大学では、まったく制作されていない。
 
そして、総論的な低学年科目が理系学部には存在していないため、バランスの取れた学力が養成しづらくなっている。
 
 
 
それでも数学科目や物理科目などは、教養科目があるので、まだマシである。
 
ヒドイのは、工学の専門科目である。
 
例えば機械工学科では流体力学で、3年生で、気体など圧縮性流体の衝撃波の方程式などを習う。でも、よくよく考えれば、3年生じゃ無理な内容である。
 
なぜなら機械工学科では3年生あたりは、実験実習などで、とても忙しいのである。
 
なのに、2年生で習う、液体などの非圧縮性流体ですら、まだ全てを習いきってない状態なのに(流体力学は膨大なので、1年間の授業では、扱いきれない)、さらに、気体圧縮性流体の衝撃波の方程式などを習うワケである。
 
うん、無理だ。
 
 
本来なら、こういう難解な分野をあつかう科目は、まず「気体流体工学 入門」などの科目名で、エアコンなど空調機器の話題とか、または自動車や飛行機などの空気力学がらみの設計ノウハウの話題とかも混ぜて、総論的に入門的な話題を扱えば充分なのである。
 
 
というか本来、工学部の大学3年生の授業なんて、「◯◯(各論の分野名)工学 入門」みたいなもんで、充分なのであろう。
 
たとえば電気工学科の3年なら、けっして「電気機器」の詳細をいきなり教えるのではなく、「電気機器 入門」などの科目名で、まず、電機機器工学に、発変電工学など(2年生までは習ってないだろう)強電系の話題もまとめて、入門的かつ総論的な内容を、大学レベルとして微分積分などを使って講義すれば充分なのであろう。
 
 
ああ、こういう教科書、まったく読んだことがない。そういう総論的な教科書は、理系大学には存在していないのである。
 
というか、工業高校の「電気基礎」「電気機器」やら市販の電気工事士の教本の何やらが、そういう教育をしているのだが、しかし大学では、こういう教材を使わないしなあ。
 
結局、工学で、たかだ週1コマ(90分)の半年の授業で習得できる事なんて、せいぜい工業高校レベルに毛の生えた程度まで、なんですよ。せいぜい、微分積分をつかって、工業高校の公式を理解しなおせれば、もう学生レベルとしては十分なのよ。
 
なぜなら、それ以上の各論への深入りは、勉強時間が不足するんですよ。実験や実習もあるし、数学や物理などの他科目もあるから、工業高校レベルを大幅に越えた工学の各論の詳細なんて、勉強時間が無いんですよ。
 
そっから先の詳細は、本来なら、卒業後に勉強する事になるのよ。
 
 
 
== 声明: 日本企業は戦後、就活で高度経済成長期に私大卒を差別をしたのではないか? ==
戦前、私大には入試がなかったんだ。
 
だから、今でいう、専門学校卒みたいな扱いだった。
 
まあ、それでも、司法試験みたいなのは受験できたから、勉強法を教わろうとして、私大に行く人が多かったんだ。
 
でも、企業にとっては、入試を受けてないって事で、あまり、大企業には入りづらかったらしい。
 
ここまでは、まあ分かる。(これはこれで問題かもしれないが、本件では、扱わない。)
 
 
問題は戦後だ。
 
戦後、学制が新制になって、大学進学者も増えて、私大も入試をするようになったんだ。
 
ところが、私が理工書を読んでると、その理工書の著者が元 大手電機メーカーの企業の技術者 である場合、学歴が国立大学卒ばかりなんだ。東芝、日立、三菱電機、日本電気、・・・出身の技術者の学歴が、国立卒ばかりなんだ。たまたま私が読んだ本がそうだったのかもしれないが、早慶卒すら、見当たらなかった。東大京大の人のほかには、茨城大(日立の地元が茨城県)とか岡山大とか東工大とか、そういう学歴だったりするんだ。
 
ここで私は疑念を感じた。
 
日本企業は、戦後になっても、高度経済成長期の頃から、私大が入試を行うようになったにもかかわらず私大卒の就活生を就活で差別したんではないかと?
 
 
なお、昔の入試は、国立大学も私大も、理系は三教科だったりする(と伝聞で聞いている)。
 
入試で5教科受験とかをやりはじめたのは、共通一次が開始されてからである。
 
 
また、昔は、地方国立よりも、関東圏の私大のほうが、受験倍率が高かった時代もあったんだ。東京の大学は、全国から人が集まるんで、それだけ競走倍率が高かった。
 
入試科目が国立も私立も同じ三教科なら、どう考えても、茨城大や岡山大よりも、早慶のほうが難関だったんだよ、昔は。下手したら、マーチのほうが、茨城大よりも難関だったかもしれないよ。
 
なお、東工大は、今でこそ5教科型の受験をするし、文系科目も得意な5教科受験型の学生が集まるかもしれないが、しかし共通一時以前の高度経済成長期の東工大の入試は、おそらく違うだろう。だいたい、東工大の前進は、官立の工業系の専門学校である。高度経済成長期(および、それ以前)の東工大に、5教科受験型の文科系の得意な学生が集まる理由もない。
 
つまり、ある時期までの東工大の入試は、現在の理科大と同じような入試だろう。にもかかわらず、理科大卒の技術者の理工書が、見あたらず、東工大卒の(元大手電機メーカー勤務の)技術者の理工書が見当る。(そもそも理科大卒の学生が戦前から、就活で差別されてたのでは・・・?という疑惑すら感じているが、本件では深入りしないとしよう。)
 
とすると戦後の一時期、私大生が、入学時も卒業時も、国公立と同じ学力なのに、就活で差別されたのでは・・・?という疑念を感じている。
 
要するに、日本企業は、ろくでもない。
 
 
== ※ 調査中: FPGAについて ==
[[File:Switch box.svg|thumb|FPGAのスイッチの原理]]
 
FPGAで、必要なスイッチ数は、少なくとも交点の数だけ、スイッチ数は必要である。
 
たまに技術書などで、縦20×横30 に交点が並んでたら、あたかも50個(20+30個)の半導体スイッチだけで制御できるかのような図があるが、あの図はマチガイである。
 
少なくとも、20×30=600個の半導体スイッチが必要だ。
 
 
おそらく、20+30個のスイッチだけでどうにかなる作業は、この600個のスイッチに信号を振り分けるために、さらに20+30個ほどの(走査技術を応用した)スイッチが必要になるのであろう。この事を、FPGA入門書は混同しているのであろう。
 
20+30個のスイッチだけでどうにかなる作業は、走査の場合だけである。
 
また、回路動作中の動作確認には、600個のスイッチの確認をしなくても、50個のスイッチの確認だけで十分かもしれない。(品質検査で、抜き取り検査をするときに、わざわざ全数を検査する必要がないのと同様の理屈)
 
 
縦20×横30に並んでる格子点どうしを回路動線で結ぶ場合、どう考えても、20×30=600個のスイッチが必要になる。
 
さらに、その個々の格子点で機能させるデジタル回路素子として少なくともAND回路、NOT回路、OR回路の三パターンがあるから、少なくとも、600×3=1800個のスイッチが必要になる。
 
だから、FPGAの入門書とかに書いてある、20+30個の(縦格子数と横格子数の合計数の)スイッチだけで回路が制御できるかのように書いてある図は、ウソの図である。あんなの、初心者むけのゴマカシ図だ。
 
[[ファイル:FPGA cell example.png||400px|thumb|center|論理セルの単純化したブロック図]]
 
 
さらに、全加算器や半加算器やフリップフロップやルックアップテーブルなどもスイッチで対応させるのが、実際のFPGAのようである。
 
すると、AND、OR、NOTの3つに、これらの分4つを加えて、7パターンになり、600×7=4200のスイッチが必要になる。
 
どう考えても、50個(20+30個)だけでは、制御できない。
 
だから、入門書とかに書いてある、あの数十個の縦横のスイッチだけで制御されてるかのような図は、マチガイである。
 
 
まして、回路記述のプログラム言語のVHDLは、別にFPGA専用の言語でも何でもない。
 
早い話、ほかのプログラム言語を発明しても、構わないのである。(例えるならC言語のほかにも、コボルやフォートランなど、いくつものプログラム言語があるように。)
 
単に、回路記述のプログラム言語の分野では、VHDLやHDL以外には、ほかの言語を開発しようとする人が、いなかっただけの事である。
 
また、VHDLなどは、FPGA以外にも、回路図作図のCADなどにも応用してもいいのである。
 
 
FPGAの入門書によっては、あかたもVHDLがFPGA技術の根幹技術のように表現されていたりするが、ピント外れである。VHDLなどの回路プログラム言語はFPGAに必要な技術であるが、しかしFPGAの根幹技術ではない。
 
 
自動車の一部品をCATIA(キャティア)などの三次元CADで作図してるからといって、けっしてCATIAは自動車の根幹技術ではない。
 
FPGAの根幹技術は、あくまでも、格子点の数の数十倍にも及ぶだろう、スイッチ素子の制御を、どうやって半導体で実際に構築するか、・・・という半導体回路の技術こそが、根幹技術である。
 
== 仮説: 携帯電話の電波について ==
(※ そのうち、通信工学とかの教科書を書こう。)
 
携帯電話の技術の正体は、おそらく、警察無線やタクシー無線だ。
日本中、どこでも警察無線がつながるように、かなり昔から、無線通信のための基地局が、日本の各地の電信柱などに設置されてたんだろう。
 
なので、じつは1990年代の携帯電話の普及前から、無線通信の基地局が日本各地に設置されてたんだろう。
 
その費用は、税金や電話料金として、国民が知らずに負担してきたんだろう。
 
 
携帯電話の電波の仕組みは、おそらく、実はローカルテレビ放送の仕組みと同じで、その地域一帯に通話内容の電波が飛びかっている。
 
言わば「通話放送」とでも言うような仕組みだろう。通話相手以外の電話機にも、通話内容の乗った電波そのものは届いている。
 
よって、原理的には盗聴が可能である。現在の携帯電話で他人の会話を盗聴できないのは、単に、携帯ハードメーカが良心的だから、そういう盗聴が不可能なOSにしている、すぎない。
 
また、暗号化などもしてあるだろうから、個人では解読できない。
 
 
事実、1990年頃の昔のアナログ無線では、コードレス電話などの通信が傍受できた(マンガなどで、そういうシーンを見ている)。
 
いまの携帯電話の原理も、デジタルとアナログの違いを除けば、あのアナログ無線と同じなんだろう。
 
 
NTTのサイトなどで、携帯電話の通話の仕組みをみると、あたかも通話相手にだけ電波が届いてるように絵が書かれているが、あの絵はウソだ。
 
また、通話が歩いて移動しても通話が途切れないことから、けっこう広い範囲(少なくとも数キロメートル以上の範囲)に、通話内容の乗った電波が飛びかっているのだろう。
 
 
昔のコードレス電話の想像から、なんとなく、「せいぜい数百メートルの範囲」の電波を想像してしまいがちだが、それだと、電車などに乗っていて座席で通話してても、なかなか通話がきれないのが説明がつかない。
 
だから、けっこう広い数十キローメートル以上の範囲で、通話内容の電波が乗った「通話放送」の電波が飛びかっている。
 
 
 
もともと、携帯電話の電波の仕組みは、ワンセグ放送みたいな原理なんだろう。
 
ワンセグは単に、「テレビ放送電波みたいに地域一帯に電波を発信してるんだったら、だったら、余った電波で、テレビ放送すればイイジャンか」という先祖返りなんだろう。
 
 
通信工学にあるセルラー理論では、ひとつの基地局がカバーする領域をマクロセルといい、その広さはおおむね半径にして数百メートルの広さだと言われる。
 
しかし、それだと電車や自動車での通話が不明である。まあ、自動車での運転中の通話は禁止されているからイイとして、問題は電車だ。やはり、マクロセル異常の広さをカバーできるなんらかの電波が利用されていると考えざるを得ない。既存の教科書は探求が不十分である。
 
