「小学校社会/6学年/歴史編/下巻」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
M little…
議論ページで提案したことを実行。ついでに見出しの見直し。
5 行
また、人物についてくわしく学ぶ「人物事典」は[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典|こちら]]です。政治や日本の世界へのかかわりについて学ぶ「政治・国際編」は[[小学校社会/6学年/政治・国際編|こちら]]です。
 
== {{Ruby|江戸幕府|えどばくふ}}時代による政治の安定 ==
=== ;江戸時代初期の政治 ===
{{ruby|江戸|えど}}時代のはじめごろ、{{Ruby|江戸幕府|えどばくふ}}は、日本全国に200人ほどいた{{Ruby|大名|だいみょう}}を、徳川家の親類である{{Ruby|親藩|しんぱん}}・古くから徳川家に{{Ruby|従|したが}}っていた{{Ruby|譜代|ふだい}}・関ヶ原の戦いのころから従った{{Ruby|外様|とざま}}の3つにわけました。
 
39 行
** 一. (武士は)学問や武芸の道に、ひたすら{{Ruby|専念|せんねん}}すること。
** 一. 新しく城を築くことは、かたく禁止する。修理する場合であっても、必ず幕府に申し出ること。
** 一. 大名は、毎年、きめられた月に江戸に{{Ruby|参勤|さんきん}}すること(参勤交代)。 (※3代将軍 {{Ruby|徳川家光|とくがわいえみつ}}が加えた)
** 一. 大きな船を作ってはならない。(※3代将軍 徳川家光が加えた)
** 一. 大名は、幕府の許可なしに勝手に{{Ruby|結婚|けっこん}}をしてはならない。
46 行
* {{Ruby|参勤交代|さんきんこうたい}}
[[File:Iemitu.jpg|thumb|徳川家光]]
[[File:NikkoYomeimon5005.jpg|thumb|400px|{{ruby|日光東照宮|にっこうとうしょうぐう}}({{ruby|栃木|とちぎ}}県)。<br>家光によって建てられた、{{Ruby|徳川家康|とくがわいえやす}}をまつっている神社です。世界文化{{ruby|遺産|いさん}}および{{Ruby|国宝|こくほう}}です。]]
1635年、3代{{Ruby|将軍|しょうぐん}}の{{Ruby|徳川家光|とくがわいえみつ}}は、{{Ruby|武家諸法度|ぶけしょはっと}}に大名には一年ごとに江戸と領地に半数ずつ住まわせるという '''{{Ruby|参勤交代|さんきんこうたい}}''' という決まりを付け加えました。
 
74 行
「わたしの祖父の{{Ruby|家康|いえやす}}や父の{{Ruby|秀忠|ひでただ}}は、もともとは、お前たちと同じ大名で、ともに戦った仲間だったから、お前たちへのえんりょがあった。だが、私は、生まれながらの将軍だ。だから、お前たちを家来として、あつかう。これに不満のある者は、領地に帰って戦いの準備をするがよい。戦いの相手をしてやろう。」
 
=== ;キリスト教の禁止と貿易 ===
 
{| class="wikitable" style="float:right"
107 行
さらに、3代{{Ruby|将軍|しょうぐん}}の{{Ruby|徳川家光|とくがわいえみつ}}のころに、日本人が海外に行くことや、外国にいる日本人が日本に帰国することを禁止しました。
 
:このころ、現在の{{Ruby|長崎|ながさき}}県にある{{Ruby|島原|しまばら}}半島や現在の{{Ruby|熊本|くまもと}}県にある{{Ruby|天草島|あまくさじま}}で、キリスト教の信者の農民3万人あまりによる、大きな{{Ruby|一揆|いっき}}が起きました。
 
この島原・天草の一揆の目的は、キリストの禁止によるキリシタンへの{{Ruby|弾圧|だんあつ}}および領主による重いねんぐなどへの{{Ruby|反乱|はんらん}}でした。
 
反乱軍の中心人物は、当時16才という{{ruby|若|わか}}さだった {{Ruby|天草四郎|あまくさしろう}}({{Ruby|益田時貞|ますだときさだ}})という少年です。
 
幕府は12万人ほどの大軍を送り、4か月ほどかかってこれをしずめました。
117 行
これを '''{{Ruby|島原|しまばら}}・{{Ruby|天草一揆|あまくさいっき}}''' または '''島原の{{Ruby|乱|らん}}''' といいます。
 
