「小学校社会/6学年/歴史編」の版間の差分

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そして、いまから1万2000年ほど前のころ、日本列島に住んでいる人たちは、海や川の近くに住んで、石や{{ruby|骨|ほね}}でつくった{{ruby|刃|は}}物や{{ruby|槍|やり}}や矢をつかって、シカやイノシシなどの動物を、とらえて食料にしていました。
 
同じころ、日本列島に住んでいた人たちは、'''{{ruby|土器|どき}}'''をつくるようになりました。その土器に{{ruby||なわ}}の{{ruby|模様|もよう}}がついているので、この時代に作られた土器を {{ruby|縄文|じょうもん}}土器 といいます。
 
この土器は、食べ物を{{ruby|煮炊|にた}}きしたりするための、今でいう なべ のような物です。
 
今から約1万2000年前から約3,000年前までの間の時代のことを、 '''{{Ruby|縄文|じょうもん}}時代''' といいます。
 
なお、これらの土器は、肉を煮炊きしたり、木の実や山菜のアク(苦味)をぬくために煮炊きしたのだろうと考えられています。
 
 
[[File:Yoshinogari-iseki tateanashiki-juukyo.JPG|thumb|250px|right|弥生時代の竪穴住居の復元、{{ruby|佐賀|さが}}県{{ruby|吉野ヶ里|よしのがり}}遺跡]]
縄文時代の人の家の建物は、'''{{ruby|竪穴住居|たてあな じゅうきょ}}住居''' といい地面に穴をほりさげたあとに、柱を立て、草ぶきの屋根をかけただけの住居にすんでいました。
 
[[File:Kasori midden preserve north.jpg|thumb|200px|加曽利貝塚、北貝{{ruby|層|そう}}断面]]
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遺跡などから出土する物によって、その時代の{{ruby|暮|く}}らしもわかります。
 
魚{{ruby|釣|つ}}りに必要な、「釣り{{ruby|針|ばり}}」と「もり」が、縄文時代の遺跡から出土することも多いので、この時代の人は、漁もしていたことがかります。
 
なお、動物の骨は、とがらせて使うことが多く、とがらせたものを {{ruby|骨角器|こっかくき}} といいます。骨角器のようなとがった骨も出土することがあります。狩りなどで、槍の先の武器として使ったりすることが多かったものと思われます。
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==== {{ruby|三内丸山遺跡|さんないまるやまいせき}} ====
[[ファイル:Reconstructed Pillar Supported Structure.jpg|right|thumb|300px|六本柱建物(復元)]]
{{ruby|青森|あおもり}}県の '''{{ruby|三内丸山遺跡|さんないまるやまいせき}}''' は、約5500年前から約1500年前の間に続いた集落だったということがかっています。
 
この三内丸山遺跡から、{{ruby|栗|くり}}の木を{{ruby|栽培|さいばい}}した{{ruby|形跡|けいせき}}が見つかっています。
 
つまり、すでにこの時代から農業をしていたことがわかります。
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** 米は、 '''{{ruby|高床|たかゆか}}倉庫''' で保管されていました。
 
高床倉庫が高いのは、ねずみ などの動物が入りづらくすることが主ためです。理由だろうと考えられています。風通しをよくするため、という理由も考えられます。ねずみの害をふせぐという理由の有力な{{ruby|根拠|こんきょ}}として、地面から床までの柱の、柱のてっぺんに、「かえし」がついていて、動物などが登れないように工夫した高床倉庫が見つかっています。
 
<gallery widths="200px" heights="200px">
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青銅器は、おもに祭りに使われるようになります。
いっぽう、鉄器は、農具や武器などの実用品につかわれるようになります。
 
 
* {{ruby|登呂遺跡|とろいせき}}
[[File:2004年08月25日竪02.JPG|thumb|240px|right|登呂遺跡。復元、竪穴住居。]]
{{ruby|静岡|しずおか}}県にある、{{ruby|登呂遺跡|とろいせき}}からは、{{ruby|竪穴|たてあな}}住居と、{{ruby|高床|たかゆか}}倉庫が見つかっています。{{ruby|水田|すいでん}}のあともあります。水路や、あぜ道は、矢板という板で、仕切られています。
 
 
* {{ruby|吉野ケ里遺跡|よしのがりいせき}}
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江戸幕府での「大名」とは、領地の{{Ruby|石高|こくだか}}が1{{ruby|万石|まんごく}}以上の武士のことです。
 
なお、「石高」とは、その土地の米のかく量のことです。人間が1年間に食べる米の量を基準にしています。1石は約80Lで、{{ruby|米俵|こめだわら}}約1.3{{ruby|俵|ひょう}}分になります。
 
[[File:NikkoYomeimon5005.jpg|thumb|400px|日光東照宮(にっこう とうしょうぐう)。(栃木県)<br>日光東照宮は、徳川家康をまつっている神社です。3代将軍家光(いえみつ)によって建造が命令されました。世界文化遺産、および、国宝。]]
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長州藩は、下級武士であった{{ruby|高杉晋作|たかすぎしんさく}}や{{ruby|木戸孝允|きどたかよし}}・{{Ruby|伊藤博文|いとうひろぶみ}}らが、イギリスの{{Ruby|援助|えんじょ}}も受けて、彼らが{{Ruby|改革|かいかく}}の中心となっていきました。
 
