「小学校社会/6学年/歴史編/下巻」の版間の差分

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{{Pathnav|メインページ|小学校・中学校・高等学校の学習|小学校の学習|小学校社会|小学校社会/6学年|小学校社会/6学年/歴史編|小学校社会/6学年/歴史編/上巻|frame=1}}<!-- 当ページを編集される方は、学習指導要領解説社会編や検定教科書を参考に編集してください。また、小学生向けであることに留意してください。 -->
 
このページ'''{{PAGENAME}}'''では、日本の歴史について、{{Ruby|江戸|えど}}時代{{Ruby|以降|いこう}}を学びます。なお、{{Ruby|安土桃山|あづちももやま}}時代までを学ぶについての{{ruby|上巻|じょうかん}}は[[小学校社会/6学年/歴史編/上巻|こちら]]です。
 
== {{Ruby|江戸|えど}}時代 ==
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{{ruby|江戸|えど}}時代のはじめごろ、{{Ruby|江戸幕府|えどばくふ}}は、日本全国に200人ほどいた{{Ruby|大名|だいみょう}}を、徳川家の親類である{{Ruby|親藩|しんぱん}}・古くから徳川家に{{Ruby|従|したが}}っていた{{Ruby|譜代|ふだい}}・関ヶ原の戦いのころから従った{{Ruby|外様|とざま}}の3つにわけました。
 
<!-- ※「親藩」・「譜代」・「外様」は、小学校の範囲です。光村図書や日本文教出版の教科書などで、普通に書いてあります。 -->
 
なお、江戸時代に大名の支配する領地のことを '''{{Ruby|藩|はん}}''' といいます。
 
また、それぞれの大名を、幕府に都合のいい{{ruby|地域|ちいき}}に配置しました。のため、戦国時代のころとは別の地域へと領地が変わることになった大名もいます。
 
 
親藩や譜代は、重要な地域や江戸の近くなどに配置されました。
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* {{Ruby|武家諸法度|ぶけしょはっと}}
1615年, 江戸幕府の2代{{Ruby|将軍|しょうぐん}}である{{ruby|徳川秀忠|とくがわひでただ}}によって, 大名を取りしまるための{{ruby|法律|ほうりつ}}が作られました。これを '''{{ruby|武家諸法度|ぶけしょはっと}}''' といいます。この法度に{{ruby|違反|いはん}}すると、領地の{{ruby|没収|ぼっしゅう}}・領地の{{Ruby|変更|へんこう}}などの{{Ruby|厳|きび}}しい{{Ruby|処分|しょぶん}}がされました。
 
{{ruby|以降|いこう}}、将軍がるごとに修正されました。
 
<div style="border:1px solid #000000;">
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また、大名の妻子は、江戸に{{Ruby|人質|ひとじち}}として住まわせられました。
 
参勤交代に必要な費用は、それぞれの{{Ruby|藩|はん}}の{{Ruby|負担|ふたん}}となった。
 
大勢の家来を江戸と領地に往復させるので、大名に多くの費用がかかり、大名の{{Ruby|経済|けいざい}}力を弱められました。
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参勤交代によって、道路や{{Ruby|宿場町|しゅくばまち}}も整備されていきました。
 
{{コラム|{{ruby|関所|せきしょ}}|
* {{Ruby|関所|せきしょ}}
[[画像:Ishibe shukubanosato02s3200.jpg|thumb|280px|関所の様式の門。観光テーマパークでの復元。]]
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{{ruby|江戸|えど}}時代、{{Ruby|北海道|ほっかいどう}}は「えぞ」とよばれており、アイヌ民族と{{Ruby|呼|よ}}ばれる民族も住んでいました。
 
アイヌは、現在の北海道の南部にある {{Ruby|松前藩|まつまえはん}}と貿易をさせられており、アイヌのサケやコンブを、わずかな米などと{{Ruby|交換|こうかん}}ていといいます
 
アイヌの人が持ってくるサケやコンブを、わずかな米などと{{Ruby|交換|こうかん}}していたといいます。
 
このような不公平な貿易におこったアイヌの人たちが、17世紀の中ごろ、'''シャクシャイン'''という人物を中心に{{Ruby|反乱|はんらん}}を起こしました。
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江戸時代、いまの{{Ruby|沖縄|おきなわ}}県は「{{Ruby|琉球|りゅうきゅう}}」という王国でした。
 
江戸時代の初めごろ、琉球王国は{{ruby|薩摩藩|さつまはん}}(現在の{{Ruby|鹿児島|かごしま}}県の西部)によって支配されていました。そして、薩摩藩によって、琉球は{{Ruby|年貢|ねんぐ}}を取られるようになりました。
 
