「小学校社会/6学年/歴史編/上巻」の版間の差分
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** {{ruby|世紀|せいき}}とは、100年ごとに区切って、年を数える単位です。西暦1年から西暦100年までが1世紀です。西暦101年から西暦200年までが2世紀です。西暦2001年から西暦2100年までを21世紀といいます。たとえば、105年は2世紀、1853年は19世紀です。
== 大昔の{{Ruby|暮|く}}らしとくにづくり ==
;大昔の{{Ruby|暮|く}}らし
[[File:Jomon Vessel with Flame-like Ornamentation, attributed provenance Umataka, Nagaoka-shi, Niigata, Jomon period, 3000-2000 BC - Tokyo National Museum - DSC05620.JPG|thumb|250px|縄文土器]]
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土偶は、食料が増えることや女性の安産をいのったものだと考えられています。
[[ファイル:Reconstructed Pillar Supported Structure.jpg|right|thumb|300px|六本柱建物(復元)]]
{{ruby|青森|あおもり}}県の '''{{ruby|三内丸山遺跡|さんないまるやまいせき}}''' は、約5500年前から約1500年前の間の集落だったということがわかっています。
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{{ruby|縄文|じょうもん}}時代の次の時代は、{{ruby|弥生|やよい}}時代です。
'''~米づくりがはじまる~'''
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この吉野ケ里遺跡は、弥生時代を知る遺跡として、代表的な遺跡です。
* 邪馬台国
中国大陸の3世紀ごろの歴史書では、日本の3世紀ごろは、国の数が30あまりになっていることが分かりました。
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{{-}}
[[画像:NintokuTomb.jpg|thumb|{{ruby|仁徳天皇陵|てんのうりょう}}と思われている{{ruby|大山|だいせん}}古墳。前方後円墳、{{ruby|大阪|おおさか}}府{{ruby|堺|さかい}}市]]
3世紀から4世紀ごろになると、王や{{ruby|豪族|ごうぞく}}をほうむる大きな墓がつくられはじめました。
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{{clear}}
== {{ruby|
~{{ruby|聖徳太子|しょうとくたいし}}の登場~
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1条 争いをやめ、なかよくしなさい。
2条 仏教を厚く保護しなさい。
3条 {{Ruby|天皇|てんのう}}の命令には{{ruby|従|したが}}いなさい。
5条 {{Ruby|裁判|さいばん}}は、公正に行いなさい。
12条 農民などの{{ruby|民|たみ}}から、勝手に税やみつぎ物をとってはいけません。
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|}
聖徳太子らの行った重要な{{ruby|政策|せいさく}}には、外交政策もあります。ユーラシア大陸の一部を支配していた '''{{ruby|隋|ずい}}''' という
607年に、外交の使者として '''{{ruby|小野妹子|おののいもこ}}''' たちを 隋に送ります。この使者を '''{{ruby|遣隋使|けんずいし}}''' といいます。
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外交の結果、日本は隋と国交を結びました。また、隋の文化や制度は日本よりも進んでいたので、日本は多くの文化や制度を取り入れました。
==== そのほかの{{ruby|改革|かいかく}} ====▼
* {{ruby|冠位十二階|かんいじゅうにかい}}の制
聖徳太子らによる改革には、'''{{ruby|冠位十二階|かんいじゅうにかい}}の制'''というものもあります。これは、家がらに関係なく有能な役人を採用するための制度です。能力や手がらによって、役人に位が与えられます。位は、一代かぎりです。
役人の位を12{{ruby|段階|だんかい}}に分けたので、このような名前で{{ruby|呼|よ}}ばれます。
<!--
* {{Ruby|法隆寺|ほうりゅうじ}}の{{Ruby|建立|こんりゅう}}
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聖徳太子は、607年に, 現在の{{ruby|奈良|なら}}県に{{Ruby|法隆寺|ほうりゅうじ}}を建てさせました。法隆寺は、現存する木造建築としては世界最古です。法隆寺は、1993年に世界文化{{ruby|遺産|いさん}}に登録されました。
