「中学受験社会/歴史/上巻」の版間の差分

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* 西暦
{{ruby|西暦|せいれき}}は、イエス・キリストが生まれたとされる年を西暦1年として表します。今は{西暦{CURRENTYEAR}}年です。西暦1年より前の年を「{{ruby|'''紀元前'''|きげんぜん}}(B.C.) 〇年」と表します。なお、西暦1年以降の年を「{{ruby|'''紀元後'''|きげんご}}(A.D.) 〇年」と表します。
 
* 世紀
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その頃、漢の人は日本を<span style="color:red">{{Ruby|'''倭'''|わ}} </span>と呼び、日本人を{{Ruby|'''倭人'''|わじん}}と呼んでいます。
 
漢書によると、そのころの、日本は、100100あまりの国に分かれており、漢の王朝へ、定期的に貢物 を持って、あいさつ に やってくるそうです。
日本は、{{Ruby|楽浪郡|らくろうぐん}}(今の朝鮮半島) のむこうにあるようです。楽浪郡とは、今の朝鮮半島のことです。
 
 
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:三国時代 :多くの諸国の中から有力な勢力が三つ勝ち残った三国時代になりました。
 
三国時代とは、「三国志」などで有名な、{{Ruby|魏|ぎ}}・{{Ruby|呉|ご}} ・{{Ruby|蜀|しょく}} の三国の時代です。
 
三国の中で魏が、もっとも強く、最終的に魏が、三国を統一します。統一したあとの王朝の名は「魏」ではなく、別の名前なのですが、まだ覚えなくても良いです。
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:{{Ruby|稲荷山|いなりやま}}古墳…埼玉県
:{{Ruby|五色塚|ごしきづか}}古墳…兵庫県
:{{Ruby|高松塚|たかまつづか}}古墳…奈良県明日香村
:{{Ruby|江田船山|えだふなやま}}古墳…熊本県
 
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}}
 
[[File:Inariyama sword.JPG|thumb|350px|right|まんなかにある、たてに長い茶色い発掘された鉄剣。金錯銘鉄剣]]
埼玉県の稲荷山古墳から見つかった鉄剣には、'''ワカタケル'''大王の名が刻まれた文がありました。文を読むと、この地方の王は、ワカタケル大王に使えていたようです。
 
 
熊本県の {{ruby|江田船山|えだ ふなやま)古墳 にも、おなじ名前の刻まれた鉄刀があり、ワカタケル大王の支配する領域が、関東地方から九州までの広い範囲に、およんでいたことが、分かります。
 
正確に言うと、当時はまだ漢字しか文字がなかったので、稲荷山の鉄剣には115字の漢字が刻まれており、その漢字の中に「{{Ruby|獲加多支鹵大王」(|ワカタケル}}大王という名が、刻まれています。 
 
また江田船山の鉄刀には、刻まれた文が破損しており、「獲□□□鹵大王」というふうに名前の一部が読めなくなっていますが、同じ名前が刻まれています。
 
後の日本の神話の書の『古事記』や、後の歴史書の『日本書紀』(にほんしょき)などから「ワカタケル」という人物の存在が知られているので、鉄剣などがワカタケルの存在をうらづ裏付ける証拠になったのです。日本書紀に「{{ruby|幼武天皇」(|わかたけ てんのう)}}天皇」という記述があるのです。
ワカタケル大王とは、<big> {{Ruby|雄略天皇</big>(|ゆうりゃくてんのう)}}天皇 だということが分かっています。
 
[[File:Rubbing of the Gwanggaeto Stele.jpg|thumb|碑文の複製 1882年頃作成、東京国立博物館]]
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5世紀の終わりごろ、中国大陸の帝国は「宋」(そう)という国になっており、その宋の歴史書の『宋書』倭国伝(そうじょ わこくでん)では、5世紀に中国大陸の宋に、日本からの外交で、日本の5人の大王が、それぞれ外交の使者を送ってきたことが、宋書に書かれています。
5人の王の名は、宋書によると、それぞれ讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)という名です。
この5人の倭国の王を <big>倭の五王</big>(わのごおう) といいます。日本は、高句麗との戦争で優位にたちたいので、宋の支援(しえん)が、ほしかったのです。
 
有力な説では、武(ぶ)は、日本書紀に「{{ruby|幼武天皇」(|わかたけ てんのう)}}天皇」という記述のあるワカタケル大王のことだろうと思われています。つまり雄略天皇が武(ぶ)だろうと思われています。
この5人の王が、どの天皇か、それとも天皇ではない別の勢力なのか、いろんな説がある。
 
有力な説では、武(ぶ)は、日本書紀に「幼武天皇」(わかたけ てんのう)という記述のあるワカタケル大王のことだろうと思われています。つまり雄略天皇が武(ぶ)だろうと思われています。
 
 
* 氏(うじ)と姓(かばね)
日本国内に目を向けるとでは、日本国内での大和朝廷による勢力拡大が進むにつれ、豪族たちの名前に関する制度で、氏(うじ)と姓(かばね)とによる、後に言う氏姓(しせい)制度が、作られた。
 
<span style="color:red"><big>氏</big></span>(うじ)とは、主に、血のつながった者どうしの集団である。<span style="color:red"><big>姓</big></span>(かばね)とは、政治の地位による称号(しょうごう)で、たとえば「臣」(おみ)や「連」(むらじ)という姓が、あります。
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有力な豪族の氏には、たとえば蘇我氏(そが し)・物部氏(もののべ し)・大伴氏(おおとも し)などが、あります
 