薩摩藩は、以前から琉球が行っていた中国との貿易を続けさせ、その貿易の利益を薩摩藩が手に入れました。
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=== 身分による支配 ===
{{Ruby|豊臣秀吉江戸|とよとみひでよしえど}}時代より前に、{{Ruby|刀狩|かたながり}}などによって農民や武士とのあいだの身分の区別が決まっていきました。{{Ruby|江戸幕府|えどばくふ}}も、身分の区別を受けつぎました。
 
武士は、城のまわりに住んで、役人として仕事をすることがふつうでした。
 
江戸時代は、武士の身分が最も高くなっていました。武士がおり他の身分の続いて農民・職人・商を支配しとなっていました。
武士には、刀を持ち歩いてもよい、名字を名乗ってもよい、などの{{Ruby|特権|とっけん}}がありました。
 
江戸時代は、武士の身分が最も高くなっていました。武士が、他の身分の人を支配していました。
 
[[File:江戸時代の人口割合.svg|thumb|400px|江戸時代の身分別の人口{{Ruby|割合|わりあい}}。<br>なお、「{{Ruby|公家|くげ}}」とは、朝廷の関係者のこと。]]
 
農民の身分が2番目に高いとされました。
 
江戸時代、農民は毎年米などの{{Ruby|年貢|ねんぐ}}を取られていました。
 
なお、農地で働いている農民のねんぐは、ふつうは米でした。
 
また、漁民などは、海産物を、ねんぐのようなものとして、{{Ruby|納|おさ}}める場合もありました。
 
農民や漁民をまとめて、{{Ruby|百姓|ひゃくしょう}}といいます。
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このような、職人や商人のことを、'''町民'''といいます。
 
町民は、ねんぐ年貢のかわりに、町づくりのための費用などを{{Ruby||おさ}}める必要がありました。
 
 
これとはべつに、条件のわるい土地にすまわされたり、祭りへの参加を禁じられるなど、差別をされた人々がいました。このような人々を 「えた」「ひにん」 といいます。
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また、女性の地位は、男性よりも低いとされていました。
 
==== 農民へのおふれ書き ====
* 農民への おふれ書き
農民のくらしは、ぜいたくをしないように、{{Ruby|厳|きび}}しく管理されました。
 
次のように農民の生活のきまりが、幕府によって定められました。
 
<div style="border:1px solid #000000;">
 '''農民への おふれ書き'''
:一. 朝は早起きをして草をかり、昼には田畑の耕作をして、夜には{{Ruby||なわ}}をつくって{{ruby|俵|たわら}}を編むなど、それぞれの仕事をしっかりと行うこと。
:一. 幕府の法令をおこたったり、地頭や代官のことをそまつに考えず、また名主(村長)や組頭のことは真の親のように思って{{Ruby|尊敬|そんけい}}すること。
:一. 酒や茶を飲まないこと。
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=== 産業 ===
==== 農業 ====
{{Ruby|幕府|ばくふ}}や{{Ruby|藩|はん}}は、{{Ruby|新田|しんでん}}の開発に力を入れました。その結果、開こんが進み、田畑の耕地面積は大きく広がりました。
 
幕府や藩の財政は農民からのねんぐにたよっており、財政をゆたかにするために農業を発達させる必要がありました。
その結果、開こんが進み、{{Ruby|江戸|えど}}時代の中ごろには、日本全国の田畑の耕地面積は、{{Ruby|豊臣秀吉|とよとみひでよし}}のころと比べて、ほぼ2倍に広がりました。
 
{{Ruby|江戸|えど}}時代は{{ruby|貨幣|かへい}}が全国的に流通していたので、武士はねんぐの米を売って貨幣に現金化していました。
幕府や藩の財政は農民からのねんぐにたよっており、財政をゆたかにするために農業を発達させる必要がありました。
 
江戸時代は{{ruby|貨幣|かへい}}が全国的に流通していたので、武士はねんぐの米を売って貨幣に現金化していました。
 
ねんぐの米は江戸や{{Ruby|大阪|おおさか}}にある {{Ruby|蔵屋敷|くらやしき}} に運ばれ、商人によって売りさばかれ現金化されました。<!-- ※ 教育出版の教科書で、「蔵屋敷」を紹介 -->
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全国各地の海産物や、各地の特産物も、ほとんどは大阪にあつめられました。
 