さらに小さい半径のフェムトセルという半径数十メートルの領域が2008年代には提唱されているらしいが、どうせ単に「国際規格化されたのが2008年」だというだけで、たぶん昔からそういう数十メートル規模の送受信アンテナと通信網は日本各地に立ってたんだろう。どんな技術も、規格なんてできる前から存在している。ネジや釘もそうだ。
 
 
== 仮説メモ: 熱伝導の本質は量子ゆらぎ ==
分子間力は、熱伝導の原因である。
 
気体の分子間力と、熱伝導に、共通点がある。
分子間力、熱伝導とも、付近のものにしか、作用しない。
 
量子ゆらぎによる分極が、その原因である。
 
そして、分極をしやすくするためには、電子は陽子と結合したほうが良い。これが、この世界で、化学結合の起きる理由である。つまり、分極できない状態は、この宇宙では、不安定なのだ。単独の電子は、分極できない。もしくは、仮に電子が分極可能だとしても、その分極の効果はおそらく、測定不可能などほどに小さい。
 
同様に、単独の陽子は、分極できないか、分極の効果はおそらく測定不可能などほどに小さい。
 
 
この宇宙の根源は、粒子でもなく波ではなく、ゆらぎによる分極が、宇宙の根源である。
 
フーリエの熱伝導の公式で、フーリエ級数展開による三角関数が出てくるが、それは、ゆらぎの合成によって熱伝導が起きる事を表している。
 
素粒子レベルの大きさのスケールで、熱伝導のフーリエ展開公式のような現象が起きている。
 
気体を圧縮すると温度上昇する事が多いのも、分子間力と量子ゆらぎ分極が原因。
 
 
放射性壊変のベータ崩壊で、中性子が陽子と電子に変化することも、分極だ。
 
「β崩壊は、親原子核の中性子が陽子と電子に変化することで、電子が放射される現象である。 このとき、反ニュートリノとよばれる微小な粒子も同時に放出される。 なお、この電子はβ粒子とよばれる。 β崩壊後、親原子核の質量数は変化しないが、原子番号は1増加する。」
『高等学校物理/物理II/原子と原子核』
 
 
断熱変化でも、圧縮によって温度が上昇したりする理由は、古典物理では説明不可能。(大学物理の「熱力学」の教科書では、これを誤魔化している。)
 
 
ゆらぎ分極によって、静電気的にときどき反発するので、気体は反発しあおうとするが、しかし圧縮された気体では、反発しようにも逃げ場がない。なので、かわりに熱エネルギーになる。
 
ゆらぎによって静電ポテンシャルがときどき上昇するが、それは通常の大気では、すぐに反発してしまう。流動などによって、拡散してしまう。
 
しかし、圧縮気体では、流動性が低く、それが成り立たないので、静電ポテンシャルの上昇が温度の上昇に転化される。
 
つまり、温度の本質は、静電ポテンシャルの変化形。
 
温度による原子の振動方向が不規則なのも、もともと量子ゆらぎが原因なので、本質的に熱振動は不規則なのである。
 
 
原子スケールでは、振動と波動の区別は無意味。これが「量子力学では、粒子と波動の区別が無意味」という原理の帰結。
 
つまり、材料力学における梁の振動のように、軸方向の振動と、軸に垂直な方向の波動が、混ざっている。
 
そもそもシュレーディンガー方程式そのものが、梁の振動方程式との類似を指摘されている。(物理学書では、例えば裳華房などの弾性体力学の書籍に、シュレーディンガー方程式と弾性体との類似性が書かれている。)
 
原子スケールの波動・振動において、電子などのエネルギーを記述するのは、バネでも弦でもなく、その混合の、言わば「バネ弦」である。
 
「量子バネ弦」とでも仮に命名しよう。
 
原子において、電子軌道上の電子は振動していると同時に、波動をしており、これを電磁放射を起こさせないように合理的に成り立たせるために、波動関数の確率解釈が必要とされる。振動や波動といっても、その方向に移動するのではなく、ワープ的に適切な位置に出現しなおすのである。そもそも移動しておらずワープしてるので、なにも放射が起きない。
 
つまり、原子スケールでは、電子はワープする。このため、半導体の「トンネル効果」も正当化される。
 
 
そして、電子が確率的に出現したり消えたりするわけだから、相対論的な E=MC^2 の質量エネルギーが不規則に、発生したり消滅したりする。
 
つまり、質量エネルギーが、(まるで中間子かのように)「電子の波動」の媒介をする。つまり、「量子バネ弦」における張力的な何かとして、質量エネルギーがあり、それによって電子の波動が媒介される。なお、「量子バネ弦」は固定端でもなく自由端でもない。
 
「固定端」とか「自由端」という発想がそもそも古典力学的であるので、原子スケールを記述できない。
 
また、正確にいうと、「電子の波動」ではなく、原子核と電子のつくる双極子の「量子ゆらぎ」を、質量エネルギーが(まるで中間子のように)媒介する。
 
そして、双極子の「量子ゆらぎ」も、振動でもなく波動でもなく、その混合である。「量子バネ弦」の振動が、分子間力などでは双極子的な量子ゆらぎを引き起す。
 
 
難しそうに思いつきを言ったが、単に、既存の量子力学の定説を、より現代風な言い方に言い直しただけである。
 
つまり、市販の、大学レベルの量子力学の教科書にある説明は、歴史的な言い回しが多く、やや時代遅れな説明口調である。
 
「振動と波動の混合」という表現も、単に既存の「粒子でもなく波でもない」という定説を現代的に言い直しただけである。
 
「原子スケールでは、電子はワープ」というのも、「確率解釈」や「トンネル効果」を現代風に言い直しただけである。
 
 
:※ なお、あくまで仮説である。学説なんて、偉くない。偉いのは、実験結果だし、実験をする人が偉い。
 
 
 
== 告発 ==
=== 日本企業は研究を許さない ===
私はwikipedia日本語版の『不確かさ』の記事を書きました。この記事内容は、私の以前の職場で受けた新人研修の頃の知識がもとになっています。産総研に部品を納入している企業に勤務していました。
 
この記事内容にある私の考察は、そのときの前の職場で、否定された内容が含まれています。
 
なぜなら、私の独自の切り口・知見があるからです。つまり、日本の研究業界は、先人の言い伝えにしたがうだけの伝統工芸です。
 
そもそも研究とは、先人の知見をもとに、新規に自分の知見を提案して、それを世に問って検証してもらう事だと思います。しかし、日本社会は、それを許さないのです。
 
なお、上司の彼らは、そもそも新人の学説を否定しているという自覚はありません。かわりに「新人を教育してあげている」という自覚があるようです。
 
だから、私は、研修期間の終了とともに『不確かさ』の研究を中断させられました。おそらく、「彼は『不確かさ』の研究には向いていない」と判断されたのでしょう。
 
日本企業が「研究」だと思っているものは、研究ではありません。
 
また、少しでも「今までの学説に、やや不十分な事があるのでは?」というと、その証明の負担をすべて、自分1人に押し付けられます。会社は、協力してくれません。
 
日本では、理論研究をするには、東大卒や京大卒などの特定の出身大学の学閥でに属してないと、理論研究をさせてもらえないようです。
 
 
=== コネ採用の産総研 ===
産総研などは、一見すると、公募で研究員を募集しているかのように振る舞います。ですが、実態は違うようです。
 
どうやら、研究者が、東大や東工大などの特定の大学に天下り、そこの研究室の卒業生を優先的に採用するようです。
 
研究室の学生が、研究テーマを続けたいので、産総研などを受ける。いっぽう、産総研側は、仲間内の弟子なので、採用してあげる・・・という仕組みのようです。
 
科学マスコミなどでは、そういう人事の系統を、まるで師弟愛か何かのように報道されたりしますが、要するに単なるコネ採用です。
 
他の大学が参入しようにも、産総研の持っているノウハウのいくつかが、まだ公開されていなかったりして、自由な参入のしようがありません。さきほど私が上述した『不確かさ』の記事内容も、産総研が非公開にしていた内容です。
 
いっぽう、JAXAは、税金で研究をしている事もあるので、なるべく情報公開を心がけるようにしているらしく、たとえばブルーバックスで惑星探査機『はやぶさ』についての巻を見ると、JAXAやその取引先企業の研究員が、かなり細かい技術情報を公開しています。
 
しかし、いっぽうで産総研は、税金で研究をしているにもかかわらず、JAXAほどの情報公開をしていません。
 
私がWikipediaやWikibooksに書いた技術情報のいくつかは、産総研の知る技術情報であるにもかかわらず、彼らが公開していなかった情報であったり、あるいは有料の雑誌媒体などでしか公開していなかった情報を、かわりに私が無料公開したものです。
 
 
=== 情報公開を怠る半導体産業 ===
前の会社が、産総研関連の高度部品を生産していた事もあり、半導体製造装置などに必要な高度部品も生産していました。
 
産総研が情報公開をしないのと同様に、半導体企業も、情報公開をしていません。
 
日本の競争相手国である韓国企業や中国企業などがすでに獲得している情報であるにもかかわらず、日本の半導体産業は、情報を公開していない事が、たくさんあります。
 
たとえば、半導体製造装置の部品のひとつとして、マスフローコントローラという測定機器があります。wikipediaの『マスフローコントローラ』の記事は、私が書きました。私よりもよっぽど専門知識がある技術者がいるにもかかわらず、彼らはそういう情報を公開していなかったのです。
 
私が、機械工学などの技術情報を物理学などと絡めて書いているのも、半導体産業の実務でも機械工学の知識を使用するからです。たとえば、半導体製造装置でも、鉄鋼材料(SUS316など)は当然のごとく使用されます。ごく一部の特殊な生産装置を除けば、いちいちシリコンSiなどでは、半導体の製造装置をつくったりはしません。
 
そして、日本企業は、上記のような必要な情報公開を怠っているにもかかわらず、「技術者が不足している!!」などと主張しています。
 
不足しているのは、日本企業の人間性のほうでしょう。
 
また、電子回路の研究開発をするにも、その電子回路で制御しようとする対象の機械装置の知識が必要です。私の実務経験では、空圧機器を制御するための電子回路を、見させてもらったことがあります。
 
半導体製造装置では、油圧は汚損の原因になり厳禁なので、かわりに空圧機器を用いるようです。あらためて考えてみれば、当然ですね。もちろん大学の電気電子工学の教育では、空圧なんて習いません。
 
もちろん、こんなノウハウは国家秘密でもなんでもなく、韓国や中国が、とっくの昔に把握している情報です。しかし、その程度の情報ですら、日本企業は国民に対して情報公開せず、また、日本の大学教育は学生に教育をしてこなかったのです。
 
 
== 経歴 ==
* 国籍 :日本人
* 母国語 :日本語
* 得意分野 :主に理工学系。機械工学を中心に、物理学や応用数学などを少し学んだ。
* 年齢 :大人
 
== Self-introduction ==
My handle-name's pronunciation is "Su Ji Ni Ku - Si Tyuu"
 
* Nationality : Japan.
* Mother tongue: Japanese.
* A specialty : Science and engineering .Mainly specialty is mechanical engineering, and on the other , engineering mathematics and physics just a little .
* Age      : Adult
 
== 私の話す言語について ==
私は、日本語を話せます。<br>
少しだけ、英語が話せます。<br>
他の言葉は話せませんので、その場合は機械翻訳に頼ることになります。
 
== For language that I speaking ==
I can speak Japanese.<br>
Just a little bit, I can speak poor English.<br>
Since I can not speak other languages​​, I will be talking in that case rely on machine translation.
 
== 「すじにくシチュー」の元の言葉の意味 ==
牛肉のアキレス腱の部分とか横隔膜とかの部分らしいです。細かいことは知りません。
 
== Meaning of "Sujiniku-Sityuu" ==
"Sujiniku" is beef sinew; fibrous beef; beef tendon.
"niku" is meat.
"Sityuu" is Stew.
 
