「小学校社会/6学年/歴史編」の版間の差分

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=== 時代の表し方 ===
[[File:年表.png|400px|thumb|時代の流れ]]
* 時代
** 歴史学習で使う時代の表し方には、まず「時代」があります。これは、「{{ruby|奈良|なら}}時代」「{{ruby|江戸|えど}}時代」などと、大きなことがら(都や政治の{{Ruby|拠点|きょてん}}が移る,{{Ruby|天皇|てんのう}}が変わる)ごとに時代を変えていく表し方です。
* 西暦
** {{ruby|西暦|せいれき}}は、[[w:イエス・キリスト|イエス・キリスト]]が生まれたとされる年を西暦1年として年を表す表し方です。現在は西暦{{CURRENTYEAR}}年です。
* 世紀
** {{ruby|世紀|せいき}}とは、100年ごとに区切って、年を数える単位です。西暦1年から西暦100年までが1世紀です。西暦101年から西暦200年までが2世紀です。西暦2001年から西暦2100年までを21世紀といいます。たとえば、105年は2世紀、1853年は19世紀です。
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古墳には、いろいろな形のものがあります。円形に{{ruby|盛|も}}り上がった古墳を{{ruby|円墳|えんふん}}といいます。四角く盛り上がった古墳を{{ruby|方墳|ほうふん}} といいます。円墳と方墳があわさったような、かぎ{{ruby|穴|あな}}のような形の古墳を {{ruby|前方後円墳|ぜんぽうこうえんふん}} といいます。
{{ruby|大阪|おおさか}}府{{ruby|堺|さかい}}市にある {{ruby|大|だいせん}}(大)古墳 は、日本で最大の面積の古墳です。
 
古墳は、まわりが3重の{{ruby|濠|ほり}}で、かこまれています。
 
{{ruby|大阪|おおさか}}府{{ruby|堺|さかい}}市にある {{ruby|大山|だいせん}}(大仙)古墳 は、日本で最大の面積の古墳です。
 
大山古墳は、まわりが3重の{{ruby|濠|ほり}}で、かこまれています。
 
ほかの場所でも古墳が見つかっています。古墳の数は多いのですが,代表的なものを書きます。
 
:{{ruby|稲荷山|いなりやま}}古墳…{{ruby|埼玉|さいたま}}県
:{{ruby|五色塚|ごしきづか}}古墳…{{ruby|兵庫|ひょうご}}県
:{{ruby|高松塚|たかまつづか}}古墳…{{ruby|奈良|なら}}県
:{{ruby|江田船山|えだ ふなやま}}古墳…{{ruby|熊本|くまもと}}県
 
* 古墳の{{ruby|副葬|ふくそう}}品
[[File:KofunSoldier.jpg|thumb|left|140px|はにわ。{{ruby|武装|ぶそう}}男子立像({{ruby|群馬|ぐんま}}県{{ruby|太田|おおた}}市出土)]]
[[画像:HaniwaHorse.JPG|thumb|190px|はにわ。(馬形{{ruby|埴輪|はにわ}})]]
古墳からは、鏡や玉、{{ruby|剣|つるぎ}}などの副葬品が発見されている。ほかにも、'''はにわ''' という、土を焼いて作られた人型や馬型などの置き物が発見されています。
 
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役人の心がまえを記したものです。豪族などに対して、役人としての心がまえを述べたものでしょう。
 
{| style="border:1px solid #777; background-color:#ffffddffffff; width:100%; margin:0.25em 0"
| style="padding:0.25em 0.5em" |<span style="font-size:117%; color: #000">'''十七条の憲法(要約)'''</span>:
1条 争いをやめ、なかよくしなさい。
 
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* {{ruby|源平|げんぺい}}の戦い
{{ruby|源頼朝|みなもとのよりとも}} は、関東で兵をあげました。{{ruby|富士|ふじ}}川の戦いで平氏をやぶったあと、頼朝は関東の{{ruby|鎌倉|かまくら}}に、とどまって、勢力の{{ruby|基盤|きばん}}をかためました。
 
