「中学受験社会/歴史/上巻」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
M カテゴリ準備
タグ: 2017年版ソースエディター
査読および中学受験でも不要と思われる内容を削除。問題があれば差し戻してください。
281 行
埼玉県の稲荷山古墳から見つかった鉄剣には、'''ワカタケル'''大王の名が刻まれた文がありました。文を読むと、この地方の王は、ワカタケル大王に使えていたようです。
 
熊本県の {{ruby|江田船山|えだ ふなやま}}古墳 にも、おなじ名前の刻まれた鉄刀があり、ワカタケル大王の支配する領域が、関東地方から九州までの広い範囲に、およんでいたことが、分かります。
 
熊本県の {{ruby|江田船山|えだ ふなやま)古墳 にも、おなじ名前の刻まれた鉄刀があり、ワカタケル大王の支配する領域が、関東地方から九州までの広い範囲に、およんでいたことが、分かります。
 
正確に言うと、当時はまだ漢字しか文字がなかったので、稲荷山の鉄剣には115字の漢字が刻まれており、その漢字の中に「{{Ruby|獲加多支鹵|ワカタケル}}大王」という名が、刻まれています。 
 
また江田船山古墳で発掘されたの鉄刀には、刻まれた文が破損しており、「獲□□□鹵大王」というふうに名前の, 一部が読めなくなっていますが、同じ名前が刻まれています。
 
後の日本の神話の書の『古事記』や、後の歴史書の『日本書紀』などから「ワカタケル」という人物の存在が知られているので、鉄剣などがワカタケルの存在を裏付ける証拠になったのです。日本書紀に「{{ruby|幼武|わかたけ}}天皇」という記述があるのです。
ワカタケル大王とは、 {{Ruby|雄略|ゆうりゃく}}天皇 だということが分かっています。
 
* 氏と姓
[[File:Rubbing of the Gwanggaeto Stele.jpg|thumb|碑文の複製 1882年頃作成、東京国立博物館]]
日本国内では、日本国内での大和朝廷による勢力拡大が進むにつれ、豪族たちの名前関する制度でおいて{{Ruby||うじ}}{{Ruby||かばね}}とによる、後に言う氏姓(しせい)制度が作られました。
朝鮮半島での、広開土王(こうかいどおう)の碑文(ひぶん)によると、当時の日本である倭が、外国である高句麗(こうくり)との戦争を4世紀後半にしたことが、書かれています。広開土王は好太王(こうたいおう)とも言います。
 
'''氏'''は、主に、血のつながった者どうしの集団で, たとえば, {{Ruby|蘇我氏|そがし}}・{{Ruby|物部|もののべ}}氏・{{Ruby|大伴|おおとも}}氏などが, '''姓''' とは、政治の地位による称号で、たとえば「{{Ruby|臣|おみ}}」や「{{Ruby|連|むらじ}}」という姓があります。
5世紀の終わりごろ、中国大陸の帝国は「宋」(そう)という国になっており、その宋の歴史書の『宋書』倭国伝(そうじょ わこくでん)では、5世紀に中国大陸の宋に、日本からの外交で、日本の5人の大王が、それぞれ外交の使者を送ってきたことが、宋書に書かれています。
5人の王の名は、宋書によると、それぞれ讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)という名です。
この5人の倭国の王を <big>倭の五王</big>(わのごおう) といいます。日本は、高句麗との戦争で優位にたちたいので、宋の支援が、ほしかったのです。
 
* 渡来人
有力な説では、武は、日本書紀に「{{ruby|幼武|わかたけ}}天皇」という記述のあるワカタケル大王のことだろうと思われています。つまり雄略天皇が武だろうと思われています。
5世紀ごろ、朝鮮半島や中国大陸から、多くの人が日本に渡ってきて、日本に移り住んだ。このように、古い時代に外国から日本に移り住んだ人たちを {{Ruby|渡来人|とらいじん}} といいます
 
この5世紀頃の渡来人により、外国の文化が日本に多く伝わりました。
 
* 氏(うじ)と姓(かばね)
日本国内では、日本国内での大和朝廷による勢力拡大が進むにつれ、豪族たちの名前に関する制度で、氏(うじ)と姓(かばね)とによる、後に言う氏姓(しせい)制度が、作られた。
 
:* <big>'''漢字</big>'''が日本に伝わりました
<span style="color:red"><big>氏</big></span>(うじ)とは、主に、血のつながった者どうしの集団である。<span style="color:red"><big>姓</big></span>(かばね)とは、政治の地位による称号(しょうごう)で、たとえば「臣」(おみ)や「連」(むらじ)という姓が、あります。
 
:* <span style="color:red"><big>'''{{Ruby|儒教</big></span>(|じゅきょう}}''' が伝わりました。儒教とは、中国の{{Ruby|孔子|こうし}}が始めた思想で、政治や道徳に関する思想です。
有力な豪族の氏には、たとえば蘇我氏(そが し)・物部氏(もののべ し)・大伴氏(おおとも し)などが、あります
 
:* 用水路の土木技術や、{{Ruby||はた}}織りの技術、農具や工具や武器などをつくる技術など、新しい技術も、日本に伝わります。
政治の仕事を行う豪族には、さらに、姓があたえられました。
 
例えば、蘇我氏には「臣」(おみ)という姓(かばね)が与えられた。大伴や物部には「連」(むらじ)という姓(かばね)が与えられました。
 
* 仏教(ぶっきょう)の伝来
 
また、538年に 仏教も、外国から伝わりました。
* 渡来人(とらいじん)
仏教は、紀元前5世紀ごろのインドで、 {{ruby|釈迦|しゃか}}が始めました。
[[ファイル:131123 Hyogo Prefectural Museum of Archaeology Japan24s5.jpg|thumb|須恵器。日下部遺跡(兵庫県・神戸市)から出土した飛鳥時代の甕(兵庫県立考古博物館)]]
 
