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{{Pathnav|メインページ|歴史学|日本史|近代|frame=1}}[[第二次世界大戦]]前の時代。通常は、[[明治維新]] (江戸城明け渡しである1868年5月3日) を始まりとして、第二次世界大戦終結 (ポツダム宣言<sup>([[s:ポツダム宣言|ws]])</sup>調印である1945年9月2日) までを含める。
 
== 政治 ==
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* [[w:大日本帝国陸軍|大日本帝国陸軍]]
* [[w:大日本帝国海軍|大日本帝国海軍]]
* 「大日本帝国空軍」は設置されなかったが、陸軍飛行戦隊、海軍航空隊を指して、大日本帝国空軍と呼ばれることもある。
 
;=== 軍首脳と政治 ===
※「大日本帝国空軍」は設置されなかったが、陸軍飛行戦隊、海軍航空隊を指して、大日本帝国空軍と呼ばれることもある。
 
;軍首脳と政治
* 天皇は「大元帥」として軍の総司令官であり、戦争の開始と終了は天皇が宣言した。開戦と終戦に際しては、天皇・総理大臣・陸軍大臣・海軍大臣などが集まる御前会議を開いて、最終的に天皇が決定した。
* 現役武官が陸軍大臣や海軍大臣に就く「軍部大臣現役武官制」が布かれており、陸軍首脳や海軍首脳は「天皇は陸海軍を統帥す(第11条)」「天皇は陸海軍の常備兵額を定む(第12条)」と明記した大日本帝国憲法を盾に政治力を行使した。
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1937年、北京郊外の[[w:盧溝橋|盧溝橋]]において日中の軍事衝突である[[w:盧溝橋事件|盧溝橋事件]]が発生する。日本の[[w:近衛文麿|近衛文麿]][[w:近衛内閣|内閣]]は派兵を決定。[[w:日中戦争|日中戦争]]へと発展する。しかし、この時点ではまだ軍及び政府は不拡大方針をとり、「北支事変」の呼称を用いていた。約1カ月後には上海に「上海地区の日本人居留民保護」を目的として派兵される。この派遣軍もそれらの理由から (不拡大方針) 精鋭の現役兵ではなく、予備兵であった。しかし、上海派遣軍を指揮する中支那方面軍の大将、[[w:松井石根|松井石根]]は拡大派であり、彼は南京を落とせば中国政府は降参するものと考えていた。この頃、日本のメディアや風潮は「支那{{Ruby|[[wikt:膺懲|膺懲]]|ようちょう}}」、すなわち「中国を懲らしめる」などと中国に対する戦意高揚を狙っており、6月に組閣した近衛内閣は拡大派の思惑 (国民を戦争によって政府についてこさせる) に沿って、「挙国一致」の指導者となる。
 
9月、国民党と共産党は[[w:抗日民族統一戦線|抗日民族統一戦線]]を形成 ([[w:第2次国共合作|第2次国共合作]]) し、日中戦争は泥沼化を始める。日本の軍部では、拡大派が不拡大派を抑えて戦線は拡大の一途をたどることとなる。そして、この頃から、当時首都であった南京への爆撃が本格化し(宣戦布告のない南京への爆撃行為自体が国際法違反)、のちの南京事件への一歩を踏み出す。
 