<!-- ※ 光村図書の教科書で「島原の乱」という表記全会社使われています。他社の教科書では、「島原・天草一揆」という表記が多を用いてます-->
 
 
128 行
}}
 
[[ファイル:Plattegrond van Deshima.jpg|thumb|300px|1824年ごろにえがかれた出島の鳥かん図(空から見た図)。おうぎの形をしている。]]
そして{{Ruby|江戸幕府|えどばくふ}}は、貿易の相手を、キリスト教を広めるおそれのないオランダと中国だけにかぎり、{{Ruby|長崎|ながさき}}で貿易するを行うことにしました。
 
長崎には、オランダとの貿易のために{{Ruby|出島|でじま}}という人工の島がつくられました。
 
オランダとの貿易は、この出島の中のみだけ行われました。また、オランダ人は、この出島にしか住めませんでした。
 
幕府は、出島に入れる日本人は、幕府の役人や、許可を得た日本人のみに制限していました。
149 行
}}
 
=== ;江戸時代の北海道と沖縄 ===
* {{Ruby|北海道|ほっかいどう}}
 
158 行
このような不公平な貿易におこったアイヌの人たちが、17世紀の中ごろ、'''シャクシャイン'''という人物を中心に{{Ruby|反乱|はんらん}}を起こしました。
 
<!-- ※ シャクシャインは小学校でも習う。教育出版や光村図書の教科書で、章末コラムに書いてある。琉球も同様に習う。-->
 
* {{Ruby|琉球|りゅうきゅう}}王国
168 行
 
 
=== ;身分による支配 ===
{{Ruby|江戸|えど}}時代より前に、{{Ruby|刀狩|かたながり}}などによって農民や武士とのあいだの身分の区別が決まっていきました。{{Ruby|江戸幕府|えどばくふ}}も、身分の区別を受けつぎました。
 
189 行
町民は、年貢のかわりに、町づくりのための費用などを{{Ruby|納|おさ}}める必要がありました。
 
これとはべつに、条件のわるい土地にすまわされたり、祭りへの参加を禁じられるなど、身分上{{Ruby|厳|きび}}しく差別をされた人々がいました。このような人々を 「えた」「ひにん」 といいます
 
※大人の方へ 小学校の検定教科書では、「えた」「ひにん」の言葉はなく、中学で学習することとなっています。
 
江戸時代の日本の人口における武士の{{ruby|割合|わりあい}}は人口の7%ほどです。なお江戸時代の人口の数は 約3000万人 です。
 
江戸時代の日本の農民の人口の割合は、人口の84%ほど約84%です。
 
また、職業を勝手に変えることは、許されませんでした。
206 ⟶ 204行目:
<div style="border:1px solid #000000;">
 '''農民への おふれ書き'''
:* 一. 朝は早起きをして草をかり、昼には田畑の耕作をして、夜には縄をつくって{{ruby|俵|たわら}}を編むなど、それぞれの仕事をしっかりと行うこと。
:* 一. 幕府の法令をおこたったり、地頭や代官のことをそまつに考えず、また名主(村長)や組頭のことは真の親のように思って{{Ruby|尊敬|そんけい}}すること。
:* 一. 酒や茶を買って飲まないこと。
:* 一. 農民は麦・ひえ・あわ などの{{Ruby|雑穀|ざっこく}}などを食べ、なるべく米を食べないこと。
:* 一. 農民の服は、{{Ruby|麻|あさ}}と{{ruby|木綿|もめん}}のみとし、ほかの服は着てはいけない。{{Ruby|裏地|うらじ}}にも他の布を使ってはならない。
:* 一. タバコを{{Ruby|吸|す}}わないこと。
</div>
 
217 ⟶ 215行目:
ほかにも、5~6けんの農民ごとに {{Ruby|五人組|ごにんぐみ}} をつくらせ、ねんぐや犯罪などに、共同で責任を負わせました。
 
== 新しい文化と学問 ==
=== 産業 ===
==== 農;産====
* 農業
{{Ruby|幕府|ばくふ}}や{{Ruby|藩|はん}}は、{{Ruby|新田|しんでん}}の開発に力を入れました。その結果、開こんが進み、田畑の耕地面積は大きく広がりました。
 
234 ⟶ 233行目:
なたね油やごま油の しぼりかす が、肥料として使われました。
 
「ほしか」と{{Ruby|呼|よ}}ばれる、イワシを{{Ruby|乾燥|かんそう}}させて固めた肥料が使われていました。<!-- ※ 日本文教出版の教科書で「ほしか」の名前を紹介。-->
 
