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== 日本の歴史 ==
小学6年生の社会では、まず日本の歴史について学びます。
 
[[小学校社会/6学年/歴史編/上巻|{{ruby|上巻|じょうかん}}]]では{{Ruby|安土桃山|あづちももやま}}時代({{ruby|戦国|せんごく}}時代)までを, [[小学校社会/6学年/歴史編/下巻|{{ruby|下巻|げかん}}]]では{{Ruby|江戸|えど}}時代{{Ruby|以降|いこう}}を解説しています。
 
== 歴史を学ぶ前に ==
歴史を勉強していくと、いろいろな人物が出てきます。くわしく知りたいときは「[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典|歴史人物事典]]」を参考にしてください。
'''「全部覚えないといけない」と身構えず'''、興味のあるところを追い求めてください。そこから、あなたの知識や考えが広がります。
 
=== 時代の表し方 ===
[[File:年表.png|400px450px|thumb|時代の流れ]]
* 時代
** 歴史学習で使う時代の表し方には、まず「時代」があります。これは、「{{ruby|奈良|なら}}時代」「{{ruby|江戸|えど}}時代」などと、大きなことがら(政治の{{Ruby|拠点|きょてん}}が移る,{{Ruby|天皇|てんのう}}が変わる)ごとに時代を変えていく表し方です。
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* 世紀
** {{ruby|世紀|せいき}}とは、100年ごとに区切って、年を数える単位です。西暦1年から西暦100年までが1世紀です。西暦101年から西暦200年までが2世紀です。西暦2001年から西暦2100年までを21世紀といいます。たとえば、105年は2世紀、1853年は19世紀です。
 
== 大昔のくらし ==
=== {{ruby|縄文時代|じょうもんじだい}} ===
==== {{ruby|縄文時代|じょうもんじだい}}のくらし ====
[[File:Jomon Vessel with Flame-like Ornamentation, attributed provenance Umataka, Nagaoka-shi, Niigata, Jomon period, 3000-2000 BC - Tokyo National Museum - DSC05620.JPG|thumb|250px|縄文土器]]
 
いまから1万5000年ほど前になると、{{ruby|氷河|ひょうが}}期が終わり、地球の気候があたたかくなりました。
 
そして、いまから1万2000年ほど前のころ、日本列島に住んでいる人たちは、海や川の近くに住んで、石や{{ruby|骨|ほね}}でつくった{{ruby|刃|は}}物や{{ruby|槍|やり}}や矢をつかって、シカやイノシシなどの動物を、とらえて食料にしていました。
 
同じころ、日本列島に住んでいた人たちは、'''{{ruby|土器|どき}}'''をつくるようになりました。その土器に縄の{{ruby|模様|もよう}}がついているので、この時代に作られた土器を {{ruby|縄文|じょうもん}}土器 といいます。
 
この土器は、食べ物を{{ruby|煮炊|にた}}きしたりするための、今でいう なべ のような物です。
 
今から約1万2000年前から約3,000年前までの時代のことを、 '''{{Ruby|縄文|じょうもん}}時代''' といいます。
 
[[File:Yoshinogari-iseki tateanashiki-juukyo.JPG|thumb|250px|right|弥生時代の竪穴住居の復元、{{ruby|佐賀|さが}}県{{ruby|吉野ヶ里|よしのがり}}遺跡]]
縄文時代の人の家の建物は、'''{{ruby|竪穴|たてあな}}住居''' といい地面に穴をほりさげたあとに、柱を立て、草ぶきの屋根をかけただけの住居にすんでいました。
 
[[File:Kasori midden preserve north.jpg|thumb|200px|加曽利貝塚、北貝{{ruby|層|そう}}断面]]
縄文時代の人の集落があったと思われる場所からは、多くの貝がらが{{ruby|発掘|はっくつ}}されています。
 
この貝がらが多く発掘された、集落だったと思われる場所を {{ruby|貝塚|かいづか}} といいます。貝塚からは、貝がら以外にも、動物の{{ruby|骨|ほね}}や、魚の骨などが出土することもよくあります。
 
なお、貝塚には、たとえば{{ruby|東京|とうきょう}}都の{{ruby|大森|おおもり}}貝塚や、{{ruby|福井|ふくい}}県の{{ruby|鳥浜|とりはま}}貝塚や、{{ruby|千葉|ちば}}県の{{ruby|加曽利|かそり}}貝塚などがあります。
 
なお、貝塚や石器などに限らず古い時代の物が見つかる場所のことを、 '''{{ruby|遺跡|いせき}}''' といいます。
 
遺跡などから出土する物によって、その時代の{{ruby|暮|く}}らしもわかります。
 
魚{{ruby|釣|つ}}りに必要な、「釣り{{ruby|針|ばり}}」と「もり」が、縄文時代の遺跡から出土することも多く、漁もしていたことがわかります。
 
なお、動物の骨は、とがらせて使うことが多く、とがらせたものを {{ruby|骨角器|こっかくき}} といいます。骨角器のようなとがった骨も出土することがあります。狩りなどで、槍の先の武器として使ったりすることが多かったものと思われます。
 
[[Image:JomonStatue.JPG|thumb|right|200px|土偶({{ruby|亀ヶ岡|かめがおか}}遺跡)]]
縄文の{{ruby|遺跡|いせき}}から、'''{{ruby|土偶|どぐう}}''' という、土を焼き固めた、女性のような形の人形が見つかる場合があります。
土偶は、食料が増えることや女性の安産をいのったものだと考えられています。
 
==== {{ruby|三内丸山遺跡|さんないまるやまいせき}} ====
[[ファイル:Reconstructed Pillar Supported Structure.jpg|right|thumb|300px|六本柱建物(復元)]]
{{ruby|青森|あおもり}}県の '''{{ruby|三内丸山遺跡|さんないまるやまいせき}}''' は、約5500年前から約1500年前の間の集落だったということがわかっています。
 
この三内丸山遺跡から、木を{{ruby|栽培|さいばい}}した{{ruby|形跡|けいせき}}が見つかっています。
 
つまり、すでにこの時代から農業をしていたことがわかります。
 
また、多くの土器や石器のあとも見つかっています。
 
大型の、{{ruby|掘立|ほった}}て柱も、見つかっています。掘立て柱の{{ruby|用途|ようと}}はまだ分かっていません。
ヒスイの玉や、{{ruby|黒曜石|こくようせき}}でできた{{ruby|刃|は}}物のようなものも見つかっています。
 
ヒスイは、この地ではとれず、新潟県の{{ruby|糸魚|いとい}}川などの他の土地でとれるので、他の{{ruby|地域|ちいき}}と交易があったのだろう、と考えられています。
 
この三内丸山遺跡は、縄文時代を知る遺跡として代表的な遺跡です。
 
{{ruby|縄文|じょうもん}}時代の次の時代は、{{ruby|弥生|やよい}}時代です。
 
=== {{ruby|弥生|やよい}}時代 ===
'''~米づくりがはじまる~'''
 
[[Image:YayoiJar.JPG|right|250px|thumb|{{ruby|弥生|やよい}}土器]]
 
いまから2400年ぐらい前のころ、ユーラシア大陸や{{ruby|朝鮮|ちょうせん}}半島あたりの人々から、米による{{ruby|稲作|いなさく}}が、日本に伝わりました。
 
米作りは、まず西日本につたわり、西日本から東日本へと、米作りが広がっていき、東北地方にまで広がりました。
 
この時代の農具の多くは、まだ木製です。ただし、米作りとともに鉄器の技術も日本に伝わっているので、一部では鉄を用いた農具も見つかっています。
 
{{ruby|穂|ほ}}から米をとるときに、 {{ruby|石包丁|いしぼうちょう}} が、使われました。
 
* {{ruby|弥生|やよい}}土器
** また、このころ、土器は、{{ruby|縄文|じょうもん}}土器よりも うすくて かたい '''{{ruby|弥生|やよい}}土器''' をつくるようになりました。「{{ruby|弥生|やよい}}」とは、学者が発見した場所が、{{ruby|東京|とうきょう}}の弥生町(現在の{{ruby|中野|なかの}}区)だったので、弥生の土器という意味で、「弥生土器」とよばれています。
** 縄文土器と弥生土器の形のちがいについては、弥生時代のころには、土器をつくる技術が進歩したので、土器の形が かわったのだろう、と考えられています。
* {{ruby|高床|たかゆか}}倉庫
** 米は、 '''{{ruby|高床|たかゆか}}倉庫''' で保管されていました。
 
高床倉庫が高いのは、ねずみ などの動物が入りづらくするためです。なお、風通しをよくするため、という理由も考えられます。ねずみの害を防ぐという理由の有力な{{ruby|根拠|こんきょ}}として、地面から床までの柱の、柱のてっぺんに、「かえし」がついていて、動物などが登れないように工夫した高床倉庫が見つかっています。
 
<gallery widths="200px" heights="200px">
Image:Takayukasikisouko.JPG|高床倉庫 妻側より(復元、{{ruby|神奈川|かながわ}}県、{{ruby|大塚|おおつか}}・{{ruby|歳勝土遺跡|さいかちどいせき}})
File:Yoshinogari-iseki takayukashiki-souko.JPG|高床倉庫(復元、{{ruby|佐賀|さが}}県{{ruby|吉野ヶ里遺跡|よしのがりいせき}})
</gallery>
 
{{ruby|弥生|やよい}}時代の多くの住まいは、{{ruby|竪穴|たてあな}}住居です。
 
{{clear}}
 
* 金属器
[[ファイル:DotakuBronzeBellLateYayoi3rdCenturyCE.jpg|thumb|銅鐸]]
 
大陸や{{ruby|朝鮮|ちょうせん}}半島から米作りがつたわるとともに、青銅器や鉄器などの金属器が、伝わります。そして、日本でも、弥生時代中に、金属器がつくられるようになりました。
 
青銅とは、銅 と すず(金属の1つ)を、とかしてまぜあわせた金属でつくられた、合金です。
 
青銅器には、銅{{ruby|剣|けん}}や、銅{{ruby|矛|ほこ}}、銅{{ruby|鐸|たく}}、銅{{ruby|鏡|きょう}}などが、あります。
<gallery widths="200px" heights="200px">
File:Koujindani Remains 03.JPG|銅矛とともに出土した銅鐸({{ruby|島根|しまね}}県・{{ruby|出雲|いづも}}市の{{ruby|荒神谷|こうじんだに}}遺跡)。{{ruby|古墳|こふん}}時代の遺跡。
ファイル:YayoiBronzeSpearTip1-2ndCenturyKyushu.jpg|弥生時代の銅矛(九州で出土、1~2世紀)
</gallery>
 
青銅器は、おもに祭りに使われるようになります。
いっぽう、鉄器は、農具や武器などの実用品につかわれるようになります。
 
* {{ruby|登呂遺跡|とろいせき}}
[[File:2004年08月25日竪02.JPG|thumb|240px|right|登呂遺跡。復元、竪穴住居。]]
{{ruby|静岡|しずおか}}県にある、{{ruby|登呂遺跡|とろいせき}}からは、{{ruby|竪穴|たてあな}}住居と、{{ruby|高床|たかゆか}}倉庫が見つかっています。{{ruby|水田|すいでん}}のあともあります。
 
* {{ruby|吉野ケ里遺跡|よしのがりいせき}}
[[File:Yoshinogari-iseki zenkei.JPG|thumb|440px|right|吉野ケ里遺跡,遠景]]
 
{{ruby|佐賀|さが}}県にあります。
 
まわりを{{ruby|濠|ほり}}でかこまれた {{ruby|環壕|かんごう}}集落 です。
 
矢がささった{{ruby|人骨|じんこつ}}も見つかっています。これらのことから、人々のあいだで争いがあったことが予想できます。
 
濠の内側からは、多くの高床倉庫が見つかっています。
 
 
おそらくは、米作りによって、食料生産が増えたので人口が多くなって、
:それぞれの集落で、多くの人口を養うために米の生産量を増やす必要が生じて、
:そのため、土地や水が必要になり、
:集落どうしで、土地や水をめぐっての争いが起きたのだろうと思われています。
 
このような争いが、身分の差を作っていった理由の一つだとも、思われています。
 
この吉野ケ里遺跡は、弥生時代を知る遺跡として、代表的な遺跡です。
 
=== 日本統一へ ===
==== {{ruby|邪馬台国|やまたいこく}} ====
* 邪馬台国
中国大陸の3世紀ごろの歴史書では、日本の3世紀ごろは、国の数が30あまりになっていることが分かりました。
 
そして、日本にはこれら30あまりの国をしたがえた {{ruby|邪馬台国|やまたいこく}} がありました。邪馬台国で、代表的な地位にあった人物は、'''{{ruby|卑弥呼|ひみこ}}''' という女性です。{{ruby|彼女|かのじょ}}の政治は、まじないやうらないによるものだったようです。
 
邪馬台国の場所は、わかっていません。
 
邪馬台国は、{{ruby|魏|ぎ}} に、外交の使いを送りました。
 
[[File:King of Na gold seal.jpg|260px|thumb|left|金印。]]
57年、日本は、{{ruby|魏|ぎ}}の{{ruby|皇帝|こうてい}}から、'''金印'''などを受け取りました。
 
{{-}}
 
== {{ruby|古墳|こふん}}時代 ==
[[画像:NintokuTomb.jpg|thumb|{{ruby|仁徳天皇陵|てんのうりょう}}と思われている{{ruby|大山|だいせん}}古墳。前方後円墳、{{ruby|大阪|おおさか}}府{{ruby|堺|さかい}}市]]
3世紀から4世紀ごろになると、王や{{ruby|豪族|ごうぞく}}をほうむる大きな墓がつくられはじめました。
このような、大きな王などをほうむった大きな墓を '''{{ruby|古墳|こふん}}'''といいます。
 
古墳は,特に{{ruby|近畿|きんき}}地方から{{ruby|瀬戸内海沿岸|せとないかいえんがん}}の{{ruby|地域|ちいき}}に見られます。
 
この、3世紀ごろから7世紀ごろの時代を '''古墳時代''' といいます。
 
古墳時代の文化のことを 古墳文化 といいます。
 
古墳には、いろいろな形のものがあります。円形に{{ruby|盛|も}}り上がった古墳を{{ruby|円墳|えんふん}}といいます。四角く盛り上がった古墳を{{ruby|方墳|ほうふん}} といいます。円墳と方墳があわさったような、かぎ{{ruby|穴|あな}}のような形の古墳を {{ruby|前方後円墳|ぜんぽうこうえんふん}} といいます。
{{ruby|大阪|おおさか}}府{{ruby|堺|さかい}}市にある {{ruby|大仙|だいせん}}(大山)古墳 は、日本で最大の面積の古墳です。
 
大仙古墳は、まわりが3重の{{ruby|濠|ほり}}で、かこまれています。
 
* 古墳の{{ruby|副葬|ふくそう}}品
[[File:KofunSoldier.jpg|thumb|left|140px|はにわ。{{ruby|武装|ぶそう}}男子立像({{ruby|群馬|ぐんま}}県{{ruby|太田|おおた}}市出土)]]
[[画像:HaniwaHorse.JPG|thumb|190px|はにわ。(馬形{{ruby|埴輪|はにわ}})]]
古墳からは、鏡や玉、{{ruby|剣|つるぎ}}などの副葬品が発見されている。ほかにも、'''はにわ''' という、土を焼いて作られた人型や馬型などの置き物が発見されています。
 
{{clear}}
==== {{ruby|大和政権|やまとせいけん}} ====
{{ruby|奈良|なら}}県の{{ruby|大和|やまと}}地方には、大きな{{ruby|古墳|こふん}}が多く発見されています。このことからこの地方に、有力な勢力があったと考えられている。この地方の有力な{{ruby|豪族|ごうぞく}}たちの政治勢力を '''{{ruby|大和政権|やまとせいけん}}''' といいます。
 
この大和政権の政府を 大和{{ruby|朝廷|ちょうてい}} と言い、その最高{{ruby|権力|けんりょく}}者を {{ruby|大王|おおきみ}} といいます。
 
[[File:Inariyama sword.JPG|thumb|350px|right|真ん中の、{{ruby|縦|たて}}に長いものが、{{ruby|発掘|はっくつ}}された{{ruby|鉄剣|てっけん}}。]]
{{ruby|埼玉|さいたま}}県の{{ruby|稲荷山|いなりやま}}古墳から見つかった{{ruby|鉄剣|てっけん}}には、「ワカタケル大王」という名が{{ruby|刻|きざ}}まれた文が発見されました。この文から、この地方の王は、ワカタケル大王に使えていたことがわかります。
 
{{ruby|熊本|くまもと}}県の {{ruby|江田船山|えだふなやま}}古墳 にも、一部が読めなくなっていましたが、「ワ□□□ル大王」という同じ名の刻まれた鉄刀があり、ワカタケル大王の支配する{{ruby|領域|りょういき}}が、{{ruby|関東|かんとう}}地方から{{ruby|九州|きゅうしゅう}}までの広い{{ruby|範囲|はんい}}におよんでいたことがわかります。
 
{{コラム|ヤマトタケルの物語|
{{ruby|皇子|おうじ}}であるヤマトタケルノミコトは、{{ruby|武勇|ぶゆう}}にすぐれていました。かれは父の命令で九州に行き、{{ruby|朝廷|ちょうてい}}にしたがわない{{ruby|豪族|ごうぞく}}である クマソ をたおしました。
 
それから{{ruby|関東|かんとう}}に行き、広い野原で焼きうちにあってしまいましたが、きりぬけて、関東を{{ruby|征服|せいふく}}しました。
 
しかし、タケルは帰る{{ruby|途中|とちゅう}}で、病気で なくなりました。そして、タケルは大きな白い鳥になって、{{ruby|大和|やまと}}のほうへ飛んでいきました。
}}
 
 
* {{ruby|仏教|ぶっきょう}}の伝来
また、{{ruby|仏教|ぶっきょう}}も、外国から伝わりました。538年に、{{ruby|朝鮮|ちょうせん}}半島の{{ruby|百済|くだら}}という国の王から、仏像や{{Ruby|経典|きょうてん}}が、日本の{{ruby|天皇|てんのう}}に送られました。
 
{{clear}}
 
== {{ruby|飛鳥|あすか}}時代 ==
~{{ruby|聖徳太子|しょうとくたいし}}の登場~
 
{| class="wikitable" style="float:right"
|+ {{ruby|聖徳太子|しょうとくたいし}}
| 年 || 年{{ruby|齢|れい}} || {{ruby|行|おこな}}ったこと || 社会のできごと
|-
! style="text-align: left;" colspan="4" | 6世紀
|-
| || || || {{ruby|豪族|ごうぞく}}どうしが争う
|-
|574 || 1才 || 聖徳太子が生まれる ||
|-
| || || || {{ruby|蘇我|そが}}氏が{{ruby|権力|けんりょく}}をにぎる
|-
|589 || || || {{ruby|隋|ずい}}が中国を統一する
|-
|593 || 20才 || 聖徳太子が{{ruby|摂政|せっせい}}になる ||
|-
! style="text-align: left;" colspan="4" |7世紀
|-
|603 || 30才 || {{ruby|冠位十二階|かんいじゅうにかい}}を定める ||
|-
|604 || 31才 || {{ruby|十七条|じゅうななじょう}}の{{ruby|憲法|けんぽう}}を定める ||
|-
|607 || 34才 || {{ruby|小野妹子|おののいもこ}}を{{ruby|遣隋使|けんずいし}}として送る ||
|-
|618 || || || {{ruby|隋|ずい}}がほろんで{{ruby|唐|とう}}になる
|-
|622 || 49才 || 聖徳太子がなくなる ||
|-
|645 || || || {{ruby|大化|たいか}}の改新
|-
|}
 
日本では、6世紀ごろから、{{ruby|豪族|ごうぞく}}の{{ruby|影響力|えいきょうりょく}}が強まりました。豪族の{{ruby|反乱|はんらん}}や、豪族どうしの争いも起こり始めました。
 
この、豪族どうしの争いで、最終的に587年ごろ、{{ruby|蘇我馬子|そがのうまこ}}が勝ちました。
そして、女性である '''{{ruby|推古天皇|すいこてんのう}}''' による政治が行われましたが、蘇我氏の{{ruby|影響|えいきょう}}下にありました。
 
[[File:Prince_Shotoku.jpg|180px|thumb|聖徳太子]]
 
'''{{ruby|聖徳太子|しょうとくたいし}}'''({{ruby|厩戸王|うまやどのおう}})は、おばの推古天皇の政治を{{ruby|補助|ほじょ}}する {{ruby|摂政|せっしょう}}という位につきました。
 
聖徳太子は蘇我馬子と協力し、これらの{{ruby|改革|かいかく}}をすすめました。
 
聖徳太子らによる改革のひとつに、'''{{ruby|十七条|じゅうしちじょう}}の{{ruby|憲法|けんぽう}}'''の制定があります。
 
* 十七条の憲法
役人の心がまえを記したものです。豪族などに対して、役人としての心がまえを述べたものでしょう。
 
{| style="border:1px solid #777; background-color:#ffffff; width:100%; margin:0.25em 0"
| style="padding:0.25em 0.5em" |'''十七条の憲法(要約)'''
1条 争いをやめ、なかよくしなさい。
 
2条 仏教を保護しなさい。
 
3条 {{Ruby|天皇|てんのう}}の命令には{{ruby|従|したが}}いなさい。
 
12条 農民などの{{ruby|民|たみ}}から、勝手に税やみつぎ物をとってはいけません。
 
17条 重要なことを決めるときには、話し合いで決めなさい。
|}
 
聖徳太子らの行った重要な{{ruby|政策|せいさく}}には、外交政策もあります。ユーラシア大陸の一部を支配していた '''{{ruby|隋|ずい}}''' という{{ruby|帝国|ていこく}}との外交です。
 
607年に、外交の使者として '''{{ruby|小野妹子|おののいもこ}}''' たちを 隋に送ります。この使者を '''{{ruby|遣隋使|けんずいし}}''' といいます。
 
なお、小野妹子は男だと考えられています。
 
 
外交の結果、日本は隋と国交を結びました。また、隋の文化や制度は日本よりも進んでいたので、日本は多くの文化や制度を取り入れました。
 
==== そのほかの{{ruby|改革|かいかく}} ====
* {{ruby|冠位十二階|かんいじゅうにかい}}の制
聖徳太子らによる改革には、'''{{ruby|冠位十二階|かんいじゅうにかい}}の制'''というものもあります。これは、家がらに関係なく有能な役人を採用するための制度です。能力や手がらによって、役人に位が与えられます。位は、一代かぎりです。
役人の位を12{{ruby|段階|だんかい}}に分けたので、このような名前で{{ruby|呼|よ}}ばれます。
 
<!-- 光村図書の教科書で、冠位十二階を紹介している。 -->
 
* {{Ruby|法隆寺|ほうりゅうじ}}の{{Ruby|建立|こんりゅう}}
[[ファイル:Horyu-ji08s3200.jpg|thumb|法隆寺。{{ruby|金堂|きんどう}}と{{ruby|五重塔|ごじゅうのとう}}]]
[[File:Shakyamuni Triad Horyuji2.JPG|thumb|法隆寺の{{ruby|釈迦三尊像|しゃかさんぞんぞう}}(金堂)]]
 
聖徳太子は、607年に, 現在の{{ruby|奈良|なら}}県に{{Ruby|法隆寺|ほうりゅうじ}}を建てさせました。法隆寺は、現存する木造建築としては世界最古です。法隆寺は、1993年に世界文化{{ruby|遺産|いさん}}に登録されました。
 
 
==== 聖徳太子の死後 ====
622年に、{{ruby|聖徳太子|しょうとくたいし}}が{{ruby|亡|な}}くなりました。聖徳太子の死後には、{{ruby|蘇我|そが}}氏の{{Ruby|権力|けんりょく}}が強まりました。
{{ruby|蘇我馬子|そがのうまこ}}も、626年に、なくなりました。
 
まず、蘇我馬子の子である{{ruby|蘇我蝦夷|そがのえみし}}の権力が強まりました。さらに、馬子の孫であり、蝦夷の子である 蘇我{{Ruby|入鹿|いるか}} の権力が強まりました。
 
'''645年'''に{{ruby|皇族|こうぞく}}の'''{{ruby|中大兄皇子|なかのおおえのおうじ}}'''と、{{ruby|豪族|ごうぞく}}の '''{{ruby|中臣鎌足|なかとみのかまたり}}''' との協力により、蘇我入鹿は殺害されました。蝦夷は、この事件を知り、自殺しました。
 
 
* {{Ruby|大化|たいか}}の{{Ruby|改新|かいしん}}
このあと、中大兄皇子らが権力を取り、さまざまな政治{{Ruby|改革|かいかく}}を行いました。この改革を {{Ruby|大化|たいか}}の{{Ruby|改新|かいしん}} といいます。645年に元号を「大化」と定めたので、この一連の改革は大化の改新と呼ばれています。
「大化」という元号により、日本では、はじめて元号が定められました。これは、中国を手本としたものでした。
 