そして頼朝は、平氏に不満をもっている武士の{{ruby|北条氏|ほうじょうし}}など関東の武士とも協力して、勢力をのばしていきました。
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頼朝は、自らは鎌倉にとどまり、代わりに弟の '''{{ruby|源義経|みなもとのよしつね}}''' の兵を借りて、平氏を西へと追いつめていきました。
 
1185年、{{ruby|源義経|みなもとのよしつね}}らは{{ruby|源|みなもとの}}({{ruby|木曽|きそ}}){{ruby|義仲|よしなか}}を打ちとったあと、平氏をたおすために兵を動かし、1184年には {{ruby|一ノ谷|ちのた}}本州戦いで平氏をやぶり(現在西の{{ruby|兵庫|ひょうご}}県)、続いて1185年に {{ruby|屋島|や}}の戦いにおいても平氏に勝ち(現在の{{ruby|香川|かがわ}}県)、ついに平氏を{{ruby|壇ノ浦|だんのうら}}においつめ(本州の西の端である今の{{ruby|山口|やまぐち}}県の{{ruby|下関|しものせき}})、1185年にはで起こった {{Ruby|壇ノ浦|だんのうら}}の戦いで平氏に勝ち、ついに平氏をほろぼしました。
 
これらの源氏と平氏との一連の戦いを「{{ruby|源平|げんぺい}}の戦い」あるいは「源平合戦」といいます。
 
[[File:Minamoto_no_Yoshitsune.jpg|thumb|源義経]]
[[File:Minamoto_no_Yoshitsune.jpg|thumb|源義経<br>平氏との戦いで多くの{{ruby|手柄|てがら}}をたてましたが、兄の源頼朝と対立し、東北に追われて、{{ruby|平泉|ひらいずみ}}で {{ruby|亡|な}}くなりました。]]
 
義経は{{ruby|頼朝|よりとも}}と対立しました。
義経らは東北地方の{{ruby|奥州|おうしゅう}}にいる奥州{{ruby|藤原氏|ふじわらし}}をたよって東北に{{ruby|逃|に}}げていたので、奥州藤原氏も頼朝によりほろぼされました。
 
一方、{{ruby|平氏|へいし}}の{{ruby|滅亡|めつぼう}}後、頼朝が{{ruby|朝廷|ちょうてい}}に要求したことより、新しい制度として、国ごとに守護が1人ずつ置かれ、{{ruby|荘園|しょうえん}}や公領には '''{{ruby|地頭|じとう}}''' が置かれました。
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1871年には、明治政府は、{{ruby|藩|はん}}を{{Ruby|廃止|はいし}}し、かわりに県や府をおきました。そして、それらの県や府の地方政治では、政府の任命した役人を{{Ruby|知事|ちじ}}として送りました。これを {{Ruby|廃藩置県|はいはんちけん}}といいます。
 
このような、{{Ruby|幕末|ばくまつ}}から明治時代はじめごろに行われた一連の{{ruby|改革|かいかく}}を {{Ruby|明治維新|めいじいしん}}といいます。
 
1871年、{{Ruby|江戸|えど}}時代の身分制度はなくなり、農民や町民・差別を受けていた人は「平民」となり、身分上は解放されました({{ruby|四民平等|しみんびょうどう}})。 平民は、{{Ruby|江戸|えど}}時代とはちがい、職業や住む場所を変えられるようになりました。名字を、平民も持てるようになりました。
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==== {{ruby|富国強兵|ふこくきょうへい}} ====
明治時代の日本では、日本を強い軍隊を持った国にしようという動きが高まりました。これを{{ruby|富国強兵|ふこくきょうへい}}といいます。そのためには、
 
===== 軍制の{{Ruby|改革|かいかく}} =====
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また、この戦争の間、日本は好景気でした。
 
しかし、米をはじめとして物価があがり、{{Ruby|暮|く}}らしが苦しくなったため、{{ruby|米騒動|こめそうどう}}と{{Ruby|呼|よ}}ばれる騒動が、日本の各地で起きました。
 