 
240 ⟶ 239行目:
<!-- ※ 教育出版や日本文教出版の教科書で紹介。 -->
 
農民が売ることを目的に、綿・なたね・茶・{{Ruby|麻|あさ}}・あい・しょうゆ などの商品作物が作られるようになりました。 農村でも{{ruby|貨幣|かへい}}が使われるようになっていきました。
 
=== ;教育・学問 ===
* {{Ruby|儒学|じゅがく}}
{{Ruby|徳川家康|とくがわいえやす}}をはじめとして{{ruby|幕府|ばくふ}}は、幕府を保ちつづけるには'''{{Ruby|儒学|じゅがく}}'''と{{ruby|呼|よ}}ばれる道徳的な学問が必要だと考え、武士に儒学を学ばせました。
251 ⟶ 250行目:
 
当時の外国では、文字の読み書きのできる庶民は少なく、世界各国の中でも、日本は{{ruby|識字率|しきじりつ}}(文字を読める人の{{Ruby|割合|わりあい}})が高い国でした。
 
また、{{Ruby|貸本屋|かしほんや}}などの書店も、増えていった。
 
* 儒学以外の学問
ヨーロッパの学問を学ぶことは、日本を{{Ruby|混乱|こんらん}}におとしいれる{{ruby|危険|きけん}}な学問だと考えられており、禁止されていました。
 
一方、日本の古典や歴史を学ぶことは{{ruby|認|みと}}められていました。そのため、{{Ruby|万葉集|まんようしゅう}}などの古典や、{{Ruby|古事記|こじき}}・{{ruby|日本書紀|にほんしょき}}などの歴史書について学んだり、研究したりする者も現れました。
278 ⟶ 275行目:
これが、西洋の本を日本語に訳した本のうち、日本では初めての本格的な翻訳書となりました。
 
その当時は、日本語で書かれたオランダ語の辞書はなかったため、非常に時間がかかり、この医学書の「ウェインブラーウ(まゆ)は、目の上に生えている毛である。」というような一文でさえ、翻訳するのにまる1日かかったといいます。翻訳が終わるまでには4年ほどの年月がかかりました。
 
また、杉田と前野は、翻訳のときの苦労話などを『{{Ruby|蘭学事始|らんがくことはじめ}}』に記しました。
284 ⟶ 281行目:
 
* {{Ruby|国学|こくがく}}
江戸時代のなかばごろから、{{Ruby|国学|こくがく}}と{{Ruby|呼|よ}}ばれる、{{ruby|儒教|じゅぎょう}}や仏教の考えにとらわれない立場で、日本古来の古典や文化の研究をする学問が生まれてきました。
[[File:本居宣長02.jpg|thumb|本居宣長]]
{{Ruby|本居宣長|もとおりのりなが}}は、『{{Ruby|古事記|こじき}}』の研究を行い、『'''古事記{{ruby|伝|でん}}'''』を記しました。
304 ⟶ 301行目:
}}
 
=== ;江戸時代の文化 ===
* 絵画
[[ファイル:Beauty looking back.jpg|thumb|210px|『見返り美人図』菱川師宣]]
335 ⟶ 332行目:
実際の歴史上の事件などをえがいた作品があります。
 
ほかにも、江戸時代にはすもう、花火、{{ruby|川柳|せんりゅう}}(季語の入っていない{{ruby|俳句|はいく}}である {{ruby|川柳|せんりゅう}} )が流行しました。
{{clear}}
 
=== 黒船明治来航と開づくり ===
 
* ペリーの来航と開国
[[ファイル:Commodore-Perry-Visit-Kanagawa-1854.jpg|thumb|300px|left|黒船来航]]
[[ファイル:Matthew Calbraith Perry.jpg|thumb|300px|ペリー]]
351 ⟶ 350行目:
 
いっぽう、アメリカが日本に開国をせまった目的は、日本で燃料や水の{{ruby|補給|ほきゅう}}を行うために立ち寄ることができるようにすることでした。
<br><br>
 
そして1年後の1854年に、ペリーが再び日本に現れました。1854年の交渉では、幕府はアメリカの開国要求を断りきれず、ついに日本は開国をしました。
385 ⟶ 383行目:
また、日本の世間から、欧米の国をやっつけようとする考えが出始めました。このような考え方を{{ruby|攘夷|じょうい}}といいます。
 