622年に、{{ruby|聖徳太子|しょうとくたいし}}が{{ruby|亡|な}}くなりました。聖徳太子の死後には、{{ruby|蘇我|そが}}氏の{{Ruby|権力|けんりょく}}が強まりました。
{{ruby|蘇我馬子|そがのうまこ}}も、626年に、なくなりました。
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このあと、中大兄皇子らが権力を取り、さまざまな政治{{Ruby|改革|かいかく}}を行いました。この改革を {{Ruby|大化|たいか}}の{{Ruby|改新|かいしん}} といいます。645年に元号を「大化」と定めたので、この一連の改革は大化の改新と呼ばれています。
「大化」という元号により、日本では、はじめて元号が定められました。これは、中国を手本としたものでした。
* {{Ruby|公地公民|こうちこうみん}}
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701年に、 '''{{Ruby|大宝律令|たいほうりつりょう}}''' という、税金や都についての{{ruby|法律|ほうりつ}}が完成しました。
<!-- ※日本文教出版の教科書で、「大宝律令」という言葉が紹介されている。-->
[[File:Heijokyo.jpg|right|500px|平城京のイメージ図]]
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* 正倉院
[[Image:Shoso-in.jpg|thumb|300px|正倉院正倉]]
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(これらはあくまで参考です。)
和歌をまとめた {{Ruby|万葉集|まんようしゅう}} が759年ごろから{{Ruby|編纂|へんさん}}されま
{{Ruby|貴族|きぞく}}の作った和歌だけでなく、農民や{{Ruby|防人|さきもり}}などの様々な身分の者が作ったと思われる和歌も収録されています。
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{{clear}}
== 貴族のくらしと文化 ==
~{{ruby|貴族|きぞく}}がさかえた時代~
:{{Ruby|桓武天皇|かんむてんのう}}は794年に都を{{ruby|京都|きょうと}}の '''{{ruby|平安京|へいあんきょう}}''' にうつしました。
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* {{Ruby|摂関|せっかん}}政治
藤原氏の一族は、代々、{{Ruby|娘|むすめ}}を{{ruby|天皇|てんのう}}の きさき(妻)にしています。
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道長は、次の歌をよみました。
(この世は、望月(満月)のように何も欠けているものがなく、{{ruby|私|わたし}}(道長)のためにあるようなものだ。)
[[ファイル:Byodoin Phoenix Hall Uji 2009.jpg|300px|thumb|left|平等院鳳凰堂]]
{{Ruby|道長|みちなが}}の子である {{ruby|藤原頼通|ふじわらのよりみち}} は、{{Ruby|京都|きょうと}}に '''{{Ruby|平等院鳳凰堂|びょうどういんほうおうどう}}''' を
[[ファイル:10JPY.JPG|thumb|現在の10円玉]]
{{clear}}
* {{ruby|遣唐使|けんとうし}}の中止と国風文化
{{ruby|菅原道真|すがわらのみちざね}}の進言により、894年に
[[File:Sugawara Michizane.jpg|thumb|200px|菅原道真]]
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男の{{ruby|貴族|きぞく}}の服は {{ruby|束帯|そくたい}} になり、女の貴族の服は {{ruby|十二単|じゅうにひとえ}} となりました。
<!--
貴族の住居の形が {{ruby|寝殿造|しんでんづくり}} になりました。
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{{clear}}
[[画像:Genji emaki azumaya.jpg|thumb|300px|right|大和絵
源氏物語は人気作となり、絵巻物まで作られるほどになりました。この絵は、源氏物語の作品のなかの場面をえがいたものです。]]
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絵画には、日本の風景などを書いた {{ruby|大和絵|やまとえ}} が現れ、寝殿造の{{ruby|屋敷|やしき}}の{{ruby|屏風|びょうぶ}}や ふすま などに描かれました。さきほど紹介した源氏物語絵巻も、大和絵です。
<!-- 「大和絵」は、教育出版
{{clear}}
== 武士の世の中へ ==
平安時代には、地方の{{ruby|豪族|ごうぞく}}たちが{{ruby|私有|しゆう}}地を広げていきました。