11月中旬に上海を攻略するも、南京を制圧することで中国政府の降伏を狙う松井は己の考えを実戦で実行し成功させる必要に駆られていた。本来はこれで作戦目的を完了し、兵は3カ月に及んだ戦闘から解放されるはずだった。この時点で物質の現地での購買が徴発に変化し、軍紀が乱れていることは陸軍上層部にも知れ渡っていた。しかし、上海派遣軍を指揮する中支那方面軍指令部は11月15日に独断で南京追撃の敢行を決定しており、不拡大派の軍指令部はその報告 (19日) に対し即座に (20日) 作戦の対象地域から逸脱している旨を返す{{sfn|笠原 十九司|1997|pp=65-66}}も、命令に違反し19日に南京への進軍が始まる。しかし、参謀本部を無視し正式命令も無い状態で強行した南京進攻作戦は、進軍に停滞が発生すれば前進の停止を命じられる可能性が高い。それを回避し、軍上層部に独断の追認をさせるため、南京に急進撃をかける必要があった。しかし、上海派遣軍は既に疲労していた。そこで、中支那方面軍指令部は上海派遣軍と第10軍 (上海の制圧の際に後から投入されたので、軍に余力があり、南京進撃に積極的だった) に「南京1番乗り」を競わせたのだ。上海派遣軍は上海の制圧のための軍であり、後方支援部隊がなく、既に物質を現地での調達に頼っていたが、挑発され「1番乗り」を煽られ、徴発に変化し始めていた調達は上海戦後も帰れず南京進撃に駆り出された不満が現れ、エスカレートしていく。さらにこの派遣軍は北支事変が正式な戦争ではないとされたため、兵の組成が天皇の命令を伴わないものであり、法務部 (軍の行動を軍刑法に基づき取り締まる) が存在しなかった{{sfn|笠原 十九司|1997|p=60}}。南京事件前夜、既に十分な予兆が出ていた。
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しかし、前述の通り正式な軍ではないため後方支援部隊が無く、食糧は道中の村で調達した。その際、非戦闘員を含めた村人に略奪並びに殺傷行為を働く<ref group="注釈">1908年に定められた「[[s:陸軍刑法|陸軍刑法]]」で物質の掠奪を1年以下の懲役に処す旨を明記していたため、指令部が物質の住民からの徴発(=掠奪)を強いたことそのものが陸軍刑法に違反している。</ref>。彼らは戦闘に慣れていない後備兵であり、上海を落とせば凱旋できると家族や故郷のことを想い上海戦を敢行した矢先、南京へ駆り出された(それも複数の部隊で進軍を競わされた)のだ。彼らの怒り、ストレスの類がそのような行動を行わせたことは否定できない。この蛮行の原因が指令部にあることは言うまでもないだろう。規律が守られず、それを取り締まる法務部もいなかった。これらの村には、まだ近代化が進んでいない村も多く、情報が伝わらなかったが故に、日本軍の来襲を知らず、中国軍と間違えるなどもあった。南京は周囲へ放射状に幹線道路があり、南京を守る中国軍は南京の周辺全域で防御を敷いたため、沿線の村はほとんどが巻き込まれた。日本軍は予備兵中心のため、戦闘経験の無い者も多く、捕虜を殺害することを「楽しむ」者までいた。
 
メディアも必要以上に国民の戦意を煽り、国民にあたかも南京を制圧することで戦争が終結するように思わせ、国民を協力させる(拡大派の思うつぼ)。南京制圧が目前になると、祝福ムードが増し、ついに不拡大派の一部も南京攻略に同意する。当然ながらこの際に後方支援部隊を投入するなどの案が出されたものの、「戦機を逃す」としてこれを拒否した{{sfn|笠原 十九司|1997|pp=76&ndash;77}}
 
この際に「後方支援部隊を増強する案」が提示されるも、「戦機を逃す」としてこれを拒否。
中国政府も南京の防御が厳しくなってきたため、12月2日、ドイツ大使を通じて和平条件(不拡大方針で'''日本が提示した'''トラウトマン和平工作)を認める意向が伝えられる{{Sfn|笠原 十九司|1997|p=78}}も、拡大派中心になっていた軍や近衛内閣の閣僚はこれをないがしろにした{{Sfn|笠原 十九司|1997|p=78}}。中国政府は遷都し、南京は首都ではなくなった。ところが、拡大派の主張する「中国一撃論」<ref group="注釈" name=南京一撃論>南京を落とせば中国は屈服するというもの。</ref>に乗せられ、総勢16万以上の日本軍がいよいよ南京城内<ref group="注釈">南京はヨーロッパの古い城址と同じように市街を城壁で囲んでいた。</ref>の攻略に取り掛かる。日本は南京から放射状に伸びる幹線道路を用いて外側から包囲し中心に進む作戦を採り、戦線から離脱した中国軍兵士を全員殺害する<ref group="注釈">日本も批准し公布した[[w:ハーグ陸戦条約|ハーグ陸戦条約]]に違反する(兵器を捨て投降した者を殺傷したこと、助命せざることを宣言したこと)。</ref>
 
12月7日に、南京の調略も間近と見た方面軍司令部は、「南京城攻略要領」「南京入城後における処置」「南京城の攻略及び入城に関する注意事項」を作成するも、実際にはことごとく破られる。それは略奪行為ならびに失火、放火を禁じたが、ここまで食糧を補給せずに行軍中の徴発、略奪を強要し、厳寒(12月)の頃にまともな耐寒装備や野営等の準備も無い進軍(→火で暖をとるようになる)を強要しておきながら禁止してももはや効力が無いに等しい。さらに「軍隊と同時に多数の憲兵、補助憲兵を入城せしめ、不法行為を摘発せしむ。」などと述べられているが、無謀な南京進軍は前述のように法務部などを揃えておらず、12月17日の時点では城内に7万いた日本軍兵士に対する憲兵はわずか17名に過ぎなかった{{Sfn|笠原 十九司|1997|p=120}}
 