そして、大阪から、あつめられた産物が全国各地に売り飛ばされました。
 
 
[[Image:Japanese-hoe-biccyukuwa,katori-city,japan.JPG|thumb|180px|備中ぐわ]]
[[File:Japanese old threshing machine,Senba-koki,Katori-city,Japan.JPG|thumb|left|220px|千歯こき]]
 
* {{Ruby|発展|はってん}}:農具の発達
{{ruby|備中|びっちゅう}}ぐわ・{{Ruby|千歯|せんば}}こき・{{ruby|千石|せんごく}}どおしなどが開発されました。
 
:{{ruby|備中|びっちゅう}}ぐわ…耕すための農具で、深く耕せる。
 
:{{Ruby|千歯|せんば}}こき…{{ruby|稲|いね}}の{{Ruby|穂|ほ}}から米つぶを{{ruby|脱穀|だっこく}}するための道具。くし状の部分が鉄製で、何本もの、くし状の「こき」があるので、一度に多くの穂を脱穀できる。
 
:{{ruby|千石|せんごく}}どおし、とおみ…もみをふるい分ける。
 
* 肥料
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「ほしか」と{{Ruby|呼|よ}}ばれる、イワシを{{Ruby|乾燥|かんそう}}させて固めた肥料が使われていました。<!-- ※ 日本文教出版の教科書で「ほしか」の名前を紹介。-->
 
 
 
* 商品作物
<!-- ※ 教育出版や日本文教出版「日本の歩み」の教科書で紹介。 -->
 
農民が、売ることを目的に、綿・なたね・茶・{{Ruby|麻|あさ}}・あい、などの商品作物が作られるようになりました。 農村でも{{ruby|貨幣|かへい}}が使われるようになっていきました。
 
* その他
({{Ruby|発展|はってん}}) 江戸時代の中ごろから、さつまいも、じゃがいも、かぼちゃ・とうもろこしなど、外国から伝わった作物もつくられるようになりました。
 
=== 教育・学問 ===
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江戸時代のなかばごろから、{{Ruby|国学|こくがく}}と{{Ruby|呼|よ}}ばれる、{{ruby|儒教|じゅぎょう}}や仏教の考えにとらわれない立場で、日本古来の古典や文化の研究をする学問が生まれてきました。
[[File:本居宣長02.jpg|thumb|本居宣長]]
{{Ruby|本居宣長|もとおりのりなが}}は、『{{Ruby|古事記|こじき}}』の研究を行い、『'''古事記{{ruby|伝|でん}}'''』を記しまし
宣長の研究は『古事記』のほかにもあって、平安時代の紫式部の『源氏物語』についても研究している。
 
{{clear}}
 
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ファイル:Nihonbashi bridge in Edo.jpg|葛飾北斎『{{ruby|富嶽三十六景|ふがくさんじゅうろっけい}}』 1. {{Ruby|江戸日本橋(|えどにほんばし)}}
ファイル:Lightnings below the summit.jpg|『富嶽三十六景』 32. {{Ruby|山下白雨|さんかはくう}}
ファイル:Red Fuji southern wind clear morning.jpg|『富嶽三十六景』 33. {{Ruby|凱風快晴|がいふうかいせい}}
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実際の歴史上の事件などをえがいた作品があります。
 
ほかにも、江戸時代にはすもう、花火、季語の入っていない{{ruby|俳句|はいく}}である {{ruby|川柳|せんりゅう}} が流行しました。
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=== 黒船の来航と開国 ===
 
== 開国と{{ruby|戊辰|ぼしん}}戦争 ==
=== 黒船の来航 ===
[[ファイル:Commodore-Perry-Visit-Kanagawa-1854.jpg|thumb|300px|left|黒船来航]]
[[ファイル:Matthew Calbraith Perry.jpg|thumb|300px|ペリー]]
[[画像:Matthewperry.jpg|200px|thumb|日本の{{Ruby|浮世絵|うきよえ}}にえがかれたペリー。]]
1853年にアメリカ合衆国の4せきの{{ruby|軍艦|ぐんかん}}が今の{{Ruby|神奈川|かながわ}}県の{{Ruby|浦賀|うらが}}にあらわれ、4せきの軍艦をひきいたアメリカ人の '''ペリー''' 日本開国を求めアメリカ大統領からの国書を{{Ruby|幕府|ばくふ}}にわたしました。
 
当時、このアメリカの船は、色が黒かったので、'''{{ruby|黒船|くろふね}}''' とも言われました。
 
アメリカの軍艦は、{{ruby|蒸気船|じょうきせん}}と言われるもので、石炭などを燃料とした蒸気機関によって動く最新式の船であり、船のえんとつからはけむりがもうもうとあがっていました。この蒸気船は、それまでのオランダの船でよく見られた{{Ruby|帆船|ほせん}}とはちがい、蒸気船は最新式の船でした。
 