==== {{Ruby|改新|かいしん}}の{{Ruby|詔|みことのり}} ====
中国では、すでに618年に{{Ruby|隋|ずい}}が{{ruby|滅|ほろ}}んでおり、'''{{Ruby|唐|とう}}''' という{{ruby|帝国|ていこく}}になっていた。日本も、これに対して、政治{{ruby|改革|かいかく}}をする必要がありました。
 
646年に、改革内容の方針や目標を表した 改新の{{ruby|詔|みことのり}} が出されました。これは『{{Ruby|日本書紀|にほんしょき}}』で発見されています。
 
改革の内容は、以下の {{Ruby|公地公民|こうちこうみん}} 、{{Ruby|班田収授|はんでんしゅうじゅ}} 、{{Ruby|租|そ}}・{{Ruby|庸|よう}}・{{ruby|調|ちょう}}の制定、{{ruby|国司|こくし}}の設置、です。
 
 
* {{Ruby|公地公民|こうちこうみん}}
 
これまでは{{ruby|豪|ごう}}族や皇族たちが持っていた土地は、すべて朝廷のもの(朝廷が管理管理する)になりました。これを '''{{Ruby|公地公民|こうちこうみん}}''' といいます。
 
* {{Ruby|戸籍|こせき}}をつくる
人民の {{Ruby|戸籍|こせき}} を作り、それにもとづいて国が人々に土地を{{Ruby|与|あた}}え、仕事をさせました。
 
この当時の戸籍は、人民を1人ずつ、{{Ruby|公文書|こうぶんしょ}}に登録することで、住所や家族の名や年{{ruby|齢|れい}}、家の世帯主などを{{ruby|把握|はあく}}するためのものでした。
 
* {{Ruby|租|そ}}・{{Ruby|調|ちょう}}・{{ruby|庸|よう}}
{| class="wikitable" style="float:right"
|+ <span style="font-size: large;">{{ruby|一般|いっぱん}}の人々の{{ruby|負担|ふたん}}</span>
! colspan="2" | <span style="font-size: large;">種類</span> ||<span style="font-size: large;">内容</span>
|-
| rowspan="3" |<span style="font-size: large;"> 税 </span>
|<span style="font-size: large;">{{Ruby|租|そ}}</span>
|{{ruby|収穫|しゅうかく}}の約3~10%の{{ruby|稲|いね}}を{{ruby|納|おさ}}める。
|-
|<span style="font-size: large;">調</span>
|地方の特産物(糸、{{Ruby|絹|きぬ}}、わた、塩、<br />魚、海そう、鉄など)を納める。
|-
|<span style="font-size: large;">庸</span>
|都で年10日ほど働くか、布を納める。
|-
| rowspan="1" |<span style="font-size: large;"> {{ruby|兵役|へいえき}} </span>
|<span style="font-size: large;">{{ruby|防人|さきもり}}</span>
|九州北部で兵士を3年行う。
|-
|}
税の種類です。
 
:{{Ruby|租|そ}}とは、田の{{ruby|収穫|しゅうかく}}量の、約3~10%を、国に{{ruby|納|おさ}}める税です。
:{{Ruby|調|ちょう}}とは、地方の特産物を、国に納める税です。
:{{Ruby|庸|よう}}とは、都に出てきて年10日ほど働くか、布を納める税です。
 
これらを都に運ぶことも、農民たちの負担でした。
 
{{-}}
このほかに、{{Ruby|防人|さきもり}}という、九州で兵士として{{ruby|警備|けいび}}を行う、{{Ruby|兵役|へいえき}}の仕事がありました。
 
この防人のつらさを歌った歌として、つぎのような歌が残っています。
 
<div style="border:1px solid #000000;">
 '''さきもりの歌'''  (『{{Ruby|万葉集|まんようしゅう}}』より )
:: {{中付きルビ|3|唐|から|衣|ころも|裾|すそ}}に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや{{Ruby|母|おも}}なしにして
 
 
::(現代語{{Ruby|訳|やく}})唐衣の裾にすがって泣きつく子どもたちを、(防人に出るため)置いてきてしまったなあ。あの子たちには母もいないのに。
</div>
 
{{clear}}
 
==== {{Ruby|大宝律令|たいほうりつりょう}} ====
701年に、 '''{{Ruby|大宝律令|たいほうりつりょう}}''' という、税金や都についての{{ruby|法律|ほうりつ}}が完成しました。
<!-- ※日本文教出版の教科書で、「大宝律令」という言葉が紹介されている。-->
 
== {{ruby|奈良|なら}}時代 ==
[[File:Heijokyo.jpg|right|500px|平城京のイメージ図]]
 
710年に、都が{{ruby|奈良|なら}}の {{ruby|平城京|へいじょうきょう}} へと移りました。
 
この都が平城京にあった時代を '''{{ruby|奈良|なら}}時代''' といいます。
 
<!-- 厳密にはのちの794年に平安京に移る前に、長岡京に移っています。 -->
 
平城京は、{{ruby|碁盤|ごばん}}の目のように、区画が整理されています。
 
{{clear}}
 
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* 古事記と日本書紀
712年に『'''{{ruby|古事記|こじき}}'''』という{{Ruby|天皇家|てんのう}}や{{Ruby|貴族|きぞく}}などに伝わる、神話の時代をまとめた書がつくられました。
 
<!-- 日本文教出版の教科書で、古事記と日本書紀が紹介されている。-->
 
古事記には、神話の時代から{{Ruby|推古|すいこ}}天皇にいたるまでの出来事が書かれています。
 
また、日本の歴史書である『{{ruby|日本書紀|にほんしょき}}』が720年に完成しました。神話の時代の伝説から、7世紀末ごろの持統天皇に{{Ruby|至|いた}}るまでの国家と天皇の歴史について書いた書です。
 
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=== 大仏づくり ===
[[File:Daibutsu of Todaiji 3.jpg|thumb|right|300px|東大寺の大仏]]
[[File:Emperor_Shomu.jpg|thumb|聖武天皇]]
8世紀のなかごろ、都では病気が流行し、多くの死者が出たり、さらに、{{ruby|貴族|きぞく}}の{{Ruby|反乱|はんらん}}が起きたりするなど、世の中が、混乱しました。
 
{{Ruby|仏教|ぶっきょう}}を信じた'''{{ruby|聖武天皇|しょうむてんのう}}'''は、仏教の力をかりて、人々の不安をしずめ、社会を安定させようとします。
 
まず741年に国(今でいう県)ごとに {{ruby|国分寺|こくぶんじ}} を建てさせました。
 
都には {{ruby|東大寺|とうだいじ}}を建てさせ、そのなかに大仏を作らせました。
 
[[File:Gyouki_1.jpg|thumb|行基]]
このころ、'''{{ruby|行基|ぎょうき}}'''という{{ruby|僧|そう}}がいました。かれは、{{ruby|渡来人|とらいじん}}の子孫で、民衆のために用水の池や橋をつくったりしながら、{{Ruby|諸国|しょこく}}をまわって教えをといていたので、多くの人々に、したわれていました。
 
しかし、{{Ruby|朝廷|ちょうてい}}は、はじめは、行基の行動をとりしまりました。当時は、{{Ruby|民衆|みんしゅう}}への仏教の布教が禁止されていたうえ、寺の外での活動も禁止されていました。
朝廷からは、おそらく行基は、民衆をそそのかす{{Ruby|危険|きけん}}人物だろう、と思われていたのです。
 
大仏を作るのは、とても多くの労働力を必要とするので、朝廷には、人々の支持が必要でした。このため、民衆にしたわれていた僧の行基の活動を{{Ruby|認|みと}}めました。
{{-}}
 
=== {{Ruby|遣唐使|けんとうし}}と{{Ruby|鑑真|がんじん}} ===
中国の{{Ruby|帝国|ていこく}}が{{Ruby|唐|とう}}に変わっても、かつての{{Ruby|遣隋使|けんずいし}}と同様に、日本から中国の唐に、外交の使者の {{Ruby|遣唐使|けんとうし}} を送りました。
 
遣唐使として有名な人物には、{{Ruby|阿倍仲麻呂|あべのなかまろ}} や、{{Ruby|吉備真備|きびのまきび}} などがいます。
 
<!--※ 安倍仲麻呂は、教育出版の教科書で、章末のコラムで名前を紹介している。また、日本文教出版の教科書で、阿倍仲麻呂や吉備真備の名前を紹介している。-->
 
阿倍仲麻呂は、日本に帰国するために乗った船が{{ruby|難破|なんぱ}}したため日本に帰国できず、最終的に唐の{{Ruby|皇帝|こうてい}}に仕えることになりました。
 
吉備真備は日本に帰れました。吉備真備は2回唐にわたり、2回とも日本に帰国できました。
 
 
 
* {{Ruby|鑑真|がんじん}}
[[File:Jianzhen (Tōshōdai-ji, 2).jpg|thumb|鑑真]]
日本の朝廷らは、唐の有名な僧の '''{{Ruby|鑑真|がんじん}}''' に、日本でも仏教をひろめてほしいと、鑑真を日本へ招きました。これを受け、鑑真は日本へわたりましたが、5回も失敗し、6回目にようやく日本に着きました。6回目に日本についたころには、失明しました。
 
鑑真は、{{Ruby|奈良|なら}}に '''{{Ruby|唐招提寺|とうしょうだいじ}}''' を開きました。
 
{{clear}}
 
* 正倉院(しょうそういん)
 
[[Image:Shoso-in.jpg|thumb|300px|正倉院正倉]]
 
[[Image:Azekura-dukuri JPN.JPG|thumb|right|230px|正倉院の宝物庫]]
{{Ruby|東大寺|とうだいじ}}にある {{Ruby|正倉院|しょうそういん}} には、{{ruby|奈良|なら}}時代の美術品や、{{Ruby|聖武天皇|しょうむてんのう}}が愛用した道具などが{{Ruby|収|おさ}}められています。
 
※「{{Ruby|螺鈿紫檀五絃琵|らでんしたんごげんのびわ}}」(図参照)や「{{Ruby|瑠璃杯|るりのつき}}」などの{{Ruby|宝物|ほうもつ}}も{{Ruby|保存|ほぞん}}されているのですが、画像を用意できません。外部サイトや参考書などで、画像を{{ruby|探|さが}}してください。
 
<gallery widths="250px">
Image:RED LACQUERED CABINET Shosoin N2.JPG|{{Ruby|赤漆文欟木御厨子|せきしつぶんかんぼくのおんずし}}
Image:8Lobed Mirror Inlay Shosoin.jpg|{{Ruby|平螺鈿背八角鏡|へいらでんはいのはっかくきょう}}
Image:Silver Backed Bronze Mirror Shosoin.JPG|{{Ruby|金銀山水八卦背八角鏡|きんぎんさんすいはっけはいのはっかくきょう}}
Image:LADIES UNDER TREES SCREEN4th Shosoin.JPG|{{Ruby|鳥毛立女屏風|とりげりつじょのびょうぶ}}第4(部分)
Image:ROCHECHI Screen Panel Shosoin NH44.JPG|{{Ruby|羊木臈纈屏風|ひつじきろうけちのびょうぶ}}
Image:Silver Incense Burner Shosoin.JPG|{{Ruby|銀薫炉|ぎんのくんろ}}
Image:Gold Silver Painted BOX Shosoin.JPG|{{Ruby|蘇芳地金銀絵箱蓋|すおうじきんぎんえのはこ}}
</gallery>
 
(これらはあくまで参考です。)
 
=== 万葉集 ===
和歌をまとめた {{Ruby|万葉集|まんようしゅう}} が759年ごろから{{Ruby|編纂|へんさん}}されます。
 
{{Ruby|貴族|きぞく}}の作った和歌だけでなく、農民や{{Ruby|防人|さきもり}}などの様々な身分の者が作ったと思われる和歌も収録されています。
 
合計で4500首の歌が{{Ruby|収録|しゅうろく}}されています。
 
{{clear}}
== {{Ruby|平安|へいあん}}時代 ==
~{{ruby|貴族|きぞく}}がさかえた時代~
:{{Ruby|桓武天皇|かんむてんのう}}は794年に都を{{ruby|京都|きょうと}}の '''{{ruby|平安京|へいあんきょう}}''' にうつしました。
 
[[画像:HeiankyouMapJapanese.svg|800px]]
奈良から平安京への寺院の移転は禁止されました。
 
他にも、社会の変化で、もはや、{{ruby|公地公民|こうちこうみん}}による昔の政治がうまくいかなくなり、政治のしかたを改める必要もあったのだと思われます。
 
平安京に都を移してからの約400年間は、政治の中心地は平安京だったので、この時代を '''{{Ruby|平安|へいあん}}時代''' といいます。
 
* {{Ruby|摂関|せっかん}}政治
9世紀の中ごろになると{{Ruby|藤原鎌足|ふじわらのかまたり}}({{ruby|中臣|なかとみの}}鎌足)の子孫の一族である '''藤原氏''' が、{{Ruby|権力|けんりょく}}を強めました。
 
藤原氏の一族は、代々、{{Ruby|娘|むすめ}}を{{ruby|天皇|てんのう}}の きさき(妻)にしています。
すると、藤原氏は天皇の母方の親せきということになるので、藤原一族の権力が強まる、という仕組みで、さらに権力を強めました。
 
[[File:Fujiwara_no_Michinaga_2.jpg|thumb|{{Ruby|藤原道長|ふじわらのみちなが}}]]
 
 
藤原氏は、天皇が{{Ruby|幼|おさな}}いときは、藤原氏の者が{{Ruby|摂政|せっしょう}}となり政治の{{ruby|実権|じっけん}}をにぎり、天皇が成人しても藤原氏は{{Ruby|関白|かんぱく}}という地位になり実権をにぎり、政治を行いつづける、という手法で権力を強めました。
<!-- 日本文教出版の教科書で、藤原の一族について「関白」という言葉が紹介されている。-->
 
道長は、次の歌をよみました。
 
:'''「この世をば わが世とぞ思{{ruby|ふ|(う)}} {{ruby|望月|もちづき}}の 欠けたることも なしと思{{Ruby|へ|(え)}}ば」'''
(この世は、望月(満月)のように何も欠けているものがなく、{{ruby|私|わたし}}(道長)のためにあるようなものだ。)
 
[[ファイル:Byodoin Phoenix Hall Uji 2009.jpg|300px|thumb|left|平等院鳳凰堂]]
{{Ruby|道長|みちなが}}の子である {{ruby|藤原頼通|ふじわらのよりみち}} は、{{Ruby|京都|きょうと}}に '''{{Ruby|平等院鳳凰堂|びょうどういんほうおうどう}}''' を、たてさせました。現在の10円玉にもえがかれています。
[[ファイル:10JPY.JPG|thumb|10円玉]]
 
{{clear}}
=== 平安時代の文化 ===
* {{ruby|遣唐使|けんとうし}}の中止と国風文化
 
{{ruby|菅原道真|すがわらのみちざね}}の進言により、894年に、{{ruby|遣唐使|けんとうし}}が中止されました。
 
[[File:Sugawara Michizane.jpg|thumb|200px|菅原道真]]
 
遣唐使の廃止の理由は、すでに唐から多くのことを学んであること、ユーラシア大陸で{{Ruby|内乱|ないらん}}が多く唐が弱っていること、船の{{Ruby|遭難|そうなん}}など死の{{Ruby|危険|きけん}}が多く有能な人材の命を損ないかねないこと、{{Ruby|経済|けいざい}}的な{{Ruby|負担|ふたん}}が大きい、などです。
 
この遣唐使の廃止により、日本の{{中付きルビ|2|貴|き|族|ぞく}}文化では、だんだんユーラシア大陸の文化の{{ruby|影響|えいきょう}}がうすれたかわりに、{{ruby|国風文化|こくふうぶんか}}と{{ruby|呼|よ}}ばれる日本独自の貴族文化が{{Ruby|発展|はってん}}しました。
 
[[画像:Hiragana origin.svg|thumb|right|300px|漢字からひらがなへの変化]]
 
* かな文字の発明
ひらがな や カタカナ などの '''かな文字''' が、平安時代に発明されました。
ひらがなは、漢字の形をくずして発明されました。カタカナは漢字の へん や つくり などの一部をもとに発明されました。
[[ファイル:Katakana origine.svg|thumb|left|300px|カタカナの由来]]
 
{{clear}}
この時代、ひらがなやカタカナは、女が用いる字でした。{{中付きルビ|2|貴|き|族|ぞく}}の '''{{ruby|紀貫之|きのつらゆき}}''' は男でしたが、名をかくして女を名乗り 『{{ruby|土佐日記|とさにっき}}』を書きました。
紀貫之が国司として、四国の{{Ruby|土佐|とさ}}(現在の{{Ruby|高知|こうち}}県)に{{Ruby|派遣|はけん}}されていたので、土佐から京にかえるまでの様子をしるした日記です。
 
 
ほかにも、歌集である'''{{Ruby|古今和歌集|こきんわかしゅう}}''' や '''{{Ruby|竹取物語|たけとりものがたり}}''' は、かな文字を用いた作品です。
 
* その他の文化
[[Image:Miniature Model of HigashiSanjoDono.jpg|thumb|375px|典型的な寝殿造である{{ruby|東三条殿|ひがしさんじょうどの}}の復元{{ruby|模型|もけい}}({{ruby|京都|きょうと}}文化博物館)
----
1. {{ruby|寝殿|しんでん}}、2. {{ruby|北対|きたのたい}}、3. {{Ruby|細殿|ほそどの}}、4. {{Ruby|東対|ひがしのたい}}、5. {{Ruby|東北対|ひがしきたのたい}}、6. {{ruby|侍所|さむらいどころ}}、7. {{ruby|渡殿|わたどの}}、8. {{Ruby|中門廊|ちゅうもんろう}}、9. {{ruby|釣殿|つりどの}}]]
 
[[image:Masahiro Abe.jpg|thumb|left|150px|{{Ruby|江戸|えど}}時代の束帯({{ruby|阿部正弘|あべまさひろ}}]]
[[File:十二単です.JPG|thumb|150px|left|十二単、京都{{Ruby|御所|ごしょ}}にて]]
 
{{Ruby|平安|へいあん}}時代には、貴族の衣服({{Ruby|正装|せいそう}})が変わります。
 
男の{{ruby|貴族|きぞく}}の服は {{ruby|束帯|そくたい}} になり、女の貴族の服は {{ruby|十二単|じゅうにひとえ}} となりました。
 
<!-- 光村図書の教科書が、束帯および十二単について紹介している -->
 
貴族の住居の形が {{ruby|寝殿造|しんでんづくり}} になりました。
 
 
{{clear}}
[[画像:Genji emaki azumaya.jpg|thumb|300px|right|大和絵(やまとえ)『源氏物語絵巻』 <br>
源氏物語は人気作となり、絵巻物まで作られるほどになりました。この絵は、源氏物語の作品のなかの場面をえがいたものです。]]
 
文学の物語では『{{ruby|源氏|げんじ}}物語』という{{ruby|創作|そうさく}}の物語が、貴族である{{ruby|紫式部|むらさきしきぶ}}によって書かれました。貴族の「{{ruby|光源氏|ひかるげんじ}}」という人物を主人公にして貴族の{{ruby|恋愛|れんあい}}などを書いています。
 
「源氏物語{{ruby|絵巻|えまき}}」も{{ruby|描|えが}}かれました。
 
{{ruby|随|ずい}}筆では、貴族である{{ruby|清少納言|せいしょうなごん}}が『枕草子』を記しました。清少納言が 日常生活や自然を観察して、感想を述べたものです。
 
絵画には、日本の風景などを書いた {{ruby|大和絵|やまとえ}} が現れ、寝殿造の{{ruby|屋敷|やしき}}の{{ruby|屏風|びょうぶ}}や ふすま などに描かれました。さきほど紹介した源氏物語絵巻も、大和絵です。
 
<!-- 「大和絵」は、教育出版と光村図書が紹介している -->
 
{{clear}}
 
== 武士の世の中へ ==
=== 平安時代の武士たち ===
平安時代には、地方の{{ruby|豪族|ごうぞく}}たちが{{ruby|私有|しゆう}}地を広げていきました。
 
9世紀の中ごろから、豪族や有力な農民たちは、自分たちの土地や財産をまもるためには、兵力をたくわえました。一族の者や、手下の農民たちに{{ruby|武装|ぶそう}}させるようになりました。
 
このようにして、'''武士'''ができていきました。武士たちは、一族の かしら をリーダーとして、それぞれの一族ごとに 武士団 を結成しました。
 
=== 平氏 ===
[[ファイル:Taira no Kiyomori.jpg|thumb|200px|平清盛]]
この時代に、{{ruby|天皇|てんのう}}の{{ruby|座|ざ}}をめぐって{{ruby|皇族|こうぞく}}どうしで{{ruby|権力|けんりょく}}争いが起きると、武士たちは、これらの戦いに加わりました。
 
その結果、 '''{{ruby|平清盛|たいらのきよもり}}'''の加わっていた '''{{ruby|平氏|へいし}}''' の側が勝利したので、清盛が権力をにぎっていきました。
 
そして1167年には、平清盛は、武士としては初めて {{ruby|太政大臣|だいじょうだいじん}} の位につきました。
 
平清盛は、清盛のむすめを、天皇の{{ruby|后|きさき}}(妻)にさせました。
 
このようにして、平氏の一族が、{{ruby|朝廷|ちょうてい}}での重要な役職を得ていき、権力を強めました。
 
[[File:Itsukushima Hiroshima.JPG|thumb|250px|厳島神社。平氏の一族は、一族の{{ruby|繁栄|はんえい}}を厳島神社に願った。{{ruby|国宝|こくほう}}。世界{{ruby|遺産|いさん}}。]]
 
清盛は 海の神をまつっている {{ruby|厳島|いつくしま}}神社 を{{ruby|敬|うやま}}いました。厳島神社は、今でいう{{ruby|広島|ひろしま}}県の{{ruby|瀬戸内海|せとないかい}}の側にあります。
そして厳島神社の神を、平氏一族がまつるべき{{ruby|氏神|うじがみ}}としました。
 
しかし、平氏の{{ruby|独裁|どくさい}}的な政治に、ほかの貴族やほかの武士などからの不満が高まっていきました。
それらがのちに、平氏をたおすことへとつながりました。
 
=== {{ruby|源氏|げんじ}}と{{ruby|平氏|へいし}}がたたかう ===
ついに1180年、{{ruby|皇族|こうぞく}}の {{ruby|以仁王|もちひとおう}} は、{{ruby|平氏|へいし}}をほろぼすように命令を下しました。
 
以仁王の命令を受け、各地で武士たちが平氏をほろぼそうと兵をあげました。
 
=== {{ruby|鎌倉|かまくら}}時代 ===
{{ruby|以仁王|もちひとおう}}の命令を受け、各地で武士たちが平氏をほろぼそうと兵をあげた。
 
[[File:Minamoto2.jpg|thumb|250px|源頼朝と伝えられる人物
:頼朝が子供のころ、{{ruby|平治|へいじ}}の{{ruby|乱|らん}}で頼朝の父の{{ruby|義朝|よしとも}}が平氏と戦って敗北したので、小さいころに源頼朝は、伊豆に流されていた。やがて成人して大人になった頼朝が、平氏への反乱をした。]]
 
{| class="wikitable" style="float:right"
|+ 源氏と平氏の戦い
! 年 !! おもなできごと
|-
| 1180 || 源頼朝が{{ruby|伊豆|いず}}(現在の{{ruby|静岡|しずおか}}県)で挙兵するが、{{ruby|石橋山|いしばしやま}}の戦い で平氏にやぶれる<br>  源頼朝が富士川の戦いで平氏をやぶる
|-
| 1181 || {{ruby|平清盛|たいらのきよもり}}がなくなる
|-
| 1183 || {{ruby|源義仲|みなもとのよしなか}}が、{{ruby|倶利伽羅峠|くりからとうげ}}の戦いで平氏をやぶる
|-
| 1184 || {{ruby|源義経|みなもとの よしつね}}が {{ruby|一ノ谷|いちのたに}}の戦い で平氏をやぶる
|-
| 1185 || 源義経が{{ruby|八島|やしま}}の戦いで平氏をやぶる <br> 源義経が{{ruby|壇ノ浦|だんのうら}}の戦いで平氏をやぶる <br> 平氏がほろびる
|-
|}
 
 
{{-}}
 
* {{ruby|源平|げんぺい}}の戦い
{{ruby|源頼朝|みなもとのよりとも}} は、関東で兵をあげました。{{ruby|富士|ふじ}}川の戦いで平氏をやぶったあと、頼朝は関東の{{ruby|鎌倉|かまくら}}に、とどまって、勢力の{{ruby|基盤|きばん}}をかためました。
 