攘夷{{Ruby|論|ろん}}だけでなく、{{Ruby|朝廷|ちょうてい}}や{{Ruby|天皇|てんのう}}を{{Ruby|盛|も}}り上げて{{Ruby|敬|うやま}}おうという{{Ruby|尊王論|そんのうろん}} という考え方が出てきました。
 
尊王論と攘夷論が加わり、組み合わせた尊皇攘夷論という考え方が出てきました。のちに、尊皇攘夷論これらの考え方は、朝廷に許可を得ず勝手に開国した幕府への{{Ruby|批判|ひはん}}にかわり、やがて幕府をたおそうという運動へと変わっていきました。
 
大人の方へ:上の「尊王論」「攘夷論」「尊王攘夷論」はすべて小学校範囲外です。
 
====* {{Ruby|幕末|ばくまつ}}の武士たち ====
 
<gallery widths="200px" heights="200px">
399 ⟶ 396行目:
</gallery>
 
<!-- ※ 光村図書と教育出版と日本文教出版の教科書で、坂本龍馬、西郷隆盛、勝海舟、大久保利通の紹介あり。
※ 光村図書の教科書で、幕府の井伊直弼と勝海舟の紹介あり。
※ 教育出版の教科書に、桂小五郎、高杉晋作、後藤象二郎の紹介あり。
※ 日本文教出版の教科書に、岩倉具視の紹介あり。 -->
441 ⟶ 437行目:
 
{{clear}}
== ;{{Ruby|明治|めいじ}}時代 ==
 
===* {{Ruby|明治維新|めいじいしん}}と自由{{Ruby|民権|みんけん}}運動 ===
~西洋に学べ~
 
488 ⟶ 484行目:
 
 
====* {{ruby|富国強兵|ふこくきょうへい}} ====
明治時代の日本では、日本を強い軍隊を持った国にしようという動きが高まりました。これを{{ruby|富国強兵|ふこくきょうへい}}といいます。
 
=====* 軍制の{{Ruby|改革|かいかく}} =====
政府は、{{Ruby|欧米|おうべい}}の軍制に習った{{Ruby|改革|かいかく}}として、1873年に '''{{Ruby|徴兵令|ちょうへいれい}}''' を出し、ほぼすべての満20才以上の男子に、身分に関係なく3年間{{Ruby|兵役|へいえき}}の義務を課しました。
 
=====* {{Ruby|地租|ちそ}} =====
江戸時代の税は米などの農産物などであり、農作物のできなどによって税の{{Ruby|収入|しゅうにゅう}}が増減するので、政府にとっては不安定な制度だったため、政府は税の制度をあらため、土地をもつことにかかる税金がかかるようにしました。
 
500 ⟶ 496行目:
 
 
===== ;義務教育 =====
[[File:明治日本での学校に通った子どもの割合.svg|thumb|400px|学校に通った子どもの{{ruby|割合|わりあい}}(※「1973年」は「1873年」の{{ruby|誤|あやま}}りです)]]
 
511 ⟶ 507行目:
さて、明治のはじめは就学率が低かったものの、明治の終わりごろには就学率は高くなり、ほぼ100%になりました。
 
{{コラム|{{Ruby|発展|はってん}}:明治の学校の教科|
学校の教科について、江戸時代には国語(読み書き)、算数(そろばん)しか教えていませんでしたが、明治時代になってから、理科も教えられるようになりました。
 
535 ⟶ 531行目:
人は生まれながらにして平等であるという考え方を{{Ruby|紹介|しょうかい}}しました。
 
===== ;{{Ruby|文明開化|ぶんめいかいか}} =====
 
{| class="wikitable" style="float:right"
579 ⟶ 575行目:
工業の近代化も必要だったため、政府が経営する '''{{Ruby|官営|かんえい}}工場''' を建てました。機械は外国から買いました。また、工場労働者を育成する技師は、外国から招きました。
 
中でも、{{Ruby|群馬|ぐんま}}県の{{Ruby|富岡製糸場|とみおかせいしじょう}}では、フランスから技師を招きました。また、働き手には、全国から女性が集められました。このような官営工場を手本に、民間の工業を近代化させていきました。なお、富岡製糸場は 2014({{Ruby|平成|へいせい}}26)年に世界{{Ruby|遺産|いさん}}に登録されました。なお、このように工場などを建設し、西洋の技術などを取り入れていった動きを {{Ruby|殖産興業|しょくさんこうぎょう}} といいます。
 