== 他の活動場所 ==
ウィキペディアでの利用者ページへのリンク、こちら。( The link of My User page in Wikipedia is next one. )
 
[[w:利用者:すじにくシチュー]]
 
== 作業用 ==
教科書の執筆で使いそうな表などを、この節に置くことにした。
 
{| class="wikitable" style="float:right"
|+ おもな税金
!   !! 直接税 !! 間接税
|-
! 国税
|  所得税<br> 法人税<br> 相続税 ||  消費税<br> 酒税<br> 関税<br> たばこ税
|-
! 地方税
|  住民税<br> 固定資産税 ||  たばこ税  
|}
 
{{-}}
 
== 学校生活ガイド ==
=== 余計な友人・知人をつくってはいけない ===
==== 教師の言う生徒みんなで仲良くしましょう」は信用してはならない ====
学校の教師は、生徒すべてに平等に接しなくてはならないので、「生徒みんなで仲良くしましょう」などと指導する。
 
しかし、不良生徒の中には、こういう風習を悪用して、悪事を行って他の生徒に嫌がらせをしても、ときどき、いじめた相手と一緒に遊んだりして、いじめをやむやにする連中も多い。
 
大人になるにつれて、そういう不良連中とは縁を絶っていくことになるのだが、小中学校の時点だと、学校でも集団行動をさせられる事が多いので、縁を立つのは難しい。
 
そもそも外見だけでは、不良だと判別がつかない場合もある。金髪や茶髪に染めてなかったりすれば、不良かどうかなんて、外見では判別不能である。
 
 
不良が、いたずらと犯罪の区別がついてない未熟な人物かのように装う場合もあります。しかし、おそらく、実際は、いたずらと犯罪の区別がついており、意図的に、未熟な人物を装っています。
 
また、そもそも不良本人が、自分自身が不良だと気づいてない場合もある。「髪を染めてないし、タバコをすってないし、大学進学を目指して、学校のテスト前にはテスト勉強をするので、だから自分はまじめな一般の生徒」などと、不良本人が勘違いしている場合もある。
 
だから、一般の生徒としては、そもそも他の生徒児童とは、最初から仲良くしないようがいい。
 
だから、教師の「みんなと仲良くしましょう」という指導は、そもそも間違っているのである。
 
 
なお、このような不良が小中高の学校には居るので、あまり学校に貴重な物を持って行かないのがベストである。お気に入りの○○とか、ついつい普段から持ち歩きたくなりますが、しかし、学校には持ち込まないのがベストです。あまり、大切なものは、家の外に出さないのがベストです。
 
大切な品物は、家庭内で使用しましょう。
 
お金も、運賃や食費などで必要がないかぎり、学校に持って行かないのがベストです。
 
高校の通学や昼食の食費などで金銭が必要な場合でも、盗まれる場合も想定して、学校には必要最小限より少し多い程度の小銭を持ちこみましょう。
 
そこそこ偏差値の高い高校でも、万引き事件は、よく起きます。
 
こういう理由もあって公立の小中学校では、普段はお金やサイフを学校に持って行かないように教師が生徒に指導するのも、当然です。
 
カネを盗む生徒がいるんですよ、残念ながら。
 
 
==== 不良とは別の、困った生徒 ====
不良とは別ですが、すぐに怒ったり、あるいは、不愉快なことがあると、相手を殴ったり、爪で引っ掻いてきたり、平手で叩いてきたりする生徒もいます。 被害者が女子の場合は、加害者が女子の髪を引っ張ってきたり、・・・などです。
 
小中高では、こういう未熟な生徒でも、そこそこ成績が良かったりして、優等生だったりします。
 
 
他人を殴ったりする生徒は、かならずしも体格が大きいとは限らず、逆に体格が小さい子供でも「自分は小さいから、相手が殴り返した場合のヤリすぎを恐れて、仕返しをしてこない」だろうと考えて、気軽に殴ってくる場合もあります。
 
一見すると、誰がこういう未熟な生徒だか、すぐには分からないので、いっそのこと、最初から、あまり同級生の相手をしないのがベストです。
 
また、こういうことをやられた場合、けっして生徒どうしで解決しようとせず、さっさと自分の親に相談し、そして、親から教師や相手の親に交渉させましょう。
 
一見、軽度のいじめは、生徒どうしで解決したほうが早そうですが、実態は違います。
 
なぜなら、他の一般の生徒は、トラブルに巻き込まれたくないので、大人の介入のないかぎり、放置します。
 
なので、さっさと親に相談しましょう。
 
 
=== 教師はことを荒立てたがらずに不良を罰しないので、最悪、弁護士に相談を ===
もし不良や暴力的な生徒に、とてつもない嫌がらせをされた場合、教師に相談するのではなく、自分の親に相談しましょう。被害が思すぎる場合は、親を通して、場合によっては弁護士に相談してもらいましょう。そして弁護士を通して警察に刑事事件として持ち込ませると、圧力を掛けるのが良い。
 
もちろん、これは最終手段です。
 
ですが、弁護士や警察に持ち込むほどではなくても、さっさと親に相談して、警察などへの持ち込みの圧力をかけつつ、保護者どうしで解決させるのが、ベストです。
 
不良たちは「親や教師に相談するなんて、卑怯だ」などと意味不明な理屈を主張したりしますが、卑怯なのはどう考えても、不良や暴力生徒です。
 
また、不良からの仕返しや報復を恐れる必要はありません。親に相談するのが、もっとも仕返しの少ない方法です。仮に仕返しをされても、ほぼ確実に、親が警察や弁護士などに相談し、確実に刑事事件化して、加害者が刑罰を受けるので、安心してください。
 
ある程度以上、不良からの嫌がらせが酷い場合は、それを相談せずに当事者どうしで解決しようとする事こそ、もっとも危険です。
 
 
親は生徒どうしの事情を知らないので、他の生徒の協力が必要な場合もありますが、その場合も、やはり、けっして生徒どうしで解決しようとするのではなく、親を通すの確実です。
 
(前の節でも述べたように)、他の一般生徒は、トラブルに巻き込まれたくないので、大人の介入のないかぎり、生徒間のいじめ・暴力などの問題を放置します。
 
そもそも、他の一般生徒は警察はないので、そのような生徒間の問題を解決する義理もありません。
 
なので、まわりの一般生徒の介入を待つのではなく、さっさと親に相談してください。
 
 
 
また、不良には、学業をサボったりするので時間が豊富にある一方で、被害者側のマジメな一般生徒は学業などで忙しく、不良との対応を考える時間などは時間がない。
 
 
私も、大人になった今から思えば、不良などの相手で困った場合、親に相談した場合が、もっとも解決が早かった。
 
 
ちなみに弁護士の相談料は、1時間あたり数万円である。相談するだけなら、あまり高くない。 また、地元の弁護士を探すには、市役所などに行けば、役所の職員から付近の弁護士事務所の場所を教えてもらえる。 もっとも、弁護士への相談は、最終手段である。
 
まず、親に相談すべきである。
 
なお、親の中にも、頭のわるくて「不良とも、生徒みんなで仲良くしましょう」とか思ってるバカな大人がいるので、その場合は、その親がバカだということを自覚させるために、たとえば、私のこの文章を読ませましょう。
 
 
=== 塾でも、困った不良はいる ===
塾とかにも、そういう困った不良じみた塾生がいる場合があります。ほかの塾生を重いっきり痛くツネッたり(「殴らなければ、問題にならない」とか考えてるようだ)、侮辱してきたりする人も、塾生に居る場合があります。(私の実体験です。)
 
これまた、塾講師に相談しても、無駄な場合がある。加害者の塾生も被害者の塾生も、両者とも塾生だから、塾講師は、ことを荒立てたがらず「二人とも仲良くしなさい」などと言ったりする場合もある。
 
塾講師がこういう「二人とも仲良くしなさい」などという場合、親に相談して、自分が、その塾をやめましょう。(私は親に、こういう困った塾生に嫌がらせをされてる、・・・と相談したら、その塾をやめさせてもらえた。) かわりの別の塾なんて、いくらでも、あります。
 
=== 学校のクラスメイトなどに万引きの見張りをさせる不良 ===
不良が仲間を増やす手口として、「万引きの見張りをさせる」というのがある。
 
万引きとは別の理由で遊びに誘って、そして「買い物をしよう」などと店に入って、その遊びの先でいきなり万引きを初めて、その見張りをさせるわけだ。(なお私は、中学時代、同級生にコレをやられた。)
 
一般人は同級生から「放課後に遊びに行こう」と誘われたら、「むやみに断るわけにはいかない。」と思うし、遊びの外出先で、いきなり目前で万引きを始めたら、「ことを荒立てなくない」と思うのが一般的な子供の発想だから、見張りに加担してしまう、・・・というワケだ。
 
・・・で、こういう不良連中でも、そこそこの偏差値の高校に合格できてしまうワケですよ。
 
・・・で、こういう不良連中でも、部活動とかに熱心だったりするわけですよ。結局、部活動では、人間性なんて治らないんです。
 
 
== 江戸時代の「鎖国」についての私の意見 ==
次期学習指導要領から『鎖国』の表記が消えるらしい。
 
まあ、指導要領から消えても、教科書から消えるとは限らない。だが、あまりにもネットの世間の意見が低レベルだと感じるので、いろいろと自分の思う意見を書いておこう。
 
 
* 「貿易をしてたから『鎖国』ではない」という意見。
→ 昔から誰も「江戸時代の日本は、いっさい貿易してない」なんて言ってない。昭和の昔からの学校教育ですでに、江戸時代の日本はオランダや中国とも貿易をしていた事を教わっている。だいたい、北朝鮮ですら貿易をしてるが、どうみても北朝鮮を『開国的』とは言えないだろう。
 
学力のひくいバカなヤツが、勝手に『鎖国』という言葉を「日本はどこの国とも貿易してない」(×)と誤解して、「その誤解を解くために用語を変えろ」と言ってる。変えるべきは用語ではない。用語の意味を誤解をしている人に、「あなた、用語の意味を間違って覚えてますよ」と指摘する事のほうが必要だろう。
 
また、「一部の国と貿易してたという例外があるから『鎖国』『閉国』ではない」なんて言い出したら、法学の概念や法律なんて、例外があるから、法学用語が全滅するんだが。
 
史学会の日本史部門は、いろいろと頭が悪そうである。なるほど、歴史学ではなく法学が、日本では文科系のエリート学問なわけだ。
 
そもそも、『鎖国』という表記は『貿易』だけを指すのではない。日本からの漂流民が海外に流れ着いても、日本に帰国したら帰国民が処罰されたり、そういう実態もふくめて、『鎖国』などと呼んでいるのである。ジョン万次郎とかを、どう教えるつもりか。
 
 
* 江戸幕府の公式な制度としての『鎖国』はない、という意見。
→ 北朝鮮だって公式には「民主主義」だし(朝鮮「民主主義」人民共和国)、中国の「人民解放軍」はチベット・ウイグルへの侵略軍ではなくなるし、中国の「自治区」では自治を許されてる事になる。どうやら日本の史学会と文部省の歴史教育の担当部署は、思考回路が中国・北朝鮮レベルらしい。
 
 
* 江戸時代の当時、『鎖国』という用語は使ってなかったので、教科書から消すべきという意見。
→ 「藩」という用語は廃藩置県のときに出来た、と言われてるんですが? 『江戸幕府』という用語自体、滅んだ鎌倉幕府や室町幕府を連想させるため、江戸幕府は自分たちの政権を呼ぶのに『幕府』という用語を使わせなかった、と言われてるんだが? そもそも『日本』という用語自体、縄文時代には存在しなかったと思われる。
 
社会科にかぎらず、他の教科でも、たとえば英語教育でも、「主語」syugo という英単語はないし、「動詞」dousi という英単語もないが、しかし「主語」や「動詞」という用語を英語の授業でも教えてるだろう。
 
* 『鎖国』という用語が「開国すべき」という幕末ごろからの幕府への批判的な価値判断を含むから良くない、という意見。 
→ 宇宙論の『ビッグバン』という用語は、当初は批判的な意味で用いられたんだが? 由来が批判的な用法だろうが、実態を反映していると思えば後世の研究者はその用語を使えばいいし、反映してないと思えば使わなければいよいだけだ。いろいろと教養の足りなさそうな意見である。
 
