「小学校社会/6学年/歴史編/下巻」の版間の差分

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その当時は、日本語で書かれたオランダ語の辞書はなかったため、非常に時間がかかり、この医学書の「ウェインブラーウ(まゆ)は、目の上に生えている毛である。」というような一文でさえ、翻訳するのに1日かかったといいます。翻訳が終わるまでには4年ほどの年月がかかりました。
 
「{{Ruby|神経|しんけい}}」・「{{Ruby|動脈|どうみゃく}}」など、その当時オランダ語に対応する日本語がなかった言葉は、この翻訳のときに前野と杉田が考えた言葉です。
 
<!-- ※ 光村図書の教科書で「動脈」「神経」などが杉田たち由来のことを紹介している -->
 
 
また、杉田と前野は、翻訳のときの苦労話などを『{{Ruby|蘭学事始|らんがくことはじめ}}』に記しました。
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1895年、日清戦争の講和条約として、次のことが決定されました。
 
:* 中国({{Ruby|清|しん}})は、{{ruby|朝鮮|ちょうせん}}の独立を{{Ruby|認|みと}}めること。
:* リャオトン({{Ruby|遼東|りょうとう}}半島を日本にゆずる。
:* {{Ruby|台湾|たいわん}}を日本にゆずる。
:* 中国は、{{Ruby|賠償|ばいしょう}}金として3億円をはらう。なお、これは当時の日本の財政{{Ruby|収入|しゅうにゅう}}の約3倍の金額であった。
 
 
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1895年、日露戦争の講和条約として、次のことが決定されました。
 
:* 日本の朝鮮での{{Ruby|優越権|ゆうえつけん}}を{{Ruby|認|みと}}めること。
:* 日本に南満州の鉄道の{{Ruby|権利|けんり}}をゆずりわたすこと。
:* 日本は、ロシアから{{Ruby|樺太|からふと}}の南半分の領土をゆずり受けること。
:* 日本は、リャオトン半島の一部の権利を得ること。
 
日本は講和を急いだため、{{Ruby|賠償|ばいしょう}}金をとりませんでした。このことが国民の反発を{{Ruby|呼|よ}}び、{{Ruby|東京|とうきょう}}の{{Ruby|日比谷|ひびや}}では焼き{{Ruby|討|う}}ち事件が起きました。国民からすれば、戦争で多くの{{ruby|負担|ふたん}}をしたにもかかわらず、賠償金をとれないことを不満に感じたのであった。
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バスでは、女性がバスの乗務員(バスガール)として働いていました。
 
<!-- 光村図書や教育出版の教科書で、バスガールなどを習う -->
 
1925(大正14)年には、日本でラジオ放送が開始しました。
 
<!-- ※ 光村図書や教育出版の教科書で、ラジオ放送など習う -->
 
* {{Ruby|関東大震災|かんとうだいしんさい}}
1923年、関東地方で大きな{{Ruby|地震|じしん}}が発生し、死者・行方不明者は14万人以上にのぼりました。この地震を {{Ruby|関東大震災|かんとうだいしんさい}} といいます。
 
<!-- ※ 光村図書や日本文教出版や東京書籍の教科書で、関東大震災などを習う。 -->
 
なお、このとき、「{{ruby|朝鮮|ちょうせん}}人が{{Ruby|反乱|はんらん}}をくわだてている」といううわさが飛びかい、多くの{{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}人が殺害される事件が起きました。
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<!-- ※ 「五・一五事件」の名称は検定教科書の範囲内。日本文教出版の教科書に記載あり -->
 
:しかし、当時の{{Ruby|一般|いっぱん}}の人々は、ひどい不景気のため、政治家に絶望していたため、犯行におよんだ軍人を、一般の人々は支持しました。このような決定のせいで、のちに、軍人による、政治に圧力をくわえるための殺人事件が、ふえていくことになりました。
 
また、このため日本は、'''まるで軍人が政治を支配しているかのような状況になっていました。'''
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こうして戦場は、中国だけでなく、東南アジアや太平洋にも広がっていきました。
 