ペリーは日本について事前にオランダの本などから研究していたので、日本人は権力者の命令に弱いということを知っており、わざと幕府のある{{ruby|江戸|えど}}に近い浦賀に黒船で、やってきたのです。当時の日本では、{{ruby|長崎|ながさき}}が外交の{{ruby|窓口|まどぐち}}でしたが、ペリー達はまったく長崎に行こうとはせず、幕府と直接{{Ruby|交渉|こうしょう}}をしようとする態度をとりました。
 
 
このようなアメリカの船と、ペリーの態度を見て、日本人はおどろきました。そこでペリーに、返事を出すまで時間がかかるので、1年後にもう一度日本に来てもらうようにたのみました。
 
 
幕府は、事態を重く考えみて、{{ruby|朝廷|ちょうてい}}にも報告をして、{{Ruby|諸国|しょこく}}の大名にも相談をしました。
 
 
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日米修好通商条約の内容は、日本にとって不利な内容で、不平等な条約でした。
 
:* 日本に関税自主権がない
:日本への輸入品に税をかける{{Ruby|権利|けんり}}が日本にはありませんでした。輸入品にかける税を {{ruby|関税|かんぜい}}といい、国が関税を自由に決められる権利を '''{{Ruby|関税自主権|かんぜいじしゅけん}}''' といいます。日本には、関税自主権がありませんでした。
 
:* アメリカ人の{{ruby|領事裁判権|りょうじさいばんけん}}({{Ruby|治外法権|ちがいほうけん}})がある。
:日本国内で外国人が犯罪をおかしても、日本の{{Ruby|法律|ほうりつ}}では{{Ruby|処罰|しょばつ}}できませんでした。アメリカ人など外国人が、日本の法律では処罰されないことを '''{{ruby|領事裁判権|りょうじさいばんけん}}''' または '''{{Ruby|治外法権|ちがいほうけん}}''' といいます。
 
:アメリカ人の{{ruby|領事裁判権|りょうじさいばんけん}}({{Ruby|治外法権|ちがいほうけん}})がある。
:日本国内で外国人が犯罪をおかしても、日本の{{Ruby|法律|ほうりつ}}では{{Ruby|処罰|しょばつ}}できませんでした。アメリカ人など外国人が、日本の法律では処罰されないことを '''{{ruby|領事裁判権|りょうじさいばんけん}}''' または '''{{Ruby|治外法権|ちがいほうけん}}''' といいます。
* 開国による{{ruby|経済|けいざい}}の変化
:輸出品として、{{Ruby|生糸|きいと}}や茶が輸出されたので、それらの産業が{{ruby|発展|はってん}}しました。国内で品物が不足し、物価が上がりました。輸出によって、国外に品物を多く輸出しすぎたり、買いしめなどが起こったりしたからです。貿易をしていない米や麦の{{Ruby|値段|ねだん}}も上がりました。貿易によって、日本の金が流出しました。このため、{{Ruby|幕府|ばくふ}}は金貨の質を下げたので、ますます物価は上がりました。
:国内で品物が不足し、物価が上がりました。輸出によって、国外に品物を多く輸出しすぎたり、買いしめなどが起こったりしたからです。貿易をしていない米や麦の{{Ruby|値段|ねだん}}も上がりました。
:貿易によって、日本の金が流出しました。このため、幕府は金貨の質を下げたので、ますます物価は上がりました。
 
このような品不足や物価の{{ruby|上昇|じょうしょう}}などにより、{{Ruby|庶民|しょみん}}のくらしは苦しくなっていったため {{ruby|一揆|いっき}} や 打ちこわし が起きました。
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大人の方へ:上の「尊王論」「攘夷論」「尊王攘夷論」はすべて小学校範囲外です。
 
==== {{Ruby|幕末|ばくまつ}}の武士たち ====
 
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このようにして、日本は、アジアで初めて、憲法にもとづいて議会政治を行う近代国家となった。
 
== {{ruby|日清|にっしん}}戦争と{{Ruby|日露|にちろ}}戦争 ==
=== {{ruby|日清|にっしん}}戦争 ===
==== {{ruby|日清|にっしん}}戦争について ====
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=== 明治の学問や文化の変化 ===
==== 医学 ====
[[ファイル:Kitasato Shibasaburo.jpg|thumb|130px|北里 柴三郎]]
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{{clear}}
== 長く続いた戦争({{Ruby|昭和|しょうわ}})時代前半) ==
 
=== 満州事変 ===