そして頼朝は、平氏に不満をもっている武士の{{ruby|北条氏|ほうじょうし}}など関東の武士とも協力して、勢力をのばしていきました。
 
頼朝は、自らは鎌倉にとどまり、代わりに弟の '''{{ruby|源義経|みなもとのよしつね}}''' の兵を借りて、平氏を西へと追いつめていきました。
 
1185年、{{ruby|源義経|みなもとのよしつね}}らはついに本州の西の{{ruby|端|はし}}である今の{{ruby|山口|やまぐち}}県の{{ruby|下関|しものせき}}で起こった {{Ruby|壇ノ浦|だんのうら}}の戦いで、ついに平氏をほろぼしました。
 
これらの源氏と平氏との一連の戦いを「{{ruby|源平|げんぺい}}の戦い」あるいは「源平合戦」といいます。
 
[[File:Minamoto_no_Yoshitsune.jpg|thumb|源義経]]
 
一方、{{ruby|平氏|へいし}}の{{ruby|滅亡|めつぼう}}後、頼朝が{{ruby|朝廷|ちょうてい}}に要求したことより、新しい制度として、国ごとに守護が1人ずつ置かれ、{{ruby|荘園|しょうえん}}や公領には '''{{ruby|地頭|じとう}}''' が置かれました。
 
守護の{{ruby|役割|やくわり}}は、その国の軍や{{ruby|警察|けいさつ}}の管理者でした。地頭の役割は、{{ruby|荘園|しょうえん}}および公領の管理や、税である{{ruby|年貢|ねんぐ}}の取り立てでした。
 
頼朝は1192(1185)年に朝廷から '''{{ruby|征夷大将軍|せいいたいしょうぐん}}''' に任命されました。
 
頼朝は{{ruby|鎌倉|かまくら}}(現在の{{ruby|神奈川|かながわ}}県)に、武家による政治の{{ruby|拠点|きょてん}}である {{ruby|鎌倉幕府|かまくらばくふ}}を開きました。鎌倉に幕府があった時代を '''{{ruby|鎌倉|かまくら}}時代''' といいます。
 
この鎌倉時代から、政治の{{ruby|権力|けんりょく}}が朝廷から幕府へと移っていき、武家政治の時代となっていきました。
 
幕府の行政の仕組みは、朝廷による制度とは {{ruby|異|こと}}なります。
 
{{ruby|将軍|しょうぐん}}の家来の武士のことを '''{{ruby|御家人|ごけにん}}''' といいます。
 
将軍は、「'''ご{{ruby|恩|おん}}'''」と{{ruby|呼|よ}}ばれる、御家人たちの土地の{{ruby|権利|けんり}}を保証する{{ruby|政策|せいさく}}をとるかわりに、{{ruby|奉公|ほうこう}}と呼ばれる、御家人たちは将軍のために{{ruby|警備|けいび}}を行ったり、戦争の時には戦ったりするという{{ruby|主従|しゅじゅう}}関係を、 '''ご恩と奉公''' といいます。
[[File:ご恩と奉公.svg|thumb|400px|ご恩と奉公]]
 
「'''いざ{{ruby|鎌倉|かまくら}}'''」といって、御家人は戦いが起きれば、すぐに鎌倉へと行って将軍に指示を聞き、将軍のために戦うべき、とされていました。
 
この主従関係は、土地を仲立ちとしています。
 
御家人たちの{{ruby|屋敷|やしき}}は、{{ruby|武家造|ぶけづくり}}という作りで、屋敷のまわりに{{ruby|堀|ほり}}があったり、{{ruby|塀|へい}}で囲まれていたりと、戦いにそなえたつくりになっています。
 
「{{ruby|一所懸命|いっしょけんめい}}」という言葉がありますが、これは、御家人たちが自分たちの領地を守るために命がけで戦う様子からできた言葉です。なお、これが転じて「{{ruby|一生|いっしょう}}懸命」となりました。
 
 
[[ファイル:Hojo Masako.jpg|thumb|200px|北条政子({{ruby|菊池容斎|きくちようさい}} 画、{{ruby|江戸|えど}}時代)]]
頼朝の死後は、頼朝の長男である{{ruby|頼家|よりいえ}}が次の{{ruby|将軍|しょうぐん}}となり、さらに次の将軍は頼朝の次男である{{ruby|実朝|さねとも}}となりましたが、幕府の{{ruby|実権|じっけん}}は、有力な御家人である北条氏の一族がにぎっていました。頼朝の妻は '''{{ruby|北条政子|ほうじょう まさこ}}''' で、その父である {{ruby|北条時政|ほうじょうときまさ}} が {{ruby|執権|しっけん}} という役職につき、北条時政らが幕府の実権をにぎりました。
 
北条氏のように、執権として政治の実権をにぎる政治の方法を {{ruby|執権|しっけん}}政治 といいます。
 
なお、3代目将軍の{{ruby|実朝|さねとも}}は、1219年に頼家の子である{{ruby|公暁|くぎょう}}によって殺されました。こうして源氏の{{ruby|直系|ちょっけい}}の将軍は3代で絶えました。
 
 
* {{ruby|承久|じょうきゅう}}の{{ruby|乱|らん}}
頼朝の死後、1221年に{{ruby|朝廷|ちょうてい}}は、政治の{{ruby|実権|じっけん}}を武士から取りかえそうとして、幕府をたおせという命令を出しました。
 
このとき、{{ruby|北条政子|ほうじょうまさこ}}は、武士たちに、「あなたたちに頼朝があたえた ご{{ruby|恩|おん}}は、山よりも高く、海よりも深いものです。その恩にむくいようとするものは、力をあわせて{{ruby|敵軍|てきぐん}}をうちとり、{{ruby|幕府|ばくふ}}をまもるでしょう。」と、武士たちによびかけ、武士たちをまとめた。
 
この結果、北条氏の幕府軍と、朝廷の軍との戦争になり、北条氏の側が勝利しました。
 
そして、幕府の権力は、{{ruby|朝廷|ちょうてい}}をしのぐほどになりました。
 
また、幕府は、武士のための{{ruby|法律|ほうりつ}}をととのえました。
 
* 武士のくらし
[[Image:Yabusame 02.jpg|thumb|やぶさめ]]
 
武士は、日ごろから [[w:流鏑馬|やぶさめ]] などの武芸にはげんでいました。「やぶさめ」とは、馬にのって走りながら、いくつもある板の的をつぎつぎに{{ruby|射|い}}る武芸のことです。
 
{{-}}
 
=== モンゴルとの戦い ===
* モンゴル{{ruby|帝国|ていこく}}の{{ruby|元|もと}}
 
13世紀、中国をふくむユーラシア大陸の広い{{ruby|地域|ちいき}}では モンゴル民族が モンゴル{{ruby|帝国|ていこく}}を築いていました。
 
モンゴル帝国はユーラシア大陸を制圧すると、モンゴルの国号(国名)を {{ruby|元|げん}} に変えました。
 
 
* {{ruby|元寇|げんこう}}
 
モンゴルは、まず{{ruby|朝鮮|ちょうせん}}をしたがえました。つづいて、日本にも、モンゴルに{{ruby|従|したが}}えと、元は使者を日本によこしました。
 
しかし、ときの{{ruby|執権|しっけん}}であった{{ruby|北条時宗|ほうじょうときむね}}は、これを断りました。
 
そして、元は、1274年と1281年の2度にわたって、軍隊とともに日本にせめこみました。
 
最終的には暴風雨のえいきょうにより元軍が引き上げたので日本が勝利しましたが、元との戦いでは元軍の火薬を用いた新兵器(日本では「てつはう」と{{ruby|呼|よ}}ばれた)、毒矢、元軍の集団戦に苦戦しました。
 
[[ファイル:Mōko Shūrai Ekotoba.jpg|thumb|700px|1274年のモンゴル軍の{{ruby|襲来|しゅうらい}}において、矢が飛びかい、てつはうが{{ruby|炸裂|さくれつ}}する中を、モンゴル軍へこうげきする御家人の {{ruby|竹崎季長|たけさきすえなが}} と、応戦・{{ruby|逃亡|とうぼう}}するモンゴル兵]]
 
右の合戦の絵は、{{ruby|蒙古襲来絵詞|もうこしゅうらいえことば}}という絵巻物の一部の絵です。
 
「蒙古」とはモンゴルのことです。
 
{{clear}}
1度目の戦いのあと、幕府は次のモンゴル軍がせめこんでくるのに備え、今の{{ruby|福岡|ふくおか}}県にある{{ruby|博多|はかた}}湾の{{ruby|沿岸|えんがん}}に こうげきを防ぐための{{ruby|石垣|いしがき}}である'''{{ruby|石塁|せきるい}}'''を築かせました。
 
1281年に、元の軍勢は、14万人もの大軍を率いてふたたび日本に おそいかかりましたが、日本が勝利しました。
 
この2度の元軍の{{ruby|襲来|しゅうらい}}を あわせて '''{{ruby|元寇|げんこう}}''' といいます。
 
御家人は元寇で多くの費用を使いましたが、幕府は ご{{ruby|恩|おん}}としてのほうびの土地を、十分に用意できなかったので、{{ruby|御家人|ごけにん}}は{{ruby|幕府|ばくふ}}に不満を持つようになりました。
 
* その他
{{ruby|鎌倉|かまくら}}時代には、{{ruby|彫刻|ちょうこく}}で {{ruby|金剛力士像|こんごうりきしぞう}}がつくられました。<!--※ 教育出版の小学教科書で紹介している-->
 
※金剛力士像の画像が用意できないので、ここには画像をのせません。
 
金剛力士像は、{{ruby|奈良|なら}}県の{{ruby|東大寺|とうだいじ}}の{{ruby|南大門|なんだいもん}}にあります。
 
{{-}}
 
== {{ruby|室町|むろまち}}時代 ==
<gallery mode="packed" style="text-align: center;" caption="" heights="150px" perrow="3">
File:Kinkaku3402CBcropped.jpg|金閣({{Ruby|鹿苑寺|ろくおんじ}})
File:Yoshimitsu_Ashikaga_cropped.jpg|足利義満
File:GinkakujiTemple.jpg|銀閣({{Ruby|慈照寺|じしょうじ}})
File:Ashikaga Yoshimasa detail.jpg|足利義政
</gallery>
 
1336年、今の{{ruby|京都|きょうと}}の{{Ruby|室町|むろまち}}に{{ruby|室町|むろまち}}幕府ができました。
 
1394年、室町幕府の3代{{ruby|将軍|しょうぐん}}である{{ruby|足利義満|あしかがよしみつ}}は、京都の{{Ruby|北山|きたやま}}に '''{{Ruby|金閣|きんかく}}''' を建てました。金閣には、金ぱくがはられています。
 
1482年、室町幕府の8代将軍である{{Ruby|足利義政|あしかがよしまさ}}は、京都の{{Ruby|東山|ひがしやま}}に '''{{ruby|銀閣|ぎんかく}}''' を建てました。銀閣には、銀ぱくは はられていません。
 
 
{{-}}
=== 生活 ===
[[File:Tukinami huuzoku taue.jpg|thumb|400px|室町時代の田植えの様子。『{{ruby|月次風俗図屏風|つきなみふうぞくずびょうぶ}}』より]]
色々な村で、用水路や共用地の管理など村の運営のしかたについて、寺社などに集まって自主的に相談しあって決めるようにするなど、農民どうしの集まりが開かれるようになりました。
 
室町時代には、農民は、{{Ruby|厳|きび}}しい領主に対しては、集団で対立するようになりました。
 
ねんぐが重い場合は、集団で領主におしかけてうったえでたり、全員が村から{{ruby|逃亡|とうぼう}}したりして{{ruby|対抗|たいこう}}しました。
 
{{-}}
=== 室町文化 ===
* {{Ruby|書院造|しょいんづくり}}
[[File:Takagike Kashihara JPN 001.jpg|thumb|400px|書院造]]
 
'''{{Ruby|書院造|しょいんづくり}}'''という、和室の様式が出てきました。
 
特ちょうは、
:{{ruby|違|ちが}}い{{ruby|棚|だな}}という、{{ruby|段差|だんさ}}になった棚がある
:{{ruby|障子|しょうじ}}やふすまがある
:{{ruby|畳|たたみ}}の{{ruby|床|ゆか}}がある
などです。
 
これが、今日の和室の様式に、つながっています。
 
* 水墨画
[[ファイル:SesshuToyo.jpg|left|thumb|180px|水墨画。秋冬山水図のうち秋景(東京国立博物館)]]
[[ファイル:Portrait of Sesshu.jpg|thumb|220px|雪舟]]
 
鎌倉時代に、中国から '''{{ruby|水墨画|すいぼくが}}''' の技法が日本に伝わりました。
 
はじめ日本では、水墨画は、仏教の世界をえがくためにえがかれました。
 
しかし、室町時代になり、{{ruby|雪舟|せっしゅう}}は、水墨画と仏教を分けて考え、仏教にとらわれずに、自然の風景などの水墨画をえがきました。
 
{{コラム|雪舟|雪舟は、{{ruby|幼|おさな}}いとき、今の{{ruby|岡山|おかやま}}県の{{ruby|興福寺|こうふくじ}}に{{ruby|預|あず}}けられていました。しかし雪舟はそこで{{ruby|修行|しゅぎょう}}をせず絵ばかりかいていました。そこでおこった{{ruby|和尚|おしょう}}は雪舟を柱にしばりつけました。しばらくして和尚が様子を見に行くと、雪舟の足元にねずみがいたので、追いはらおうとしましたが、ねずみは動きません。雪舟が、なみだでかいたねずみだったのです。和尚は、それ{{ruby|以降|いこう}}、絵をかくのを{{Ruby|認|みと}}めました。}}
 
[[File:Sesshu - View of Ama-no-Hashidate.jpg|thumb|600px|雪舟の水墨画、『{{ruby|天橋立図|あまのはしだてず}}』]]
{{-}}
 
* 茶の湯
書院造の部屋で、おちついた作法にしたがって茶を飲む、'''{{ruby|茶|ちゃ}}の{{ruby|湯|ゆ}}'''が始まりました。茶の湯は、今でも{{ruby|茶道|さどう}}として、受けつがれています。
 
 
* {{Ruby|能|のう}}
{{ruby|観阿弥|かんあみ}}と{{Ruby|世阿弥|ぜあみ}}の親子が、芸能のひとつである '''{{ruby|能|のう}}''' を形成しました。
 
 
{{clear}}
 
== {{Ruby|戦国|せんごく|時代}} ==
※{{Ruby|室町|むろまち}}時代の一部です。
=== {{ruby|鉄砲|てっぽう}}とキリスト教の伝来 ===
 
{{-}}
 
* {{ruby|鉄砲|てっぽう}}
[[ファイル:Arquebus.jpg|thumb|right|300px|種子島{{ruby|火縄銃|ひなわじゅう}}<br>当時の鉄砲は,つつ先から火薬とたまをいれるものでした。たまがとどくきょりは,100mほどだといわれています。]]
1543年に,{{ruby|九州|きゅうしゅう}}の今でいう{{ruby|鹿児島|かごしま}}県の島である{{ruby|種子島|たねがしま}}に,ポルトガル人を乗せた船が流れ着きました。
 
このとき, ポルトガル人から'''{{ruby|鉄砲|てっぽう}}'''が日本に伝わりました。それまでの日本では鉄砲は知られておらず, 日本にとっては鉄砲は新兵器でした。
 
やがて日本の各地に鉄砲の情報が広がり、大量に鉄砲が作られるようになりました。
 
鉄砲が日本に伝わってから,少しあとのころ,キリスト教が日本に伝わりました。
 
[[File:Franciscus_de_Xabier.jpg|thumb|250px|ザビエル。]]
1549年にはスペイン人の{{ruby|宣教師|せんきょうし}}である'''ザビエル'''が日本の{{ruby|鹿児島|かごしま}}に来て,'''キリスト教'''を伝えました。
 
そのあと,他の宣教師も,次々と日本にやってきました。
 
宣教師は,日本とヨーロッパとのあいだの貿易の世話もしたので,大名たち(特に西日本)の中にはキリスト教を保護する者も,いました。
 
=== ヨーロッパ{{ruby|諸国|しょこく}}との貿易 ===
このようなことをきっかけに,日本は,ポルトガルやスペインとの貿易を始めました。ポルトガル人・スペイン人の商船が,{{Ruby|九州|きゅうしゅう}}の{{ruby|長崎|ながさき}}や{{ruby|平戸|ひらど}}や,{{ruby|大阪|おおさか}}の{{ruby|堺|さかい}}の港などを{{ruby|訪|おとず}}れて貿易をするようになりました。
 
=== 天下統一へ ===
~'''織田信長・豊臣秀吉・徳川家康'''~<br>
:(おだのぶなが・とよとみひでよし・とくがわいえやす)
 
==== 織田信長 ====
* 桶狭間の戦い(おけはざま の たたかい)
[[File:Odanobunaga.jpg|250px|thumb|織田信長]]
[[File:Sengoku period 1565.png|thumb|500px|1565年の領地の様子]]
 
<!-- ※ 教育出版や光村の教科書に書いてあります。小学校の範囲内です。 -->
 
{{ruby|戦国|せんごく}}時代には各地に大名がおり,多くの大名どうしが争っていた。1560年{{ruby|以降|いこう}}から,まず,{{ruby|尾張|おわり}}(現在の{{ruby|愛知|あいち}}県の西部)の大名であった '''{{ruby|織田信長|おだのぶなが}}'''が勢力を{{ruby|拡大|かくだい}}し始めました。
 
1560年に,愛知県にいる織田の領地に,となりの静岡県の{{ruby|今川義元|いまがわよしもと}}がせめこみ、{{ruby|桶狭間|おけはざま}}の戦い が起こりました。
 
この戦いで,今川義元を織田らの軍が{{ruby|討|う}}ち取り,今川義元は{{ruby|亡|な}}くなりました。このため,今川軍は命令の{{ruby|系統|けいとう}}がくずれてしまい,敗北しました。
 
桶狭間の戦い以降,信長は西へと勢力を拡大しました。1568年には,{{ruby|室町幕府|むろまちばくふ}}の{{ruby|足利|あしかが}}氏の一族である{{ruby|足利義昭|あしかがよしあき}}を{{ruby|支援|しえん}}して京都に入った。義昭はのちに,室町幕府の15代{{ruby|将軍|しょうぐん}}となりました。
 
1569年,信長は,キリスト教の{{ruby|宣教師|せんきょうし}}と初めて出会い,かれにキリスト教の布教を許可しました。信長本人はキリスト教の信者ではなく,信長のねらいは宣教師のもたらす情報などがねらいだとか,あるいは当時に信長と{{ruby|敵対|てきたい}}していた仏教勢力への{{ruby|対策|たいさく}}などと,いっぱんに言われています。
 
 
1571年には, 仏教勢力である{{ruby|延暦寺|えんりゃくじ}}が織田に{{ruby|背|そむ}}いたことから、織田信長は,{{ruby|比叡山延暦寺|ひえいざんえんりゃくじ}} を焼き{{ruby|討|う}}ちにしました。
 
<!-- ※ 日本文教出版の教科書『日本のあゆみ』で,延暦寺の焼き討ちなどを紹介しています。 -->
 
 
そして,1573年ごろ,織田信長は,室町幕府の将軍であった足利義昭を京都から追放しました。こうして,室町幕府は,ほろびました。
 
(※ 足利義昭の名前は,小学校の教科書では出てきません。)
 
 
* 長篠の戦い
[[ファイル:Battle of Nagashino.jpg|700px|thumb|長篠の戦い。左側が織田・徳川の連合軍。右側が武田軍。]]
1575年に{{ruby|三河|みかわ}}(現在の{{ruby|愛知|あいち}}県の東部)で、{{ruby|織田|おだ}}・{{ruby|徳川|とくがわ}}の{{ruby|同盟|どうめい}}と,{{ruby|甲斐|かい}}の大名の{{ruby|武田勝頼|たけだかつより}}らの戦争である '''{{ruby|長篠|ながしの}}の戦い'''が起きました。この戦いでは,織田・徳川の同盟が勝利し,武田は敗北しました。
{{-}}
{{Clear}}
 
* {{Ruby|安土城|あづちじょう}}
<!-- ※ 小学の範囲内です。検定教科書に想像図や復元図などがかいてあります。 -->
 
1576年,織田信長は{{ruby|近江|おうみ}}(現在の{{ruby|滋賀|しが}}県)にある小高い山の上に '''{{ruby|安土城|あづちじょう}}''' を築かせました。
 
安土城の城下町では,自由に商売をできるようにしたので,とてももうかりました。
 
また,安土の城下町には,キリスト教の学校や教会も建てられました。
 
安土城の城下町付近では、商業をさかんにするため,関所で通行税をとることを{{ruby|廃止|はいし}}しました。
 
なお、このような政策を {{ruby|楽市楽座|らくいちらくざ}}といいます。
 
:※大人の方へ:楽市楽座の内容は小学校範囲内ですが、「楽市楽座」という用語は小学校範囲外です。
 
==== 本能寺の変 ====
[[File:Sengoku period 1582.png|thumb|400px|1582年の領地の様子]]
 
1582年,{{ruby|中国|ちゅうごく}}地方へと勢力をひろめるため,{{ruby|織田|おだ}}軍は{{ruby|豊臣秀吉|とよとみひでよし}}などに命じて,中国地方の大名の{{ruby|毛利|もうり}}と戦争をしていました。信長はこれを{{ruby|支援|しえん}}するため中国地方に向かうとちゅう,信長は{{ruby|京都|きょうと}}の{{ruby|本能寺|ほんのうじ}}にとまっていました。
 
このとき,家臣の '''{{ruby|明智光秀|あけちみつひで}}'''が{{ruby|裏|うら}}切り,明智の軍が信長におそいかかり,この本能寺で信長および信長の子の{{ruby|織田信忠|おだのぶただ}}たちは{{ruby|死亡|しぼう}}しました。
 
なお、この一連の事件を '''本能寺の変''' といいます。
 
'''信長は,天下統一をなしとげられませんでした。'''
 
※大人の方へ:本能寺の変の内容は小学校範囲内ですが、「本能寺の変」という用語は小学校範囲外です。
 
'''信長は,天下統一をしていません。'''
天下統一ならず,信長は死亡します。
 
{{-}}
==== 豊臣秀吉の{{Ruby|台頭|たいとう}} ====
[[File:Toyotomi_hideyoshi.jpg|thumb|250px|豊臣秀吉。秀吉は,もともと農民でしたが,村をでて,武士になりました。そして,信長に{{Ruby|認|みと}}められて,信長の部下になりました。]]
[[File:Osaka Castle Keep tower of 「A figure of camp screen of the Osaka summer」.jpg|thumb|大阪城]]
 
信長の死を聞いた'''{{ruby|豊臣秀吉|とよとみひでよし}}'''は,ただちに毛利との停戦をし,そして{{Ruby|京都|きょうと}}・{{ruby|大阪|おおさか}}に向かい,{{Ruby|明智光秀|あけちみつひで}}をたおしました。
 
その後も,秀吉にさからう大名をつぎつぎとたおし,支配をかためていきました。
 
このようにして,しだいに秀吉の地位は高まっていき,信長の領地を受けついでいきました。
 
1583年に秀吉は,大阪に'''{{Ruby|大阪城|おおさかじょう}}'''を築かせ,この大阪城を{{Ruby|本拠地|ほんきょち}}にしました。
 
そのあと,秀吉は各地の大名たちを平定して{{Ruby|従|したが}}えていきました。
 
そして1590年には,秀吉に従わなかった{{Ruby|北条|ほうじょう}}氏の治める関東の{{Ruby|小田原|おだわら}}をせめ,{{ruby|北条氏政|ほうじょううじまさ}}をほろぼしました。
 
同1590年,秀吉に従っていなかった東北の{{Ruby|伊達|だて}}氏など東北の大名も,秀吉に従いました。こうして、'''秀吉が天下統一をなしとげました。'''
 
==== 秀吉の政策 ====
* {{Ruby|検地|けんち}}
 
農民からねんぐを取るための土地の調査を'''{{Ruby|検地|けんち}}'''といいます。
 
検地は信長の時代からも行われていたが,秀吉は各地でちがっていた長さや面積などの単位を全国で統一させました。
 
そして記録によって,田畑の面積や,田の{{Ruby|収穫高|しゅうかくだか}}である'''{{ruby|石高|こくだか}}''',その田畑を耕す農民の名前などが記録される {{Ruby|検地帳|けんちちょう}} が作られました。
 
検地帳によって耕作者がはっきりしたので,農民は田畑を持つ{{Ruby|権利|けんり}}を{{Ruby|認|みと}}められましたが,同時にねんぐを{{Ruby|納|おさ}}める義務を負うことになり,土地を勝手に はなれることができなくなりました。また,かつての{{Ruby|荘園|しょうえん}}のように土地の権利がはっきりしない土地がなくなりました。
 
* '''{{Ruby|刀狩|かたながり}}'''
1588年に、豊臣秀吉は'''{{Ruby|刀狩令|かたながりれい}}'''という、農民から刀や{{Ruby|鉄砲|てっぽう}}などの武器を{{Ruby|没収|ぼっしゅう}}する命令を出しました。
 