結局、『開国』という表記は残すらしい。では、それまでの日本は『閉国』だったわけで、やはり『鎖国』という表現が的を得ている事になるではないか。
 
== 勉強時間を増やしただけの受験勝者なだけの教育インチキ評論家たち ==
世間の教育インチキ評論家の中には、単に受験競争で、名門の大学に合格して進学しただけの受験競争の「勝者」なだけなのに、受験ノウハウに詳しいと勘違いしている人も多いし、教育情報に詳しいと勘違いしてる人も多い。
 
スポーツの名選手と名監督が別々の才能なように、他人に教わった受験ノウハウを実践できる事と、受験ノウハウに詳しい事とは、別々である。
 
極端な例をあげれば、毎日朝から晩まで受験勉強だけをしていて受験以外の勉強をしてない人は、受験の成績は良いだろが、べつに受験ノウハウには詳しくない。(べつに道徳的に「受験勉強しかしてないのはケシカラン」と言ってるわけではない。そうでなくて、そもそも、受験ノウハウを知ってるのは、その受験生を指導している親や教師や塾講師といった大人たちであり、子ども本人は、受験ノウハウに詳しくない、・・・と言いたいワケである。)
 
そもそも、「受験や教育にくわしい人」というのは、どういう人であるのかというと、本来は、少ない指導時間でも、生徒を志望校に合格させられるなどのような、短時間で大きな教育効果を出せる人の事である。つまり、時間あたりの教育効果の大きな指導者の事であり、けっして、多めの指導時間により平均的な指導効果の出せる人のことではない。
 
部活動や委員会活動をしていれば、そのぶん、受験勉強の時間は減ってしまう。音楽や美術などの練習をしていても、受験勉強の5教科の勉強時間は減ってしまう。なので、少ない指導時間で、大きな教育効果を出せる指導者こそが、必要なのである。
 
しかし、困った事に、世間のバカな一般大衆たちは、受験勝者と受験ノウハウ指導者を、混同しているのである。
 
なので、世間の連中は、受験ノウハウの勉強のさいに、やれ「弁護士」だとか、やれ「医師」だとかの主張する、つまり、(世間の馬鹿でも資格名を知っている)難関資格合格者の主張する勉強をありがたがる。べつに受験指導を商売にしている人でない人達の勉強法を、世間の連中は、ありがたがるのである。
 
このような「勉強時間を増やしただけの受験勝者なだけの教育インチキ評論家」は、少なくとも教育評論の分野においては、「インチキ評論家」「デタラメ評論家」である。
 
そもそも弁護士も医師も、あまり数学や物理といった基礎科学には詳しくない。語学だって、べつに通訳でもなければ翻訳家でもない。
 
 
さて、このような「勉強時間を増やしただけの受験勝者なだけの教育インチキ評論家」は、受験の成績と、学校での成績が別物だという事を、知らなかったりする。
 
まず、小中高の学校での成績と、受験での成績は違う場合が多い。なぜなら、定期テストと受験では出題範囲が違うし、また、学校で使ってる検定教科書が学校ごとに違う。なので、学校の定期試験では、数学ですら問題ごと丸暗記をしたりする人が、高得点を取ってしまたりする事態も発生する。(もちろん、入試では、そのような数学の問題丸暗記は破綻する。)
 
 
さて、もし、テスト勉強以外の事を勉強してなければ、中学2年生おわりまで、あるいは高校2年生のおわりまで、学校のテスト勉強ばかりをしていても、高校3年からの受験勉強で、学校テスト対策と受験を、そこそこ両立できてしまうからだ。だから進学校などでは、受験以外の生徒会とか学級委員とかのメンドウな仕事を、他の生徒に押し付けあうという事態すら、発生する。
 
もしくは、たとえ現役では受験不合格でも、浪人すれば、そこそこの学校に合格できてしまう。
 
また、受験勝者なだけで教育には詳しくない評論家の特徴として、小中高の教育内容を鵜呑みにする。
 
実際には、小学校だと、理系教科が専門でない教員が、算数や理科を教えてたりする。なので、小学校教員の指導内容を鵜呑みにしてるようだと、ハッキリいって才能がないのだが、しかし、そんな無才能の生徒でも、小学校テストでは高得点をとれる。というか、そもそも採点してる教員たちが無才能なので、教員と同様に無才能な生徒のほうが、高得点を取りやすい。
 
そもそも、検定教科書作成の時点で、教育学者などの意見が強く反映されている。問題なのは、この教育学の理論の、信憑性だ。
 
今は批判されてる「ゆとり教育」ですら、かつては教育学では、称賛されてたのである。
 
また、現在の小学校の算数の授業では、「かけ算の順序」というのがあって、多くの数学者が反対してるにもかかわらず、そのような授業が行われている。
 
 
そして困った事に、現在の小中学校では、テストの成績だけでなく、教師の主観的な評価が、成績評価の基準のひとつにもなっている。つまり、ある生徒が、どんなに定期試験の成績が良くても、もしその生徒が教師からのウケが悪ければ、そのぶん成績を低くされる可能性もある。
 
しかし、「勉強時間を増やしただけの受験勝者なだけの教育インチキ評論家」というのは、学生時代は、教員の言う通りの勉強だけをしていたりするので(そして、学校で習わない事は、ろくに勉強しない)、教師からのウケは良いのである。
 
逆に私の場合、学習塾などで学校で習わない事も習ってたり、高校からは自分でいろいろと勉強してたから、そうすると、教師からのウケは悪いのである。
 
2017年の今でこそ、世間の教師たちは、「学校の成績がわるくても、受験の成績がいい生徒もいる」というのを、さすがに把握してるが、しかし、90年代までは、彼ら教師たちは、そういうのを全く把握してなかったのである。「中学高校の授業での指導範囲が、入試とズレてる」というのを、そもそも教師たちが把握してなかった時代があった。
 
そしてさらに困った事に、中学では「内申点」というのが存在していて、学校での成績がわるいと公立高校入試に不利になり、さらに、その成績には教師からのウケが含まれていたりする。
 
また、さらに、入試では要求されないような細かい知識が定期テストに出たりする。最近、調べていて分かったのだが、どうも、近年の入試は、あまり暗記を問わないらしい。
 
それでも、「入試では要求されないような細かい知識が定期テストに出たりする」は、今ではマシになった。昔は、もっと酷かったのである。
 
2017年の今でこそ、理科や社会科の教育内容が、だいぶ理屈っぽくなったので、マシになった。2010年以降、教育では暗記の比重が減ってきている。しかし、90年代の中学高校は違ったのである。90年代、中学高校の社会科などでは、年号の順序を暗記させられたのである。高校の公民科目だと、法律の内容よりも、法律の名前を漢字で書くことを暗記させられたのである。公民ならまだマシで、地理だと、たとえば中国語の細かい地理用語を、漢字でかくことを要求させられた。たとえば「黒孩子」(ヘイハイズ)とかの暗記を。社会科では、今の検定教科書では、出てこない単語を、いろいろと暗記させられた。
 
理科でも、いろんな単語を暗記させられた記憶がある。そこそこ生物の成績のよいクラスメイトでも、授業で教師にさされて、ちょっとでも理屈っぽい問題を答えるように聞かれると、答えられない。
 
どうやら、「生物」ってのを、その(理屈っぽい問題を答えられなかった)生徒は、暗記する科目だと思ってるらしい。事実、当時の「生物」は、今とは違うのだ。同様の現象は、「化学」でもある。
 
 
べつに、当時の中学高校の教員を恨むつもりはない。その時代は、子どもの数が多く、受験競争がきびしく、そのため大学入試がクソな内容だったのである。
 
もちろん90年代でも、理屈っぽい出題だって定期テストでは出されたが、しかし、そもそもの教科書じたいが理屈にあまり深入りしてないので、大した深い理屈は出題できず、なのでテストに出題しても、あまり点差があまり付かない。必然的に、定期テストでは、暗記の比重が増える。
 
で、「勉強時間を増やしただけの受験勝者の教育インチキ評論家」ってのは、こういうのを、知らないんですよ。なぜなら、そもそも彼らは、昔の時代の、暗記力ばかりを問うテストで高得点をとってきた人たちだから。
 
公民科目なら、今の中学公民の経済分野の内容のいくつかは、むかしは、高校の政治経済の内容でした。たとえば銀行がそもそも何を商売にしてるかといった、銀行の仕組みなんて、今でこそ中学でも教えてるが、昔は中学では習ってません。
 
その実例として、私は高校時代、学習塾のやや英語の成績のよいクラスに通ってましたが、その塾でのクラスメイトの高校生は、塾講師から、ひょんな話題で銀行の仕組みを聞かれたとき「習ってない」と塾生は答えました。私自身も、中学校では、銀行について、それほど習った記憶がありません。
 
 
小中高の学校での成績なんて、信用に値しない。信用に値するのは、入試の成績である。
 
それも、理系の私立大学の入試のような、進学後の勉強に直結する入試科目を出している、一部の大学での、入試の成績である。
 
いっぽう、たとえば経済学部なのに入試に「政治経済」も「数学2B」も出してない大学の入試なんて、信用に値しないのである。
 
 
また、センター試験の文系科目は、進学後に必要な最低限の学力とは大きくズレている。理系受験生にとっては、センター文系科目は、過大な負担である。90年代当時、私の同級生で、英検2級とか準1級とかを持ってる受験生ですら、自己採点で惨憺たる成績だったと、私は聞いた。私のセンター受験の記憶の場合、とにかく試験時間が足りないと感じた。センターの数学・英語は、とにかく短時間に大量の問題を解かせるので、時間がたりない。はたしてこれで、英文の読解力を測れてるのだろうか。
 
現状の教育制度では、「学力」として信用できる成績とは、一部の学校の入試の成績だけであり、しかも基礎学力を測れる成績として信用できるのは、高校入試の成績と、理系大学の入試だけが信用できるのである。また、特定の学科を志望するものに必要な専門知識として信頼できる入試は、現状では、国立大学の二次試験の成績と、あとはマーチニッコマあたりの平均的な私大の入試の成績だけが信用に値するのであろう。(早稲田の入試は、もはや難問コンテストのクイズ芸人養成所なので、論外。)
 
ところが、国立大学は、そもそもセンター試験で足切りされてしまう。なので、多くの受験生は、その試験を受験できないし、試験の難度も、専門外の学生には合ってない。
 
そして、せっかくマーチニッコマに一般入試で合格しても、推薦入試とかで入ってきた学生にあわせた授業をされるのである。たとえ平均レベルの偏差値の大学でも、そこに一般入試で合格しようと思ったら、けっこうムズカシイ。
 
そもそも、たとえ、ある大学の入試偏差値が低くても、かならずしも、その大学への「合格のしやすさ」を意味しない。
 
なぜなら、偏差値の高さと、要求あれる学力水準の高さとは、違うのである。たとえば入試必須科目が増えると、受験生が敬遠して倍率が低くなるので、偏差値も低くなる場合も多い。また、模試の種類によっては、理系の私立大学だと、文系大学と較べて、倍率が低い場合もある。例えば四工大は、あまり偏差値が高くないような記憶がある。
 
しかし、困ったことに、世間の教育インチキ評論家と、そのインチキ評論家の支持者は、その事実を知らない、「偏差値の高さと、学力水準の高さ、違う」という事を知らない。
 
 
困ったことに、小学校に入学してから高校入試までの9年間、ずっと成績が信用に値しない教育が、行われ続ける。その高校入試ですら、バカ政治家の考えた「内申点」という制度で、信用に値しない学内成績で、入試が不利になってしまう。
 
 
また、90年代の昔は、受験生サイドが自発的に受験教科を増やそうとして高校で科目を多く履修しようとも、高校側が対応してくれない時代があった。
私は、生物IIを履修できなかった。高校側の規則で、物理IIと化学IIを履修するものは、生物IIを履修できないのである。独学しようにも、現代とは違って、適した参考書が少ない。
 