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このようにして、'''武士'''ができていきました。武士たちは、一族の かしら をリーダーとして、それぞれの一族ごとに 武士団 を結成しました。
[[ファイル:Taira no Kiyomori.jpg|thumb|200px|平清盛]]
この時代に、{{ruby|天皇|てんのう}}の{{ruby|座|ざ}}をめぐって{{ruby|皇族|こうぞく}}どうしで{{ruby|権力|けんりょく}}争いが起きると、武士たちは、これらの戦いに加わりました。
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それらがのちに、平氏をたおすことへとつながりました。
ついに1180年、{{ruby|皇族|こうぞく}}
=== {{ruby|鎌倉|かまくら}}時代 ===▼
[[File:Minamoto2.jpg|thumb|250px|源頼朝と伝えられる人物
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|-
|}
{{-}}
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[[File:Minamoto_no_Yoshitsune.jpg|thumb|源義経]]
守護の{{ruby|役割|やくわり}}は、その国の軍や{{ruby|警察|けいさつ}}の管理者でした。地頭の役割は、{{ruby|荘園|しょうえん}}および公領の管理や、税である{{ruby|年貢|ねんぐ}}の取り立てでした。
頼朝は
頼朝は{{ruby|鎌倉|かまくら}}(現在の{{ruby|神奈川|かながわ}}県)に、武家による政治の{{ruby|拠点|きょてん}}である {{ruby|鎌倉幕府|かまくらばくふ}}を開きました。鎌倉に幕府があった時代を '''{{ruby|鎌倉|かまくら}}時代''' といいます。
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[[File:ご恩と奉公.svg|thumb|400px|ご恩と奉公]]
「'''いざ{{ruby|鎌倉|かまくら}}'''」といって、御家人は戦いが起きれば、すぐに鎌倉へと行って将軍に指示を聞き、将軍のために戦うべき、とされていました。<!-- 東京書籍などが紹介 -->
この主従関係は、土地を仲立ちとしています。
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北条氏のように、執権として政治の実権をにぎる政治の方法を {{ruby|執権|しっけん}}政治 といいます。
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* モンゴル{{ruby|帝国|ていこく}}の{{ruby|元|もと}}
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* その他
{{ruby|鎌倉|かまくら}}時代には、{{ruby|彫刻|ちょうこく}}で {{ruby|金剛力士像|こんごうりきしぞう}}がつくられました。<!--
※金剛力士像の画像が用意できないので、ここには画像をのせません。
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{{-}}
==
<gallery mode="packed" style="text-align: center;" caption="" heights="150px" perrow="3">
File:Kinkaku3402CBcropped.jpg|金閣({{Ruby|鹿苑寺|ろくおんじ}})
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{{-}}
[[File:Tukinami huuzoku taue.jpg|thumb|400px|室町時代の田植えの様子。『{{ruby|月次風俗図屏風|つきなみふうぞくずびょうぶ}}』より]]
色々な村で、用水路や共用地の管理など村の運営のしかたについて、寺社などに集まって自主的に相談しあって決めるようにするなど、農民どうしの集まりが開かれるようになりました。
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{{-}}
* {{Ruby|書院造|しょいんづくり}}
[[File:Takagike Kashihara JPN 001.jpg|thumb|400px|書院造]]
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特ちょうは、
などです。
これが、今日の和室の様式に
* 水墨画
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{{clear}}
== {{Ruby|戦国|せんごく
{{-}}
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宣教師は,日本とヨーロッパとのあいだの貿易の世話もしたので,大名たち(特に西日本)の中にはキリスト教を保護する者も,いました。