 
==== ;西南戦争 ====
{{Ruby|西郷隆盛|さいごうたかもり}}は、もとは新政府の中心的な人物のひとりでしたが、政治の進め方に不満を持ち、新政府を去りました。
 
592 ⟶ 588行目:
しかし、政府軍が勝利したため、それ{{Ruby|以降|いこう}}、士族の反乱はなくなりました。
 
====* 国会をひらこう ====開く運動
[[File:Eiri jiyuu sinbun 1.jpg|thumb|板垣退助の演説と、それをとりしまる{{Ruby|警官|けいかん}}。]]
[[File:Taisuke ITAGAKI.jpg|thumb|200px|板垣退助]]
623 ⟶ 619行目:
 '''大日本帝国憲法'''の主な内容 (現代語{{Ruby|訳|やく}})
 
::* 第1条 大日本帝国は、永久に続く同じ{{Ruby|家系|かけい}}の{{Ruby|天皇|ほうりつ}}が治める。
::* 第3条 天皇は神のように{{Ruby|尊|とうと}}い。
::* 第5条 天皇は議会の協力で{{ruby|法律|ほうりつ}}をつくる。
::* 第11条 天皇が陸海軍を{{Ruby|統率|とうそつ}}する。
::* 第29条 国民は、法律の{{Ruby|範囲|はんい}}内で、{{Ruby|言論|げんろん}}・集会および結社の自由をもつ。
</div>
 
640 ⟶ 636行目:
このようにして、日本は、アジアで初めて、憲法にもとづいて議会政治を行う近代国家となった。
 
=== ;{{ruby|日清|にっしん}}戦争 ===
====* {{ruby|日清|にっしん}}戦争について ====
[[ファイル:Une partie de peche.jpg|250px|right|thumb|:日清戦争のころの{{Ruby|風刺|ふうし}}画「魚{{Ruby|釣|つ}}り遊び」」
:魚(={{ruby|朝鮮|ちょうせん}}を釣り上げようとする日本と中国(清)、横どりをたくらむロシア]]
662 ⟶ 658行目:
朝鮮が独立国となったことにより、朝鮮が中国の属国でなくなったので、1897年に、朝鮮は国名を「{{Ruby|大韓帝国|だいかんていこく}}」と改めました。
 
<!-- 教育出版や日本文教出版『日本の歩み』などには「大韓帝国」の国名も書いてある。 -->
 
====* {{Ruby|三国干渉|さんごくかんしょう}} ====
ロシアは、日本の勢力が中国に{{Ruby|拡大|かくだい}}することで、ロシアに日本の勢力が近づくことをおそれました。
ロシアは、ドイツとフランスと組んで、日本にリャオトン半島を中国に{{Ruby|返還|へんかん}}するように要求しました。
日本は、三国干渉の要求に{{ruby|従|したが}}い、中国にリャオトン半島を返還しました。
 
=== ;{{Ruby|日露|にちろ}}戦争 ===
この、ロシア・ドイツ・フランスによる、リャオトン半島を清国へと返還させる要求を {{ruby|三国干渉|さんごくかんしょう}} といいます。
=====* {{Ruby|日露|にちろ}}戦争 =====
 
<!-- ※ 光村図書の教科書で、傍注で、三国干渉について書いてあります。 -->
 
日本は、三国干渉の要求に{{ruby|従|したが}}い、中国ににリャオトン半島を返還しました。
 
=== {{Ruby|日露|にちろ}}戦争 ===
===== {{Ruby|日露|にちろ}}戦争 =====
* {{ruby|日英同盟|にちえいどうめい}}
({{Ruby|発展|はってん}}:)義和団の事件のあとも、ロシアは兵力をひかず、ロシア軍は満州にい続けました。
701 ⟶ 692行目:
そこで日本は{{Ruby|状況|じょうきょう}}が日本に有利なうちに講和をしようと考え、アメリカに仲立ちをしてもらって、アメリカのポーツマスで日本とロシアは講和条約をむすんだことで、日露戦争が終わりました。
 
;* 講和条約
[[ファイル:Jutaro Komura.jpg|thumb|200px|小村寿太郎]]
アメリカ大統領であるルーズベルト(ローズベルト)が仲立ちとなり、日本の代表は外務大臣の '''{{ruby|小村寿太郎|こむらじゅたろう}}''' で、ロシアの代表はヴィッテでした。
737 ⟶ 728行目:
与謝野晶子の詩は、当時の日本国民の多くから、反戦の気持ちを遠回しにうたった詩として受け止められました。
 