生物IIの検定教科書の注文なんて、当時高校生だった私には分からないし、仮に教科書を注文で買ったところで、どういうペースで勉強してもいいかも分からない。つまり、wikibooksで教科書を書いた、私の生物IIの知識は、すべて独学である。
 
べつに90年代当時の高校の教員を恨むつもりはない。その時代は、大学側が、そういうふうに受験生に勉強させてたのである。
 
当時、塾に相談したが、無駄だった。「学校側が、私の受験以外の数学・物理・化学以外を、ほとんど教育してくれない制度なので、塾で国語や社会科も教わりたい」と塾に相談したら、私は塾講師から批判された。
 
で、2017年現在の「高学歴」といわれてる教育評論家ってのはね、こういうクソな教育を受けてきた中での、当時のクソな教育を鵜呑みにしてきた連中という意味での「高学歴」(笑)な連中なんでしょうよ。
 
団塊ジュニア世代ってのは、こういう連中だ。「就職氷河期世代」などと被害者ヅラして、大学を卒業したけど就職できない、などと被害者ヅラしてるけど、・・・ウソつき。 私は知ってるぞ、お前ら大卒ヅラする団塊ジュニア世代の大卒は、高校時代、高校2年で数学や理科を放棄したりして、ろくに勉強してなかった事を。私の出身高校では、学年で物理IIを履修したのは10人ほどで、そのうち半分はヤンキーみたいな連中で、残りの5人ほどだけが理系の物理受験志望だった。それも、高校生が多かった時代での話でだ。1クラス40人ちかい学級が8クラスぐらいあった時代でのハナシでだ。
 
:※ 実際には、『物理IB』や『化学IB』などを選択する文系生徒もいたが(今の『物理基礎』と専門『物理』の中間くらいの量が物理IB. 化学IBも同様)、説明が長くなるので説明を省略。文系の生徒にもいろいろと事情があるのかもしれんが(経済的事情など)、私は釈然とせん。
 
文系受験生の文系科目の履修や勉強ですら、たとえば経済学部志望ですら政治経済もろくに勉強せずに(当時は経済学に数学が必要だということが、まだ高校生ん周知されてなかった)、日本史1教科受験だとか世界史1教科受験だとか、そういうので受験しようとしてた連中も当時は多かったことを。(※ 私は文系受験はしてないので以下は想像だが、政治経済は普通は3年で習うので、2年の段階で入試科目を限定しようとすると、地理や日本史とか世界史に限定することになるのか?)
 
== 証明丸暗記の物理学者・数学者は無能である ==
数学者や物理学者・化学者の中には、証明を丸暗記してるだけのバカも多い。
 
「大学に入ると公式暗記だけでは通用しないぞ!」などと、この手のバカ学者は忠告(笑)するが、実態は、この手のバカ学者どもは暗記対象が「公式」から「証明」に変わっただけである。
 
イプシロンデルタ論法を論理構成を鵜呑みにして丸暗記してるだけのバカなのに「解析学を理解している!!」と思ってるバカも多い。
 
物理学者も同様で、たとえば熱力学などでは「第一法則」や「第二法則」などにもとづく論法を暗記しただけのバカなのに「古典熱力学を理解している!」と思ってるバカも多い。
 
困ったことに日本では既に、この手の証明丸暗記バカの学者どもが、大学教授などになっている。そのせいで、中学高校の教育が影響を受けてしまう。
 
さらに困ったことに日本では、この手の証明丸暗記バカどもの学会(日本数学会、物理学会)どもの修める科目が、高校の普通科の理科や数学に大きな影響を与える。
 
ニュートンが微分積分や物理を研究してた時代は、そもそも「微分積分という手法なんぞ、証明ではない!証明に値しない!!」と知識人どもからは思われてたのである。
 
カルノーサイクルで有名なカルノーが熱力学を研究していた当時、そもそも熱力学は物理科目だと見なされてなかったのである。
 
つまり、真の理学は、そもそも科目そのものを産み出すのである。だから21世紀の現在、「微分積分」や「熱力学」などの科目がある。しかし日本の教育制度では、既存の科目を絶対視し、既存科目への批判を許さない教育制度である。
 
だから現代日本の理学者は、偽物だ。
 
数学や物理学と比べれば、生物学や化学などの応用的だろう。生物学や化学などの応用的な学問の前提になる数学・物理を検証したり、必要に応じて数学・物理の科目構成を修正するのも、数学・物理学のすべき研究であろう。
 
しかし日本では、数学教育や物理学教育を修正してはならないのである。まるで憲法のような扱いだ。
 
さて、北朝鮮は「民主主義」「人民」「共和国」という名の下に、民主的でない独裁政治を行っている。
 
日本の大学の理学も、「理学」という名の下に、教育産業のイデオロギーと既得権益を守る教育をしているだけである。
 
よく、憲法学会が、イデオロギー集団などと反対派から批判されるが、日本の理学も同じである。
 
 
昔の人は、そういう教育制度そのものの矛盾が分かっていたから、旧司法試験のように試験にさえ受かればエリートになれる門戸を開いてたのであろう。
 
大学教育の、今はなき教養部も、専門科目を絶対視せず検証する視点を養うための教育制度だったのだろう。
 
アメリカとかが、大学院ロースクールや大学院メディカル・スクールのように、学部では教養科目を重視していて、大学院に入ってから専門教育をしだすのも、同様の理由だろう。
 
 
アメリカの教育は、教科書が分厚いだけでレベルが低い。だが日本の教育も、レベルの低さの方向性が違うだけであり、日本もレベルが低い。
 
しかも、アメリカも日本も両者とも、「自分たちの教育はレベルが高い!!」と思ってやがるバカである。
 
アメ公は、「こんなに分厚い教科書を読める僕たち、すごいもん!!」とか勘違いしてるバカどもだ。
 
ジャップ公は、大学受験の時点なら「こんなに難しい試験問題を解ける僕たち、すごいもん!!」とか勘違いしてるバカだし、大学入学後の教育でも「こんなに難しい証明問題を解ける僕たち、すごいもん!!」とか勘違いしてるバカどもだ。
 
日本の大学教育は、試験問題の種類が大学入学後に証明問題などに変わっただけで、結局、試験の解法だけを鵜呑み・丸暗記してるだけの低レベルな教育なのだろう。
 
== 西暦2006年の上場企業の採用試験の英語問題についての体験報告 ==
私は西暦2006年、就職活動をした。
 
その時、いくつかの上場企業(製造業、電機系メーカー)の1次試験あたりで採用試験のひとつとして、英語の筆記試験があったのだが、これが全く難しく、私には解けなかった。
 
さて、ここまでなら、「私が単に英語が苦手なだけ」となる。しかし、いちいちwikibooksのこのページを読んでる読者なら分かるように、私はいちおう、wikibooksで中学英語の教科書を書けるくらいには英語力がある。大学入試でも、いちおう、現役高校生のときに、芝浦工大(たしか電気工学科を受験)に補欠合格し、法政大(工学部の電気電子工学科)に合格し、東京電機大学(たしか当時は工学部の電気工学科を受験したか)に合格できるくらいの、英語力はある。
 
さらに、出身高校ですら、獨協大学の附属高校である。
 
すると、大企業の採用試験の英語について、ひとつの推測が上がってくる。
 
「そもそも、これらの大企業は、採用試験で、志望生に解かせる気のない英語問題を出題してるのではないか? 高校必修英語や大学入試の英語からは、大幅にズレた内容の英語を出題してるのでは?」という推測である。
 
仮にそうだとして、それが良いか悪いかは、ここwikibooks利用者ページでは問わないとしよう。しかし、このような大企業の採用試験の英語科目が、日本全国の中学高校での英語教育に影響を与えては困るので、ここwikibooks利用者ページにて報告しておくとする。
 
 
 
== 日本の大学は職業訓練校である。研究者育成の機関ではない。 ==
日本の大学は、実質的には、偏差値が高いだけの職業訓練校・専門学校である。研究者を育成する機関としては、大学は非効率である。大学に既にいる研究者は、おそらく大学が研究者として育てたのではなく、本人の実力で研究者になったのであろう。
 
大学には設備があるので「研究機関」かもしれないが、しかし「研究者育成の機関」ではない。
 
理系も文系も、大学は実質的に、専門学校である。専門学校のカリキュラムに、専門科目の理論の座学と、「教養科目」という名称の数学・理科・社会・英語を追加しただけである。
 
大学は、研究をするには、現行の大学制度では、無駄・邪魔・不都合な作業が多い。
 
例えば大学の定期試験においては、やたらと小難しい難問・奇門の出題をされるが、最たる例である。
 
その業界のプロでも、問題を解くのに手間が掛かったりする難問を、出題する大学が多い。
少なくとも工学部ではそうだ。おそらく、商学部や法学部などでも同様だろう。
 
 
そもそも技術や理論とは、小難しかったり手間の掛かる作業を単純化するための工夫の事である。なので、やたらと難しすぎる知識体系は、そもそもレベルが低い体系なのである。
 
医学とかで例えれば分かるだろう。たとえば仮に、外科医が外科手術でメスをふるうさいに、患者を10cm切る際に毎回、微分方程式をとく必要のある外科医がいたら、そいつは単なる無能である。
 
つまり実務において、実務で使用しない余計な技能・知識などは、排除・淘汰する必要がある。
 
しかし、大学教員は、実務からのズレを反省するどころか、無能教員じしんは、「学生を鍛えてあげてる。論理的思考を身につけさせてやってる。使い物になるように、甘やかさずに鍛えてやってる」とか勘違いしているので、タチが悪い。
 
 
しかも困った事に一般大衆の多くは、発想が小中学校のカリキュラムで止まってるので、「学校の教員=学生よりも物知り」、「多くの知識があり、特技が多い生徒 = 優秀」「難しい知識体系 = 高度な理論」と思ってる馬鹿が多いのである。
 
しかも大学は、その「やたらと小難しい難問」を出すために、定期試験のその科目の試験範囲を狭める。
 
たとえば機械工学なら、理想的には高校の教科書とかを使って、さっさと1年間くらいで、高校みたいに簡単な内容を選んで「機械要素」も「材料力学」も「流れ学」も「機械要素」も教えればいいのに、しかし大学はそういう事をしない。
 
大学の「機械要素」の科目では、機械要素の解説だけしか書いてない教科書を使って、しかし高校では習わない、やたらと難しい事を教えたりする。
 
同様に、大学の「材料力学」の教科書なら、材料力学の解説だけしか書いてない教科書を使って、高校では習わない、やたらと難しい事を教えたりする。
 
このように、大学の授業は、縦割りである。おそらく大学教員たちにとっては、このように縦割りにしたほうが、業績の自己アピールをしやすいのだろう。
 
こういう縦割りでマニアックな重箱の隅をつつくような知識を出題するだけの大学のくせに、しかし大学教員は反省するどころか、「我々、大学教員は、学生の分析力を鍛えてあげてる」とか勘違いしているので、タチが悪い。
 
 
しかも、やたらと難しい問題が出るわりには、証明は不正確であったりする。そもそも数学者などは、機械工学のさまざまな「定理」を、数学的な定理だとは認めていない(電気工学も、ほど同様)。しかし、そのような「定理」が、数学的には価値の保証されてない「定理」が、大学の機械工学科の定期試験には出題されるのである。
 
要するに大学は、大学の既得権益を守るために、縦割りの世界に篭もり、世界を閉ざしているのだ。
 
 
電気工学も同様である。
 
大学の「電気回路」科目は、電気回路の事しか教えない。大学の「電磁気学」は、電磁気学の事しか教えない。また、化学のイオン傾向とかの話題は、とうぜん「電気回路」や「電磁気学」では教えない。電気回路と電磁気学と電気化学がどう結びつくかは、大学では教えられないのである。
 