表向きの理由は,{{Ruby|京都|きょうと}}の{{Ruby|方広寺|ほうこうじ}}に大仏を作るので材料の鉄が必要であるためですが、秀吉の実際のねらいは,{{Ruby|一揆|いっき}}を防ぐためといわれています。
 
<div style="border:1px solid #000000;">
:'''{{Ruby|刀狩令|かたながりれい}}'''
:{{Ruby|百姓|ひゃくしょう}}が刀・やり・鉄砲などの武器をもつことを禁止する。ねんぐを出ししぶり,一揆をおこすものは,{{Ruby|厳|きび}}しくばっする。
:とりあげた刀は,大仏をつくるためのくぎなどにするから,百姓は仏のめぐみで,この世だけでなく,あの世でも救われるだろう。
</div>
 
※「百姓」とは,農民や漁民などのことです。
 
==== 朝鮮出兵 ====
日本を統一した秀吉は,つぎに,外国を{{Ruby|征服|せいふく}}しようとしました。そのため,中国を征服しようとしました。このための足がかりとして,まず{{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}に通行の許可や協力などをもとめたが,朝鮮に断られたため,朝鮮との戦争になり,2度にわたって朝鮮に兵を送って戦争をしました。
 
この戦争を,'''朝鮮出兵''' とか '''朝鮮{{Ruby|侵略|しんりゃく}}'''といいます。
 
秀吉の朝鮮出兵は2度あります。
 
最終的に日本は朝鮮・明の連合軍に敗北しました。
 
1598年に日本国内で秀吉が病死し,日本軍は日本にひきあげ,朝鮮出兵は終わりました。
 
{{-}}
{{コラム|朝鮮出兵の結果|朝鮮出兵の結果として、
:* 日本の{{Ruby|諸|しょ}}大名などからの豊臣氏への信用が弱まり,のちに,豊臣氏がほろしていくきっかけの一つになる。
:* 朝鮮に大きな{{Ruby|被害|ひがい}}をあたえた。
:* 戦争でほろんだ明の力も弱まる。
:* 朝鮮人の捕虜が日本に連行されたり,物品の{{Ruby|略奪りゃくだつ}}などを通して、朝鮮の{{ruby|陶器|とうき}}の文化が日本に伝わる。{{Ruby|佐賀|さが}}県の{{Ruby|有田|ありた}}焼,{{Ruby|鹿児島|かごしま}}県の{{Ruby|薩摩|さつま}}焼,{{Ruby|山口|やまぐち}}県の{{Ruby|萩|はぎ}}焼など、今では,その地方の特産品の一つになっている。
 
などのことが起こりました。}}
 
==== 徳川家康 ====
[[File:Tokugawa_Ieyasu2.JPG|thumb|300px|徳川家康]]
1590年,秀吉の命令によって,家康の領地が関東に移され,{{Ruby|江戸城|えどじょう}}が家康の{{Ruby|拠点|きょてん}}となりました。家康が江戸に移る前は,{{Ruby|三河|みかわ}}(今でいう{{Ruby|愛知|あいち}}県の東部)の大名でした。
 
朝鮮出兵では,家康は兵をおくる義務はなく,家康は兵力をたくわえることができました。
 
豊臣秀吉が{{Ruby|亡|な}}くなると,徳川家康の勢力が強まりました。
 
* {{Ruby|関ヶ原|せきがはら}}の戦い
[[File:Sekigaharascreen.jpg|thumb|500px|関ヶ原の戦い<br>絵の右側にいるのが徳川軍。絵の左側にいるのが豊臣軍。]]
 
1600年、{{Ruby|関ヶ原|せきがはら}}(今の{{Ruby|岐阜|ぎふ}}県)で、徳川家康が率いる軍と,豊臣秀吉が率いる軍が戦いました。これを '''関ヶ原の戦い''' といいます。結果は,徳川家康が率いる軍の勝利でした。
 
* {{Ruby|江戸幕府|えどばくふ}}
:1603年,{{Ruby|朝廷|ちょうてい}}から{{Ruby|徳川家康|とくがわいえやす}}は {{Ruby|征夷大将軍|せいいたいしょうぐん}} に任命されました。
:家康は{{Ruby|江戸|えど}}(今でいう{{Ruby|東京|とうきょう}}に'''{{Ruby|幕府|ばくふ}}'''を開きました。これが'''江戸幕府'''であり,この時から'''江戸時代'''が始まりました。江戸時代は260年ほど続きます。
 
* 大阪城をせめる
:1614年 家康により,{{Ruby|豊臣|とよとみ}}氏をほろぼすための戦争を始めました。
 
そして,この戦争で豊臣氏が負けたので,豊臣氏は,ほろぼされました。
 
 
* 江戸の工事
[[File:Edo P detail.jpg|500px|thumb|江戸城]]
江戸のまちは,江戸幕府より前は,政治の中心地になったことがなかったので,やや不便でした。
 
そのため家康は,日本全国の大名に資金や人手を{{Ruby|提供|ていきょう}}させて,江戸の町を広げる工事をさせました。江戸城を広げる工事も行われました。
 
* 1616年 徳川家康が{{Ruby|死亡|しぼう}}しました。
 
{{-}}
 
==== まとめ : 信長・秀吉・家康 ====
{| class="wikitable" style="float:right"
|+ {{ruby|信長|のぶなが}}・{{Ruby|秀吉|ひでよし}}・{{Ruby|家康|いえやす}}の時代
| 織田信長 <br>[[File:Odanobunaga face.png|150px|織田信長の顔。]]|| 豊臣秀吉 <br>[[File:Toyotomi hideyoshi face.png|150px|豊臣秀吉の顔。]]|| 徳川家康 <br>[[File:Tokugawa Ieyasu2 face.png|150px|徳川家康の顔。]]
|-
| 1534 {{Ruby|尾張|おわり}}(現在の{{Ruby|愛知|あいち}}県の西部)の大名の子として生まれる || 1537 尾張に農民の子として生まれる || 1542 三河(現在の愛知県の東部)の大名の子として生まれる
|-
| 1560 {{Ruby|今川|いまがわ}}氏を破る || ||
|-
| 1562 家康と連合する || || 1562 信長と連合する
|-
| 1573年 {{Ruby|足利|あしかが}}氏を{{Ruby|京都|きょうと}}から追い出す<br />(室町幕府をほろぼす) || ||
|-
| style="text-align: left;" colspan="3" | 1575 '''{{Ruby|長篠|ながしの}}の戦い'''で,信長と家康の連合軍が,武田の軍をたおす
|-
| 1576 {{Ruby|安土城|あづちじょう}}を築く || ||
|-
| 1582 {{Ruby|明智光秀|あけちみつひで}}におそわれ,<br />信長は自害する({{ruby|本能寺|ほんのうじ}}の変) || <br>1582 秀吉が光秀をたおす ||
|-
| || 1583 {{Ruby|大阪城|おおさかじょう}}を築く ||
|-
| || 1588 '''{{Ruby|刀狩|かたながり}}'''を命じる ||
|-
| || 1590 日本を統一する || 1590 秀吉の命令で,関東に領地をうつす
|-
| || 1592 {{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}をせめる ||
|-
| || 1597 ふたたび朝鮮をせめる ||
|-
| || 1598 病死する ||
|-
| || || 1600 関ヶ原の戦いで勝つ
|-
| || || 1603 {{Ruby|征夷大将軍|せいいたいしょうぐん}}になり,'''{{Ruby|江戸幕府|えどばくふ}}'''をひらく
|-
| || || 1615 豊臣氏をほろぼす
|-
| || || 1618 病死する
|-
|}
 
{{clear}}
 
つぎのような うた があります。
 
'''{{Ruby|織田|おだ}}がつき {{Ruby|羽柴|はしば}}がこねし 天下もち'''
'''すわりしままに 食うは{{Ruby|徳川|とくがわ}}'''
 
「{{Ruby|羽柴|はしば}}」とは,豊臣秀吉のことです。秀吉は,「豊臣秀吉」と名乗る前には,「羽柴秀吉」と長く名乗っていました。
 
「織田」とは,織田信長のことです。
 
「徳川」とは,徳川家康のことです。
 
:※ この うたを暗記しようとするのではなく,私たちが勉強した3人の人生をふりかえって,「なぜ,このような うた で説明されるようになったのか」を,自分の言葉で説明してみよう。
 
ヒント:織田は「もちをついて」、つまりもちをやわらかくしています。羽柴は「もちをこね」、つまり織田がついたもちをさらにやわらかくしています。そして徳川は「すわりしままに食う」、つまりもちを作っていないのにもちを食べています。
 
{{clear}}
 
また、かれらの性格をあらわした,つぎのような句があります。
{| class="wikitable"
|+
| 織田信長 <br>[[File:Odanobunaga face.png|150px|織田信長の顔。]]|| 豊臣秀吉 <br>[[File:Toyotomi hideyoshi face.png|150px|豊臣秀吉の顔。]]|| 徳川家康 <br>[[File:Tokugawa Ieyasu2 face.png|150px|徳川家康の顔。]]
|-
| 鳴かぬなら <br> 殺してしまえ <br>  ホトトギス || 鳴かぬなら <br> 鳴かせてみせよう <br>  ホトトギス || 鳴かぬなら <br> 鳴くまで待とう <br>  ホトトギス
|-
|}
織田信長は「逆らうものは{{Ruby|排除|はいじょ}}する」という{{Ruby|姿勢|しせい}}をとり、豊臣秀吉は「逆らうものは{{Ruby|従|したが}}わせる」という姿勢をとり、徳川家康は「逆らうものは従うまで待つ」、つまりチャンスを{{Ruby|探|さぐ}}るという姿勢をとっています。
 
{{clear}}
=== ヨーロッパから伝わってきた言葉 ===
戦国時代のころ,ヨーロッパとの貿易により,ヨーロッパの商品や科学技術が日本に伝わりました。
 
食べ物のパン({{Ruby|pão|パオ}})やカステラ({{Ruby|pão de castela|パオ・デ・カステラ}}),カボチャ,また,衣服のカッパやボタン,カードのカルタ({{Ruby|cartas|カールタス}}),食べ物のテンプラも,日本に伝わりました(※外国語での表記は参考です)。
 
コップもポルトガル語の {{Ruby|copo|コッポ}} が由来です。お{{Ruby|菓子|かし}}の{{Ruby|金平糖|こんぺいとう}}の語源も,ポルトガル語の{{confeito|コンフェイト}}という外国語です。
 
<!-- ※ 日本文教出版の小6の教科書『日本のあゆみ』や,教育出版の教科書で,カステラなどについて紹介されている。 -->
 
服の上から着る「マント」とその言葉も,この時代に,つたわってきました(なお,マントの語源はフランス語です)おそらく,{{Ruby|宣教師|せんきょうし}}などが,マントをまとっていたのでしょう)。
 
円をかくために使う「コンパス」とその言葉も,この時代に,つたわってきました(なお,コンパスはオランダ語です)。
 
<!-- ※ 日本文教出版の小6の教科書『日本のあゆみ』で,マントやコンパスなどについて紹介されている。また,国語の教科書で,外来語として紹介される場合もある -->
 
なお,いくつかの日本語や中国語もヨーロッパに伝わっていきました。
 
「{{Ruby|茶|ちゃ}}」が,{{Ruby|cha|シャー}}と,ポルトガル語になりました。※ 中国語の発音もチャーなので,日本から伝わったとは限りません)。
 
「{{Ruby|坊主|ぼうず}}」が,{{Ruby|bonzo|ボンゾー}}と,ポルトガル語になりました。
 
当時の日本人がヨーロッパ人を'''「{{Ruby|南蛮人|なんばんじん}}」'''と{{Ruby|呼|よ}}んだので,日本によるヨーロッパとの貿易を'''{{Ruby|南蛮貿易|なんばんぼうえき}}'''といいます。
<!-- ※ 小学教科書の章末コラムなどで,「南蛮」の用語がある。日本文教出版,教育出版など -->
[[File:Namban-13.jpg|thumb|left|350px|{{Ruby|南蛮屏風|なんばんびょうぶ}}(※ 一部分)<br>南蛮貿易のようすがかかれています。日本人がえがいたものです。]]
 
 
{{-}}
 
== {{Ruby|江戸|えど}}時代 ==
=== 江戸時代初期の政治 ===
{{ruby|江戸|えど}}時代のはじめごろ、{{Ruby|江戸幕府|えどばくふ}}は、日本全国に200人ほどいた{{Ruby|大名|だいみょう}}を、徳川家の親類である{{Ruby|親藩|しんぱん}}・古くから徳川家に{{Ruby|従|したが}}っていた{{Ruby|譜代|ふだい}}・関ヶ原の戦いのころから従った{{Ruby|外様|とざま}}の3つにわけました。
 
<!-- ※「親藩」・「譜代」・「外様」は、小学校の範囲です。光村図書や日本文教出版の教科書などで、普通に書いてあります。 -->
 
なお、江戸時代に大名の支配する領地のことを '''{{Ruby|藩|はん}}''' といいます。
 
また、それぞれの大名を、幕府に都合のいい{{ruby|地域|ちいき}}に、配置しました。このため、戦国時代のころとは別の地域へと領地が変わることになった大名もいます。
 
 
親藩や譜代は、重要な地域や江戸の近くなどに配置されました。
 
いっぽう、外様は、江戸から遠いところなどに配置されました。
 
江戸幕府での「大名」とは、領地の{{Ruby|石高|こくだか}}が1{{ruby|万石|まんごく}}以上の武士のことです。
 
※なお、「石高」とは、その土地の米のかく量のことです。人間が1年間に食べる米の量を基準にしています。1石は約80Lで、{{ruby|米俵|こめだわら}}約1.3{{ruby|俵|ひょう}}分になります。
 
[[File:NikkoYomeimon5005.jpg|thumb|400px|日光東照宮(にっこう とうしょうぐう)。(栃木県)<br>日光東照宮は、徳川家康をまつっている神社です。3代将軍家光(いえみつ)によって建造が命令されました。世界文化遺産、および、国宝。]]
 
また、江戸・大阪・長崎などの{{Ruby|地域|ちいき}}は、幕府が直接治めました。
 
幕府の直接おさめた地域は、日本全国の4分の1ほどです。
 
日本で最も石高が多かった藩は、現在の{{Ruby|石川|いしかわ}}県南部にあたる{{Ruby|加賀|かが}}藩です。加賀藩の領地は、約103万石です。加賀の藩主である{{ruby|前田利家|まえだとしいえ}}は、外様です。
 
* {{Ruby|武家諸法度|ぶけしょはっと}}
1615年, 江戸幕府の2代{{Ruby|将軍|しょうぐん}}である{{ruby|徳川秀忠|とくがわひでただ}}によって, 大名を取りしまるための{{ruby|法律|ほうりつ}}が作られました。これを '''{{ruby|武家諸法度|ぶけしょはっと}}''' といいます。この法度に{{ruby|違反|いはん}}すると、領地の{{ruby|没収|ぼっしゅう}}などの{{Ruby|厳|きび}}しい{{Ruby|処分|しょぶん}}がされました。
 
{{ruby|以降|いこう}}、将軍が代わるごとに修正されました。
 
 
<div style="border:1px solid #000000;">
:'''武家諸法度'''
::一. (武士は)学問や武芸の道に、ひたすら{{Ruby|専念|せんねん}}すること。
::一. 新しく城を築くことは、かたく禁止する。修理する場合であっても、必ず幕府に申し出ること。
::一. 大名は、毎年、きめられた月に江戸に{{Ruby|参勤|さんきん}}すること。 (※3代将軍 {{Ruby|徳川家光|とくがわいえみつ}}が加えた)
::一. 大きな船を作ってはならない。(※3代将軍 徳川家光が加えた)
::一. 大名は、幕府の許可なしに勝手に{{Ruby|結婚|けっこん}}をしてはならない。
</div>
 
* {{Ruby|参勤交代|さんきんこうたい}}
[[File:Iemitu.jpg|thumb|徳川家光]]
1635年、3代{{Ruby|将軍|しょうぐん}}の{{Ruby|徳川家光|とくがわいえみつ}}は、{{Ruby|武家諸法度|ぶけしょはっと}}に大名には一年ごとに江戸と領地に半数ずつ住まわせるという '''{{Ruby|参勤交代|さんきんこうたい}}''' という決まりを付け加えました。
 
また、大名の妻子は、江戸に{{Ruby|人質|ひとじち}}として住まわせられました。
 
参勤交代に必要な費用は、それぞれの{{Ruby|藩|はん}}の{{Ruby|負担|ふたん}}となった。
 
大勢の家来を江戸と領地に往復させるので、大名に多くの費用がかかり、大名の{{Ruby|経済|けいざい}}力を弱められました。
 
参勤交代のときの大名の一行は長い行列ができるので、これを '''大名行列''' といいます。
 
[[ファイル:Sankiko01.jpg|thumb|600px|none|{{Ruby|園部|そのべ}}藩(現在の{{Ruby|京都府|きょうとふ}})参勤交代行列図 (1) ({{ruby|南丹|なんたん}}市文化博物館{{Ruby|蔵|ぞう}})]]
[[ファイル:Sankiko02.jpg|thumb|600px|none|園部藩参勤交代行列図 (2) (南丹市文化博物館蔵)]]
[[ファイル:Sankiko03.jpg|thumb|600px|none|園部藩参勤交代行列図 (3) (南丹市文化博物館蔵)]]
 
参勤交代によって、道路や{{Ruby|宿場町|しゅくばまち}}も整備されていきました。
 
{{コラム|関所|
* {{Ruby|関所|せきしょ}}
[[画像:Ishibe shukubanosato02s3200.jpg|thumb|280px|関所の様式の門。観光テーマパークでの復元。]]
 
{{Ruby|警備|けいび}}上の理由から、街道には、通行を制限する {{Ruby|関所|せきしょ}}がおかれました。関所では、通行者は、関所の役人に、通行許可証である手形(てがた)を見せる必要があった。
 
関所では、とくに江戸に入る{{Ruby|鉄砲|てっぽう}}と{{Ruby|出女|でおんな}}は、厳しく調べられた。鉄砲は{{Ruby|反乱|はんらん}}をおそれたためです。「出女」は、参勤交代で{{Ruby|人質|ひとじち}}として江戸に住まわせた女(妻)のことで、こっそりと帰国することをおそれたためです。}}
 
徳川家光は、「生まれながらの{{Ruby|将軍|しょうぐん}}」と言われており、つぎのような話が残っています。
 
:家光は、{{ruby|諸国|しょこく}}の大名を{{Ruby|江戸城|えどじょう}}にあつめて、つぎのような{{ruby|宣言|せんげん}}をしました。
「わたしの祖父の{{Ruby|家康|いえやす}}や父の{{Ruby|秀忠|ひでただ}}は、もともとは、お前たちと同じ大名で、ともに戦った仲間だったから、お前たちへのえんりょがあった。だが、私は、生まれながらの将軍だ。だから、お前たちを家来として、あつかう。これに不満のある者は、領地に帰って戦いの準備をするがよい。戦いの相手をしてやろう。」
 
=== キリスト教の禁止と貿易 ===
 
{| class="wikitable" style="float:right"
|+ {{ruby|鎖国|さこく}}への歩み
| 年 || おもなできごと
|-
| 1613 || 幕府がキリスト教の禁止令を出す
|-
| 1616 || 外国船との貿易を{{Ruby|長崎|ながさき}}と{{Ruby|平戸|ひらど}}に制限する
|-
| 1624 || スペイン人の来日を禁止する
|-
| 1635 || 日本人の海外{{ruby|渡航|とこう}}の禁止,海外にいる日本人の帰国の禁止
|-
| 1637 || {{Ruby|島原|しまばら}}・{{ruby|天草一揆|あまくさいっき}}(島原の{{ruby|乱|らん}})が起きる
|-
| 1639 || ポルトガル船の来航を禁止する
|-
| 1641 || 平戸にあったオランダ人の商館を、長崎の{{ruby|出島|でじま}}に移す<br />({{ruby|鎖国|さこく}}の完成)
|-
|}
 
徳川家康は、はじめ、外国との貿易を許可していました。
 
そのため、貿易船の多くは、東南アジアまで出かけることも、多くありました。
 
しかし、{{Ruby|幕府|ばくふ}}はキリスト教の信者が団結して幕府の命令を聞かなくなることをおそれて、幕府はキリスト教を信じることを禁止しました。
 
 
[[Image:Jesus on cross to step on.jpg|thumb|300px|キリストの踏み絵]]
 
さらに、3代{{Ruby|将軍|しょうぐん}}の{{Ruby|徳川家光|とくがわいえみつ}}のころに、日本人が海外に行くことや、外国にいる日本人が日本に帰国することを禁止しました。
 
:このころ、現在の{{Ruby|長崎|ながさき}}県にある{{Ruby|島原|しまばら}}半島や現在の{{Ruby|熊本|くまもと}}県にある{{Ruby|天草島|あまくさじま}}で、キリスト教の信者の農民3万人あまりによる、大きな{{Ruby|一揆|いっき}}が起きました。
 
この島原・天草の一揆の目的は、禁教によるキリシタンへの{{Ruby|弾圧|だんあつ}}および領主による重いねんぐなどへの{{Ruby|反乱|はんらん}}でした。
 
反乱軍の中心人物は、当時16才という{{ruby|若|わか}}さだった {{Ruby|天草四郎|あまくさしろう}}({{Ruby|益田時貞|ますだときさだ}})という少年です。
 
幕府は12万人ほどの大軍を送り、4か月ほどかかってこれをしずめました。
 
これを '''{{Ruby|島原|しまばら}}・{{Ruby|天草一揆|あまくさいっき}}''' または '''島原の{{Ruby|乱|らん}}''' といいます。
 
<!-- ※ 光村図書の教科書で「島原の乱」という表記が使われています。他社の教科書では、「島原・天草一揆」という表記が多い。-->
 
 
この戦いのあと、キリスト教への取りしまりは、いっそう{{Ruby|厳|きび}}しくなりました。
 
キリスト教を発見するためには、{{Ruby|踏|ふ}}み絵を用いた絵踏みが行われました。
 
{{コラム|踏み絵による絵踏み|
この時代、キリスト教は禁止されていましたが、かくれてキリスト教を信じる人たちがいました。このような人を取りしまるため、{{Ruby|幕府|ばくふ}}は人々にキリスト教の神であるイエス・キリストがえがかれた銅板の踏み絵を踏ませるという 絵踏み をさせて、踏めなかった者はキリスト教徒であるとして{{Ruby|処罰|しょばつ}}しました。
}}
 
[[ファイル:Plattegrond van Deshima.jpg|thumb|300px|1824年ごろにえがかれた出島の鳥かん図(空から見た図)。おうぎの形をしている。]]
そして{{Ruby|江戸幕府|えどばくふ}}は、貿易の相手を、キリスト教を広めるおそれのないオランダと中国だけにかぎり、{{Ruby|長崎|ながさき}}で貿易することにしました。
 
長崎には、オランダとの貿易のために{{Ruby|出島|でじま}}という人工の島がつくられました。
 
オランダとの貿易は、この出島の中でだけ行われました。また、オランダ人は、この出島にしか住めませんでした。
 
幕府は、出島に入れる日本人は、幕府の役人や、許可を得た日本人のみに制限していました。
 
このような、江戸幕府による、外国人と日本人との交流を減らす{{Ruby|政策|せいさく}}を '''{{Ruby|鎖国|さこく}}''' といいます。
 
江戸幕府は長崎のオランダ{{Ruby|商館長|しょうかんちょう}}に、外国のようすを幕府に報告させるための報告書の提出を義務づけました。
 
このように日本でのヨーロッパ人と日本人とのかかわりを制限していった結果、日本では、江戸幕府が貿易の利益と西洋についての情報を{{Ruby|独占|どくせん}}しました。
 
{{コラム|{{Ruby|発展|はってん}}:オランダとの貿易|
オランダとの貿易での輸入品のほとんどは、{{Ruby|生糸|きいと}}・{{Ruby|砂糖|さとう}}・毛織物でした。ときどき、ガラスや望遠鏡や時計などの、めずらしいものも輸入されました。
 
日本からの輸出品は、金・銀・銅などの金属や{{Ruby|陶磁器|とうじき}}などでした。
}}
 
=== 江戸時代の北海道と沖縄 ===
* {{Ruby|北海道|ほっかいどう}}
 
{{ruby|江戸|えど}}時代、{{Ruby|北海道|ほっかいどう}}は「えぞ」とよばれており、アイヌ民族と{{Ruby|呼|よ}}ばれる民族も住んでいました。
 