===== ;条約改正 =====への歩み
{| class="wikitable" style="float:right"
|+ 条約改正への流れ
747 ⟶ 738行目:
|-
| 1871 || 日本の使節団が{{Ruby|欧米|おうべい}}を{{ruby|視察|しさつ}}する<br />視察のさい、条約改正をうったえたが、取り下げられた
|-
| 1876 || 日本は1858年に結んだ条約と似た条約を{{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}と結ぶ<!-- 日朝修好条規 -->
|-
| 1883 || {{Ruby|鹿鳴館|ろくめいかん}}を開き、{{ruby|舞踏会|ぶとうかい}}を行う
790 ⟶ 783行目:
 
この一連の事件を '''ノルマントン号事件''' といいます。
<!-- ※ 日本文教出版と教育出版の教科書に、ノルマントン号事件の紹介あり。 -->
この事件をきっかけに、国民のあいだで、条約改正をのぞむ声が、大きくなりました。
 
805 ⟶ 798行目:
 
{{clear}}
===== ;韓国併合 =====
日露戦争のあと、韓国では、日本の支配が強まりました。
 
そのころ、日本政府の中では、日露戦争後のこれからの{{Ruby|韓国|かんこく}}({{Ruby|大韓帝国|だいかんていこく}})との付き合い方をめぐって、日本の政府内では、いろいろな意見がありました。
 
{{Ruby|伊藤博文|いとうひろぶみ}}は、日本の財政{{Ruby|難|なん}}などを理由に、韓国を日本の一部にするのは、反対でした。
 
しかし、仕事で韓国を{{Ruby|訪問|ほうもん}}していた伊藤博文を、朝鮮の青年が、伊藤博文は朝鮮を侵略しようとしているにちがいないと考え、暗殺しました。
 
その後、日本政府内では、韓国を日本の領土にしようという意見が強まりました。
820 ⟶ 807行目:
併合後は、日本が韓国の政治のありかたを支配するようにしたため、韓国では、日本の支配への反発も高まり、1919年には韓国で日本の支配に反対する独立運動も起こりましたが、この独立運動は失敗しました。
 
学校では朝鮮ではなく日本語や日本の歴史が教えられるようになり、朝鮮の人々のほこりは{{Ruby|傷|きず}}つけられました。
=== 明治時代の{{ruby|経済|けいざい}}の変化 ===
 
=== ;明治時代の{{ruby|経済|けいざい}}の変化 ===
イギリスなどから輸入した機械をもとに、{{Ruby|生糸|きいと}}などを生産しました。
 
835 ⟶ 824行目:
 
 
===* {{Ruby|足尾銅山|あしおどうざん}}の{{Ruby|鉱毒|こうどく}}事件 ===
[[Image:Ashio Copper Mine circa 1895.JPG|thumb|250px|1895年頃の足尾銅山]]
{{Ruby|栃木|とちぎ}}県にある{{Ruby|足尾銅山|あしおどうざん}}では、{{Ruby|明治|めいじ}}時代ごろには、全国の約3分の1の銅を生産していました。
851 ⟶ 840行目:
 
 
=== ;明治の学問や文化 ===
====* 医学 ====
[[ファイル:Kitasato Shibasaburo.jpg|thumb|130px|北里 柴三郎]]
;* {{Ruby|北里柴三郎|きたざとしばさぶろう}}
 
{{Ruby|北里柴三郎|きたざとしばさぶろう}}は、ドイツに留学し、そこでドイツの医学者コッホといっしょに研究し、{{ruby|伝染|でんせん}}病である{{Ruby|破傷風|はしょうふう}}の{{Ruby|治療|ちりょう}}法を発見しました。そして北里の名前は世界に広まり、日本の医学も世界に{{Ruby|認|みと}}められていきました。
868 ⟶ 857行目:
 
[[ファイル:Noguchi Hideyo.jpg|thumb|130px|野口英世]]
;* {{Ruby|野口英世|のぐちひでよ}}
野口は、北里の研究所で学んだのち、アメリカにわたり、ヘビ毒の研究で、大きな成果をあげました。その後、アフリカのガーナにわたり、{{Ruby|医療|いりょう}}活動および、{{Ruby|黄熱病|おうねつびょう}}などについて研究しましたが、野口自らが黄熱病に{{Ruby|感染|かんせん}}してしまい、1928({{ruby|昭和|しょうわ}}3)年に{{Ruby|亡|な}}くなりました。
 