12月11日、各新聞が華々しく南京調略を報じ、祝賀の提灯行列があるなど、翌日にかけて全国で南京を落としたことを祝される。ところが、この時点ではいまだ銃声が止むことはなく、依然として戦闘は継続状態にあった{{Sfn|笠原 十九司|1997|pp=124&ndash;125}}。そもそもこれは、各新聞やメディアが「南京一番乗り」を競い、一部の部隊が壊れた城壁の瓦礫に旗(日章旗)を立てた<ref group="注釈" name="南京1番乗り">この部隊、その後中国軍に逆包囲され全滅に近い損失を出す。</ref>ことを「南京一番乗り」として報じたことが元凶の誤報であった{{Sfn|笠原 十九司|1997|pp=124&ndash;125}}が、真実は国民に伝わることはなかった。
 
12月12日になると、中国軍に脱走するものが現れ、「日本軍が内部まで攻めてくる」と南京城内の市民に情報が広まる。目の前には、一目散に逃げ出さんと走る脱走兵。この2つの効果により、一部の民衆も脱出せんと走り出し、街路は人で埋め尽くされる。ところが、この流れは挹江門の前で「南京死守」の方針の下門を塞ぐ兵によって止まってしまう。ここで、なんとしても逃げ出さんと進む脱走兵と命令に従い武力で門を塞ぐ部隊とが、同士討ちを始めた{{Sfn|笠原 十九司|1997|p=136}}ことにより、門の前には屍が並ぶ。しかも、この門を超えても長江を渡航するのに必要な船舶は中国軍の計画に伴い全て接収されていた。結局、自らの力で泳いで渡航しようとした者は1.5キロの川幅の途中で波に呑まれ、あるいは12月とあって凍える冷たさの水で体力を使い果たし、長江に沈んでいった。また、筏や棒切れなどを使用して川の中州にたどり着いても、日本軍に撃たれ、ごくわずかの者に運がまわった。
 
先述の同士討ちに関してだが、中国軍内部でも退却命令の遅れなどの混乱が発生し、これにより「南京死守」の命令に行動する兵士とそうでない兵士が混在した。河からも逃げ出せず、周囲を日本軍に囲まれ、「誰彼構わず皆殺しにする」という日本軍の噂が広まった結果、ほとんどの中国軍兵士は装備を捨て、武器を捨て、一なるになることによって何とか生き延びようとした。兵士は「平服」を求め、窃盗をはたらく者まで現れたという<ref group="注釈" name="平服">混乱の現れとも言えるだろう。</ref>。
 
12月13日、南京攻略。
 
12月14日、前日の南京攻略が日本国内で大々的に祝われた。人々もこれを喜び、首都東京では多数の市民が提灯を提げ行進するなど、官民一体で祝福された。これは南京一撃論<ref group="注釈" name="南京一撃論" />が国民に広く浸透していたことが表れていると言える。軍中央の意向を無視して行われ、正式な戦争ではないはずの南京攻略に対し、遂に大元帥である昭和天皇より「お言葉」が下賜される{{sfn|笠原 十九司|1997|p=164}}。
 
その後も日本軍はしばらく滞留した。そして、日本軍は軍門に下った者までも殺す<ref group="注釈" name="国際法違反">既に国際法違反。</ref>だけでなく、「便衣兵(一般人に紛れた軍人)を探す」として特に詮索もせず<ref group="注釈" name="便衣兵">正式には軍事裁判を開くなどの手順を踏まなければならない。</ref>多くの成人男性を虐殺した。これにより、その後も2月頃まで'''約<u>20万</u>人'''、少なくとも15万人以上の人々<ref group="注釈" name="東京裁判">信頼性の無い説が多いが、論争に晒されることもある。なお、戦後の東京裁判は戦争犯罪者1人1人の功罪が取り上げられ、全体像は深掘りされていない。</ref>が殺害され{{Sfn|笠原 十九司|1997|pp=224&ndash;225}}、おびただしい物質が強奪された。
 