このため、{{ruby|米騒動|こめそうどう}}と{{Ruby|呼|よ}}ばれる騒動が、日本の各地で起きました。
 
しかし、戦争が終わると日本は不景気になりました。
 
その後、日本は好景気不景気をくりかえしていきました。
 
なお、1922年、ロシアで革命が起き、 ソビエト社会主義共和国{{ruby|連邦|れんぽう}} が成立しました。なお、「ソビエト連邦」「ソ連」などと言われることもあります。
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<!-- ※ 光村図書や日本文教出版や東京書籍の教科書で、関東大震災などを習う。 -->
 
なお、このとき、「{{ruby|朝鮮|ちょうせん}}人が{{Ruby|反乱|はんらん}}をくわだてている」といううわさが飛びかい、多くの{{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}人が殺害される事件が起きました。なお、朝鮮人の中には{{Ruby|韓国併合|かんこくへいごう}}のため関東に働きに来ている人がいました。
 
 
 
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* {{ruby|五|ご}}・{{Ruby|一五|いちご}}事件
[[ファイル:May 15 Incident.jpg|thumb|500px|五・一五事件を報じる新聞]]
このころ、日本政府は{{Ruby|満州|まんしゅう}}の問題を、中国との話し合いで解決しようとしていました。しかし1932年の5月15日、日本軍の一部の軍人らが総理{{Ruby|官邸|かんてい}}に乱入して、総理たちを殺害する事件が起こりました。この一部の軍人が総理を殺害した殺人事件を '''{{ruby|五|ご}}・{{Ruby|一五|いちご}}事件''' と言ういいます
 
<!-- ※ 「五・一五事件」の名称は検定教科書の範囲内。日本文教出版の教科書に記載あり -->
 
:しかし、当時の{{Ruby|一般|いっぱん}}の人々は、ひどい不景気のため、政治家に絶望していたため、犯行におよんだ軍人を、一般の人々は支持しました。このような決定のせいで、のちに、軍人による、政治に圧力をくわえるための殺人事件が、ふえていくことになりました。
 
また、このため日本は、'''まるで軍人が政治を支配しているかのような状況になってしまいました。'''
 
* {{Ruby|二|に}}・{{Ruby|二六|にろく}}事件
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:※英語で書かれた画像です。参考程度にしてください。]]
 
[[ファイル:USS West Virginia;014824.jpg|300px|thumb|真珠湾攻撃で燃え上がるアメリカ軍の軍艦'[[w:ウェストバージニア (戦艦)|ウェストバージニア]])。]]
 
その直後、日本はアメリカとの戦争をおそれ、アメリカとの戦争にならないように{{Ruby|交渉|こうしょう}}しますが、アメリカから満州事変よりも前の状態に日本の海外領土をもどすように要求されました。
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初めのうちは勝利していた日本軍も、アメリカが体勢をたてなおして{{Ruby|反撃|はんげき}}に出てくると、日本軍は各地で負けはじめました。
 
また、日本軍は補給にますます苦労するようになり、戦うまえに{{Ruby|餓死|がし}}や病死どで死んでしまうった日本兵も、東南アジアの各地で出てきました。
 
日本の新聞やラジオなどでは、日本が負けていることは、かくされていました。
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=== 戦時中の{{Ruby|暮|く}}らし ===
==== {{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}や{{Ruby|台湾|たいわん}}などの人々 ====
また、日本国内で、{{Ruby|徴兵|ちょうへい}}のため、それまで日本で働いていた日本人の労働者がりなくなったので、{{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}半島や{{Ruby|台湾|たいわん}}から、朝鮮の人々を労働者として日本に連れてきて、日本の工場や鉱山などで{{ruby|厳|きび}}しい労働をさせました。
 
==== 日本の人々 ====
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1938年、国民全員を戦争に総動員させるために {{Ruby|国家総動員法|こっかそうどういんほう}} が出されました。
 