アイヌは、現在の北海道の南部にある {{Ruby|松前藩|まつまえはん}}と貿易をさせられました。
 
アイヌの人が持ってくるサケやコンブを、わずかな米などと{{Ruby|交換|こうかん}}していたといいます。
 
このような不公平な貿易におこったアイヌの人たちが、17世紀の中ごろ、'''シャクシャイン'''という人物を中心に{{Ruby|反乱|はんらん}}を起こしました。
 
<!-- ※ シャクシャインは小学校でも習う。教育出版や光村図書の教科書で、章末コラムに書いてある。琉球も同様に習う。-->
 
* {{Ruby|琉球|りゅうきゅう}}王国
江戸時代、いまの{{Ruby|沖縄|おきなわ}}県は「{{Ruby|琉球|りゅうきゅう}}」という王国でした。
 
江戸時代の初めごろ、琉球王国は{{ruby|薩摩藩|さつまはん}}(現在の{{Ruby|鹿児島|かごしま}}県の西部)によって支配されていました。そして、薩摩藩によって、琉球はねんぐを取られるようになりました。
 
薩摩藩は、以前から琉球が行っていた中国との貿易を続けさせ、その貿易の利益を薩摩藩が手に入れました。
 
 
=== 身分による支配 ===
{{Ruby|豊臣秀吉|とよとみひでよし}}の時代に、{{Ruby|刀狩|かたながり}}などによって、農民や武士とのあいだの身分の区別が決まっていきました。{{Ruby|江戸幕府|えどばくふ}}も、身分の区別を受けつぎました。
 
武士は、城のまわりに住んで、役人として仕事をすることがふつうでした。
 
武士には、刀を持ち歩いてもよい、名字を名乗ってもよい、などの{{Ruby|特権|とっけん}}がありました。
 
江戸時代は、武士の身分が最も高くなっていました。武士が、他の身分の人を支配していました。
 
[[File:江戸時代の人口割合.svg|thumb|400px|江戸時代の身分別の人口{{Ruby|割合|わりあい}}。<br>なお、「{{Ruby|公家|くげ}}」とは、朝廷の関係者のこと。]]
 
農民の身分が2番目に高い、とされました。
 
江戸時代、農民は毎年ねんぐを取られていました。
 
なお、農地で働いている農民のねんぐは、ふつうは米でした。
 
また、漁民などは、海産物を、ねんぐのようなものとして、{{Ruby|納|おさ}}める場合もありました。
 
農民や漁民をまとめて、{{Ruby|百姓|ひゃくしょう}}といいます。
 
いっぽう、職人や商人など、町人の多くは城下町などの都市に住んでいました。
 
このような、職人や商人のことを、'''町民'''といいます。
 
町民は、ねんぐのかわりに、町づくりのための費用などを納める必要がありました。
 
 
これとはべつに、条件のわるい土地にすまわされたり、祭りへの参加を禁じられるなど、差別をされた人々がいました。このような人々を 「えた」「ひにん」 といいます。
 
※大人の方へ 小学校の検定教科書では、「えた」「ひにん」の言葉はなく、中学で学習することとなっています。
 
江戸時代の日本の人口における武士の{{ruby|割合|わりあい}}は人口の7%ほどです。なお江戸時代の人口の数は 約3000万人 です。
 
江戸時代の日本の農民の人口の割合は、人口の84%ほどです。
 
また、職業を勝手に変えることは、許されませんでした。
 
また、女性の地位は、男性よりも低いとされていました。
 
==== 農民へのおふれ書き ====
* 農民への おふれ書き
農民のくらしは、ぜいたくをしないように、きびしく管理されました。
 
次のように農民の生活のきまりが、幕府によって定められました。
 
<div style="border:1px solid #000000;">
 '''農民への おふれ書き'''
:一. 朝は早起きをして草をかり、昼には田畑の耕作をして、夜には{{Ruby|縄|なわ}}をつくって{{ruby|俵|たわら}}を編むなど、それぞれの仕事をしっかりと行うこと。
:一. 幕府の法令をおこたったり、地頭や代官のことをそまつに考えず、また名主(村長)や組頭のことは真の親のように思って{{Ruby|尊敬|そんけい}}すること。
:一. 酒や茶を飲まないこと。
:一. 農民は麦・ひえ・あわ などの{{Ruby|雑穀|ざっこく}}などを食べ、なるべく米を食べないこと。
:一. 農民の服は、{{Ruby|麻|あさ}}と{{ruby|木綿|もめん}}のみとし、ほかの服は着てはいけない。{{Ruby|裏地|うらじ}}にも他の布を使ってはならない。
:一. タバコを{{Ruby|吸|す}}わないこと。
</div>
 
* {{Ruby|五人組|ごにんぐみ}}
ほかにも、5~6けんの農民ごとに {{Ruby|五人組|ごにんぐみ}} をつくらせ、ねんぐや犯罪などに、共同で責任を負わせました。
 
=== 産業 ===
==== 農業 ====
{{Ruby|幕府|ばくふ}}や{{Ruby|藩|はん}}は、{{Ruby|新田|しんでん}}の開発に力を入れた。
 
その結果、開こんが進み、{{Ruby|江戸|えど}}時代の中ごろには、日本全国の田畑の耕地面積は、{{Ruby|豊臣秀吉|とよとみひでよし}}のころと比べて、ほぼ2倍に広がりました。
 
幕府や藩の財政は農民からのねんぐにたよっており、財政をゆたかにするために農業を発達させる必要がありました。
 
江戸時代は{{ruby|貨幣|かへい}}が全国的に流通していたので、武士はねんぐの米を売って貨幣に現金化していました。
 
ねんぐの米は江戸や{{Ruby|大阪|おおさか}}にある {{Ruby|蔵屋敷|くらやしき}} に運ばれ、商人によって売りさばかれ現金化されました。<!-- ※ 教育出版の教科書で、「蔵屋敷」を紹介 -->
 
全国各地の海産物や、各地の特産物も、ほとんどは大阪にあつめられました。
 
そして、大阪から、あつめられた産物が、全国各地に売り飛ばされました。
 
 
[[Image:Japanese-hoe-biccyukuwa,katori-city,japan.JPG|thumb|180px|備中ぐわ]]
[[File:Japanese old threshing machine,Senba-koki,Katori-city,Japan.JPG|thumb|left|220px|千歯こき]]
 
* {{Ruby|発展|はってん}}:農具の発達
{{ruby|備中|びっちゅう}}ぐわ・{{Ruby|千歯|せんば}}こき・{{ruby|千石|せんごく}}どおしなどが開発されました。
 
:{{ruby|備中|びっちゅう}}ぐわ…耕すための農具で、深く耕せる。
 
:{{Ruby|千歯|せんば}}こき…{{ruby|稲|いね}}の{{Ruby|穂|ほ}}から米つぶを{{ruby|脱穀|だっこく}}するための道具。くし状の部分が鉄製で、何本もの、くし状の「こき」があるので、一度に多くの穂を脱穀できる。
 
:{{ruby|千石|せんごく}}どおし、とおみ…もみをふるい分ける。
 
* 肥料
なたね油やごま油の しぼりかす が、肥料として使われました。
 
「ほしか」と{{Ruby|呼|よ}}ばれる、イワシを{{Ruby|乾燥|かんそう}}させて固めた肥料が使われていました。<!-- ※ 日本文教出版の教科書で「ほしか」の名前を紹介。-->
 
 
 
* 商品作物
<!-- ※ 教育出版や日本文教出版「日本の歩み」の教科書で紹介。 -->
 
農民が、売ることを目的に、綿・なたね・茶・{{Ruby|麻|あさ}}・あい、などの商品作物が作られるようになりました。 農村でも{{ruby|貨幣|かへい}}が使われるようになっていきました。
 
* その他
({{Ruby|発展|はってん}}) 江戸時代の中ごろから、さつまいも、じゃがいも、かぼちゃ・とうもろこしなど、外国から伝わった作物もつくられるようになりました。
 
=== 教育・学問 ===
* {{Ruby|儒学|じゅがく}}
{{Ruby|徳川家康|じゅがく}}をはじめとして{{ruby|幕府|ばくふ}}は、幕府を保ちつづけるには'''{{Ruby|儒学|じゅがく}}'''と{{ruby|呼|よ}}ばれる道徳的な学問が必要だと考え、武士に儒学を学ばせました。
 
* 教育
[[File:Terakoya for girls.jpg|thumb|right|寺子屋のようす。]]
農民や町民などの{{Ruby|庶民|しょみん}}は、'''{{Ruby|寺子屋|てらこや}}'''で文字の読み書きやそろばんなどを学びました。
 
当時の外国では、文字の読み書きのできる庶民は少なく、世界各国の中でも、日本は{{ruby|識字率|しきじりつ}}(文字を読める人の{{Ruby|割合|わりあい}})が高い国でした。
 
また、{{Ruby|貸本屋|かしほんや}}などの書店も、増えていった。
 
* 儒学以外の学問
ヨーロッパの学問を学ぶことは、日本を{{Ruby|混乱|こんらん}}におとしいれる{{ruby|危険|きけん}}な学問だと考えられており、禁止されていました。
 
一方、日本の古典や歴史を学ぶことは{{ruby|認|みと}}められていました。そのため、{{Ruby|万葉集|まんようしゅう}}などの古典や、{{Ruby|古事記|こじき}}・{{ruby|日本書紀|にほんしょき}}などの歴史書について学んだり、研究したりする者も現れました。
 
 
 
* {{Ruby|蘭学|らんがく}}
ヨーロッパの医学や農学や科学技術など、キリスト教や政治道徳以外のヨーロッパの学問を学ぶことは、18世紀の初めごろ、8代{{Ruby|将軍|しょうぐん}}である{{ruby|徳川吉宗|とくがわよしむね}}の{{Ruby|改革|かいかく}}などにより、{{Ruby|認|みと}}められました。
 
当時はオランダ語を通して西洋の科学を学んでいたので、ヨーロッパから取り入れた学問のことを '''{{Ruby|蘭学|らんがく}}''' といいました。「蘭」とはオランダのことです。
 
* 医学書『ターヘル・アナトミア』の{{Ruby|翻訳|ほんやく}}
[[画像:Kaitai shinsyo01.jpg|right|thumb|500px|『解体新書』。とびら絵は『ターヘル・アナトミア』のとびら絵とはまったく{{Ruby|異|こと}}なっている。]]
[[File:Ontleedkundige Tafelen replica.jpg|thumb|240px|right|『ターヘル・アナトミア』(複製)。]]
 
18世紀のおわりごろ、医者の '''{{Ruby|杉田玄白|すぎたげんぱく}}''' と、'''{{Ruby|前野良沢|まえのりょうたく}}''' の二人がかりである。オランダの医学書が日本語へと{{Ruby|翻訳|ほんやく}}されて出版されました。
 
杉田たちは、オランダの医学書『ターヘル・アナトミア』を見て、人体の{{Ruby|内蔵|ないぞう}}の{{Ruby|解剖|かいぼう}}図が、とても正確であることにおどろき、翻訳を決意しました。
 
[[File:Sugita_Genpaku.jpg|thumb|left|杉田玄白]]
 
これが、西洋の本を日本語に訳した本のうち、日本では初めての本格的な翻訳書となりました。
 
その当時は、日本語で書かれたオランダ語の辞書はなかったため、非常に時間がかかり、この医学書の「ウェインブラーウ(まゆ)は、目の上に生えている毛である。」というような一文でさえ、翻訳するのに1日かかったといいます。翻訳が終わるまでには4年ほどの年月がかかりました。
 
「{{Ruby|神経|しんけい}}」・「{{Ruby|動脈|どうみゃく}}」など、その当時オランダ語に対応する日本語がなかった言葉は、この翻訳のときに前野と杉田が考えた言葉です。
 
<!-- ※ 光村図書の教科書で「動脈」「神経」などが杉田たち由来のことを紹介している -->
 
 
また、杉田と前野は、翻訳のときの苦労話などを『{{Ruby|蘭学事始|らんがくことはじめ}}』に記しました。
 
 
* {{Ruby|国学|こくがく}}
江戸時代のなかばごろから、{{Ruby|国学|こくがく}}と{{Ruby|呼|よ}}ばれる、{{ruby|儒教|じゅぎょう}}や仏教の考えにとらわれない立場で、日本古来の古典や文化の研究をする学問が生まれてきました。
[[File:本居宣長02.jpg|thumb|本居宣長]]
{{Ruby|本居宣長|もとおりのりなが}}は、『{{Ruby|古事記|こじき}}』の研究を行い、『'''古事記{{ruby|伝|でん}}'''』を記しまし。
宣長の研究は『古事記』のほかにもあって、平安時代の紫式部の『源氏物語』についても研究している。
 
{{clear}}
 
[[ファイル:Ino Tadataka stamp.jpg|thumb|left|伊能忠敬がえがかれた切手]]
* 測量
[[File:地方測量之図.jpg|thumb|400px|江戸時代の測量のようす]]
'''{{ruby|伊能忠敬|いのうただたか}}'''は、日本全国を地図をつくるために測量する旅を通して、正確な日本地図である『{{Ruby|大日本沿海輿地全図|だいにほんえんかいよちぜんず}}』を作りました。
 
{{コラム|伊能忠敬|
伊能忠敬は、50才のときに、天文学や測量のための勉強をはじめました。そして、55才のときに、自費で北海道の南岸の測量を行いました。56才のとき、地図づくりのための測量を、{{Ruby|幕府|ばくふ}}に願いでました。幕府は、忠敬の地図づくりの才能を{{Ruby|認|みと}}め、忠敬に地図づくりの許可を出しました。
 
それから17年間、忠敬は、地図づくりのため、日本の全国各地を歩きました。忠敬が歩いたきょりは3万km以上になります。
 
地図の完成の前に、71才で忠敬は{{Ruby|亡|な}}くなりましたが、弟子たちが、日本全国の地図を完成させました。
 
そして、忠敬の弟子たちにより、とても正確な日本地図が、できあがりました。
}}
 
 
=== 江戸時代の文化 ===
* 絵画
[[ファイル:Beauty looking back.jpg|thumb|210px|『見返り美人図』菱川師宣]]
絵画では、えがかれる対象が町人や女性などのようすになり、それらの絵を版画を利用して印刷する {{Ruby|浮世絵|うきよえ}} が、画家の{{Ruby|菱川師宣|ひしかわもろのぶ}}によって広まりました。浮世絵は、何度も印刷できたため、安く売られ、町人も簡単に入手できました。
 
また、風景画では{{Ruby|歌川広重|うたがわひろしげ}}、{{Ruby|葛飾北斎|かつしかほくさい}}などの人物が活やくしました。
 
<gallery>
ファイル:Nihonbashi bridge in Edo.jpg|葛飾北斎『{{ruby|富嶽三十六景|ふがくさんじゅうろっけい}}』 1. 江戸日本橋(えどにほんばし)
ファイル:Lightnings below the summit.jpg|『富嶽三十六景』 32. {{Ruby|山下白雨|さんかはくう}}
ファイル:Red Fuji southern wind clear morning.jpg|『富嶽三十六景』 33. {{Ruby|凱風快晴|がいふうかいせい}}
File:東海道五十三次之内 川崎 六郷渡舟-Ferry Boat Crossing the Rokugo River MET DP122176.jpg|歌川広重『{{ruby|東海道五十三次|とうかいどうごじゅうさんつぎ}}』
</gallery>
 
浮世絵は、貿易をとおして外国にも紹介され、ゴッホなどの西洋の画家にもえいきょうをあたえました。
<gallery widths="500px" heights="500px">
画像:Hiroshige Van Gogh 2.JPG|歌川広重の絵(左)と、ゴッホの{{Ruby|模写|もしゃ}}(右)
</gallery>
 
<gallery widths="250px" heights="250px">
Van Gogh - Portrait of Pere Tanguy 1887-8.JPG |ゴッホの作品。人物の後ろに、浮世絵がえがかれている。
</gallery>
 
 
* 人形浄瑠璃
{{Ruby|三味線|しゃみせん}}などを{{Ruby|伴奏|ばんそう}}にしてリズミカルに節をつけて、{{Ruby|操|あやつ}}り人形をうごかしながら物語を語るという{{ruby|人形浄瑠璃|にんぎょうじょうるり}}が流行しました。
 
[[File:Chikamatsu Monzaemon.jpg|thumb|近松門左衛門]]
人形浄瑠璃の{{ruby|脚本|きゃくほん}}家である '''{{ruby|近松門左衛門|ちかまつもんざえもん}}''' が活やくしました。近松の作品には、『{{ruby|曽根崎心中|そねざきしんじゅう}}』や『{{ruby|国性爺合戦|こくせんやかっせん}}』など,
実際の歴史上の事件などをえがいた作品があります。
 
ほかにも、江戸時代にはすもう、花火、季語の入っていない俳句である {{ruby|川柳|せんりゅう}} が流行しました。
{{clear}}
 
 
== 開国と{{ruby|戊辰|ぼしん}}戦争 ==
=== 黒船の来航 ===
[[ファイル:Commodore-Perry-Visit-Kanagawa-1854.jpg|thumb|300px|left|黒船来航]]
[[ファイル:Matthew Calbraith Perry.jpg|thumb|300px|ペリー]]
[[画像:Matthewperry.jpg|200px|thumb|日本の{{Ruby|浮世絵|うきよえ}}にえがかれたペリー。]]
1853年にアメリカ合衆国の4せきの{{ruby|軍艦|ぐんかん}}が今の{{Ruby|神奈川|かながわ}}県のの{{Ruby|浦賀|うらが}}にあらわれ、4せきの軍艦をひきいたアメリカ人の '''ペリー''' 日本にが開国を求め、アメリカ大統領からの国書を{{Ruby|幕府|ばくふ}}にわたしました。
 
当時、このアメリカの船は、色が黒かったので、'''{{ruby|黒船|くろふね}}''' とも言われました。
 
アメリカの軍艦は、{{ruby|蒸気船|じょうきせん}}と言われるもので、石炭などを燃料とした蒸気機関によって動く最新式の船であり、船のえんとつからはけむりがもうもうとあがっていました。この蒸気船は、それまでのオランダの船でよく見られた{{Ruby|帆船|ほせん}}とはちがい、蒸気船は最新式の船でした。
 
ペリーは日本について事前にオランダの本などから研究していたので、日本人は権力者の命令に弱いということを知っており、わざと幕府のある{{ruby|江戸|えど}}に近い浦賀に黒船で、やってきたのです。当時の日本では、{{ruby|長崎|ながさき}}が外交の{{ruby|窓口|まどぐち}}でしたが、ペリー達はまったく長崎に行こうとはせず、幕府と直接{{Ruby|交渉|こうしょう}}をしようとする態度をとりました。
 
 
このようなアメリカの船と、ペリーの態度を見て、日本人はおどろきました。そこでペリーに、返事を出すまで時間がかかるので、1年後にもう一度日本に来てもらうようにたのみました。
 
 
幕府は、事態を重く考え、{{ruby|朝廷|ちょうてい}}にも報告をして、{{Ruby|諸国|しょこく}}の大名にも相談をしました。
 
 
いっぽう、アメリカが日本に開国をせまった目的は、日本で燃料や水の{{ruby|補給|ほきゅう}}を行うために立ち寄ることができるようにすることが、目的でした。当時のアメリカは、中国({{Ruby|清|しん}})と貿易をおこなっていたり、太平洋で{{ruby|捕鯨|ほげい}}({{Ruby|鯨|くじら}}を{{Ruby|捕|と}}ること)を行っていたので、日本で補給ができると都合が良かったのです。
<br><br>
 
そして1年後の1854年に、ペリーが再び日本にきました。1854年の交渉では、もはや幕府はアメリカの開国要求をことわりきれず、ついに日本は開国をしました。
日本とアメリカとの間で '''{{ruby|日米和親条約|にちべいわしんじょうやく}}''' が結ばれました。この日米和親条約により、今の{{ruby|静岡|しずおか}}県にあるの下田と今の{{Ruby|北海道|ほっかいどう}}にある{{ruby|函館|はこだて}}が開港され、アメリカ船に燃料や水・食料などを補給することが決まりました。また、下田にアメリカの領事館がおかれました。
 
 
[[ファイル:Ii Naosuke.jpg|thumb|right|250px|井伊直弼]]
 
さらに1858年に、{{Ruby|幕府|ばくふ}}の{{Ruby|大老|たいろう}}であった {{Ruby|井伊直弼|いいなおすけ}} はアメリカと {{ruby|日米修好通商条約|にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく}} を結びました。しかし、この条約は{{Ruby|朝廷|ちょうてい}}}の許可をとらないまま結ばれた条約でした。また幕府は、イギリス・オランダ・ロシア・フランスとも、同様の条約を結びました。
 
また、開国に反対の主張をしていた武士たちを、幕府は{{Ruby|弾圧|だんあつ}}していきとらえて{{Ruby|処刑|しょけい}}などの{{Ruby|処罰をしていきます。この鎖国派への弾圧を「{{Ruby|安政|あんせい}}の{{Ruby|大獄|たいごく}}」といいます。
 
[[File:Sakuradamon01s3200.jpg|250px|thumb|桜田門。]]
のちの1860年、直弼は江戸城の{{ruby|桜田門|さくらだもん}}の近くを通っていたときに、安政の大獄による弾圧に反対をしていた者によって暗殺されてしまいました。この暗殺事件を「{{Ruby|桜田門外|さくらだもんがい}}の変」と言います。
 
 
* 不平等条約
日米修好通商条約の内容は、日本にとって不利な内容で、不平等な条約でした。
 
:日本に関税自主権がない。
:日本への輸入品に税をかける{{Ruby|権利|けんり}}が日本にはありませんでした。輸入品にかける税を {{ruby|関税|かんぜい}}といい、国が関税を自由に決められる権利を '''{{Ruby|関税自主権|かんぜいじしゅけん}}''' といいます。日本には、関税自主権がありませんでした。
 
:アメリカ人の{{ruby|領事裁判権|りょうじさいばんけん}}({{Ruby|治外法権|ちがいほうけん}})がある。
:日本国内で外国人が犯罪をおかしても、日本の{{Ruby|法律|ほうりつ}}では{{Ruby|処罰|しょばつ}}できませんでした。アメリカ人など外国人が、日本の法律では処罰されないことを と言います。 '''{{ruby|領事裁判権|りょうじさいばんけん}}''' または '''{{Ruby|治外法権|ちがいほうけん}}''' といいます。
 
* 開国による{{ruby|経済|けいざい}}の変化
:輸出品として、{{Ruby|生糸|きいと}}や茶が輸出されたので、それらの産業が{{ruby|発展|はってん}}しました。
:国内で品物が不足し、物価が上がりました。輸出によって、国外に品物を多く輸出しすぎたり、買いしめなどが起こったりしたからです。貿易をしていない米や麦の{{Ruby|値段|ねだん}}も上がりました。
:貿易によって、日本の金が流出しました。このため、幕府は金貨の質を下げたので、ますます物価は上がりました。
 
このような品不足や物価の{{ruby|上昇|じょうしょう}}などにより、{{Ruby|庶民|しょみん}}のくらしは苦しくなっていったため {{ruby|一揆|いっき}} や 打ちこわし が起きました。
 
庶民だけでなく下級武士にも、開国に不満を持つ者が増えていきました。
 
また、日本の世間から、欧米の国をやっつけようとする考えが出始めました。このような考え方を{{ruby|攘夷|じょうい}}といいます。
 
攘夷{{Ruby|論|ろん}}だけでなく、{{Ruby|朝廷|ちょうてい}}や{{Ruby|天皇|てんのう}}を{{Ruby|盛|も}}り上げて{{Ruby|敬|うやま}}おうという{{Ruby|尊王論|そんのうろん}} という考え方が出てきました。
 
尊王論と攘夷論が加わり、組み合わせた尊皇攘夷論という考え方が出てきました。のちに、尊皇攘夷論は、朝廷に許可を得ず勝手に開国した幕府への{{Ruby|批判|ひはん}}にかわり、やがて幕府をたおそうという運動へと変わっていきました。
 
大人の方へ:上の「尊王論」「攘夷論」「尊王攘夷論」はすべて小学校範囲外です。
 
=== 幕末の武士たち ===
 
<gallery widths="200px" heights="200px">
File:Sakamoto Ryoma.jpg|坂本龍馬
File:Saigo Takamori.jpg|西郷隆盛
File:Shinsaku Takasugi.jpg|高杉晋作
</gallery>
 
<!-- ※ 光村図書と教育出版と日本文教出版の教科書で、坂本龍馬、西郷隆盛、勝海舟、大久保利通の紹介あり。
※ 光村図書の教科書で、幕府の井伊直弼と勝海舟の紹介あり。
※ 教育出版の教科書に、桂小五郎、高杉晋作、後藤象二郎の紹介あり。
※ 日本文教出版の教科書に、岩倉具視の紹介あり。 -->
 
 
* {{Ruby|生麦|なまむぎ}}事件・{{Ruby|薩英|さつえい}}戦争
:1862年に{{Ruby|神奈川|かながわ}}県の{{Ruby|生麦|なまむぎ}}で、{{Ruby|薩摩藩|さつまはん}}(現在の{{Ruby|鹿児島|かごしま}}県の西部)の大名行列の前を横切ったイギリス人を薩摩藩の武士が殺害するという 生麦事件 が起こりました。イギリスからの犯人の{{Ruby|処罰|しょばつ}}要求を薩摩藩が受け入れなかったので、{{ruby|翌年|よくとし}}の1863年にイギリスは薩摩藩と戦争をしました。これを {{Ruby|薩英|さつえい}}戦争 といいます。この戦争で薩摩は敗北し、大きな被害を受け、薩摩はイギリスの実力を知ることになりました。
 