12月13日、南京攻略。その後も日本軍はしばらく滞留した。そして、日本軍は軍門に下った者までも殺す<ref group="注釈">既に国際法違反。</ref>だけでなく、「便衣兵(一般人に紛れた軍人)を探す」として特に詮索もせず<ref group="注釈">正式には軍事裁判を開くなどの手順を踏まなければならない。</ref>多くの成人男性を虐殺した。これにより、その後も2月頃まで'''約<u>20万</u>人'''<ref group="注釈" name="東京裁判">信頼性の無い説が多いが、論争に晒されることもある。なお、戦後の東京裁判は戦争犯罪者1人1人の功罪が取り上げられ、全体像は深掘りされていない。</ref>が殺害され{{Sfn|笠原 十九司|1997|pp=224&ndash;225}}、おびただしい物質が強奪された。この'''虐殺及び略奪、強姦など言語道断の人としてあるまじき愚かな行為'''を一般に「'''南京大虐殺'''」「<b>南京事件</b>」と呼ぶ。なお、拡大派の思惑通りとはならず、南京を落としても中国は屈さなかった。結局、海軍の思惑で始まった南京戦は、軍上層部の名誉的な予想とは別の意味合いで歴史に名を残したが、中国政府を倒すことはできず、日本にとっても何の利益も生まなかったのだ。
 
===== 地獄の終焉 =====
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# 12月12日になると、中国軍に脱走するものが現れ、「日本軍が内部まで攻めてくる」と南京城内の市民に情報が広まる。目の前には、一目散に逃げ出さんと走る脱走兵。この2つの効果により、一部の民衆も脱出せんと走り出し、街路は人で埋め尽くされる。ところが、この流れは挹江門の前で「南京死守」の方針の下門を塞ぐ兵によって止まってしまう。ここで、なんとしても逃げ出さんと進む脱走兵と命令に従い武力で門を塞ぐ部隊とが、同士討ちを始めたことにより、門の前には屍が並ぶ。しかも、この門を超えても長江を渡航するのに必要な船舶は中国軍の計画に伴い全て接収されていた。結局、自らの力で泳いで渡航しようとした者は1.5キロの川幅の途中で波に呑まれ、あるいは12月とあって凍える冷たさの水で体力を使い果たし、長江に沈んでいった。また、筏や棒切れなどを使用して川の中州にたどり着いても、日本軍に撃たれ、ごくわずかの者に運がまわった。
# 中国軍内部でも退却命令の遅れなどの混乱が発生し、河からも逃げ出せず、周囲を日本軍に囲まれ、「誰彼構わず皆殺しにする」という日本軍の噂が広まった結果、ほとんどの中国軍兵士は装備を捨て、武器を捨て、一般人になることによって何とか生き延びようとした。
#* 兵士は「平服」を求め、窃盗をはたらく者まで現れたという<ref group="注釈">混乱の現れとも言えるだろう。< name="平服" /ref>。
# 12月13日に南京を攻略する。
#* 日本軍は軍門に下った者を殺す<ref group="注釈">既に name="国際法違反。<" /ref>だけでなく、「便衣兵(一般人に紛れた軍人)を探す」として特に詮索もせず<ref group="注釈">正式には軍事裁判を開くなどの手順を踏まなければならない。< name="便衣兵" /ref>多くの成人男性を虐殺した。
# その後も2月頃まで'''約20万人'''<ref name="東京裁判" group="注釈"/>が殺害され、おびただしい物質が強奪された。
#* なお、拡大派の思惑通りとはならず、南京を落としても中国は屈さなかった。
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== 帝国主義 ==
# [[w:外地|外地]]
#* :世界は欧米列強による帝国主義と植民地主義の時代。日本も欧米列強を模倣して、[[w:琉球|琉球]]と[[w:蝦夷地|蝦夷]]を併合し、次いで[[w:台湾|台湾]]と[[w:朝鮮半島|朝鮮半島]]を植民地に入れた。戦前日本の植民地を「外地」という。
# :* [[台湾の歴史# 日本統治時代]](1895年~1945年)
# :* [[朝鮮の歴史# 日本統治時代]](1910年~1945年)
# :* [[南洋諸島]](1918年~1945年)
# 立て続けの戦争
#* :10年に1度は戦争が起こった。
#* 日清戦争(1894年~1895年)
#* 日露戦争(1904年~1905年)
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* [[近代]]
 
{{日本史info}}<!-- {{先代次代2
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[[category:日本の歴史|せんせん]]