工業高校ですら、「電機基礎」科目で、電気回路と電機磁気学と電気化学をまとめて教えてるのにさ。
 
しかも、それぞれの科目で、やたらと小難しい事を教える。もちろん、プロの電気技術者が仕事では使わない問題の解法の知識を、やたらと大学では教えて、それをテストで出題するのである。たとえば「テブナンの定理」とか、電磁気学のさまざまな微分方程式とか、仕事では、まず使わない。しかし、そういう仕事で使わない分野ばかり、定期試験では出題されるのであり、それらの問題を短時間で大量に解くような出題をされるのである。
 
 
教養課程の数学や物理も、似たようなもんである。
 
たとえば数学なら、線形代数なら、固有値や固有ベクトルの話題を扱う単元なら、高校みたいに2次元の範囲に限定して、さっさと固有値や固有ベクトルなどを教えればよいものの、大学はそういう事をせず、まず一般のn次元の行列における固有ベクトルを教えたりするだろう。
 
微分積分でも、大学は、めったに使わない単元を教えるために、微分方程式などを後回しにしたりするわけだ。高校の参考書ですら常微分方程式をあつかっているのにさ。(まあ、「物理数学」などの科目で、微分方程式を入学当初の早めに教える場合もあるが。)
 
文系の学部でも、専門科目は同様だろう。たとえば法学部で民事法を教え始める時は、民法総則ばかりをやたらと教えたりしてるんだろう。しかも、民法総則の細かい知識ばかりを教えてると予想。
 
商業高校の「経済活動と法」科目ですら、民法と商法と会社法と民事執行法とを1科目で教えてるというのにさ。
 
 
こういう実態こそが、大学が研究機関ではなく、職業訓練校・専門学校である事の、最たる例である。
 
「縦割り」というのは、研究ではないし、そもそも「理解」ですらない。そもそも「理解」とは一般に、知識を脳内で「横割り」にする事である。たとえば、高校の世界史を学ぶと、中学では別々に覚えていた西洋史の知識と、東洋史の知識が、結びついたりするだろう。
 
こういう、知識と知識の、横どうしの結びつきこそが、理解である。
 
そもそも縦割りの知識を覚えるだけなら、コンピューターでも出来る。情報を複製するだけなら、コピー機のほうが優秀である。
 
 
また、知識は現実と照らしあわせることで、初めて応用力を持つ。そして現実と照らしあわせるには、横割りの知識体系である必要がある。なぜなら現実は、いちいち縦割りに知識を紹介してくれない。
 
たとえば現実で詐欺などに巻きまれそうなとき、詐欺は民法と刑法で規定されてるが、現実でいちいち親切な誰かが「あなたは民法は知ってても、刑法が苦手だから、わたしがあなたのかわりに刑法部分の対策を考えてあげますよ」とかなんて、無料では誰も協力してくれない。
 
このように、現実社会では、縦割りの知識に、合わせてくれない。
 
だから、初学者はまず、全体像を、学ぶ必要がある。
 
しかし大学では、全体像をなかなか教えないのである。大学の1年生の科目で「機械工学入門」とか「電気工学入門」とかの科目が、2単位(半年の授業1コマ)で、ある場合もあるが、内容はぜんぜん、全体像を教えていない。
 
 
工学部の場合、いちおう大学に4年生(または院・修士課程まで含めて6年間)まで通えば、ひととおり、その学科(機械工学科、電気工学科など)の全体像を教わる。だが、工業高校や職業高校では、全体像を、高校卒業までの18歳までに、とっくに教えてるのである。
 
要するに、大学教育は「抱き合わせ商法」を教育産業で行ってるのである。さっさと全体像を教わりたい(マトモな)学生に対し、大学側は、一部の研究者しか使わない専門知識を抱き合わせて販売してるのだ。悪質商法である。
 
80年台のファミコン業界のドラクエ3のブームのころ、ちまたのゲームショップが、売れ残り品のゲームと、ドラクエ3を抱き合わせて販売してたっていう出来事がニュースで報道されてたのだが、大学も同様である。学者どもの売れ残りの知識を、抱き合わせて販売してるのだ。
 
 
そもそも「機械工学入門」とか「電気工学入門」とかの科目のオカシイのは、ある学問の全体像を、半年の授業1コマだけで教えようという(大学の)発想が、もう既にオカシイ。
 
ある科目の全体像を教えるとは、さきほどの高校世界史のように、年月を掛けて(中学でも世界史を教えていて、高校2年で世界史を教えて、さらに高校3年の受験科目で世界史を学んだり、浪人中に世界史を学んだり・・・)、全体像を教える必要がある。
 
また、「100点満点中、60点以上を取れ」という大学の要求が、もうオカシイ。まず、高校では進級基準は普通は「30点(または40点)以上」であるのが一般的である。
 
高校の場合、小学校とは違って、すべての科目で高得点を取るのはむずかしい。高校は、小学校とは違って専門的な話題も多いし、入試対策のために難問もいくつか出すし、学習内容も多いし、なので、「30点以上を取れれば進級オーケー」としてるわけだ。
 
もちろん、あくまで進級だけなら「30点以上でオーケー」に過ぎず、進学したい場合は、入試までに高得点を取れるようにする必要がある。しかし、それは入試までに高得点を取れるようにすれば充分なのであり、べつに授業で習った1か月後とかに高得点を取れるようにする必要はない。
 
しかし、大学では、高校よりも、より専門的な話題(大学では、そもそも科目自体が「専門科目」)、より学習内容が多い、より難問を出すにもかかわらず,「30点以上オーケー」ではなく「60点以上オーケー」である。しかも、授業で習った1か月後くらいに、高得点を取れるように、要求されるのである。
 
しかし、本来、たったの1か月では、理論なんて、理解なんて出来ないのである。高校世界史を思いだせば分かるだろう。世界史教育のように、小中高と何年も年月をかけて教えて、やっと知識と知識が結びつくのである。
 
しかし大学では、たった1か月で、いろいろと難問を解かされるわけであり、明らかに大学は学生に理解なんてさせていない。(入学後、さいしょの中間試験まで、たった1か月ていどである。)(そもそも数日で理解できる知識なら、そもそも大学で学ぶ必要がない。あるいは、高校で教えればいい。)
 
しかも高校の教科書では、他教科の内容も紹介してたりするが(高校世界史でも日本史の話題も紹介したりとか)、大学は違う。
 
大学の教科書は、タテ割りの知識体系なので、ろくに他教科の知識を紹介しない。
 
高校の教科書は、一見するとタテ割りに見えるが、違うのである。実は、高校のほうがヨコ割りなのである。
 
 
要するに、大学教授の多くが、教育力の乏しい無能である。しかし、日本企業も無能なので、新卒採用は入試偏差値順に採用するだけなので、大学の教育力の乏しさが見過ごされているのであろう。
 
 
大学にかぎらず、小中高大で、無能な教育者は、自分の流儀どおりの勉強法を、学生に押し付けるのである。無能だから、自分の流儀以外の勉強方法・研究方法がある事すら知らないのである。
 
小学校なら、たとえ学生の答案の答えが正しくても、解法が教員の期待どおりの解き方でないと減点したり、そういう馬鹿教員もいるかもしれない。
 
なお、高校の場合は、大学入試があるので、こういう迷惑な教員は淘汰される。
 
しかし大学では、実務でつかわない難問・奇門を出題して、実務能力がある人を減点するようなカリキュラムが、野放しにされている。
 
そういう迷惑なカリキュラムをつくる大学教員が、淘汰されずに野放しだったりするのである。
 
そして、こういう迷惑な大学教員たちが、自分の流儀どおりの独善的な自己正当化のカリキュラムをつくるのである。(実務能力の高いマトモな人ほど、大学に失望し、大学教育からは離れていく。) そのダメな大学の卒業生の一部が、そのダメな大学に教員として就職したりして、彼らの流儀どおりの、どんどん独善的な自己正当化のカリキュラムが再生産されていく。その結果、大学のカリキュラムがどんどん、実務からはズレていく。
 
もし企業だったら、こういった独善的な自己正当化をしているだけの労働者は淘汰されるが、しかし大学は企業ではないので、独善で自己正当化の研究者(自称)が淘汰されない。
 
「自分の流儀通りしか認めない!」という発想の証拠が、入学後から1か月後の定期試験で難問奇門を出し、しかも高得点(60点以上)要求である。
 
もし高校なら、進学校ですら、大学受験に合格さえすれば、勉強法なんて、法律の範囲内で、どんな方法で勉強してもいいわけだ。早い話、高校の定期試験の成績がわるくても、大学入試に合格しさえすればいいわけだ。なので、もし高校のバカ教員が、あまり入試範囲からズレた出題をしてると、定期試験の成績が悪い生徒が難関大学に合格したりして、そのバカ教員のメンツが潰れる。
 
しかし大学は違う。その大学の、その大学教員のさだめた科目の定期試験で、学生は高得点を取らないといけないのである。高校と違い、たとえ大学が実務や研究最先端からズレたことを教育していても、それを止める外部勢力が、ほとんど無い。だから大学では、バカ教員のメンツが、なかなか潰れない。
 
これこそ、大学が独善的な証拠である。大学教育の人間性は、高校未満の人間性である。
 
== 不要な理論を淘汰する事こそ、理論研究である ==
=== 線形システム論は不要である ===
「線形システム論」は、数学的には無意味である。まず、線形システム論では微分方程式の解法にラプラス変換を用いるが、微分方程式の解法なんて、数学的には幾つもあり、どれかひとつの解法を特別視するのは数学的に無意味だからである。事実、数学科や物理学科などでは「線形システム論」を習わないし、数学者や物理学者は、「線形システム論」の細かい知識を知らない。
 
しかし、日本の大学工学部では、線形システム論は残っている。場合によっては必修化をされていたりする場合もある。
 
おそらく、文系大学に置いて、社会学のような、存在価値の疑わしい学問が残っているのと同じような現象だろう。
 
=== クレロー方程式、リッカチ方程式は、微分方程式の必修から外すべきである ===
その大学数学の授業の、微分方程式の理論ですら、クレローの方程式やリッカチの方程式のような変数係数の微分方程式は、大学でよく習うが、少なくとも工業の実務では用いない。物理学の学習・研究では変数係数の微分方程式は必要になる可能性はあるが、しかし工業では用いない。
 
仮に必要になったとしても、解法を暗記する必要がない。というか、そもそも変数係数微分方程式には何パターンもあり、そのほとんどは一般解が存在せず、たまたま一般解が存在するのがクレロー方程式などの場合だけである。
 
なので、せっかく変数係数微分方程式のモデルを立式しても、一般解が存在しない事例が多く、工業の実務では不便なのである。むしろ、高校物理の振動の微分方程式のように、変数係数微分方程式を定数係数微分方程式に近似する手法こそ、工業の実務では必要なのである。そして、そのような近似手法は、高校でも習う。
 
変数係数微分方程式を暗記するのは、実用的には、ほぼ無意味である。少なくとも、工学ではない。
 
工業で用いる可能性の高いのは、定数係数微分方程式である。実際、高校物理で習う微分方程式の多くは定数係数微分方程式である。
 
というか、そもそも微分方程式じたい、滅多に工業で用いない。
 
設計をする際にも、微分方程式は用いない。そもそも、方程式で予想したものは、単なる仮説にすぎない。工業の実務では、仮説だけでなく、試作品をつくり実証実験などで検証する必要がある。そして工業製品は構成要素が多すぎて、人間が手業で解ける微分方程式にするのは無理である。スーパーコンピューターなどを用いて、なんとか工業製品の特性を予想ができるかもしれない、・・・というのが、現在の科学技術の限界である。もちろん実務的には、スパコン計算よりも、実際に試作品を制作したほうが安上がりの場合が多い。
 
工業実務における微分方程式は、過去の知識を整理するための手段にすぎない。経済学における数式の活用方法も、似たようなものだろう。
 
=== その他 ===
* フーリエ変換は、電気工業では用いないのが現実である。
物理学的には、単一パルス波などのRLC線形回路方程式の応答解析にフーリエ変換を活用できるのであるが、しかし計算量が多く、その割に、電気工業の実務では単一パルス波の応答解析が必要な場面が、そもそも無いないようだ。電気工業で、フーリエ変換を活用した事例を、私は寡聞にして聞かない。
 