875 ⟶ 864行目:
 
{{clear}}
====* 文学 ====
明治時代には、小説が流行し、{{Ruby|夏目漱石|なつめそうせき}}や{{Ruby|樋口一葉|ひぐちいちよう}}などの小説家が登場しました。
 
891 ⟶ 880行目:
{{clear}}
 
== {{Ruby|大正|たい国際社会を目指ょう}}時代た日本 ==
;{{Ruby|大正|たいしょう}}時代 ==
===* 第一次世界大戦 ===
1914(大正3)年、ヨーロッパで 第一次世界大戦 がおきました。
 
913 ⟶ 903行目:
<!-- 日本文教出版の検定教科書では正式名称を紹介していますが、日常語などでは「ソビエト連邦」「ソ連」のほうが一般的であるため、両方とも併記しています -->
 
===; 平等な社会をめざす運動 ===
* 平塚らい{{Ruby|て|(ちょ)}}う・市川房江
[[ファイル:Raicho Hiratsuka.jpg|thumb|200px|平塚らいてう<br>らいてうは、{{Ruby|雑誌|ざっし}}において「もともと、女性は太陽であった。しかし今、女性は月である。ほかの光によって かがやく、病人のような青白い月である。{{ruby|私|わたし}}たちは、かくれてしまった私たちの太陽をさがさなければならない」と述べました。<br>]]
927 ⟶ 917行目:
 
 
*; 選挙権
1925({{Ruby|大正|たいしょう}}14)年、選挙制度が改正され、25才以上のすべての男子が、{{Ruby|選挙|せんきょ}}権を手に入れました。
 
933 ⟶ 923行目:
 
 
===* 大正時代の{{Ruby|暮|く}}らし ===
大正時代の終わりまでには、{{ruby|東京|とうきょう}}や{{Ruby|大阪|おおさか}}など大都市では、バスやデパートなどが、日本に、すでに登場していました。
 
955 ⟶ 945行目:
 
{{clear}}
== 長く続いた戦争(と人々の{{Ruby|昭和|しょうわ}})時代前半らし ==
 
=== ;満州事変 ===
[[File:Manchukuo map 1939.svg|thumb|600px|満州国の位置。Manchukuoが満州国。]]
中国大陸の東北部にある満州で、日本軍により1931年に{{ruby|満州国|まんしゅうこく}}が建国されました。
 
==== 満州事変 ====
日本の一部の軍人は、中国北部の満州に出張していた日本軍を{{Ruby|指揮|しき}}して、中国の満州を{{Ruby|占領|せんりょう}}しようとたくらみました。
 
1,003 ⟶ 992行目:
1936年の2月26日にも、軍人が大臣たちを殺害する事件が起きました。この事件を'''{{Ruby|二|に}}・{{Ruby|二六|にろく}}事件'''といいます。
 
=== ;日中戦争 ===
===* 日中戦争の開戦 ===
1933年、 {{ruby|日中|にっちゅう}}戦争 が始まりました。
 
===* 広がる戦場 ===
1939年にヨーロッパで、ドイツがポーランドにせめこんで、第二次世界大戦が始まりました。
 
1,053 ⟶ 1,042行目:
日本の新聞やラジオなどでは、日本が負けていることは、かくされていました。
 
=== ;戦時中の{{Ruby|暮|く}}らし ===
====* {{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}や{{Ruby|台湾|たいわん}}などの人々 ====
また、日本国内で、{{Ruby|徴兵|ちょうへい}}のため、それまで日本で働いていた日本人の労働者が不足したので、{{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}半島や{{Ruby|台湾|たいわん}}から、朝鮮の人々を労働者として日本に連れてきて、日本の工場や鉱山などで{{ruby|厳|きび}}しい労働をさせました。
 
====* 日本の人々 ====
 
{| class="wikitable" style="float:right"
1,063 ⟶ 1,052行目:
| 年 || おもなできごと
|-
| 1938<br>昭和13 || 国家総動員法ができる<br> ガソリンの使用が制限される
|-
| 1939 || (第二次世界大戦が始まる) <br> パーマネントが禁止される
|-
| 1940 || {{Ruby|砂糖|さとう}}・塩・しょうゆ・マッチなどが配給制になる<br> 国民服が制定される
|-
| 1941 || 米が配給制になる
|-
| 1942 || 衣類が配給制になる
|-
| 1944 || {{ruby|学童疎開|がくどうそかい}}が始まる
|-
|}
1,112 ⟶ 1,101行目:
 