戦後、薩摩では政治の{{Ruby|方針|ほうしん}}を切りかえ、イギリスなどから制度を学び、藩の強さを高める方針へと変わりました。そして薩摩藩では、下級武士であった'''{{Ruby|西郷隆盛|さいごうたかもり}}'''や'''{{Ruby|大久保利通|おおくぼとしみち}}'''らが、イギリスの援助も受けて、彼らが改革の中心になっていった。
 
 
* {{Ruby|発展|はってん}}:{{Ruby|長州藩|ちょうしゅうはん}}の{{Ruby|下関|しものせき}}戦争    
[[ファイル:Choshu-Battery-Capture-Shimonoseki-1864.jpg|thumb|300px|欧米の連合艦隊の兵隊に占拠された下関の砲台]]
:1863年に、今の{{Ruby|山口|やまぐち}}県にある{{Ruby|下関海峡|しものせきかいきょう}}を通る外国船に、{{Ruby|長州藩|ちょうしゅうはん}}が、いきなり{{Ruby|砲撃|ほうげき}}を始めました。翌年、外国の連合{{Ruby|艦隊|かんたい}}、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの4か国からなる連合軍により{{Ruby|反撃|はんげき}}を受け、下関の砲台を{{Ruby|占拠|せんきょ}}され、長州は負けました。
 
長州藩は、下級武士であった{{ruby|高杉晋作|たかすぎしんさく}}や{{ruby|木戸孝允|きどたかよし}}・{{Ruby|伊藤博文|いとうひろぶみ}}らが、イギリスの{{Ruby|援助|えんじょ}}も受けて、彼らが{{Ruby|改革|かいかく}}の中心となっていきました。
 
このようにして、薩摩や長州は、実戦から、欧米の実力を知ることに知ることになりました。単純な{{Ruby|尊皇攘夷|そんのうじょうい}}運動は{{Ruby|誤|あやま}}りだと気づくようになりました。まずは、軍隊の近代化が必要と考え、そのためには改革が必要であり、そのためには改革をさまたげている幕府をたおす必要があるという気運が薩摩や長州を中心に高まってきました。
 
 
* {{ruby|薩長同盟|さっちょうどうめい}}
[[ファイル:Sakamoto_Ryōma.jpg|thumb|200px|{{Ruby|坂本竜馬|さかもとりょうま}}]]
{{Ruby|薩摩|さつま}}と{{Ruby|長州|ちょうしゅう}}は、過去の歴史的な関係から、対立していました。
1866年に、{{ruby|土佐藩|とさはん}}(今の{{Ruby|高知|こうち}}県)の {{Ruby|坂本竜馬|さかもとりょうま}}(「竜」という漢字ではなく「龍」を使うこともあります) が両藩の仲立ちをして{{ruby|薩長同盟|さっちょうどうめい}}を結ばせました。
 
幕府は、薩長同盟を倒すため長州と戦争をしましたが、幕府が敗北しました。
 
イギリスが薩摩や長州の{{Ruby|支援|しえん}}をしていましたが、いっぽう、幕府はフランスの支援を受け、軍備や技術の{{Ruby|改革|かいかく}}をしました。
 
{{clear}}
* {{Ruby|大政奉還|たいせいほうかん}}
[[ファイル:Tokugawa yoshinobu.jpg|thumb|300px|徳川慶喜]]
{{Ruby|江戸幕府|えどばくふ}}の15代{{Ruby|将軍|しょうぐん}}であった {{ruby|徳川慶喜|とくがわよしのぶ}} は、1867年に{{ruby|政権|せいけん}}を{{ruby|朝廷|ちょうてい}}にかえしました。
 
これを '''{{Ruby|大政奉還|たいせいほうかん}}''' といいます。
 
こうして、約260年続いた江戸幕府の時代は終わりました。
 
また、{{Ruby|鎌倉|かまくら}}時代から約700年間つづいた武士の支配は、こうして終わりました。
 
{{clear}}
== {{Ruby|明治|めいじ}}時代 ==
 
=== {{Ruby|明治維新|めいじいしん}}と自由{{Ruby|民権|みんけん}}運動 ===
~西洋に学べ~
 
1868年、新政府は元号を「{{Ruby|明治|めいじ}}」と改め、新政府は「{{Ruby|江戸|えど}}」の地名を「{{Ruby|東京|とうきょう}}」と改めました。1869年に、新政府は{{Ruby|京都|きょうと}}から{{Ruby|東京|とうきょう}}に{{Ruby|都|みやこ}}(首都)を移しました。この年号が明治の時代を '''明治時代''' といいます。
 
新政府は武士などに対して政治の{{Ruby|方針|ほうしん}}をしめすため、'''{{Ruby|五箇条|ごかじょう}}の{{Ruby|御誓文|ごせいもん}}''' を出しました。
 
{| style="border:1px solid #777; background-color:#ffffff; width:100%; margin:0.25em 0"
| style="padding:0.25em 0.5em" |<span style="font-size:117%; color: #000">'''五箇条の御誓文(現代語{{Ruby|訳|やく}})'''</span>:
:* 政治は、会議で広く意見を聞いて行おう。
 
:* 身分の上下によらず、みんなで心を合わせて、政治や仕事を行っていこう。
 
:* みんなの願いを実現しよう。
 
:* 古い、よくないしきたりはやめよう。
 
:* 知識を外国からも学び、日本を{{Ruby|発展|はってん}}させていこう。
|}
 
1871年には、明治政府は、{{ruby|藩|はん}}を{{Ruby|廃止|はいし}}し、かわりに県や府をおきました。そして、それらの県や府の地方政治では、政府の任命した役人を{{Ruby|知事|ちじ}}として送りました。これを {{Ruby|廃藩置県|はいはんちけん}}といいます。
 
このような、{{Ruby|幕末|ばくまつ}}から明治時代のはじめごろに行われた一連の{{ruby|改革|かいかく}}を {{Ruby|明治維新|めいじいしん}}といいます。
 
1871年、{{Ruby|江戸|えど}}時代の身分制度はなくなり、農民や町民・差別を受けていた人は「平民」となり、身分上は解放されました({{ruby|四民平等|しみんびょうどう}})。 平民は、{{Ruby|江戸|えど}}時代とはちがい、職業や住む場所を変えられるようになりました。名字を、平民も持てるようになりました。
 
武士は{{ruby|士族|しぞく}}と変わりました。士族は、刀を差すことを禁じられるなど、江戸時代のころの{{Ruby|特権|とっけん}}を失いました。また、公家と大名は{{Ruby|華族|かぞく}}となりました。そして、{{Ruby|天皇|てんのう}}の一族は、「{{Ruby|皇族|こうぞく}}」となりました。
 
{{コラム|{{Ruby|岩倉具視|いわくらともみ}}らの視察団|
[[画像:Iwakura mission.jpg|thumb|300px|使節団の人々<br>左から{{Ruby|木戸孝允|きどたかよし}}、{{Ruby|山口尚芳|やまぐちなおよし}}、岩倉具視、{{Ruby|伊藤博文|いとうひろぶみ}}、{{ruby|大久保利通|おおくぼとしみち}}]]
 
1871年に、明治政府は、{{Ruby|欧米諸国|おうべいしょこく}}の政治や産業のしくみや産業のしくみを勉強するために、{{Ruby|岩倉具視|いわくらともみ}}など50人の日本人による使節団を欧米諸国に送りました。
 
帰国後、使節団にいた人たちは、欧米の政治の知識など、国づくりの知識を、日本に持ちかえりました。
 
また、この使節団といっしょに、60人の留学生も同行して、欧米のようすを学びました。
 
[[File:First female study-abroad students.jpg|thumb|同行した女子留学生]]
 
この留学生のなかには、女子留学生も5人いました。その中には、{{ruby|津田梅子|つだうめこ}}という当時6才の少女もいました。
 
女子留学生は帰国後、女子のための学校をつくるなど、女子のための教育の分野で活やくしました。
}}
 
 
==== {{ruby|富国強兵|ふこくきょうへい}} ====
明治時代の日本では、日本を強い軍隊を持った国にしようという動きが高まりました。これを{{ruby|富国強兵|ふこくきょうへい}}といいます。
 
===== 軍制の{{Ruby|改革|かいかく}} =====
政府は、{{Ruby|欧米|おうべい}}の軍制に習った{{Ruby|改革|かいかく}}として、1873年に '''{{Ruby|徴兵令|ちょうへいれい}}''' を出し、ほぼすべての満20才以上の男子に、身分に関係なく3年間{{Ruby|兵役|へいえき}}の義務を課しました。
 
===== {{Ruby|地租|ちそ}} =====
江戸時代の税は米などの農産物などであり、農作物のできなどによって税の{{Ruby|収入|しゅうにゅう}}が増減するので、政府にとっては不安定な制度だったため、政府は税の制度をあらため、土地をもつことにかかる税金がかかるようにしました。
 
これを「{{ruby|地租|ちそ}}」といいます。
 
 
===== 義務教育 =====
[[File:明治日本での学校に通った子どもの割合.svg|thumb|400px|学校に通った子どもの{{ruby|割合|わりあい}}(※「1973年」は「1873年」の{{ruby|誤|あやま}}りです)]]
 
1872年に、日本全国の子どもに義務教育を受けさせるため、{{Ruby|欧米|おうべい}}の制度を参考に6才以上の男女に義務教育を受けさせるという{{Ruby|学制|がくせい}}を{{Ruby|発布|はっぷ}}しました。
 
しかし、学校の建設費や授業料の{{ruby|負担|ふたん}}が大きく、また当時の子供は働き手であったので労働力をうばわれることから反発がありました。
 
このような理由で{{Ruby|就学率|しゅうがくりつ}}(学校に通った者の{{Ruby|割合|わりあい}})は低く、実際に学校に通った者は、一部でした。
 
さて、明治のはじめは就学率が低かったものの、明治の終わりごろには就学率は高くなり、ほぼ100%になりました。
 
{{コラム|明治の学校の教科|
学校の教科について、江戸時代には国語(読み書き)、算数(そろばん)しか教えていませんでしたが、明治時代になってから、理科も教えられるようになりました。
 
外国の地理や歴史についても教え始めました。
 
他に、体育や家庭科などの教科および教科書も作られました。
}}
 
 
* 福沢諭吉
[[File:Yukichi Fukuzawa 1891.jpg|200px|thumb|{{Ruby|福沢諭吉|ふくざわゆきち}}。]]
 
西洋の学問を学ぶ熱が高まっていき、それに応ずる思想も現れました。
 
{{Ruby|福沢諭吉|ふくざわゆきち}}は、下級武士の家の生まれだったが、{{Ruby|蘭学|らんがく}}を学んでいました。かれは西洋の知識が深かったので、明治政府の使節団に参加させてもらい、ますます西洋の知識を深めました。
 
かれは『学問のすすめ』を書きました。その{{Ruby|冒頭|ぼうとう}}には
 
 
「天は 人の上に 人を造らず 人の下に 人を造らず と いへり」
 
という文があり、
人は生まれながらにして平等である、という内容である、アメリカ合衆国の建国当時の独立宣言の内容を{{Ruby|紹介|しょうかい}}しました。
 
===== {{Ruby|文明開化|ぶんめいかいか}} =====
 
{| class="wikitable" style="float:right"
|+ 文明開化
! 年 !! おもなできごと
|-
| 1869(明治2) || {{Ruby|東京|とうきょう}}~{{Ruby|横浜|よこはま}}間に電信が開通する
|-
| 1870 || 人力車が使われ始める<br> 日刊新聞の{{Ruby|創刊|そうかん}}
|-
| 1871 || 制度が始まる
|-
| 1872 || {{ruby|新橋|しんばし}}~横浜間に鉄道が開通<br> ガス灯がつく(横浜)
|-
| 1874 || {{Ruby|銀座|ぎんざ}}がレンガ街になる
|-
| 1890 || 東京~横浜間に電話が開通する
|-
|}
 
明治のはじめごろ、江戸時代ごろのちょんまげではなく、ざんぎり頭が流行し,「ざんぎり頭を たたいてみれば {{Ruby|文明開化|ぶんめいかいか}}の音がする」などと、ちまたで言われていました。
 
{{Ruby|東京|とうきょう}}や{{Ruby|横浜|よこはま}}、{{Ruby|大阪|おおさか}}などの大きな町には、ガス灯がつきはじめました。江戸時代には仏教の関係で禁止されていた牛肉やぶた肉などをたべる習慣がでてきて、牛肉屋や洋食屋が出てきました。
また、{{Ruby|牛乳|ぎゅうにゅう}}やパンなども、しだいに食べるようになった。
 
 
 
* {{Ruby|郵便|ゆうびん}}
1871年に{{Ruby|郵便|ゆうびん}}制度ができました。数年後には、全国{{Ruby|一律|いちりつ}}の料金制度ができました。
 
 
* 鉄道
1872年には、{{ruby|新橋|しんばし}}~{{Ruby|横浜|よこはま}}間に、日本で最初の鉄道が開通しました。
 
 
* 新聞の発行
印刷の技術は{{Ruby|幕末|ばくまつ}}のころより輸入されていましたが、明治になって、出版活動がさかんになりました。
 
1870年には、日本で最初の日刊の新聞が発行されました。そのあと、次々と新しい新聞が発行されていきました。
 
* 官営工場
[[File:上州富岡製糸場之図 PNG.png|thumb|700px|当時の富岡製糸場]]
工業の近代化も必要だったため、政府が経営する '''{{Ruby|官営|かんえい}}工場''' を建てました。機械は外国から買いました。また、工場労働者を育成する技師は、外国から招きました。
 
中でも、{{Ruby|群馬|ぐんま}}県の{{Ruby|富岡製糸場|とみおかせいしじょう}}では、フランスから技師を招きました。また、働き手には、全国から女性が集められました。このような官営工場を手本に、民間の工業を近代化させていきました。なお、富岡製糸場は 2014(平成26)年に世界{{Ruby|遺産|いさん}}に登録されました。なお、このように工場などを建設し、西洋の技術などを取り入れていった動きを {{Ruby|殖産興業|しょくさんこうぎょう}} といいます。
 
 
==== 西南戦争 ====
{{Ruby|西郷隆盛|さいごうたかもり}}は、もとは新政府の中心的な人物のひとりでしたが、政治の進め方に不満を持ち、新政府を去りました。
 
1874年ごろから九州の各地で、士族による{{Ruby|反乱|はんらん}}が起きました。
 
[[File:Battle-of-Tabaruzaka.jpg|thumb|400px|西南戦争のようす。左が官軍、右が西郷軍。]]
ほかにも、反乱がおき、不満を持った士族たちの指導者として、西郷隆盛が{{Ruby|担|かつ}}ぎ出されました。西郷も、その不平を持った士族とともに、1877年、鹿児島で反乱を起こしました。これを {{Ruby|西南|せいなん}}戦争 といいます。
 
しかし、政府軍が勝利したため、それ{{Ruby|以降|いこう}}、士族の反乱はなくなりました。
 
==== 国会をひらこう ====
[[File:Eiri jiyuu sinbun 1.jpg|thumb|板垣退助の演説と、それをとりしまる{{Ruby|警官|けいかん}}。]]
[[File:Taisuke ITAGAKI.jpg|thumb|200px|板垣退助]]
いっぽう、政治のすすめかたをめぐって政府を去った {{Ruby|板垣退助|いたがきたいすけ}} は、西南戦争の前から、{{Ruby|言論|げんろん}}活動によって、政府を{{Ruby|批判|ひはん}}しました。
 
1874年に、板垣は、政府に対して、選挙で選ばれた政治家による政治をおこなう国会を、すぐに設立するように求めました。
 
当時の日本の政治には、まだ選挙制度がなかったので、{{Ruby|薩摩藩|さつまはん}}や{{Ruby|長州|ちょうしゅう}}藩の出身者など{{Ruby|影響|えいきょう}}力のあった藩の出身者たちのみで行われていました。少数の政治家によって政治が決まっていたのです。
 
この国会設立の要求のように、国民が政治に参加できる社会をもとめる運動を '''自由{{Ruby|民権|みんけん}}運動''' いいます。
 
自由民権運動は、はじめのうちは不平士族を中心とした運動でしたが、しだいに農民や商工業者などにも支持されていきました。
 
しかし、1881年には、まだ、国会をひらくために必要になる、{{Ruby|憲法|けんぽう}}や{{ruby|法律|ほうりつ}}がありませんでした。
 
このような理由もあり、政府は、すぐには国会を開かず、10年以内に国会を開くことを国民に約束しました。
 
[[File:OKUMA_Shigenobu.jpg|thumb|left|大隈重信。]]
国会が開かれるのにそなえて、板垣退助は自由{{Ruby|党|とう}}を、{{Ruby|大隈重信|おおくましげのぶ}}は{{Ruby|立憲改進党|りっけんかいしんとう}}を作りました。
 
[[ファイル:Itō Hirobumi.jpg|thumb|left|250px|伊藤博文]]
 
明治政府は、{{Ruby|伊藤博文|いとうひろぶみ}}らをヨーロッパに送り、ヨーロッパ各国の憲法や政治のしくみを調べさせました。
 
そして、伊藤は、日本に帰国してから、{{Ruby|皇帝|こうてい}}の{{ruby|権力|けんりょく}}が強いドイツの{{Ruby|憲法|けんぽう}}を手本にして、新しい憲法の案をつくりました。
 
そして1889年、{{Ruby|明治天皇|めいじてんのう}}が国民にあたえるという形で '''{{Ruby|大日本帝国憲法|だいにっぽんていこくけんぽう}}'''が{{ruby|発布|はっぷ}}されました。
 
<div style="border:1px solid #000000;">
 '''大日本帝国憲法'''の主な内容 (現代語{{Ruby|訳|やく}})
 
::第1条 大日本帝国は、永久に続く同じ{{Ruby|家系|かけい}}の{{Ruby|天皇|ほうりつ}}が治める。
::第3条 天皇は神のように{{Ruby|尊|とうと}}い。
::第5条 天皇は議会の協力で{{ruby|法律|ほうりつ}}をつくる。
::第11条 天皇が陸海軍を{{Ruby|統率|とうそつ}}する。
::第29条 国民は、法律の{{Ruby|範囲|はんい}}内で、{{Ruby|言論|げんろん}}・集会および結社の自由をもつ。
</div>
 
* 議会
憲法発布の{{Ruby|翌年|よくとし}}1890年には、国会での議員を選ぶための選挙が行われ、国会である '''{{Ruby|帝国|ていこく}}議会''' が開かれました。
 
帝国議会は '''{{Ruby|衆議院|しゅうぎいん}}''' と '''{{Ruby|貴族院|きぞくいん}}''' の2つの議院からなっていましたが、選挙で選ばれたのは 衆議院の議員のみでした。一方、貴族院の議員は、{{Ruby|皇族|こうぞく}}や{{Ruby|華族|かぞく}}などの有力者から天皇が任命していました。
 
1890年の衆議院議員選挙の選挙{{Ruby|権|けん}}は、税金を一定以上{{Ruby|納|おさ}}めた25才以上の男子にのみあたえられ、{{Ruby|有権者|ゆうけんしゃ}}は国民の約1.1%となっていました。
 
 
このようにして、日本は、アジアで初めて、憲法にもとづいて議会政治を行う近代国家となった。
 
== {{ruby|日清|にっしん}}戦争と{{Ruby|日露|にちろ}}戦争 ==
=== {{ruby|日清|にっしん}}戦争 ===
==== {{ruby|日清|にっしん}}戦争について ====
[[ファイル:Une partie de peche.jpg|250px|right|thumb|:日清戦争のころの{{Ruby|風刺|ふうし}}画「魚{{Ruby|釣|つ}}り遊び」」
:魚(={{ruby|朝鮮|ちょうせん}}を釣り上げようとする日本と中国(清)、横どりをたくらむロシア]]
1894年、{{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}半島で、朝鮮国内の{{Ruby|改革|かいかく}}をもとめる{{Ruby|内乱|ないらん}}が起きました。
 
中国({{Ruby|清|しん}})が、朝鮮国のもとめに応じて{{Ruby|援軍|えんぐん}}をおくると、日本もこれに{{Ruby|対抗|たいこう}}して、軍隊を送りました。
 
そして、日本軍と中国軍との戦争が起こりました。これを '''{{Ruby|日清|にっしん}}戦争''' といいます。
 
[[画像:Location-of-Liaodong-Peninsula.png|thumb|200px|リャオトン半島の位置]]
[[File:《马关条约》签字时的情景.jpg|thumb|right|300px|none|下関条約の調印の様子。 向かって左に着席するのが日本の伊藤全権、右が清国の李全権]]
1895年、日清戦争の講和条約として、次のことが決定されました。
 
:* 中国({{Ruby|清|しん}})は、{{ruby|朝鮮|ちょうせん}}の独立を{{Ruby|認|みと}}めること。
:* リャオトン({{Ruby|遼東|りょうとう}}半島を日本にゆずる。
:* {{Ruby|台湾|たいわん}}を日本にゆずる。
:* 中国は、{{Ruby|賠償|ばいしょう}}金として3億円をはらう。なお、これは当時の日本の財政{{Ruby|収入|しゅうにゅう}}の約3倍の金額であった。
 
 
朝鮮が独立国となったことにより、朝鮮が中国の属国でなくなったので、1897年に、朝鮮は国名を「{{Ruby|大韓帝国|だいかんていこく}}」と改めました。
 
<!-- 教育出版や日本文教出版『日本の歩み』などには「大韓帝国」の国名も書いてある。 -->
 
==== {{Ruby|三国干渉|さんごくかんしょう}} ====
ロシアは、日本の勢力が中国に{{Ruby|拡大|かくだい}}することで、ロシアに日本の勢力が近づくことをおそれました。
ロシアは、ドイツとフランスと組んで、日本にリャオトン半島を中国に{{Ruby|返還|へんかん}}するように要求しました。
 
この、ロシア・ドイツ・フランスによる、リャオトン半島を清国へと返還させる要求を {{ruby|三国干渉|さんごくかんしょう}} といいます。
 
<!-- ※ 光村図書の教科書で、傍注で、三国干渉について書いてあります。 -->
 
日本は、三国干渉の要求に{{ruby|従|したが}}い、中国ににリャオトン半島を返還しました。
 
=== {{Ruby|日露|にちろ}}戦争 ===
===== {{Ruby|日露|にちろ}}戦争 =====
* {{ruby|日英同盟|にちえいどうめい}}
({{Ruby|発展|はってん}}:)義和団の事件のあとも、ロシアは兵力をひかず、ロシア軍は満州にい続けました。
 
そして、ロシアは冬でも凍らない港が、軍事上の理由で必要だったため、{{ruby|朝鮮|ちょうせん}}半島や中国に勢力を{{Ruby|拡大|かくだい}}することを目指しました。
 
いっぽう、中国に{{Ruby|利権|りけん}}を持つイギリスにとっては、この{{Ruby|政策|せいさく}}が不都合でした。
 
さらに当時のロシアは、ロシア国内で東西に長いシベリア鉄道を建設していました。もしシベリア鉄道が完成すると、軍隊の兵士や軍事物資も、すばやく送れるようになるので、イギリスにとっては、ロシアはとても{{Ruby|危険|きけん}}な国でした。
 
そこでイギリスは、この政策に{{Ruby|対抗|たいこう}}するため、1902年に日本とイギリスとの間で '''{{Ruby|日英同盟|にちえいどうめい}}''' を結びました。
 
ロシアの勢力の拡大をおそれ、日本の政府は戦争を決意しました。一方、ロシアの政府も、大国であるロシアとすれば小国にすぎない日本をおそれる必要はないので、日本との戦争もかまわないという{{Ruby|強硬|きょうこう}}な{{Ruby|姿勢|しせい}}を強めていきました。
 
* {{ruby|日露|にちろ}}戦争
1904年、日本は{{ruby|日露|にちろ}}戦争の開戦にふみきりました。陸地での戦争では、日本は苦戦の末、ロシアに勝利しました。
 
[[ファイル:Tsushima battle map-ja.svg|thumb|300px|right|ロシア艦隊は日本海南西部で撃破された。]]
日本海海戦では、海軍の {{Ruby|東郷平八郎|とうごうへいはちろう}}率いる連合{{Ruby|艦隊|かんたい}}が、ロシアの艦隊をやぶりました。
 
しかし、日本は大きく戦力を{{Ruby|消耗|しょうもう}}しており、軍事費を使いきっていたため、戦争の続行が{{Ruby|難|むずか}}しくなりました。
 
いっぽうのロシアでも政府に反対する{{Ruby|革命|かくめい}}の動きが起き始め、ロシア政府も戦争の続行が難しくなりました。
 
そこで日本は{{Ruby|状況|じょうきょう}}が日本に有利なうちに講和をしようと考え、アメリカに仲立ちをしてもらって、アメリカのポーツマスで日本とロシアは講和条約をむすんだことで、日露戦争が終わりました。
 