電気実務では、工業高校の教科書にフーリエ級数が紹介されてるように、フーリエ級数からの類推でも対応できる。むしろ、フーリエ級数からの類推ができないと、電気工業の実務では不便なのだろう。
 
ただし、jpeg画像圧縮の離散コサイン変換のように、情報処理などで、フーリエ変換から派生したような理論を用いる場合はある。
 
* 中学・高校教育では、使用頻度の少ない理論は淘汰される
タイトルの通り、中学・高校教育では、使用頻度の少ない理論は指導要領などにより高校教育から外されて淘汰されるので、実は中学高校で習う事のほうが大学教育よりも使用頻度は高い。なので、中学高校や工業高校などで習う理論こそ、理論の本質なのである。
 
大学で習う事は、本質ではなく、未来の中学教育・高校教育をつくるための手段である。
 
実際、現在、高校でならう三角関数は、明治時代は大学教育の範囲だった。
最近では、普通科「情報」科目で習うことが、昭和の昔は大学教育の範囲だった。
 
もし工業製品を買った時、「この製品は未完成なので、微分方程式を解いて設計してください」とか説明書に書いてある製品だったら、購入者は「ふざけんな! カネを返せ! 詐欺だ!!」と思うだろう。
 
そして残念な事に、日本の工業大学の多くが、このような未完成のボッタクリ教育サービスである。
 
* 量子力学のシュレーディンガー方程式ですら、現在の高校化学に、使用頻度と具体性の劣る理論である。
「大学で習う事は、本質ではなく、未来の中学教育・高校教育をつくるための手段である。」と上述した。
 
なので、過去の大学者の理論は、現在の中学高校の教育内容にすら劣る。具体的に言うと、シュレーディンガー方程式ですら、現在の高校化学に実用性の劣る理論である。高校化学にある、ベンゼン環などの共鳴と比べると、量子力学のハイゼンベルクの「不確定性原理」などは使用頻度が劣るし、具体性も劣る。
 
工業では、量子力学は今や、歴史としてしか実用性がない。
 
もちろん「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」。歴史教育は必要である。しかし、だからといって、歴史学の知識を、「これは経済学です」「これは法学です」などとウソを騙って宣伝してはいけないのと同様に、「量子力学は化学の実務に必要です」などとウソを宣伝してはならない。もちろん、化学の理論研究では、理論の整理のために量子力学を使う可能性がある。また、スパコンの化学シミュレーションの精度を上げるので間接的に産業に役立つ可能性はある。だが、化学の知識を用いる多くの職場では、量子力学の直接的な実用性は乏しいだろう。
 
なお、溶鉱炉の温度の測定方法は、べつに量子力学が発見したのではない。科学史では、先に、溶鉱炉の温度をボロメータなどで計測する手法が確立してから(物理学者ウィーンなどの研究成果)、あとから、その測定結果にもとづいてプランクが理論的に解釈を発見することで量子力学の理論が誕生したのである。なので、溶鉱炉の温度の測定方法は、べつに量子力学が発見したのではない。
 
 
ハイゼンベルクやシュレーディンガーの研究成果は、一見すると無関係に見える、化学と物理学の法則を、共通する法則性があるとして、理論を整理して、暗記の負担を減らすための手法である。そもそも物理学とは、そういう「一見すると無関係に見える幾つもの自然現象から、共通する法則性を抜き出す」学問である。
 
== 日本の小中高の社会科は「社会科学」ではない ==
これは指摘せねばならないだろう。
 
 
科学とは何か? 未来予測をできる知識体系のことである、と評論家の掛谷 英紀(筑波大の教授)は言う。
 
そして、私が思うに、その科学の理論は、カールポパーなどの言うように、実験などによって反証的に検証さて、劣った理論があれば淘汰されて修正されなければならない。
 
 
さて、小中高で習う社会科は、コレを満たしているだろうか?
 
政治経済の経済分野などの一部を除いて、まず満たしていない。
 
いっそ、歴史みたいに「覚えるしかない」と開きなおるなら、まだマシである。
 
有害なのは、社会「科学」でない思想・イデオロギーが、あたかも科学のフリをしていることである。たとえば、人権思想とか左翼思想とか。思想は、それの真偽を検証する証明がないかぎり、科学になりえない。なお、右翼思想でも同様に、社会「科学」でない。現状の教育では左翼が中枢にいるので、このページでは左翼を先に槍玉に挙げただけである。
 
 
たとえば「生活保護や福祉を増やすのが、いいか悪いか」かじゃなくて、「日本のこの状況で福祉(または生活保護、または他の行政施策でもいい)を増やしたら、'''具体的に'''何が起こるだろうか? その何かへの「影響」は、たとえば金額(あるいは人口などの数値)に換算すると、どれくらいか」とか分析するのが科学である。そういう分析につながらないのは、まったく科学ではなく、単なるイデオロギーである。
 
 
また、大学レベルになるだろうが、法の立法のさいの「○○主義」などのような原則ですら、科学ではない。(もっとも、法学部は科学とは言ってない。法学の成立は歴史でかなり古く、ニュートン物理学などの近代科学よりも法学は古いからである。)
 
アメリカの禁酒法のように、立法者の意図に反する結果になる法律なんて、法律の歴史をひもとけば、いくらでもある。
 
なので、日本でいくら、「○○主義」という考え方が法学やら政治学で存在すると学者が主張しようが、それ自体はまったく社会「科学」ではない。
 
 
困ったことに、こういう、なんとか学の「○○主義」を信望することが「科学」だと勘違いしている人が、世間には多い。しかし、「○○主義」自体は、統計などによる実験的な裏づけがないかぎり、なんの証明にもなっておらず、単なる政治理念などの理念であり、したがって「科学」ではない。
 
 
むしろ、もし法を社会「科学」的(未来予想・予測ができるという点での「科学」)にもとづいて研究するのならば、むしろ禁酒法のように制定者の意図と逆の結果になった法律を研究するほうが、手っ取り早いだろう。
 
 
社会「科学」とは何かというと、たとえば経済学での投資の乗数効果の理論のように、「○○をしたら、△△になるだろう」というような予想・予測の手法だけが、科学である。定量的であれば、なお良い。
 
もちろん、予想なのでマチガイや例外もあるだろうが、しかしそれすらも、社会科学なら統計によって検証ができる。
 
しかし、日本の小中高の教育では、まったく、そういう社会「科学」的な予測手法の教育は乏しいし、予想の検証も当然に行われてない。せいぜい、高校の『政治経済』科目で、銀行の『信用創造』があるくらいだ。
 
百歩ゆずって、小学校で、そういう社会「科学」的な分析手法が練習されないのは、まあ仕方ないのかもしれない。学問も芸術もトレーニングは何事も「守・破・離」だから。でも、高校ですら、そうなのは、ちょっと低レベルだね。
 
なるほど、いまや世界的に、文系の連中よりも理系のほうが賢いワケだ。
 
 
で、小中高の子供だけでなく、大学教授も同レベルのバカが多いんですよ。大卒も、そうです。そういうバカを、日本の教育制度は淘汰できないんです。
 
で、ウィキペディア系サイトの執筆者や各種のウィキ系サイト内の選挙での有権者も、そういうダメな非「科学」的な社会科の教育を、あたかも「社会科学」だと勘違いして教育を受けてきた人達ばかりなので、彼らも、あまり信用できない人なんです。
 
ウィキペディアは本来は人気投票の場所ではないんですが、形骸化して、人気投票の場になっています。左翼のインテリ風 知識人(きどり)の連中の活動場所です。 
 
== wikibooks教科書の書き方 ==
例として、小中高のwwikibooks教科書を例に説明する。
 
# ある科目の検定教科書などを何社ぶんか冊を買ってきて、書きたい単元のとこを読みくらべる。(最低でも1科目あたり3社(つまり3冊)以上のていど。多いぶんには平気。)
# どの検定教科書にもある共通する単語とその解説の言い回しを抜き出して、ワープロソフト『Word』またはテキストエディタ(ウィンドウズ『メモ帳』)などにメモする。まず単語を抜き出し、つづいて、言い回しを抜き出そう。なぜなら小中高レベルでは、生徒の語彙力が限られるので、説明の言い回しがある程度、限られる。
# 上記の方法で抜き出した単語や言い回しをもとに、自分の理解に基づいて、文章として つなげる。ここで、理解力が要求される。
# 文章としてとりあえずの形になったら、さっさとwikibooksに投稿する。
 
書き始めは、たった、こんだけ↑。
 
けっして1冊の教科書を通読するのではなく、教科書の単元ごとに他の教科書と比較する読み方をします。
 
けっして、単に、共通内容を羅列するだけでは、教育になりません。なぜなら読者の側は、単なる知識の羅列をされても理解できません。
 
なので、あなたが代わりに理解をして、気づいたことに基づいて、文章をつなげていって、うまく説明していく必要があります。
 
上記の投稿結果が、今後のwikibooks教科書の骨組みになります。
 
なお、上記の他にも、図を描いたり、表を書いたりなどの手間もある。
 
 
さて、wikibooksにひとまず投稿したら、
 
次の段階として、補足としての説明を加えて肉付けをしていく必要がある。
 
参考書を読んだり、大学教科書など上級学校の教科書(中学wiki教科書を書くなら高校教科書が上級の教科書である)を読み、
 
それら教材を読んで、教科書の記述に関連の深そうな内容があれば、必要に応じて wikibooks 投稿に加える。
 
あるいは、検定教科書から共通知識として抜き出しをし忘れた項目などもあるので、ときどき検定教科書を読み返して、追加すべき項目が見つかれば骨組みに追加する。
 
なお、ココで、教科書でもなく参考書でもない学生教材いがいの情報を読んだりして、きづいた事を投稿したりすると、ほかの投稿者から「独自研究」とか言われて批判されることもある。
 
 
あるいは肉付けとして、次の段階で、一部の検定教科書にしか書いてない発展的な内容を、どの教科書出版社が紹介しているかという情報とともにwikibooksに追記してゆく。
 
 
だいたい、上記のような流れである。
 
 
たったこんだけで、wikibooks教科書を著作・改良していける。
 
なのに wikibooks で自治きどりをしている自治厨は、たったこんだけの事をしないで、他人の編集に文句ばかりつけてくるんですよね・・・。
 
オマエのことだぞ、このページに「削除依頼」を出した利用者: 令和少年 。
 
 
なお、『[[小学校・中学校・高等学校の学習/ウィキブックスで教科書を執筆する人へ]]』にもwikibooks教科書の書き方が書いてある。
 
ただし『ウィキブックスで教科書を執筆する人へ』にも削除依頼を出されているのでサブページを当利用者ページに作成しておこう。『[[利用者:すじにくシチュー/小学校・中学校・高等学校の学習/ウィキブックスで教科書を執筆する人へ]]』
 
削除依頼を出した利用者:椎楽 やページ白紙化したIPユーザー: 115.37.11.5 には、このページ内容は私(すじにくシチュー)の独自研究みたいに言っておいたので、真に受けたか鬼の首でもとったつもりになって削除依頼を出したり白紙化したんだろう。嫌いなやつの記事の削除をしたいんだろうな。馬鹿だなあ。
 
『ウィキブックスで教科書を執筆する人へ』の記事内容のけっこうな割合は、実は管理者の かげろんさんとかが中学教科書の執筆方針とかで言ってたことを、他の教科書にも応用が利くように私が書き換えただけなんだけどね。
 
自治厨の利用者:峰浦景勝 も削除に賛成票を出してるし。
 
この人たち自治厨って、ほんとつくづくリテラシーが低くて、wikibooks内での調査活動もしてないんだねえ。ロクに記事も書かずに、管理者きどりで自治厨みたいなことをしてるから、こういうワナに引っかかるんだよ。
 