このようなことをきっかけに,日本は,ポルトガルやスペインとの貿易を始めました。ポルトガル人・スペイン人の商船が,{{Ruby|九州|きゅうしゅう}}の{{ruby|長崎|ながさき}}や{{ruby|平戸|ひらど}}や,{{ruby|大阪|おおさか}}の{{ruby|堺|さかい}}の港などを{{ruby|訪|おとず}}れて貿易をするようになりました。
~'''織田信長・豊臣秀吉・徳川家康'''~
* 桶狭間の戦い
[[File:Odanobunaga.jpg|250px|thumb|織田信長]]
[[File:Sengoku period 1565.png|thumb|500px|1565年の領地の様子]]
<!-- ※
{{ruby|戦国|せんごく}}時代には各地に大名がおり,多くの大名どうしが争っていた。1560年{{ruby|以降|いこう}}から,まず,{{ruby|尾張|おわり}}(現在の{{ruby|愛知|あいち}}県の西部)の大名であった '''{{ruby|織田信長|おだのぶなが}}'''が勢力を{{ruby|拡大|かくだい}}し始めました。
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そして,1573年ごろ
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なお、このような政策を {{ruby|楽市楽座|らくいちらくざ}}といいます。
▲==== 本能寺の変 ====
[[File:Sengoku period 1582.png|thumb|400px|1582年の領地の様子]]
なお、この一連の事件を '''本能寺の{{Ruby|変|へん}}''' といいます。▼
▲このとき,家臣の '''{{ruby|明智光秀|あけちみつひで}}'''が{{ruby|裏|うら}}切り,明智の軍が信長におそいかかり,この本能寺で信長および信長の子の{{ruby|織田信忠|おだのぶただ}}たちは{{ruby|死亡|しぼう}}しました。
▲なお、この一連の事件を '''本能寺の変''' といいます。
'''信長は,天下統一をなしとげられませんでした。'''
'''信長は,天下統一をしていません。'''
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{{-}}
[[File:Toyotomi_hideyoshi.jpg|thumb|250px|豊臣秀吉。秀吉は,もともと農民でしたが,村をでて,武士になりました。そして,信長に{{Ruby|認|みと}}められて,信長の部下になりました。]]
[[File:Osaka Castle Keep tower of 「A figure of camp screen of the Osaka summer」.jpg|thumb|大阪城]]
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そして1590年には,秀吉に従わなかった{{Ruby|北条|ほうじょう}}氏の治める関東の{{Ruby|小田原|おだわら}}をせめ,{{ruby|北条氏政|ほうじょううじまさ}}をほろぼしました。
* {{Ruby|検地|けんち}}
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※「百姓」とは,農民や漁民などのことです。
日本を統一した秀吉は,つぎに,外国を{{Ruby|征服|せいふく}}しようとしました。そのため,中国を征服しようとしました。このための足がかりとして,まず{{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}に通行の許可や協力などをもとめたが,朝鮮に断られたため,朝鮮との戦争になり,2度にわたって朝鮮に兵を送って戦争をしました。
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{{-}}
{{コラム|朝鮮出兵の結果|朝鮮出兵の結果として、
などのことが起こりました。}}
[[File:Tokugawa_Ieyasu2.JPG|thumb|300px|徳川家康]]
1590年,秀吉の命令によって,家康の領地が関東に移され,{{Ruby|江戸城|えどじょう}}が家康の{{Ruby|拠点|きょてん}}となりました。家康が江戸に移る前は,{{Ruby|三河|みかわ}}(今でいう{{Ruby|愛知|あいち}}県の東部)の大名でした。
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{{-}}
{| class="wikitable" style="float:right"
|+ {{ruby|信長|のぶなが}}・{{Ruby|秀吉|ひでよし}}・{{Ruby|家康|いえやす}}の時代
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{{clear}}
つぎのような
'''{{Ruby|織田|おだ}}がつき {{Ruby|羽柴|はしば}}がこねし 天下もち'''
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