;講和条約
[[ファイル:Jutaro Komura.jpg|thumb|200px|小村寿太郎]]
アメリカ大統領であるルーズベルト(ローズベルト)が仲立ちとなり、日本の代表は外務大臣の '''{{ruby|小村寿太郎|こむらじゅたろう}}''' で、ロシアの代表はヴィッテでした。
 
<!-- ※ 日本文教出版の教科書で、ルーズベルトやヴィッテの名前を紹介しています。 -->
 
1895年、日露戦争の講和条約として、次のことが決定されました。
 
:* 日本の朝鮮での{{Ruby|優越権|ゆうえつけん}}を{{Ruby|認|みと}}めること。
:* 日本に南満州の鉄道の{{Ruby|権利|けんり}}をゆずりわたすこと。
:* 日本は、ロシアから{{Ruby|樺太|からふと}}の南半分の領土をゆずり受けること。
:* 日本は、リャオトン半島の一部の権利を得ること。
 
日本は講和を急いだため、{{Ruby|賠償|ばいしょう}}金をとりませんでした。このことが国民の反発を{{Ruby|呼|よ}}び、{{Ruby|東京|とうきょう}}の{{Ruby|日比谷|ひびや}}では焼き{{Ruby|討|う}}ち事件が起きました。国民からすれば、戦争で多くの{{ruby|負担|ふたん}}をしたにもかかわらず、賠償金をとれないことを不満に感じたのであった。
 
日露戦争前、開戦を多くの国民が支持しましたが、開戦に反対する意見もありました。
 
[[ファイル:Akiko Yosano younger.jpg|thumb|200px|与謝野晶子(よさの あきこ)]]
歌人の {{Ruby|与謝野晶子|よさのあきこ}}は、「君死にた{{Ruby|まふ|(もう)}}ことなかれ」という、戦場にいる弟を思いやる詩を書きました。
 
<div style="border:1px solid #000000;">
:'''君死にた{{Ruby|まふ|(もう)}}ことなかれ'''
 
あ{{Ruby|ゝ|(あ)}} {{Ruby|を|お}}とうとよ 君を泣く
君 死にた{{Ruby|まふ|(もう)}}こと なかれ
末に 生まれし 君なれば
親の なさけは まさりしも
親は {{Ruby|刃|やいば}}を にぎらせて
人を殺せと {{Ruby|を|(お)}}しえしや
人を殺して 死ねよとて
二十四までを そだてしや
</div>
(以下省略)
 
与謝野晶子の詩は、当時の日本国民の多くから、反戦の気持ちを遠回しにうたった詩として受け止められました。
 
===== 条約改正 =====
{| class="wikitable" style="float:right"
|+ 条約改正への流れ
| 年 || おもなできごと
|-
| 1858 || 江戸幕府が不平等な条約を結んだ
|-
| 1868 || 明治時代が始まる
|-
| 1871 || 日本の使節団が{{Ruby|欧米|おうべい}}を{{ruby|視察|しさつ}}する<br />視察のさい、条約改正をうったえたが、取り下げられた
|-
| 1883 || {{Ruby|鹿鳴館|ろくめいかん}}を開き、{{ruby|舞踏会|ぶとうかい}}を行う
|-
| 1886 || ノルマントン号事件が起こる
|-
| 1889 || ({{ruby|大日本帝国憲法|だいにっぽんていこくけんぽう}}が{{ruby|発布|はっぷ}}される)
|-
| 1894 || {{Ruby|陸奥宗光|むつむねみつ}}によってイギリスとの間で{{ruby|領事裁判権|りょうじさいばんけん}}({{Ruby|治外法権|ちがいほうけん}}が{{ruby|撤廃|てっぱい}}される<br />{{ruby|日清|にっしん}}戦争が起こる(~1895)
|-
| 1904 || {{ruby|日露|にちろ}}戦争が起こる(~1905)
|-
| 1911 || {{ruby|小村寿太郎|こむらじゅたろう}}が{{Ruby|関税自主権|かんぜいじしゅけん}}の回復を達成する
|-
|}
 
{{-}}
 
 
{{コラム|{{Ruby|岩倉具視|いわくらともみ}}らの視察団|
[[画像:Iwakura mission.jpg|thumb|300px|使節団の人々<br>左から{{Ruby|木戸孝允|きどたかよし}}、{{ruby|山口尚芳|やまぐち なおよし}}、岩倉具視、{{Ruby|伊藤博文|いとうひろぶみ}}、{{Ruby|大久保利通|おおくぼとしみち}}]]
 
1871年には、{{ruby|欧米諸国|おうべいしょこく}}に{{Ruby|視察|しさつ}}のため送られた{{Ruby|岩倉具視|いわくらともみ}}らの視察団が条約を改正してほしいと{{Ruby|交渉|こうしょう}}したが、欧米は、日本が近代化されていないことなどを理由にして、条約の改正を断りました。
<!-- ※ 検定教科書では、傍注などで使節団について紹介されている。結局、使節団は条約改正には失敗するので、紹介の優先順位が低いのだろう -->
}}
 
{{-}}
{{コラム|{{Ruby|鹿鳴館|ろくめいかん}}|
[[File:Chikamatsu Kiken buto no ryakuke.jpg|thumb|400px|鹿鳴館における舞踏会を描いた絵]]
1883年には、東京に、洋風の建物である{{Ruby|鹿鳴館|ろくめいかん}}を建て、{{Ruby|欧米|おうべい}}}人もまねいて社交のための洋風のダンス・パーティーなどを日々開いたが、まったく条約改正は進まず、失敗しました。
<!-- ※ 日本文教出版の教科書に、章末コラムで、鹿鳴館のダンスパーティーの紹介あり。 -->
}}
 
{{-}}
* ノルマントン号事件
[[ファイル:Normanton Incident(1886).jpg|280px|thumb|ノルマントン号事件をえがいた絵。]]
 
1886年には、{{Ruby|和歌山|わかやま}}県の沖合いの海上で、イギリス船のノルマントン号が{{Ruby|沈没|ちんぼつ}}する事件が起きました。このとき、船長をはじめとしたイギリス人は、イギリス人の乗員だけをボートで助けて、日本人は助けませんでした。日本人の乗客は、全員{{Ruby|死亡|しぼう}}しました。
 
この事件の{{ruby|裁判|さいばん}}は、{{Ruby|領事裁判権|りょうじさいばんけん}}({{ruby|治外法権|ちがいほうけん}})にもとづき、イギリス人の領事によって日本国内で行われました。
 
船長は軽い罪に問われただけで、日本人の多くは、日本への差別的な判決だと感じました。
 
この一連の事件を '''ノルマントン号事件''' といいます。
<!-- ※ 日本文教出版と教育出版の教科書に、ノルマントン号事件の紹介あり。 -->
この事件をきっかけに、国民のあいだで、条約改正をのぞむ声が、大きくなりました。
 
{{-}}
* 関税自主権の回復
[[ファイル:Munemitsu Mutsu 2.jpg|thumb|150px|陸奥宗光]]
[[ファイル:Jutaro Komura.jpg|thumb|150px|小村寿太郎]]
 
{{ruby|日清|にっしん}}戦争の直前の1894年に、外務大臣の{{Ruby|陸奥宗光|むつむねみつ}}が、イギリスとのあいだで条約の一部改正に成功し、日本での{{Ruby|領事裁判権|りょうじさいばんけん}}({{ruby|治外法権|ちがいほうけん}})をなくすことに成功した。
 
そのあと、日清戦争で日本が勝利すると、ロシア・フランスなども領事裁判権(治外法権)をなくすことに同意しましたが、日本の関税自主{{Ruby|権|けん}}は{{Ruby|認|みと}}めませんでした。
 
そのあと、{{Ruby|日露|にちろ}}戦争で日本が勝利したことにより日本の国際的な地位が高まると、外務大臣の{{Ruby|小村寿太郎|こむらじゅたろう}}の各国との{{ruby|交渉|こうしょう}}により、1911年に日本の関税自主権は回復しました。
 
{{clear}}
===== 韓国併合 =====
日露戦争のあと、韓国では、日本の支配が強まりました。
 
そのころ、日本政府の中では、日露戦争後のこれからの{{Ruby|韓国|かんこく}}({{Ruby|大韓帝国|だいかんていこく}})との付き合い方をめぐって、日本の政府内では、いろいろな意見がありました。
 
{{Ruby|伊藤博文|いとうひろぶみ}}は、日本の財政{{Ruby|難|なん}}などを理由に、韓国を日本の一部にするのは、反対でした。
 
しかし、仕事で韓国を{{Ruby|訪問|ほうもん}}していた伊藤博文を、朝鮮の青年が、伊藤博文は朝鮮を侵略しようとしているにちがいないと考え、暗殺しました。
 
その後、日本政府内では、韓国を日本の領土にしようという意見が強まりました。
 
そして、1910年に、韓国は日本に{{Ruby|併合|へいごう}}されました。
 
併合後は、日本が韓国の政治のありかたを支配するようにしたため、韓国では、日本の支配への反発も高まり、1919年には韓国で日本の支配に反対する独立運動も起こりましたが、この独立運動は失敗しました。
 
=== 明治時代の{{ruby|経済|けいざい}}の変化 ===
イギリスなどから輸入した機械をもとに、{{Ruby|生糸|きいと}}などを生産しました。
 
原料の綿などは、{{ruby|併合|へいごう}}した{{Ruby|韓国|かんこく}}や、{{Ruby|獲得|かくとく}}した{{Ruby|満州|まんしゅう}}などから安い{{Ruby|値段|ねだん}}のものが輸入されたため、日本の農家は{{Ruby|打撃|だげき}}を受けました。
 
生糸や綿製品は、日本の輸出品になりました。
 
1901年、{{Ruby|日清|にっしん}}戦争の{{ruby|賠償|ばいしょう}}金をもとにして{{Ruby|福岡|ふくおか}}県の{{Ruby|北九州|きたきゅうしゅう}}で{{Ruby|八幡製鉄所|やはたせいてつじょ}}が{{Ruby|操業|そうぎょう}}されました。
 
農業では、小作人が増えました。
 
農村などで{{Ruby|収入|しゅうにゅう}}が少ない農民は、都市に出稼ぎに行くこともありましたが、せんい工場などで働く女性は、長時間労働で、安い{{Ruby|賃金|ちんぎん}}で、働かされました。しかし、日本の輸出品の生糸や綿製品などは、この女工などの、安い賃金の労働によって、ささえられていました。
 
 
 
=== {{Ruby|足尾銅山|あしおどうざん}}の{{Ruby|鉱毒|こうどく}}事件 ===
[[Image:Ashio Copper Mine circa 1895.JPG|thumb|250px|1895年頃の足尾銅山]]
{{Ruby|栃木|とちぎ}}県にある{{Ruby|足尾銅山|あしおどうざん}}では、{{Ruby|明治|めいじ}}時代ごろには、全国の約3分の1の銅を生産していました。
 
しかし、鉱石の{{Ruby|処理|しょり}}の安全{{Ruby|対策|たいさく}}が不十分なまま、工場からの{{Ruby|排水|はいすい}}中に有毒物質の「{{ruby|鉱毒|こうどく}}」が周辺の{{Ruby|渡良瀬川|わたらせがわ}}に流れこみ、川の魚が死に、農作物などはかれていきました。
 
作物だけでなく、目や{{Ruby|胃|い}}などの{{Ruby|内臓|ないぞう}}の病気にかかっていった人が増え、死者も出ました。
 
[[ファイル:Shozo Tanaka.jpg|thumb|200px|田中 正造]]
{{Ruby|衆議院|しゅうぎいん}}議員の {{Ruby|田中正造|たなかしょうぞう}}は、これらの原因は足尾銅山の鉱毒のせいであるとして議会でうったえましたが、政府は対策をとりませんでした。
 
田中正造は、{{Ruby|世論|せろん/よろん}}にうったえるため、議員を辞め、{{Ruby|天皇|てんのう}}に{{Ruby|直訴|じきそ}}しようとしましたが、天皇の近くで{{ruby|警官|けいかん}}に取りおさえられました。
 
しかし、直訴のことが新聞などに報道され、この足尾銅山の鉱毒事件が世間に広く知られました。
 
 
=== 明治の学問や文化の変化 ===
==== 医学 ====
[[ファイル:Kitasato Shibasaburo.jpg|thumb|130px|北里 柴三郎]]
;{{Ruby|北里柴三郎|きたざとしばさぶろう}}
 
{{Ruby|北里柴三郎|きたざとしばさぶろう}}は、ドイツに留学し、そこでドイツの医学者コッホといっしょに研究し、{{ruby|伝染|でんせん}}病である{{Ruby|破傷風|はしょうふう}}の{{Ruby|治療|ちりょう}}法を発見しました。そして北里の名前は世界に広まり、日本の医学も世界に{{Ruby|認|みと}}められていきました。
 
北里は帰国したあと、研究所をつくりました。この研究所から、{{Ruby|赤痢菌|せきりきん}}を発見した{{ruby|志賀潔|しがきよし}}や、へび毒などの研究で活やくした{{Ruby|野口英世|のぐちひでよ}}など多くの医学者が育ちました。
 
<gallery widths="100px" heights="130px">
ファイル:Kitasato Shibasaburo.jpg|北里柴三郎
ファイル:Kiyoshi Shiga.jpg|志賀潔
ファイル:Noguchi Hideyo.jpg|野口英世
</gallery>
 
 
[[ファイル:Noguchi Hideyo.jpg|thumb|130px|野口英世]]
;{{Ruby|野口英世|のぐちひでよ}}
野口は、北里の研究所で学んだのち、アメリカにわたり、ヘビ毒の研究で、大きな成果をあげました。その後、アフリカのガーナにわたり、{{Ruby|医療|いりょう}}活動および、{{Ruby|黄熱病|おうねつびょう}}などについて研究しましたが、野口自らが黄熱病に{{Ruby|感染|かんせん}}してしまい、1928({{ruby|昭和|しょうわ}}3)年に{{Ruby|亡|な}}くなりました。
 
[[File:Ghana (orthographic projection).svg|thumb|left|ガーナ]]
 
 
{{clear}}
==== 文学 ====
明治時代には、小説が流行し、{{Ruby|夏目漱石|なつめそうせき}}や{{Ruby|樋口一葉|ひぐちいちよう}}などの小説家が登場しました。
 
<gallery widths="130px" heights="160px">
ファイル:Natsume Soseki photo.jpg|夏目漱石
ファイル:Portrait-of-Ichiyo-Higuchi.png|樋口一葉
</gallery>
 
{{Ruby|夏目漱石|なつめそうせき}}は、小説家でした。もともとは教師として働いており、主に英語を教えていました。なので、彼の作品には、教師としての経験などをいかした作品もあります。漱石の作品としては、『{{Ruby|坊|ぼ}}っちゃん』『{{Ruby|吾輩|わがはい}}は{{Ruby|猫|ねこ}}である』などがあります。
 
{{clear}}
 
{{Ruby|樋口一葉|ひぐちいちよう}}は女性の小説家で、作品には『たけくらべ』、『にごりえ』などがあります。
 
{{clear}}
 
== {{Ruby|大正|たいしょう}}時代 ==
=== 第一次世界大戦 ===
1914(大正3)年、ヨーロッパで 第一次世界大戦 がおきました。
 
日本も、{{Ruby|日英同盟|にちえいどうめい}}を理由に、この戦いに参加して、イギリスを助けました。
 
この戦いでは、日本は、直接の{{ruby|被害|ひがい}}を受けませんでした。
 
この第一次世界大戦で、イギリスの{{Ruby|陣営|じんえい}} が勝利したので、日本も戦勝国のひとつとなりました。
 
また、この戦争の間、日本は好景気でした。
 
しかし、米をはじめとして物価があがり、{{Ruby|暮|く}}らしが苦しくなったため、{{ruby|米騒動|こめそうどう}}と{{Ruby|呼|よ}}ばれる騒動が、日本の各地で起きました。
 
しかし、戦争が終わると日本は不景気になりました。
 
その後、日本は好景気と不景気をくりかえしていきました。
 
なお、1922年、ロシアで革命が起き、 ソビエト社会主義共和国{{ruby|連邦|れんぽう}} が成立しました。なお、「ソビエト連邦」「ソ連」などと言われることもあります。
 
<!-- 日本文教出版の検定教科書では正式名称を紹介していますが、日常語などでは「ソビエト連邦」「ソ連」のほうが一般的であるため、両方とも併記しています -->
 
=== 平等な社会をめざす運動 ===
* 平塚らい{{Ruby|て|(ちょ)}}う・市川房江
[[ファイル:Raicho Hiratsuka.jpg|thumb|200px|平塚らいてう<br>らいてうは、{{Ruby|雑誌|ざっし}}において「もともと、女性は太陽であった。しかし今、女性は月である。ほかの光によって かがやく、病人のような青白い月である。{{ruby|私|わたし}}たちは、かくれてしまった私たちの太陽をさがさなければならない」と述べました。<br>]]
<!-- Wikibooksでは検定教科書と同じ「らいてう」を採用することとします -->
平塚らい{{Ruby|て|(ちょ)}}うは、女性の地位の向上や、女子の選挙{{Ruby|権|けん}}の{{Ruby|獲得|かくとく}}を目指す女性解放運動を主張しました。
 
平塚らいてうは{{Ruby|市川房江|いちかわふさえ}}と協力して、{{Ruby|新婦人協会|しんふじんきょうかい}} をつくりました。
 
* 全国水平社
1922年に、明治時代に身分上は平等となってからも差別をされつづけてきた{{Ruby|地域|ちいき}}の人たちが、差別をなくす運動をするために'''{{ruby|全国水平社|ぜんこくすいへいしゃ}}'''を結成しました。
 
なお、{{Ruby|山田孝野次郎|やまだこのじろう}}が{{Ruby|京都|きょうと}}で全国水平社を結成したことが、はじまりです。
 
 
* 選挙権
1925({{Ruby|大正|たいしょう}}14)年、選挙制度が改正され、25才以上のすべての男子が、{{Ruby|選挙|せんきょ}}権を手に入れました。
 
また、同じ1925年、政府は {{Ruby|治安維持法|ちあんいじほう}}を制定して、政治や社会のしくみの{{Ruby|改革|かいかく}}運動を取りしまりました。
 
 
=== 大正時代の{{Ruby|暮|く}}らし ===
大正時代の終わりまでには、{{ruby|東京|とうきょう}}や{{Ruby|大阪|おおさか}}など大都市では、バスやデパートなどが、日本に、すでに登場していました。
 
とくに、大きな駅のちかくに、デパートや劇場などが、ありました。
 
バスでは、女性がバスの乗務員(バスガール)として働いていました。
 
<!-- 光村図書や教育出版の教科書で、バスガールなどを習う -->
 
1925(大正14)年には、日本でラジオ放送が開始しました。
 
<!-- ※ 光村図書や教育出版の教科書で、ラジオ放送など習う -->
 
* {{Ruby|関東大震災|かんとうだいしんさい}}
1923年、関東地方で大きな{{Ruby|地震|じしん}}が発生し、死者・行方不明者は14万人以上にのぼりました。この地震を {{Ruby|関東大震災|かんとうだいしんさい}} といいます。
 
<!-- ※ 光村図書や日本文教出版や東京書籍の教科書で、関東大震災などを習う。 -->
 
なお、このとき、「{{ruby|朝鮮|ちょうせん}}人が{{Ruby|反乱|はんらん}}をくわだてている」といううわさが飛びかい、多くの{{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}人が殺害される事件が起きました。
 
 
{{clear}}
== 長く続いた戦争(昭和時代前半) ==
 
=== 満州事変 ===
[[File:Manchukuo map 1939.svg|thumb|600px|満州国の位置。Manchukuoが満州国。]]
中国大陸の東北部にある満州で、日本軍により1931年に{{ruby|満州国|まんしゅうこく}}が建国されました。
 
==== 満州事変 ====
日本の一部の軍人は、中国北部の満州に出張していた日本軍を{{Ruby|指揮|しき}}して、中国の満州を{{Ruby|占領|せんりょう}}しようとたくらみました。
 
そして日本軍は1931年に、満州を占領する口実をもうけようとして、自作自演の事件を起こしました。
 
日本軍は、この事件を中国側のしわざだと断定し、日本軍は、中国の都市を占領しました。
 
そして1932年に、日本軍は満州国の建国を{{Ruby|宣言|せんげん}}しました。
 
これを、 '''{{Ruby|満州事変|まんしゅうじへん}}''' といいます。
 
{{-}}
{| class="wikitable" style="float:right"
|+ 中国との戦争中のできごと
| 年 || おもなできごと
|-
| 1931 || {{Ruby|満州|まんしゅう}}事変が起きる
|-
| 1932 || 満州国が成立<br />同じ年に、日本で軍人たちが大臣らを殺害する事件(五・一五事件)が起きる
|-
| 1936 || 日本で軍人たちが大臣らを殺害する事件(二・二六事件)が起きる
|-
| 1937 || 日中戦争が始まる<br />日本軍はペキンやナンキンなどを{{Ruby|占領|せんりょう}}する
|-
|}
 
 
 
 
* {{ruby|五|ご}}・{{Ruby|一五|いちご}}事件
[[ファイル:May 15 Incident.jpg|thumb|500px|五・一五事件を報じる新聞]]
このころ、日本政府は{{Ruby|満州|まんしゅう}}の問題を、中国との話し合いで解決しようとしていました。しかし1932年の5月15日、日本軍の一部の軍人らが総理{{Ruby|官邸|かんてい}}に乱入して、総理たちを殺害する事件が起こりました。この一部の軍人が総理を殺害した殺人事件を '''{{ruby|五|ご}}・{{Ruby|一五|いちご}}事件''' といいます。
 
<!-- ※ 「五・一五事件」の名称は検定教科書の範囲内。日本文教出版の教科書に記載あり -->
 
:しかし、当時の{{Ruby|一般|いっぱん}}の人々は、ひどい不景気のため、政治家に絶望していたため、犯行におよんだ軍人を、一般の人々は支持しました。このような決定のせいで、のちに、軍人による、政治に圧力をくわえるための殺人事件が、ふえていくことになりました。
 
また、このため日本は、'''まるで軍人が政治を支配しているかのような状況になっていました。'''
 
* {{Ruby|二|に}}・{{Ruby|二六|にろく}}事件
1936年の2月26日にも、軍人が大臣たちを殺害する事件が起きました。この事件を'''{{Ruby|二|に}}・{{Ruby|二六|にろく}}事件'''といいます。
 
=== 日中戦争 ===
=== 日中戦争の開戦 ===
1933年、 {{ruby|日中|にっちゅう}}戦争 が始まりました。
 
=== 広がる戦場 ===
1939年にヨーロッパで、ドイツがポーランドにせめこんで、第二次世界大戦が始まりました。
 
ポーランドの西半分は{{Ruby|占領|せんりょう}}されてしまいましたが、イギリスとフランスが、ドイツを相手に戦いました。なお、このころソビエト連邦は、ポーランドの東半分を占領しました。なお1941年からソ連はドイツを相手に戦いましました。
 
このころ日本は、ドイツ・イタリアと{{Ruby|同盟|どうめい}}を結んでいました。
 
その後、ドイツ軍がフランスにせめこみ、フランス軍は敗北しました。ドイツ軍はフランスを占領しました。
 
フランスがドイツに{{Ruby|降伏|こうふく}}したので、ドイツの同盟国の日本は、東南アジアでフランスの植民地にされていたベトナムを占領しました。
 
日本にとっても、中国を支援しているフランスの拠点を占領でき、東南アジアの{{Ruby|資源|しげん}}も手に入るので、ベトナム占領には好都合な面もありました。
 
しかし、日本がベトナムを占領すると、アメリカは、日本に対して、(アメリカからの)石油や鉄の輸出を禁止しました。イギリスも、アメリカの動きと同じように、日本との貿易を制限しました。
 
これによって、日本とアメリカとの対立は、ますます深まりました。
 
[[ファイル:Second world war asia 1937-1942 map en6.png|thumb|300px|日本による占領{{Ruby|地域|ちいき}}の{{Ruby|拡大|かくだい}}(1937年から1942年)
:※英語で書かれた画像です。参考程度にしてください。]]
 
[[ファイル:USS West Virginia;014824.jpg|300px|thumb|真珠湾攻撃で燃え上がるアメリカ軍の軍艦'[[w:ウェストバージニア (戦艦)|ウェストバージニア]])。]]
 
その直後、日本はアメリカとの戦争をおそれ、アメリカとの戦争にならないように{{Ruby|交渉|こうしょう}}しますが、アメリカから満州事変よりも前の状態に日本の海外領土をもどすように要求されました。
 
