「中学受験社会/歴史/上巻」の版間の差分

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身分の差は、人々のあいだに、すでにありました。道端で身分の違う者どうしが出会うと、身分のひくい側のほうが道をゆずったといいます。
 
服装は、女性は{{Ruby| '''貫頭衣'''|かんとうい}} という、布のまんなかに、顔をだすための穴をあけただけの服を着ていたようです。
 
また、税の制度があると、倭人伝に書かれています。{{Ruby|市|いち}}も、開かれているようです。
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大阪府の堺市にある <big>{{Ruby|大仙|だいせん}}(大山)古墳</big> は、日本で最大の面積の古墳です。
 
大仙古墳は、まわりが3重の{{Ruby||ほり}}で、かこまれています。
 
ほかの場所でも、古墳が発見されています。代表的な古墳の数が多いので、すべとしの書ききれないので代表的なものを書きます。
 
:{{Ruby|稲荷山|いなりやま}}古墳…埼玉県
:{{Ruby|五色塚|ごしきづか}}古墳…兵庫県
:{{Ruby|高松塚|たかまつづか}}古墳…奈良県、明日香村(あすかむら)
:{{Ruby|江田船山|えだ ふなやま}}古墳…熊本県
 
:
などがあります。
 
* 古墳の副葬品
[[File:KofunSoldier.jpg|thumb|left|140px|はにわ。武装男子立像(群馬県太田市出土)東京国立博物館蔵、国宝]]
[[画像:HaniwaHorse.JPG|thumb|190px|はにわ。馬形埴輪(東京国立博物館)]]
古墳からは、鏡や玉、剣などの副葬品が、発見されている。他にも、<span style="color:red"><big>はにわ</big></span>(埴輪)という、土を焼いて作られた人型や馬型などの置き物が、発見されています
 
{{clear}}
==== 大和朝廷 ====
奈良県の{{Ruby|大和|やまと}}地方には、大きな古墳が多い。このことから、この大和の地方に、有力な勢力があったと、考えられている。この奈良地方の有力な豪族たちの政治勢力を <big>'''大和政権</big>(やまと せいけん)''' といます
:(やまと ちょうてい)
 
この大和政権の政府を <span style="color:red"><big>大和朝廷</big></span>(やまと ちょうてい) とい、その最高権力者を <span style="color:red"><big>大王</big></span>(おおきみ) と言ういいます
奈良県の大和(やまと)地方には、大きな古墳が多い。このことから、この大和の地方に、有力な勢力があったと、考えられている。この奈良地方の有力な豪族たちの政治勢力を <big>大和政権</big>(やまと せいけん) という。
大王(おおきみ)の一族は、後の天皇(てんのう)とよばれる一族である。
 
この大和政権の政府を <span style="color:red"><big>大和朝廷</big></span>(やまと ちょうてい) と言い、その最高権力者を <span style="color:red"><big>大王</big></span>(おおきみ) と言う。
大王(おおきみ)の一族は、後の天皇(てんのう)とよばれる一族である。
 
 
{{コラム|キビとイズモの王朝|
当時の日本には、地方によっては、ヤマト政権の他にも有力な豪族の治める王国があった。今でいう島根県あたりの出雲(いづも)や、今でいう岡山県あたりの吉備(きび)での、ヤマト以外の豪族たちの政権である。これらの政権を、大和朝廷や大和政権に対応して、出雲のほうは出雲政権とかイズモ政権とかイズモ王国、吉備のほうは吉備政権やキビ政権や吉備王国やキビ王国などと呼ぶこともあります
 
最終的に、のちの時代に日本を支配することになったのは奈良を中心とする政権の大和朝廷である。
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}}
 
[[File:Inariyama sword.JPG|thumb|350px|right|まんなかにある、たてに長い茶色いのが、発掘された鉄剣。金錯銘鉄剣(国宝、埼玉県立さきたま史跡の博物館)]]
小学校の段階(だんかい)では、とりあえず、この古墳時代に大和朝廷が出来た、ということと、くわえて、大和朝廷が最終的に日本を支配した、ということを知っておけば良い。
埼玉県の稲荷山古墳から見つかった鉄剣には、<big>'''ワカタケル'''大王</big>(ワカタケルだいおう、ワカタケルおおきみ)の名が刻まれた文が、刻まれてありました。文を読むと、この地方の王は、ワカタケル大王に使えていたらしいようです。
 
 
[[File:Inariyama sword.JPG|thumb|350px|right|まんなかにある、たてに長い茶色いのが、発掘された鉄剣。金錯銘鉄剣(国宝、埼玉県立さきたま史跡の博物館)]]
埼玉県の稲荷山古墳から見つかった鉄剣には、<big>'''ワカタケル'''大王</big>(ワカタケルだいおう、ワカタケルおおきみ)の名が刻まれた文が、刻まれてあります。文を読むと、この地方の王は、ワカタケル大王に使えていたらしいです。
 
 
熊本県の 江田船山(えだ ふなやま)古墳 にも、おなじ名前の刻まれた鉄刀(てっとう)があり、ワカタケル大王の支配する領域が、関東地方から九州までの広い範囲(はんい)に、およんでいたことが、分かります。
 
正確に言うと、当時はまだ漢字しか文字がなかったので、稲荷山の鉄剣には115字の漢字が刻まれており、その漢字の中に「獲加多支鹵大王」(ワカタケル大王)という名が、刻まれています。 (※ 「獲加多支鹵」の漢字は、小学生は、おぼえなくて良い。)
 
また江田船山の鉄刀には、刻まれた文が破損しており、「獲□□□鹵大王」(ワ???ル大王 ?)というふうに名前の一部が読めなくなっています。
 
後の日本の神話の書の『古事記』(こじき)や、後の歴史書の『日本書紀』(にほんしょき)などから「ワカタケル」という人物の存在が知られているので、鉄剣などがワカタケルの存在をうらづける証拠になったのです。日本書紀に「幼武天皇」(わかたけ てんのう)という記述があるのです。
ワカタケル大王とは、<big>雄略天皇</big>(ゆうりゃくてんのう)だということが分かっています。