[[Image:Sueki-MorigaswaIseki.jpg|thumb|須恵器。森ヶ沢遺跡(青森県・七戸町)から出土した5世紀の須恵器]]
5世紀ごろ、朝鮮半島や中国大陸から、多くの人が日本に渡ってきて、日本に移り住んだ。このように、古い時代に外国から日本に移り住んだ人たちを 渡来人(とらいじん) という。
 
この5世紀頃の渡来人により、外国の文化が日本に多く伝わった。
 
 
:* <big>漢字</big>が日本に伝わります。
 
:* <span style="color:red"><big>儒教</big></span>(じゅきょう)が伝わります。儒教とは、孔子が始めた思想で、政治や道徳に関する思想です。
 
:* 用水路の土木技術や、機織りの技術、農具や工具や武器などをつくる技術など、新しい技術も、日本に伝わります。
 
<big>須恵器</big>(すえき)という、土器の作り方が、日本に伝わります。須恵器は、弥生土器よりも、さらに製法の進んだ、かたい土器です。
須恵器の製法は、丘(おか)などの斜めになってる地面の斜面をくりぬいて穴窯(あながま)を作り、その穴窯の中で土器を焼き固めるという方法です。野焼きよりも高温に焼けるので、かたい土器が焼きあがるというわけです。
縄文土器や弥生土器は、野焼きの土器でした。
 
 
* 仏教(ぶっきょう)の伝来
また、<span style="color:red"><big>仏教</big></span>(ぶっきょう)も、外国から伝わります。538年に、朝鮮半島の百済(くだら)という国の王から、仏像や経典が、日本の天皇に送られます。
 
仏教は、紀元前5世紀ごろのインドで、 '''ゴーダマ=シッダルタ''' という人物が始めた宗教です。ゴーダマ=シッダルタは、日本では 釈迦(しゃか) と言われます。
 
 
{{clear}}
 
== {{Ruby|飛鳥|あすか}}時代 ==
〜<big>~{{Ruby|聖徳太子|しょうとくたいし}}の登場</big>〜<br>
:(あすかじだい)
::(しょうとくたいし の とうじょう)
 
{| class="wikitable" style="float:right"
356 ⟶ 328行目:
|574 || 1才 || 聖徳太子が生まれる ||
|-
| || || || {{Ruby|蘇我|そが}}氏が権力をにぎる
|-
|589 || || || {{Ruby||ずい}}が中国を統一する
|-
|593 || 20才 || 聖徳太子が摂政なる ||
|-
! style="text-align: left;" colspan="4" |7世紀
370 ⟶ 342行目:
|607 || 34才 || 小野妹子を遣隋使として送る ||
|-
|618 || || || 隋がほろんで{{Ruby||とう}}となる
|-
|622 || 49年 || 聖徳太子がなくなる ||
378 ⟶ 350行目:
|}
 
日本では、6世紀ごろから、<span style="color:red"><big>豪族</big></span>(ごうぞく)の影響力(えいきょうりょく)が強まってくる。り, 豪族同士反乱戦い、豪族どうしの争い出てくるきました
 
まず、527年に、今の福岡県にある、筑紫(つくし)の豪族である磐井(いわい)による反乱が起こる。
この 磐井の乱(いわい の らん) を、豪族の物部氏の 物部麁鹿火(もののべの あらかみ) が しずめたので、<span style="color:red"><big>物部氏</big></span>(もののべし)の朝廷での影響力が強くなる。
 
後に、蘇我氏(そがし)が物部氏(もののべし)と争います。
<span style="color:red"><big>蘇我氏</big></span>は、仏教などの渡来人(とらいじん)の伝える外国文化の受け入れに積極的でした。いっぽう、物部氏は、仏教には反対でした。
 
587年には、<span style="color:red"><big>蘇我馬子</big></span>(そがの うまこ)が、<big>物部守屋</big>(もののべの もりや)ひきいる物部氏をほろぼします。
 
このように、蘇我と物部が争うように、朝廷の影響力が弱まっていってることが分かる。
 
また、外国でも、中国大陸で、隋(ずい)が6世紀後半の589年に出来た。周辺諸国に大きな影響があった。
 
日本では、蘇我馬子の権力が強くなり、天皇にも、蘇我氏と血縁のある妃(きさき)が産んだ 用明(ようめい)天皇 や 崇峻(すしゅん)天皇 などを皇位に即位させた。
 
崇峻天皇が馬子による独裁的な政治を嫌うと、馬子(うまこ)たちは、崇峻天皇を暗殺するという事件を起こす。
 
このような国難に、当時の大和朝廷は、みまわれていた。
 
 
後に、{{ruby|蘇我氏(|そがし)}}氏{{Ruby|物部氏(|もののべし)}}氏と争います。
暗殺事件が起きたといっても、蘇我馬子の権力は、いまだに強いままであり、崇峻天皇の次の天皇である<big>推古天皇</big>(すいこてんのう)による政治も、蘇我氏の影響下にあった。
<span style="color:red"><big>蘇我氏</big></span>は、仏教などの渡来人(とらいじん)の伝える外国文化の受け入れに積極的でした。いっぽう、物部氏は、仏教には反対でした。
 
[[ファイル:Prince Shotoku.jpg|180px|thumb|聖徳太子が描かれた肖像画。まんなかの、一番、背の高い人物が聖徳太子。]]