「小学校社会/6学年/歴史編/下巻」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
修正。 |
M little… |
||
279 行
その当時は、日本語で書かれたオランダ語の辞書はなかったため、非常に時間がかかり、この医学書の「ウェインブラーウ(まゆ)は、目の上に生えている毛である。」というような一文でさえ、翻訳するのに1日かかったといいます。翻訳が終わるまでには4年ほどの年月がかかりました。
また、杉田と前野は、翻訳のときの苦労話などを『{{Ruby|蘭学事始|らんがくことはじめ}}』に記しました。
659 ⟶ 654行目:
1895年、日清戦争の講和条約として、次のことが決定されました。
714 ⟶ 709行目:
1895年、日露戦争の講和条約として、次のことが決定されました。
日本は講和を急いだため、{{Ruby|賠償|ばいしょう}}金をとりませんでした。このことが国民の反発を{{Ruby|呼|よ}}び、{{Ruby|東京|とうきょう}}の{{Ruby|日比谷|ひびや}}では焼き{{Ruby|討|う}}ち事件が起きました。国民からすれば、戦争で多くの{{ruby|負担|ふたん}}をしたにもかかわらず、賠償金をとれないことを不満に感じたのであった。
945 ⟶ 940行目:
バスでは、女性がバスの乗務員(バスガール)として働いていました。
<!--
1925(大正14)年には、日本でラジオ放送が開始しました。
<!--
* {{Ruby|関東大震災|かんとうだいしんさい}}
1923年、関東地方で大きな{{Ruby|地震|じしん}}が発生し、死者・行方不明者は14万人以上にのぼりました。この地震を {{Ruby|関東大震災|かんとうだいしんさい}} といいます。
<!--
なお、このとき、「{{ruby|朝鮮|ちょうせん}}人が{{Ruby|反乱|はんらん}}をくわだてている」といううわさが飛びかい、多くの{{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}人が殺害される事件が起きました。
1,001 ⟶ 996行目:
<!-- ※ 「五・一五事件」の名称は検定教科書の範囲内。日本文教出版の教科書に記載あり -->
また、このため日本は、'''まるで軍人が政治を支配しているかのような状況になっていました。'''
1,042 ⟶ 1,037行目:
こうして戦場は、中国だけでなく、東南アジアや太平洋にも広がっていきました。
なお、これらの周辺{{Ruby|地域|ちいき}}での戦争のことを、{{Ruby|太平洋|たいへいよう}}戦争といい
<!-- ※ 最近では「アジア・太平洋戦争」と呼ぶ提案もされている
日本軍は、太平洋戦争のはじめごろは、東南アジア各地をどんどんと{{Ruby|占領|せんりょう}}して、勢力を{{Ruby|拡大|かくだい}}していきました。
1,092 ⟶ 1,087行目:
そして、配給される量もしだいに減っていき、生活はますます苦しくなっていきました。
日本では、「ほしがりません、勝つまでは」
1,154 ⟶ 1,149行目:
しかし、日本は、降伏の決断をできず、そのまま戦争を続けました。
すると、1945年の8月6日に、アメリカが、
{{clear}}
1,163 ⟶ 1,158行目:
そして'''1945年8月15日'''には、{{ruby|昭和天皇|しょうわてんのう}}がラジオ放送で国民に日本の降伏(終戦)を発表しました。
こうして日中戦争や太平洋戦争をふくむ第二次世界大戦
[[File:Imperial Rescript on the Termination of the War.ogg|thumb|終戦を知らせるラジオ放送({{ruby|玉音|ぎょくおん}}放送)の{{Ruby|音源|おんげん}}]]
1,216 ⟶ 1,211行目:
当時、食料は国から配給されていましたが、量が足りず、ほとんどの人は、食べものに{{Ruby|困|こま}}っていたので、都市の人は、鉄道にのって、遠くの農家などに、食べ物を買いにいきました。
また、
焼けあとなどの野原で、野菜をつくる人などもいました。
1,229 ⟶ 1,224行目:
1946年11月3日に公布された新しい{{Ruby|憲法|けんぽう}}である'''日本国憲法'''では、
:軍隊をもたず永久に戦争をしないこと ('''平和主義・戦争{{Ruby|放棄|ほうき}}''')、▼
:すべての日本国民は人間としての基本的な{{Ruby|権利|けんり}}をもっている ('''基本的{{Ruby|人権|じんけん}}の{{Ruby|尊重|そんちょう}}''')、 ▼
という3つの原則が決められました。
なお、{{Ruby|天皇|てんのう}}は日本の{{Ruby|象徴|しょうちょう}}とされました。
=== 戦後の学校 ===
|