戦争が長引き、日本では物資が不足したので、日本では米などの食料品や日用品などは 配給制 になりました。
 
{{Ruby|砂糖|さとう}}など、その他の食料品も、配給制になりました。
 
鉄などの金属も、使用が制限されました。
 
このため、例えばアイロンは{{Ruby|陶器|とうき}}製になりました。また、ランドセルは、竹製になりました。
 
そして、配給される量もしだいに減っていき、生活はますます苦しくなっていきました。
このように、物(もの)は、使用できる量が、制限されました。
 
日本では、「ほがりません配給される量も勝つまでは」しだ「ぜに減ったくは{{Ruby|敵|}}だ」生活「足らぬ足らぬ苦し{{ruby|工夫|ふう}}が足らぬ」のようってい標語ができました。
 
日本では、「ほしがりません、勝つまでは」、「ぜいたくは{{Ruby|敵|てき}}だ、「足らぬ足らぬは{{ruby|工夫|くふう}}が足らぬ」のような標語ができました。
 
 
<gallery>
Image:Luxury is our enemy.JPG|標語「ぜいたくは敵だ」
</gallery>
 
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[[File:After Bombing of Tokyo on March 1945 19450310.jpg|thumb|400px|東京大空襲で焼け野原となった東京。]]
そして1945年3月10日に起こった '''{{Ruby|東京大空襲|とうきょうだいくうしゅう}}''' では、数万人もの人が {{Ruby|亡|}}くなりました。
 
その後も、全国各地で空襲は行われ、日本全国で約20~30万人が空襲で{{Ruby||な}}くなりました。
 
{{-}}
==== {{ruby|沖縄|おきなわ}} ====
1945年4月には、アメリカ軍が{{ruby|沖縄|おきなわ}}島に上陸し、3か月ちかくもの地上戦になり、住民も{{Ruby|巻|ま}}きこまれ、多くの人が {{Ruby|亡|な}}くなりました
 
沖縄の男子学生は、中学生でも、日本軍として、いっしょに戦いました。
 
女子学生は、{{Ruby|看護|かんご}}師として、{{ruby|負傷|ふしょう}}兵の{{Ruby|看護|かんご}}などの仕事に当たりました。「ひめゆり部隊」などの女学生による看護部隊がありました。
 
この沖縄での戦闘により、沖縄県民の10万人ちかくが、なくなりました。なお、それまでの沖縄県民の人口は約60万人です。
 
[[File:Himeyuri Students.jpg|200px|thumb|看護部隊「ひめゆり部隊]]
[[File:Himeyuri Monument-2.jpg|200px|thumb|ひめゆり部隊の{{Ruby|慰霊碑|いれいひ}}(ひめゆりの{{ruby|塔|とう}})]]
 
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{{clear}}
==== {{Ruby|原爆|げんばく}}投下と日本の敗戦 ====
ヨーロッパでは、日本と{{Ruby|同盟|どうめい}}を結んでいたドイツとイタリアが、アメリカやイギリスなどの連合国に{{Ruby|反撃|はんげき}}されました。そして、イタリアは1943年に連合国に{{Ruby|降伏|こうふく}}し、ドイツは1945年5月に連合国に降伏しました。
 
こうして、ヨーロッパでの戦争は終わりました。
 
[[ファイル:Nagasakibomb.jpg|thumb|left|170px|長崎に投下された原子爆弾の「キノコ雲」<br/>1945年8月9日]]
[[ファイル:AtomicEffects-Hiroshima.jpg|thumb|420px|原爆投下後の広島のようす。]]
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{{clear}}
8月8日、ソビエトは条約をやぶって{{Ruby|満州|まんしゅう}}や{{Ruby|樺太|からふと}}にめこみました。
 
こうした中、日本は{{Ruby|降伏|こうふく}}の決断をし、アメリカ・イギリス・ソビエトの代表が決めた日本の降伏の条件であるポツダム{{Ruby|宣言|せんげん}}を受け入れ、1945年の8月14日に降伏しました。
 