このようにして、薩摩や長州は、実戦から、欧米の実力を知ることに知ることになりました。単純な{{Ruby|尊皇攘夷|そんのうじょうい}}運動は{{Ruby|誤|あやま}}りだと気づくようになりました。まずは、軍隊の近代化が必要と考え、そのためには改革が必要であり、そのためには改革をさまたげている幕府をたお}}す必要があるという気運が薩摩や長州を中心に高まってきました。
 
 
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1871年、{{Ruby|江戸|えど}}時代の身分制度はなくなり、農民や町民・差別を受けていた人は「平民」となり、身分上は解放されました({{ruby|四民平等|しみんびょうどう}})。 平民は、{{Ruby|江戸|えど}}時代とはちがい、職業や住む場所を変えられるようになりました。名字を、平民も持てるようになりました。
 
武士は{{ruby|士族|しぞく}}と変わりました。士族は、刀を差すことを禁じられるなど、江戸時代のころの{{Ruby|特権|とっけん}}を失いました。また、公家と大名は{{Ruby|華族|かぞく}}となりました。そして、{{Ruby|天皇|てんのう}}の一族は、「{{Ruby|皇族|こうぞく}}」となりました。
 
{{コラム|{{Ruby|岩倉具視|いわくら ともみ}}らの視察団|
[[画像:Iwakura mission.jpg|thumb|300px|使節団の人々<br>左から{{Ruby|木戸孝允|きど たかよし}}{{Ruby|山口尚芳|やまぐち なおよし}}、岩倉具視、{{Ruby|伊藤博文|いとう ひろぶみ}}{{ruby|大久保利通|おおくぼ としみち}}]]
 
1871年に、明治政府は、{{Ruby|欧米諸国|おうべいしょこく}}の政治や産業のしくみや産業のしくみを勉強するために、{{Ruby|岩倉具視|いわくらともみ}}など50人の日本人による使節団を欧米諸国に送りました。
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===== 軍制の{{Ruby|改革|かいかく}} =====
政府は、{{Ruby|欧米|おうべい}}の軍制に習った{{Ruby|改革|かいかく}}として、1873年に '''{{Ruby|徴兵令|ちょうへいれい}}''' を出し、ほぼすべての満20才以上の男子に、身分に関係なく3年間{{Ruby|兵役|へいえき}}の義務を課しました。
 
※徴兵令において、当初は 長男や徴兵のかわりに税金を{{Ruby|納|おさ}}めた者などは徴兵を{{Ruby|免除|めんじょ}}されていました。しかし、1889年には免除規定はすべて{{Ruby|廃止|はいし}}され、ほぼ全ての20才以上の男子が徴兵されました。
 
===== {{Ruby|地租|ちそ}} =====
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工業の近代化も必要だったため、政府が経営する '''{{Ruby|官営|かんえい}}工場''' を建てました。機械は外国から買いました。また、工場労働者を育成する技師は、外国から招きました。
 
中でも、{{Ruby|群馬|ぐんま}}県の{{Ruby|富岡製糸場|とみおかせいしじょう}}では、フランスから技師を招きました。また、働き手には、全国から女性が集められました。このような官営工場を手本に、民間の工業を近代化させていきました。なお、富岡製糸場は 2014(平成26)年に世界{{Ruby|遺産|いさん}}に登録されました。なお、このように工場などを建設し、西洋の技術などを取り入れていった動きを {{Ruby|殖産興業|しょくさんこうぎょう}} といいます
 
 
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[[File:Battle-of-Tabaruzaka.jpg|thumb|400px|西南戦争のようす。左が官軍、右が西郷軍。]]
ほかにも、反乱がおき、不満を持った士族たちの指導者として、西郷隆盛が{{Ruby|担|かつ}}ぎ出されました。西郷も、その不平を持った士族とともに、1877年、鹿児島で反乱を起こしました。これを {{Ruby|西南|せいなん}}戦争 といいます。
 
だがしかし、政府軍が勝利したため、それ{{Ruby|以降|いこう}}、士族の反乱はなくなりました。
 
==== 国会をひらこう ====
[[File:Eiri jiyuu sinbun 1.jpg|thumb|板垣退助の演説と、それをとりしまる{{Ruby|警官|けいかん}}。]]
[[ファイルFile:Itagaki Taisuke youngITAGAKI.jpg|thumb|200px|板垣退助]]
いっぽう、政治のすすめかたをめぐって政府を去った {{Ruby|板垣退助|いたがきたいすけ}} は、西南戦争の前から、{{Ruby|言論|げんろん}}活動によって、政府を{{Ruby|批判|ひはん}}しました。
 