なお、これらの周辺{{Ruby|地域|ちいき}}での戦争のことを、{{Ruby|太平洋|たいへいよう}}戦争といいます。なお、「アジア・太平洋戦争」ということもあります。
 
<!-- ※ 最近では「アジア・太平洋戦争」と呼ぶ提案もされているそういう検定2020年現在どの教科書(日本文教出版)ある。しかし、「太平洋戦争」とう表記も、ひきつづき光村図書など検定教科書使わここでは触こととす -->
 
日本軍は、太平洋戦争のはじめごろは、東南アジア各地をどんどんと{{Ruby|占領|せんりょう}}して、勢力を{{Ruby|拡大|かくだい}}していきました。
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そして、配給される量もしだいに減っていき、生活はますます苦しくなっていきました。
 
日本では、「ほしがりません、勝つまでは」「ぜいたくは{{Ruby|敵|てき}}だ」「足らぬ足らぬは{{ruby|工夫|くふう}}が足らぬ」のような標語ができました。
 
 
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しかし、日本は、降伏の決断をできず、そのまま戦争を続けました。
 
すると、1945年の8月6日に、アメリカが、{{Ruby|広島|ひろしま}}に{{Ruby|原子爆弾|げんしばくだん}}(原爆)を投下しました。広島の街は{{Ruby|一瞬|いっしゅん}}で焼きつくされて{{Ruby|破壊|はかい}}され、広島では10万人以上が{{Ruby|亡|な}}くなりました。また8月9日には長崎にも原子爆弾が投下され、8万人ほどが亡くなりました。
 
{{clear}}
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そして'''1945年8月15日'''には、{{ruby|昭和天皇|しょうわてんのう}}がラジオ放送で国民に日本の降伏(終戦)を発表しました。
 
こうして日中戦争や太平洋戦争をふくむ第二次世界大戦、終わりました。
 
[[File:Imperial Rescript on the Termination of the War.ogg|thumb|終戦を知らせるラジオ放送({{ruby|玉音|ぎょくおん}}放送)の{{Ruby|音源|おんげん}}]]
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当時、食料は国から配給されていましたが、量が足りず、ほとんどの人は、食べものに{{Ruby|困|こま}}っていたので、都市の人は、鉄道にのって、遠くの農家などに、食べ物を買いにいきました。
 
また、違法な「やみ{{Ruby|市|いち}}」と{{Ruby|呼|よ}}ばれるふつうの{{Ruby|価格|かかく}}の数十倍もの{{Ruby|値段|ねだん}}で食料や日用品などを売る{{Ruby|市|いち}}が開かれましたが、それでも買う人がたくさんいました。
 
焼けあとなどの野原で、野菜をつくる人などもいました。
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1946年11月3日に公布された新しい{{Ruby|憲法|けんぽう}}である'''日本国憲法'''では、
 
:{{ruby|主権者|しゅけんしゃ}}は国民であること ('''国民主権''')、
 
:軍隊をもたず永久に戦争をしないこと ('''平和主義・戦争{{Ruby|放棄|ほうき}}''')、
 
:すべての日本国民は人間としての基本的な{{Ruby|権利|けんり}}をもっている ('''基本的{{Ruby|人権|じんけん}}の{{Ruby|尊重|そんちょう}}''')、 
:軍隊をもたず永久に戦争をしないこと ('''平和主義・戦争{{Ruby|放棄|ほうき}}''')、
:すべての日本国民は人間としての基本的な{{Ruby|権利|けんり}}をもっている ('''基本的{{Ruby|人権|じんけん}}の{{Ruby|尊重|そんちょう}}''')、 
 
という3つの原則が決められました。
 
なお、{{Ruby|天皇|てんのう}}は日本の{{Ruby|象徴|しょうちょう}}とされました。
 
{{コラム|警察予備隊|1950年、日本では、軍隊の代わりに {{Ruby|警察予備隊|けいさつよびたい}} がつくられました。これが、のちの自衛隊のもとになります。}}
 
=== 戦後の学校 ===