そして'''1945年8月15日'''には、{{ruby|昭和天皇|しょうわてんのう}}がラジオ放送で国民に日本の降伏(終戦)を発表しました。
 
こうして日中戦争や太平洋戦争をふくむ第二次世界大戦は、終わりました。
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日本の敗戦により、{{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}や{{ruby|台湾|たいわん}}の人々は、日本の支配から解放されたので、喜んだと言われています。
 
==== 戦争が終わったけれどても… ====
* 各国の第2次世界大戦での{{Ruby|犠牲者|ぎせいしゃ}}数
 
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そして1946({{ruby|昭和|しょうわ}}21年11月3日には '''{{Ruby|日本国憲法|にほんこくけんぽう}}''' が制定され、1947年の5月3日に{{ruby|公布|こうふ}}された。日本国憲法では、これまで制限されていた{{Ruby|言論|げんろん}}の自由が{{Ruby|保障|ほしょう}}され、また、男女平等が原則になりました。
 
==== いろいろな{{Ruby|改革|かいかく}} ====
また、戦時中には{{Ruby|政党|せいとう}}を結成することが禁止・制限されていましたが、戦後になって、政治家は政党を結成できるようになりました。
 
そのほか、いろいろな{{Ruby|改革|かいかく}}により、{{Ruby|経済|けいざい}}では、労働者は 労働に関する{{Ruby|交渉|こうしょう}}を行う 労働組合 を結成できるようになりました。
 
このほか、それまでの大{{ruby|企業|きぎょう}}が、{{Ruby|独占|どくせん}}的であるとみなされ、複数の{{ruby|企業|きぎょう}}として{{Ruby|分割|ぶんかつ}}されました。
 
=== 戦後の{{Ruby|暮|く}}らし ===
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当時、食料は国から配給されていましたが、量が足りず、ほとんどの人は、食べものに{{Ruby|困|こま}}っていたので、都市の人は、鉄道にのって、遠くの農家などに、食べ物を買いにいきました。
 
また、違法な「やみ{{Ruby|市|かかくいち}}」と{{Ruby|呼|よ}}ばれるふつうの{{Ruby|価格|かかく}}の数十倍もの{{Ruby|値段|ねだん}}で食料や日用品などを売る{{Ruby|市|いち}}が開かれましたが、それでも買う人がたくさんいました。
 
焼けあとなどの野原で、野菜をつくる人などもいました。
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* 海外からの引き上げ
日本兵として外国に行っていた人や、戦時中に仕事などとして外国に行っていた人たちが、しだいに日本に引き上げてきました。
 
 
=== 日本国{{ruby|憲法|けんぽう}} ===
[[File:あたらしい憲法の話 三原則.png|thumb|当時の社会科教科書『あたらしい憲法のはなし』での日本国憲法の3原則を表したさし絵。]]
[[File:あたらしい憲法のはなし 戦争放棄.png|thumb|当時の社会科教科書『あたらしい憲法のはなし』での平和主義(戦争放棄)の原則を表したさし絵。]]
 
1946年11月3日に公布された新しい{{Ruby|憲法|けんぽう}}である'''日本国憲法'''では、
 
:{{ruby|主権者|しゅけんしゃ}}は国民であること ('''国民主権''')、
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そして1952年には、日本は独立し、{{Ruby|主権|しゅけん}}を回復しました。
 
しかし{{Ruby|沖縄|おきなわ}}は, 1972年まで, ひきつづきアメリカの統治下におかれることになりました
 
* 国際連合への日本の{{Ruby|加盟|かめい}}
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しかし、日本や世界には{{Ruby|環境|かんきょう}}問題、{{Ruby|人権|じんけん}}問題などまだまだ課題が山積みになっています。
 
そのために、日本や世界はこのような課題の解決をめざし、日本や世界は、また一歩 歩んでいか目指さなければなりません
 
さて、日本や世界の歴史は中学校や高校でまだまだくわしく学びますが、小学校でならう歴史はここまでです。