政治の仕事を行う豪族には、さらに、姓があたえられました。
 
例えば、蘇我氏には「臣」(おみ)という姓(かばね)が与えられた。大伴や物部には「連」(むらじ)という姓(かばね)が与えられました。
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聖徳太子は蘇我馬子と協力し、これらの改革をすすめました
 
改革と言っても、聖徳太子の改革は、あくまで天皇の権力を強めるための改革であり、けっして現代で言うような「民主主義」をもとめての改革ではないので、混同しないようにしよう。
 
聖徳太子らによる改革では、'''<span style="color:red"><big>冠位十二階の制</big></span>(かんいじゅうにかい の せい)'''と、<span style="color:red"><big>十七条の憲法</big></span>(じゅうななじょう の けんぽう)があります。
聖徳太子の改革は、けっして、蘇我氏を権力から退ける(しりぞける)ためでも、ありません。そもそも、聖徳太子自身が、蘇我氏の親戚(しんせき)です。
 
 
聖徳太子らによる改革では、<span style="color:red"><big>冠位十二階の制</big></span>(かんいじゅうにかい の せい)と、<span style="color:red"><big>十七条の憲法</big></span>(じゅうななじょう の けんぽう)があります。
 
* 冠位十二階の制(かんいじゅうにかい の せい)
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<big>「和をもって尊しとなす」</big>と、<big>「篤く三宝を敬え」</big>は、有名な言葉なので、知っておいてください。
 
「詔(みことのり)を承り(うけたまわり)ては必ず謹(つつし)め」も、けっこう有名です。意味は「天皇からの命令には、かならず、したがいなさい。」という意味です。
 
聖徳太子らの行った重要な政策には、外交政策も、あります。中国大陸を支配していた<big>隋</big>(ずい)という帝国(ていこく)との外交です。ある国と、別の国とが、政治の取り引きをすることを外交と言います。
 
607年に、外交の使者として '''<span style="color:red"><big>{{Ruby|小野妹子</big></span>(|おのの いもこ}}</span>'''たちを 隋(ずい)に送りました。<span style="color:red"><big>遣隋使</big></span>(けんずいし)の派遣(はけん)です。
聖徳太子らの行った重要な政策には、外交政策も、あります。中国大陸を支配していた<big>隋</big>(ずい)という帝国(ていこく)との外交です。ある国と、別の国とが、政治の取り引きをすることを外交と言います。
 
なお、小野妹子は男です。
607年に、外交の使者として <span style="color:red"><big>小野妹子</big></span>(おのの いもこ)たちを 隋(ずい)に送ります。<span style="color:red"><big>遣隋使</big></span>(けんずいし)の派遣(はけん)です。
 
{{Ruby||ずい}}に外交の使者を派遣(はけん)するので「遣隋使」(けんずし)と言います。
なお、小野妹子(おのの いもこ)は男です。小野妹子は女では ありません。小野妹子は妹(いもうと)でも ありません。
 
隋(ずい)に外交の使者を派遣(はけん)するので「遣隋使」(けんずいし)と言います。
 
外交の結果、日本は隋と国交を結びます。国交とは、それまで、つきあいのなかった2つの国どうしが、平和に、かかわりを持ち始めることです。
また、隋(ずい)の文化や制度は日本よりも進んでいたので、多くの文化や制度を、日本は取り入れます。
 
隋と国交をむすぶとき、日本は、隋と日本とを対等の立場で、国交を結ぼうとします。そして、対等の立場で国交をむすぶことに、日本は成功します。
 
それ以前の外交では、中国大陸の帝国には、周辺国が貢物(みつぎもの)を持ってきて、中国の帝国の属国として外交をむすぶことが、ふつうでした。
 
当時の隋は、朝鮮半島の{{Ruby|高句麗|こうくり}}と敵対していたので、高句麗と日本が協力することを恐れた(おそれた)のだろう、と言われています。
 
 
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ほかにも、日本のことを「日出ずる処」と書いて、隋(ずい)を「日没する処」と書いてあります。
 
当初、この日本からの国書を読んだ隋の皇帝の煬帝(ようだい)は、日本を無礼な国と思い(おこった)といいます。
 
『隋書』には、漢文で書かれています。これを日本語に読み下すと
 
:読み下し文 (※おぼえなくて良い) :帝、これを覧て(みて)悦ばず(よろこばず)。鴻臚卿(こうろけい)に謂いて(いいて)曰く(いわく)、「蛮夷の書(ばんいのしょ)、無礼なる者(ぶれいなるもの)有り(あり)。復た(また)以って(もって)聞(ぶん)するなかれ
 
:訳 :帝は国書を読んだが、不満であった。部下の外交官に言うには「日本からの書は、無礼である。二度と私に日本からの国書を見せるでない。」
 
:( 原文 :「帝覽之不悅 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞」) ※おぼえなくて良い
 
と、なります。
 
ですが、隋の皇帝・{{Ruby|煬帝|ようだい}}は高句麗との戦争を有利にすすめるため、隋は日本に良い待遇(たいぐう)をしたわけです。
 
日本の側も、隋と高句麗都との敵対した情勢に関する情報をつかんでおり、その情勢を利用して外交での交渉(こうしょう)に利用したわけです。
 
日本の側も、隋と高句麗都との敵対した情勢に関する情報をつかんでおり、その情勢を利用して外交での交渉(こうしょう)に利用したわけです。
 
なお、「日出ずる処」とありますが、地球上では、中国大陸の東側に日本があるので、日本のほうが、夜明けが早いです。隋から見ると、日本のある方角から太陽が登ってきます。