かれら自治厨は、本人たちは管理者たちの補助ボランティア気取りなのかもしれないけど、私には何だか総会屋みたいな連中に思えるわ。
 
 
== 「でもしか教師」たちに注意 ==
教育ってさ、形式の実践だけなら、バカでも出来るんだよ。マニュアル化されてるし。原理的に時代遅れなのよ、教育って。
 
だからさ、バカなくせにヤタラと努力家・勉強家(自称)の人は、教師になりたがるのね。
 
そういう人を揶揄して、「教師でもやるか」「教師しかなれない」って意味で『でもしか教師』って、昭和の時代は言ったのよ。
 
というか、才能豊かな人は、教師をやめちゃうのよ。たとえば漫画家の江川達也なんて、もともと中学の数学家の教員免許を持ってる学校講師。
 
 
で、小中あたりならまだしも「でもしか教師」とか言われても子供の世話をする人は必要かもしれないけど、しかし大学あたりでも、こういう「でもしか」な学者は今もいるでしょうよ。
 
最近は不況で雇用がきびしくなったけど、でも、他の職業で働けないような低脳な人が教育についているのは同じ。
 
「掛け算の順序問題」とか、習ってない漢字を答案につかうと減点とかの、社会では何のメリットも無い指導がはびこるのも、背景には「でもしか」教師
が、身の程知らずのことをしているという背景がある。
 
 
雇用の厳しさと、労働者としての汎用性は、別問題。
 
 
たとえば芸術家とかさ、どんなに競争が厳しくても、他の職業につけなさそうな人、いっぱいいるじゃん。
 
学校や大学も同じですよ。
 
バカにありがちな勘違いの「競争が厳しい = 質が高い」ってのはスポーツ選手とか芸人とかいった興行の発想でしかなく、けっして学問の発想ではないの。
 
競争が厳しくて高品質なら、ブラック企業だって高品質だぞ馬鹿教師ども。
 
 
本来なら、専門学校ではない小中高大学ってのは、普通教育の機関なんだから、大学ってのは汎用的な人材を教える必要があるんだよ。
 
 
大学は研究機関でもあるが、汎用性があっても、研究に困ることは、特に無い。
 
 
でも、その汎用性の教育能力のある学者や学校、どんだけ日本にあるかっていったら、ほぼ皆無でしょう。
 
形式的には「教養」教育ってのがあるけど、形骸化している。
 
社会で必要な教養ってのは、べつに雑学に詳しいことじゃなくって、汎用性のある人材のことですよ。
 
どんなに既存の○○学に詳しくても、その○○学しかできない人は、社会では、ほぼイラナイ。既存の知識を覚えるだけならコピー機で十分だもんね。
 
でも普通科高校や大学にいるのは、こういうコピー機みたいな人たちばかり。
 
 
汎用性をもつ手っ取りばやい方法は、複数の専門性をもつことだ。いわゆるダブルメジャー、マルチメジャー。多能工みたいなもん。
 
けっして雑学マスターでもないし、歴史クイズみたいなのに詳しくなることでもないし、哲学史に詳しくなることでもない。
 
 
悪いけど今どき、プログラミングのひとつも出来ない、商業高校レベルの簿記や経理もワカラナイ、エクセルなどの表計算ソフトも使えない、コンピュータで絵も書けなければ作曲も出来ない、・・・なんて、もはや教育機関としての資格がほぼ無い。(よほどの専門性が無い限り、その程度のリテラシーも無い人は、もういらない。)高校や大学を学校を卒業してその程度もできないって時点で、何も習得できていない。
 
で、小中高校や大学って、教師サイドが、こういう人たちばかりなんですよ。それどころか国が、そういう、5教科クイズ以外にとりえの無い人材の育成を奨励している。
 
さすがにもう、デジタル化の進んだいまどきですら JavaScript やら C言語 やら何かひとつもプログラミングの出来ない大人に「学問の大切さ」とか、ほざかれたくない。本来なら、こういう「でもしか教師」は、もう解雇すべきですよ。国鉄の民営化みたいに。
 
1980年代にNECとかが10万円くらいのパソコン販売してから、C言語やBasic系言語を勉強する時間なんて、いくらでもあった。いまだにプログラミングも出来ない人は、「今までの人生、何してきたの?」「教師用の指導書に書いてあることを発音するならデープレコーダーでも出来るよね? オマエが生きている意味あるの? 無いので自殺したら?」って感じ。
 
べつにプログラミングがきでなくてもいいけどさ、何か法律とか語学とか、あるいは工業系なら回路設計とか機械設計とか・・・で実務レベルのことが色々とできるならそれでもいいけど、でもどうせ、そんな実務能力も無いし、そもそも、そういう能力のある人は教員に就職したがらない。
 
その法律とか語学をするにしても、やっぱ今時、ニュースでもアメリカIT企業の話題が出てくるんだから、さすがにC言語か何かのひとつくらいカジってないと、研究にならないだろう(せいぜい出来るのは、他人の研究の落穂ひろいだろう)。
 
低学歴(せいぜい文系の大卒)の大人オバサンのお受験ママみたいなのも、背景はコレで、「でもしか教師」の亜流だと思う。数学者の秋山仁が、『「子供に勉強しろ」と言う前に、まず親のオマエが勉強しろよ馬鹿』みたいなことを言ってたけど、そのとおりだと思う。
 
理系の私ですら文系科目の高校レベルの教科書を書けるのに、いっぽうで、いまどき教科書の一冊も書けない低脳夫婦がお受験パパママをしてるんでしょ?(しかも私の中高の時代は、趣味は、家でマンガの模写とかしてたりとかで、べつに5教科ばかり自宅学習してたわけでもない。)
 
で、馬鹿の日本企業は、そういうお受験ママの家庭の子供を「高学歴」という理由で雇用してるんだから、もう国じたいが馬鹿で低脳なんだろうね。
 
企業はイイワケで「国の教育が悪い」とか言うかもしれないが(実際、経団連のバカどもは、たびたび国の教育にケチをつける)、だったら自分たちで学校をつくればいいだろ。私一人ですら自分で小中高の国語・英語・理科・社会の教科書を作ったぞ。
 
経団連の社員がどこの大学を出た大企業だかしらないが、今どき教科書も作れないバカがさ、エリートづらすんじゃねえよバカ経団連。
 
 
今はもう「でもしか大学受験」「でもしか就活」みたいなのがある感じがするよ、社会には。
 
 
== 馬鹿でも大人になれる、馬鹿でも親になれる、PTA ==
 
日本では、大人になれば選挙権が手に入る。
 
なので、馬鹿でも選挙権が手に入る。政治家は、そういう人の票を獲得するために、馬鹿にもウケのいい政策を出す。
 
同様に、馬鹿でも親になれる。親になるだけなら、セックスして子作りすればいい。なので世間には、馬鹿でも親をしている連中がいる。
 
この「馬鹿」というのは別に学歴的な意味だけでなくて、世間知らずとか、机上の知識しかないとかの意味もある。
 
オウム真理教みたいなカルト教団に洗脳される馬鹿とか、北朝鮮みたいなカルト国家の言い分を鵜呑みにする馬鹿とか。
 
経済オンチの連中が共産主義革命を信望する馬鹿とか。
 
 
もちろん学歴的な意味でも、さすがに、いい年して中学レベルの5教科の知識も無い人は、さすがに馬鹿にされても仕方ないが。
 
 
で、こういう馬鹿でも、教育に口を出す。PTAって言う、名目上は生徒の保護者による組織があって、馬鹿でも親になれて、そいつらが教育の口実でマスコミに口出しをする。(ただし、実態は、一部の政治運動みたいなのに熱心なバカ親がPTAを牛耳ってたりする地域もあるという。)
 
でも、コイツラの批判で、マトモな結果になったことはない。
 
PTA的な組織が、かつてマンガを批判してたのは有名な話だ。
 
 
今でこそテレビは「マンガやアニメは日本の文化」とか政府が言ってるが、私の中高生時代でも、当時はマンガなどを子供だけの見るものとして見下す大人が、まだ多かった。もう既にファミコン(の互換機)が欧米でも売れて世界的なブームになってたり、少年ジャンプの発行部数が新聞を超えたりしてても、そういう現実を認めないのか無知な大人なのか、マンガやアニメやゲームを見下す大人は多かった。
 
 
1997年にエヴァンゲリオンや『もののけ姫』が映画化したが、それでも事態を理解できずに、マンガやアニメなどを見下す大人が残っていた。
 
べつに「ワシは頑固だから若者にコビを売りたくないのでマンガを遠ざけてる」(西部邁 的な意味)とかじゃなくって、そもそも、マンガの発行部数などの統計的な事態をまったく理解してない大人たちがいたのである。
 
 
テレビドラマは見たがるくせに、「マンガは作り話でしょ、くだらん」みたいに批判する人もいた。(ドラマは現実でなくて、小説家や脚本家の作った作り話なんだが・・・。アホかコイツ)
 
ドラマで勉強に役立つ知識なんて、せいぜい歴史大河ドラマや時代劇で歴史知識が出てくるとか、あるいは刑事推理ドラマの一部で法律知識が紹介されるくらいで、あとのメロドラマとか学園ドラマとかそんなのに、大した社会知識は扱われてねえよ馬鹿。
まして、メロドラマとか学園ドラマとか、場合によっては原作がマンガだったりする(しかし、昔はそういうのを把握できてないでマンガ批判してドラマを推奨するバカな大人もよくいたんである)
 
でも、世間はこういうことのワカラナイ馬鹿な団塊世代やその少しあとの世代(高度成長くらいの生まれ)でも、世間では親になれるのである(べつにウチの親じゃないよ・・・と言いたいが、まあウチの親にもその傾向があって、私がアニメを見てたら文句を言うのに、特撮をビデオ録画して見てたらドラマだと勘違いして文句を言わないというね・・・)。
 
 
子供がアニメを見てたら文句の言う母親が、自分はバラエティ番組を見てたり、とかのよくある話も、うちの家でもあったね。
 
親には育ててもらった義理はあるが、それでもウソを後世に伝えるわけにはいかない。上記のように身内の不見識を暴露する。
 
 
「ドラマを見るようになったから、自分は大人。成長した!」みたいな人は昔はよくいたさ。そういう人を何人か当時は見かけた。中学生かよ馬鹿。缶コーヒー飲んで大人の気分になるガキと同じだろ。
 
馬鹿のくせに、年上だからって尊敬されて当然だと思ってる、馬鹿で怠惰な大人も昔は多かったのである。
 
 
ソープランドに行ってみただけで大人になった気分になるバカな大学生や新社会人とかも、昔はいたんだろうなあ。
 
タバコを吸って大人になったつもり、とかのバカもね。酒も同様。バイク(オートバイ)とかもね。
 
 
マンガ『ナニワ金融堂』くらいの法知識もないのに、複式簿記もろくに知らなくても(「記法がワカラナイ」じゃなくって、複式簿記という概念じたいを知らない)、ソープに行ったり、キャバクラでバイトしてみたりとかで、大人になったつもりのバカとかね。
 
 
平成の不況にはいい面もあって、バカな老人とそいつにコビを売ってた裏切り者の若者を、ある程度はぶっ潰せたっていう利点もあるのよ。
 
 
== ペテン師の「大学の数学が仕事の役立つ」と言うペテン ==
世間の理系大卒どもがデタラメなことを言うが、「実社会で大学数学がそのまま役立つ」事例なんて、ありえない。
 
これは私が仕事の研究発表で言われたことなんだが、
 
就職先の会社で、私の研究発表のとき、「わが社のこの技術の仕組みは、数学でこう説明できます」と私が発表したところ、
 
先輩の研究員から「ちょっと違うよ。数学しか知らない人にも仕組みが分かるように説明できるように、わが社がそこまで試作(しさく)や実験を繰り返して技術開発しておいたんだよ。」というツッコミを入れられたことがある。
 
もちろん、その会社は産総研の下請けで部品を作ってたりするような技術力の高度なメーカーである。
 
そういう会社ですら、大学の数学がそのまま使えるなんてこと、絶対にありえない。
 
 
困ったことに、日本では大学教員が、こういう現実を認めず、それどころかペテン(「大学の数学が仕事の役立つ」と言うペテン)の片棒を担いでいる。