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[[File:OKUMA_Shigenobu.jpg|thumb|left|大隈重信。]]
国会が開かれるのにそなえて、板垣退助は自由{{Ruby|党|とう}}を、{{Ruby|大隈重信|おおくましげのぶ}}は{{Ruby|立憲改進党|りっけんかいしんとう}}を作りました。
 
[[ファイル:Itō Hirobumi.jpg|thumb|left|250px|伊藤博文(いとう ひろぶみ)]]
 
明治政府は、{{Ruby|伊藤博文|いとうひろぶみ}}らをヨーロッパに送り、ヨーロッパ各国の憲法や政治のしくみを調べさせました。
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日本は講和を急いだため、{{Ruby|賠償|ばいしょう}}金をとりませんでした。このことが国民の反発を{{Ruby|呼|よ}}び、{{Ruby|東京|とうきょう}}の{{Ruby|日比谷|ひびや}}では焼き{{Ruby|討|う}}ち事件が起きました。国民からすれば、戦争で多くの{{ruby|負担|ふたん}}をしたにもかかわらず、賠償金をとれないことを不満に感じたのであった。
 
日露戦争前、開戦を多くの国民が支持しましたが、開戦に反対する意見もありました。
 
[[ファイル:Akiko Yosano younger.jpg|thumb|200px|与謝野晶子(よさの あきこ)]]
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<div style="border:1px solid #000000;">
:'''君死にた{{Ruby|まふ|(もう)}}ことなかれ'''
:'''武家諸法度'''
 
あ{{Ruby|ゝ|(あ)}} {{Ruby|を|お}}とうとよ 君を泣く
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[[ファイル:Normanton Incident(1886).jpg|280px|thumb|ノルマントン号事件をえがいた絵。]]
 
1886年には、{{Ruby|和歌山|わかやま}}県の沖合いの海上で、イギリス船のノルマントン号が{{Ruby|沈没|ちんぼつ}}する事件が起きました。このとき、イギリス人船長をはじめとしたイギリス人は、イギリス人の乗員だけをボートで助けて、日本人は助けませんでした。日本人の乗客は、全員{{Ruby|死亡|しぼう}}しました。
 
この事件の{{ruby|裁判|さいばん}}は、{{Ruby|領事裁判権|りょうじさいばんけん}}({{ruby|治外法権|ちがいほうけん}})にもとづき、イギリス人の領事によって日本国内で行われました。
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この一連の事件を '''ノルマントン号事件''' といいます。
 
<!-- ※ 日本文教出版と教育出版の教科書に、ノルマントン号事件の紹介あり。 -->
 
この事件をきっかけに、国民のあいだで、条約改正をのぞむ声が、大きくなりました。
 
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イギリスなどから輸入した機械をもとに、{{Ruby|生糸|きいと}}などを生産しました。
 
原料の綿などは、{{ruby|併合|へいごう}}した{{Ruby|併合韓国|へいごうかんこく}}や、{{Ruby|獲得|かくとく}}した{{Ruby|満州|まんしゅう}}などから安い{{Ruby|値段|ねだん}}のものが輸入されたため、日本の農家は{{Ruby|打撃|だげき}}を受けました。
 
生糸や綿製品は、日本の輸出品になりました。
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=== {{Ruby|足尾銅山|あしおどうざん}}の{{Ruby|鉱毒|こうどく}}事件 ===
[[Image:Ashio Copper Mine circa 1895.JPG|thumb|250px|1895年頃の足尾銅山]]
{{Ruby|栃木|とちぎ}}県にある{{Ruby|足尾銅山|あしおどうざん}}では、{{Ruby|明治|めいじ}}時代ごろには、全国の生産の3分の1の銅を生産していました。
 
しかし、鉱石の{{Ruby|処理|しょり}}の安全{{Ruby|対策|たいさく}}が不十分なまま、工場からの{{Ruby|排水|はいすい}}中に有毒物質の「{{ruby|鉱毒|こうどく}}」が周辺の{{Ruby|渡良瀬川|わたらせがわ}}に流れこみ、川の魚が死に、農作物などはかれていきました。
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;{{Ruby|北里柴三郎|きたざとしばさぶろう}}
 
{{Ruby|北里柴三郎|きたざとしばさぶろう}}は、ドイツに留学し、そこでドイツの医学者コッホといっしょに研究し、{{ruby|伝染|でんせんびょう}}である{{Ruby|破傷風|はしょうふう}}の{{Ruby|治療法(|ちりょうほう)の}}法を発見しました。そして北里の名前は世界に広まり、日本の医学も世界に{{Ruby|認|みと}}められていきました。
 
北里は帰国したあと、研究所をつくりました。この研究所から、{{Ruby|赤痢菌|せきりきん}}を発見した{{ruby|志賀潔|しがきよし}}や、へび毒などの研究で活やくした{{Ruby|野口英世|のぐちひでよ}}など多くの医学者が育ちました。
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* {{Ruby|二|に}}・{{Ruby|二六|にろく}}事件
1936年の2月26日にも、軍人が大臣たちを殺害する事件が起きました。この事件を'''{{Ruby|二|に}}・{{Ruby|二六|にろく}}事件'''といいます
 
=== 日中戦争 ===