日本は、アメリカの要求を飲まなかったので、日米の交渉はまとまりませんでした。
 
そして、石油がないと、兵器が動かせないので、日本が{{Ruby|危機|きき}}におちいることを恐れた日本政府は、1941年12月にハワイの{{Ruby|真珠湾|しんじゅわん}}にあるアメリカ軍基地を攻撃し、同じ時期に日本軍は東南アジアのイギリス領マレー半島も攻撃して、日本とアメリカ・イギリスとの戦争が始まりました。
 
こうして戦場は、中国だけでなく、東南アジアや太平洋にも広がっていきました。
 
なお、これらの周辺{{Ruby|地域|ちいき}}での戦争のことを、{{Ruby|太平洋|たいへいよう}}戦争といいます。なお、「アジア・太平洋戦争」ということもあります。
 
<!-- ※ 最近では「アジア・太平洋戦争」と呼ぶ提案もされているし、そういう検定教科書(日本文教出版)もある。しかし、「太平洋戦争」という表記も、ひきつづき光村図書などの検定教科書で使われている。 -->
 
日本軍は、太平洋戦争のはじめごろは、東南アジア各地をどんどんと{{Ruby|占領|せんりょう}}して、勢力を{{Ruby|拡大|かくだい}}していきました。
 
しかし、日本軍による東南アジアの占領地では、現地の住民を強制的に重労働させたりしたので、いくつかの地域では日本に対する反対運動も高まりました。
 
また、日本軍は物資の{{Ruby|補給|ほきゅう}}に苦労したので、占領した場所で、食料や{{Ruby|資源|しげん}}などを取り立てました。
 
初めのうちは勝利していた日本軍も、アメリカが体勢をたてなおして{{Ruby|反撃|はんげき}}に出てくると、日本軍は各地で負けはじめました。
 
また、日本軍は補給にますます苦労するようになり、戦うまえに{{Ruby|亡|な}}くなった日本兵も、東南アジアの各地で出てきました。
 
日本の新聞やラジオなどでは、日本が負けていることは、かくされていました。
 
=== 戦時中の{{Ruby|暮|く}}らし ===
==== {{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}や{{Ruby|台湾|たいわん}}などの人々 ====
また、日本国内で、{{Ruby|徴兵|ちょうへい}}のため、それまで日本で働いていた日本人の労働者が不足したので、{{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}半島や{{Ruby|台湾|たいわん}}から、朝鮮の人々を労働者として日本に連れてきて、日本の工場や鉱山などで{{ruby|厳|きび}}しい労働をさせました。
 
==== 日本の人々 ====
 
{| class="wikitable" style="float:right"
|+ 戦争中のできごと
| 年 || おもなできごと
|-
| 1938年<br>昭和13年 || 国家総動員法ができる<br> ガソリンの使用が制限される
|-
| 1939年 || (第二次世界大戦が始まる) <br> パーマネントが禁止される
|-
| 1940年 || {{Ruby|砂糖|さとう}}・塩・しょうゆ・マッチなどが配給制になる<br> 国民服が制定される
|-
| 1941年 || 米が配給制になる
|-
| 1942年 || 衣類が配給制になる
|-
| 1944年 || {{ruby|学童疎開|がくどうそかい}}が始まる
|-
|}
 
1938年、国民全員を戦争に総動員させるために {{Ruby|国家総動員法|こっかそうどういんほう}} が出されました。
 
戦争が長引き、日本では物資が不足したので、日本では米などの食料品や日用品などは 配給制 になりました。
 
鉄などの金属も、使用が制限されました。
 
このため、例えばアイロンは{{Ruby|陶器|とうき}}製になりました。また、ランドセルは、竹製になりました。
 
そして、配給される量もしだいに減っていき、生活はますます苦しくなっていきました。
 
日本では、「ほしがりません、勝つまでは」、「ぜいたくは{{Ruby|敵|てき}}だ」、「足らぬ足らぬは{{ruby|工夫|くふう}}が足らぬ」のような標語ができました。
 
 
<gallery>
Image:Luxury is our enemy.JPG|標語「ぜいたくは敵だ」
</gallery>
 
 
一定の年{{Ruby|齢|れい}}に達した男子は、{{Ruby|徴兵|ちょうへい}}されたり、工場などで働かされたりしました。
 
[[Image:Gakuto shutsujin.jpg|thumb|400px|学徒出陣(1943(昭和18)年)]]
男子大学生も、「{{Ruby|学徒出陣|がくとしゅつじん}}」といって、兵士にとられました。
 
女学生や女性も、工場や農場などで働きました。
 
中学生も、工場や農場などで働かされました。
 
 
小学校でも、{{ruby|軍事教練|ぐんじきょうれん}} が行われるようになりました。
 
 
[[Image:Kokumin-Fuku.JPG|thumb|250px|国民服。]]
衣類などが不足してきたことや、ぜいたくを取りしまる意味もあり、男子の{{Ruby|服装|ふくそう}}として国民服が定められるなど、服装に対する制限も{{Ruby|厳|きび}}しくなりました。
 
{{clear}}
=== 日本の敗戦へ ===
==== {{Lang|ja|{{ruby|空襲|くうしゅう}}と{{ruby|疎開|そかい}}}} ====
1943年ごろからアメリカ軍は、太平洋で日本の海軍をどんどんと{{ruby|倒|たお}}し、アメリカ軍は太平洋の島々を占領していきました。
そして、1944年から、アメリカ軍による{{Ruby|空襲|くうしゅう}}が{{Ruby|激|はげ}}しくなりました。
 
空襲では、とくに、{{Ruby|東京|とうきょう}}や{{Ruby|大阪|おおさか}}などの都市が{{Ruby|攻撃|こうげき}}の対象にされることが多かったので、都市に住んでいる子どもたちは、親元からはなれて地方へと移り住む、{{Ruby|集団疎開|しゅうだんそかい}}を させられました。なお、「学童疎開」ということもあります。
 
[[File:After Bombing of Tokyo on March 1945 19450310.jpg|thumb|400px|東京大空襲で焼け野原となった東京。]]
そして1945年3月10日に起こった '''{{Ruby|東京大空襲|とうきょうだいくうしゅう}}''' では、数万人もの人が {{Ruby|亡|な}}くなりました。
 
その後も、全国各地で空襲は行われ、日本全国で約20~30万人が空襲で亡くなりました。
 
{{-}}
==== {{ruby|沖縄|おきなわ}} ====
1945年4月には、アメリカ軍が{{ruby|沖縄|おきなわ}}島に上陸し、3か月ちかくもの地上戦になり、住民も{{Ruby|巻|ま}}きこまれ、多くの人が {{Ruby|亡|な}}くなりました。
 
沖縄の男子学生は、中学生でも、日本軍として、いっしょに戦いました。
 
女子学生は、{{Ruby|看護|かんご}}師として、{{ruby|負傷|ふしょう}}兵の{{Ruby|看護|かんご}}などの仕事に当たりました。
 
この沖縄での戦闘により、沖縄県民の10万人ちかくが、なくなりました。なお、それまでの沖縄県民の人口は約60万人です。
 
[[File:Himeyuri Students.jpg|200px|thumb|看護部隊「ひめゆり部隊」]]
[[File:Himeyuri Monument-2.jpg|200px|thumb|ひめゆり部隊の{{Ruby|慰霊碑|いれいひ}}(ひめゆりの{{ruby|塔|とう}})]]
 
そして、沖縄はアメリカ軍によって{{Ruby|占領|せんりょう}}されました。
 
{{clear}}
==== {{Ruby|原爆|げんばく}}投下と日本の敗戦 ====
[[ファイル:Nagasakibomb.jpg|thumb|left|170px|長崎に投下された原子爆弾の「キノコ雲」<br/>1945年8月9日]]
[[ファイル:AtomicEffects-Hiroshima.jpg|thumb|420px|原爆投下後の広島のようす。]]
 
 
そして1945年7月、連合国は、日本に降伏するように{{Ruby|宣言|せんげん}}を出しました。
 
しかし、日本は、降伏の決断をできず、そのまま戦争を続けました。
 
すると、1945年の8月6日に、アメリカが、{{Ruby|広島|ひろしま}}に{{Ruby|原子爆弾|げんしばくだん}}(原爆)を投下しました。広島の街は{{Ruby|一瞬|いっしゅん}}で焼きつくされて{{Ruby|破壊|はかい}}され、広島では10万人以上が{{Ruby|亡|な}}くなりました。また8月9日には長崎にも原子爆弾が投下され、8万人ほどが亡くなりました。
 
{{clear}}
8月8日、ソビエトは条約をやぶって{{Ruby|満州|まんしゅう}}や{{Ruby|樺太|からふと}}にせめこみました。
 
こうした中、日本は{{Ruby|降伏|こうふく}}の決断をし、アメリカ・イギリス・ソビエトの代表が決めた日本の降伏の条件であるポツダム{{Ruby|宣言|せんげん}}を受け入れ、1945年の8月14日に降伏しました。
 
そして'''1945年8月15日'''には、{{ruby|昭和天皇|しょうわてんのう}}がラジオ放送で国民に日本の降伏(終戦)を発表しました。
 
こうして日中戦争や太平洋戦争をふくむ第二次世界大戦は、終わりました。
 
[[File:Imperial Rescript on the Termination of the War.ogg|thumb|終戦を知らせるラジオ放送({{ruby|玉音|ぎょくおん}}放送)の{{Ruby|音源|おんげん}}]]
 
* {{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}や{{ruby|台湾|たいわん}}
日本の敗戦により、{{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}や{{ruby|台湾|たいわん}}の人々は、日本の支配から解放されたので、喜んだと言われています。
 
==== 戦争が終わっても… ====
* 各国の第2次世界大戦での{{Ruby|犠牲者|ぎせいしゃ}}数
 
: 中国 - 約1000万人
: {{ruby|朝鮮|ちょうせん}} - 約20万人
: ソビエト{{Ruby|連邦|れんぽう}} - 約2000万人
: 日本 - 約310万人、そのうち軍人が約230万人、民間人が約80万人
 
第2次世界大戦の全体の死者は約6000万人にのぼると言われています。
 
* {{Ruby|満州国|まんしゅうこく}}の{{Ruby|消滅|しょうめつ}}
 
{{Ruby|満州|まんしゅう}}は、いったんソビエト{{Ruby|連邦|れんぽう}}軍の{{Ruby|占領|せんりょう}}下に入り、そのあと中国にわたされ、国家としての「満州国」は、{{Ruby|消滅|しょうめつ}}しました。満州の地に取り残された日本人は、戦争がおわっても、日本にもどれなかった人もいました(中国残留)。
 
* シベリア{{ruby|抑留|よくりゅう}}問題
ソビエト連邦の占領地では、シベリアに連れていかれた日本人もいました。
{{clear}}
 
* 原子{{Ruby|爆弾|ばくだん}}の{{ruby|後遺症|こういしょう}}
{{Ruby|広島|ひろしま}}や{{ruby|長崎|ながさき}}では、なんとか原子{{Ruby|爆弾|ばくだん}}投下を生きのびても原子爆弾の{{Ruby|放射線|ほうしゃせん}}による{{Ruby|被害|ひがい}}によって、後遺症に苦しむ人がでました。
 
原子爆弾の{{ruby|後遺症|こういしょう}}による死者も、多数出ました。
 
== 戦後の日本 ==
=== アメリカ統治下の日本 ===
==== あたらしい国づくり ====
1945年8月に日本が{{Ruby|降伏|こうふく}}し、日本は、アメリカ軍を中心とした連合国軍に統治されました。
 
そして連合国軍は、日本政府に民主化のための指令を出し、日本政府は民主化のための{{Ruby|改革|かいかく}}を次々と実行していきました。
 
また、日本軍は解散させられました。
 
1945年の終戦によって{{Ruby|憲法|けんぽう}}を改正することが決まったのですが、内容を考えるのに時間がかかり、すぐには作れませんでした。
 
また、農業の改革では、それまで大きな農地をもっていて人を{{Ruby|雇|やと}}っていた地主からは、政府はいったん農地をとりあげ、それらを実際にその農地を耕していた人たちに安い{{Ruby|値段|ねだん}]であたえました(農地改革)。
 
また、1945年の選挙制度の改革では、女性にも選挙{{Ruby|権|けん}}があたえられました。また、選挙に投票できる年{{Ruby|齢|れい}}が男女とも20才以上になりました。なお、現在は2015年の改正により男女とも18才以上となっています。
 
1946年4月に、{{Ruby|衆議院|しゅうぎいん}}選挙が行われ、女性も選挙に投票と{{Ruby|立候補|りっこうほ}}ができるようになりました。そして、数十人ほどの女性議員が当選しました。
 
そして1946({{ruby|昭和|しょうわ}}21年11月3日には '''{{Ruby|日本国憲法|にほんこくけんぽう}}''' が制定され、1947年の5月3日に{{ruby|公布|こうふ}}された。日本国憲法では、これまで制限されていた{{Ruby|言論|げんろん}}の自由が{{Ruby|保障|ほしょう}}され、また、男女平等が原則になりました。
 
=== 戦後の{{Ruby|暮|く}}らし ===
* 買い物
当時、食料は国から配給されていましたが、量が足りず、ほとんどの人は、食べものに{{Ruby|困|こま}}っていたので、都市の人は、鉄道にのって、遠くの農家などに、食べ物を買いにいきました。
 
また、違法な「やみ{{Ruby|市|いち}}」と{{Ruby|呼|よ}}ばれるふつうの{{Ruby|価格|かかく}}の数十倍もの{{Ruby|値段|ねだん}}で食料や日用品などを売る{{Ruby|市|いち}}が開かれましたが、それでも買う人がたくさんいました。
 
焼けあとなどの野原で、野菜をつくる人などもいました。
 
* 海外からの引き上げ
日本兵として外国に行っていた人や、戦時中に仕事などとして外国に行っていた人たちが、しだいに日本に引き上げてきました。
 
=== 日本国{{ruby|憲法|けんぽう}} ===
[[File:あたらしい憲法の話 三原則.png|thumb|当時の社会科教科書『あたらしい憲法のはなし』での日本国憲法の3原則を表したさし絵。]]
[[File:あたらしい憲法のはなし 戦争放棄.png|thumb|当時の社会科教科書『あたらしい憲法のはなし』での平和主義(戦争放棄)の原則を表したさし絵。]]
 
1946年11月3日に公布された新しい{{Ruby|憲法|けんぽう}}である'''日本国憲法'''では、
 
:{{ruby|主権者|しゅけんしゃ}}は国民であること ('''国民主権''')、
:軍隊をもたず永久に戦争をしないこと ('''平和主義・戦争{{Ruby|放棄|ほうき}}''')、
:すべての日本国民は人間としての基本的な{{Ruby|権利|けんり}}をもっている ('''基本的{{Ruby|人権|じんけん}}の{{Ruby|尊重|そんちょう}}''')、 
 
という3つの原則が決められました。
 
なお、{{Ruby|天皇|てんのう}}は日本の{{Ruby|象徴|しょうちょう}}とされました。
 
{{コラム|警察予備隊|1950年、日本では、軍隊の代わりに {{Ruby|警察予備隊|けいさつよびたい}} がつくられました。これが、のちの自衛隊のもとになります。}}
 
=== 戦後の学校 ===
* 青空教室
{{Ruby|空襲|くうしゅう}}などで、学校の校舎が焼けてしまったので、終戦後には、授業を校庭などで行うことが多くなりました。このような、戦後の屋外での授業のことを '''青空教室''' といいます。
 
学校での教育内容も、平和や民主主義を大切にする内容にされました。しかし、教科書をあたらしく作るのが間に合わなかったので、戦前の教科書のうちの軍国的な記述をすみで黒くぬりつぶした教科書をしばらく使いました(「すみぬり教科書」)。
 
学校での教育期間の制度が、小学校6年間、中学校3年間、高校3年間など現在に近い制度になりました。戦後の義務教育は、小学校6年間と中学校3年間の合計9年間です。
 
また、それまで学校では男女別々の教室で学んでいましたが、戦後は、男女とも同じ教室で学ぶようになりました。
 
そして、学校給食の制度が始まりました。
 
{{-}}
 
=== 戦後の国際社会 ===
第二次世界大戦後、戦前まで国際社会の平和をめざすための話し合いの場所であった{{Ruby|国際連盟|こくさいれんめい}}が、戦後は、戦時中の連合国を中心とする '''{{Ruby|国際連合|こくさいれんごう}}'''(国連) として作りかえられました。
 
第二次世界大戦後、植民地とされていたアジアやアフリカで、多くの国が独立しました。
 
第二次世界大戦後は、国際社会のありかた などをめぐって、ソビエト{{Ruby|連邦|れんぽう}}とアメリカが{{Ruby|激|はげ}}しく対立しました。
 
そして世界各国は、アメリカを中心とする{{Ruby|陣営|じんえい}}と、ソ連を中心とする{{ruby|陣営|じんえい}}とに、わかれました。
 
第二次世界大戦後、日本の支配から独立していた{{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}では、朝鮮半島の南北で、北はソビエト連邦が{{ruby|占領|せんりょう}}し、南はアメリカが占領しました。
 
朝鮮半島の北には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)がつくられ、南には{{Ruby|大韓民国|だいかんみんこく}}(韓国)がつくられ、2つの国家に分かれました。
 
そして朝鮮半島では1950年に、北朝鮮と韓国との間で、'''朝鮮戦争''' が起きました。
 
この戦争のとき、アメリカ軍を主力とする国連軍が、韓国を{{Ruby|援助|えんじょ}}し、ソ連は、北朝鮮を援助しました。この戦争は現在まで続いていますが、現在は休戦中です。
 
 
[[ファイル:Yoshida signs San Francisco Peace Treaty.jpg|thumb|300px|サンフランシスコ平和条約での調印]]
 
 
{{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}戦争によるアメリカの苦戦によって、アメリカは日本を西側の{{Ruby|陣営|じんえい}}に加えようと考えました。そのためアメリカは、日本にあるアメリカ軍基地の{{Ruby|存続|そんぞく}}を条件として、日本の独立を早めようとしました。
 
いっぽう、1951(昭和26)年、国際社会では、日本の国際社会への復帰についての講和会議が、アメリカのサンフランシスコで開かれました。日本は、アメリカ・イギリスなどの48か国と平和条約を結びました。これを '''サンフランシスコ平和条約''' といいます。
 
 
<div style="border:1px solid #000000;">
; 平和条約の主な内容
 
:* 日本は、{{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}の独立を{{Ruby|認|みと}}める。
:* {{Ruby|台湾|たいわん}}、{{Ruby|千島|ちしま}}列島、{{Ruby|樺太|からふと}}の南半分を{{Ruby|放棄|ほうき}}する。
:* {{Ruby|沖縄|おきなわ}}、{{Ruby|奄美諸島|あまみしょとう}}、{{Ruby|小笠原諸島|おがさわらしょとう}}については、アメリカが治めることに同意する。 ※現在はアメリカの統治は{{Ruby|終了|しゅうりょう}}しています。
 
 
</div>
 
また、サンフランシスコでの平和条約といっしょに、日本とアメリカとのあいだで、日本国内のアメリカ軍基地に、引き続きアメリカ軍がとどまるための条約である {{Ruby|日米安全保障条約|にちべいあんぜんほしょうじょうやく}} が結ばれました。なお、略して「{{Ruby|安保|あんぽ}}」などということもあります。
 
 
なお、{{ruby|朝鮮|ちょうせん}}戦争のころ、{{Ruby|経済|けいざい}}的には、日本はアメリカ軍から大量の物資の注文をうけたので、日本は好景気になり、日本の産業が復活するきっかけになった。
 
 
そして1952年には、日本は独立し、{{Ruby|主権|しゅけん}}を回復しました。
 
しかし{{Ruby|沖縄|おきなわ}}は, 1972年まで, ひきつづきアメリカの統治下におかれることになりました。
 
* 国際連合への日本の{{Ruby|加盟|かめい}}
日本は、独立後も、ソビエト{{Ruby|連邦|れんぽう}}が{{Ruby|加盟|かめい}}に反対していたため、しばらくは国際連合に加盟できませんでした。
 
しかし,1956年に、日本とソビエト連邦との国交が回復したこともあり、ソビエト連邦も日本の国連加盟に反対をしなくなり、1956年に日本は国際連合の加入を{{Ruby|認|みと}}められました。
 
=== 戦後の{{Ruby|発展|はってん}} ===
第二次世界大戦のあと、日本の産業は、工業を中心に成長していき、「もはや戦後ではない」ともいわれました。
 
日本経済は復興していき、工業は戦前の水準にまで、もどりました。
 
1950年代のなかごろから日本では、鉄鋼や自動車などの重化学工業が発達していきました。
 
また、主なエネルギー{{Ruby|源|げん}}が石炭から石油に変わりました。
 
その他、プラスチック製品などの石油化学製品もつくられるようになっていったため、石油化学工場も増えていきました。
また、1950年代には「三種の神器」と{{Ruby|呼|よ}}ばれた 白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫などが{{Ruby|普及|ふきゅう}}していきました。
 
1960年代には、「3C」と呼ばれるクーラー・カラーテレビ・カラーテレビなどが普及していきました。
 
この1950年代ごろから1970年代ごろまでの{{Ruby|経済|けいざい}}成長を 高度経済成長 といいます。
 
{{clear}}
[[ファイル:BillyMills Crossing Finish Line 1964Olympics.jpg|thumb|250px|東京オリンピック。10,000m走で{{Ruby|優勝|ゆうしょう}}したアメリカの選手]]
* 東京オリンピックと万国博覧会
アジアで最初のオリンピックが、1964年に東京で開かれました。
 
この東京オリンピックのころ、{{Ruby|東海道|とうかいどう}}新幹線が開通しました。
 
* 農村から都市への移住
 
地方の農村で生まれ育った{{Ruby|若者|わかもの}}が、仕事などを求めて、都市部に移住するようになりました。
 
地方からやってきた若者は、おもに都会の工場などで働くことが、多くなっていました。
 
当時は、中学校や高校を卒業したら、すぐに{{Ruby|就職|しゅうしょく}}して働くのがふつうでした。
 
やがて、{{Ruby|東京|とうきょう}}や{{Ruby|大阪|おおさか}}の都市部は、人が多すぎて住む場所が足りなくなり、その周辺の地域へも、農村から来た人たちが移住するようになりました。
 
 
* 公害や自然破壊
いっぽう、この1950~1960年代のころから、日本では、公害が目立ってきまそた。
 
都市部を中心として、大気や水がよごれ、{{Ruby|被害|ひがい}}をうけた人もでてきました。
 
また、各地で、自然{{Ruby|破壊|はかい}}も行われました。
 
このため、{{Ruby|環境|かんきょう}}の{{ruby|改善|かいぜん}}や自然保護などを求める運動が、起こりました。
 
{{clear}}
=== 日本の外交 ===
* {{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}半島
日本は{{Ruby|韓国|かんこく}}と、1965年に国交を回復しました。しかし、韓国は{{Ruby|島根|しまね}}県にある{{Ruby|竹島|たけしま}}を不法に{{Ruby|占拠|せんきょ}}しています。
 
{{Ruby|北朝鮮|きたちょうせん}}とは、2002年に日本と北朝鮮の{{Ruby|首脳|しゅのう}}どうしで会議(日朝首脳会談)をしましたが、国交回復はしていません。
 
なお、この会議で、北朝鮮の首脳は、北朝鮮が日本人を{{ruby|拉致|らち}}(むりやり連れていくこと)したことを公式に{{Ruby|認|みと}}めました。
 
* アメリカ
1972年に{{ruby|沖縄|おきなわ}}はアメリカから日本に{{Ruby|返還|へんかん}}されました。そして沖縄は、日本の領土になりました。沖縄には今も、アメリカ軍の基地があります。
 
 
* ロシア(ソビエト{{Ruby|連邦|れんぽう}})
ロシアとは、1956年に国交を回復しました。しかし、ロシアは{{Ruby|択捉|えとろふ}}島, {{Ruby|国後|くなしり}}島, {{Ruby|色丹|しこたん}}島, {{ruby|歯舞|はぼまい}}群島からなる北方領土を不法に占拠しています。
 
 
* 中国
1972年に、日本と中国との国交が正常化しました。1978年には、日中平和友好条約を結びました。しかし、韓国は1954年から{{Ruby|沖縄|おきなわ}}県にある{{Ruby|尖閣諸島|せんかくしょとう}}を不法に占拠しています。
 
 
== おわりに ==
日本は戦後に{{Ruby|奇跡的|きせきてき}}な復興をとげ、非常に平和で豊かな国となりました。
 
しかし、日本や世界には{{Ruby|環境|かんきょう}}問題、{{Ruby|人権|じんけん}}問題などまだまだ課題が山積みになっています。
 
そのために、日本や世界はこのような課題の解決を目指さなければなりません、
 
さて、日本や世界の歴史は中学校や高校でまだまだくわしく学びますが、小学校でならう歴史はここまでです。
 
歴史は、昔のことを覚えるだけではなく、それを通して現代について考えるものでもあります。
 
{{Ruby|下巻|げかん}}を読んで、日本の政治のしくみや世界とのかかわりについて学びましょう(下巻は[[小学校社会/6学年/下巻|こちら]]です)。