{{clear}}
;{{Ruby|激|はげ}}しくなった戦争
=== 日本の敗戦へ ===
====* {{Lang|ja|{{ruby|空襲|くうしゅう}}と{{ruby|疎開|そかい}}}} ====
1943年ごろからアメリカ軍は、太平洋で日本の海軍をどんどんと{{ruby|倒|たお}}し、アメリカ軍は太平洋の島々を占領していきました。
そして、1944年から、アメリカ軍による{{Ruby|空襲|くうしゅう}}が{{Ruby|激|はげ}}しくなりました。
 
空襲では、とくに、{{Ruby|東京|とうきょう}}{{Ruby|大阪|おおさか}}などの都市が{{Ruby|攻撃|こうげき}}の対象にされることが多かったので、都市に住んでいる子どもたちは、親元からはなれて地方へと移り住む、{{Ruby|集団疎開|しゅうだんそかい}}を させらしなけばなりせんでした。なお、「学童疎開」ということもあります。
 
[[File:After Bombing of Tokyo on March 1945 19450310.jpg|thumb|400px|東京大空襲で焼け野原となった東京。]]
1,125 ⟶ 1,114行目:
 
{{-}}
* 沖縄
==== {{ruby|沖縄|おきなわ}} ====
1945年4月には、アメリカ軍が{{ruby|沖縄|おきなわ}}島に上陸し、3か月ちかくもの地上戦になり、住民も{{Ruby|巻|ま}}きこまれ、多くの人が {{Ruby|亡|な}}くなりました。
 
1,140 ⟶ 1,129行目:
 
{{clear}}
====* {{Ruby|原爆|げんばく}}投下と日本の敗 ====
[[ファイル:Nagasakibomb.jpg|thumb|left|170px|長崎に投下された原子爆弾の「キノコ雲」<br/>1945年8月9日]]
[[ファイル:AtomicEffects-Hiroshima.jpg|thumb|420px|原爆投下後の広島のようす。]]
1,158 ⟶ 1,147行目:
そして'''1945年8月15日'''には、{{ruby|昭和天皇|しょうわてんのう}}がラジオ放送で国民に日本の降伏(終戦)を発表しました。
 
こうして日中戦争や太平洋戦争をふくむ第二次世界大戦が終わりました。
 
[[File:Imperial Rescript on the Termination of the War.ogg|thumb|終戦を知らせるラジオ放送({{ruby|玉音|ぎょくおん}}放送)の{{Ruby|音源|おんげん}}]]
 
* {{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}や{{ruby|台湾|たいわん}}
日本の敗戦により、{{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}や{{ruby|台湾|たいわん}}の人々は、日本の支配から解放されたので、喜んだとわれています。
 
=== 新しい日本の敗戦===
==== ;戦争が終わっても… ====
* 各国の第2次世界大戦での{{Ruby|犠牲者|ぎせいしゃ}}数
 
: 中国 - 約1000万人
1,177 ⟶ 1,167行目:
* {{Ruby|満州国|まんしゅうこく}}の{{Ruby|消滅|しょうめつ}}
 
{{Ruby|満州|まんしゅう}}は、いったんソビエト{{Ruby|連邦|れんぽう}}軍の{{Ruby|占領|せんりょう}}下に入り、そのあと中国にわたされ、国家としての「満州国」は、{{Ruby|消滅|しょうめつ}}しました。満州の地に取り残された日本人は、戦争がわっても、日本にもどれなかった人もいました(中国残留)。このような人々の中には、今でも肉親に会えない人もおり、今でも肉親{{Ruby|探|さが}}しが続けられています
 
* シベリア{{ruby|抑留|よくりゅう}}問題
ソビエト連邦の占領地では、シベリアに連れていかれた日本人もいました。
{{clear}}
 
1,188 ⟶ 1,176行目:
原子爆弾の{{ruby|後遺症|こういしょう}}による死者も、多数出ました。
 
== ;戦後の日本 ==
====* あたらしい国づくり ====
=== アメリカ統治下の日本 ===
==== あたらしい国づくり ====
1945年8月に日本が{{Ruby|降伏|こうふく}}し、日本は、アメリカ軍を中心とした連合国軍に統治されました。
 
1,207 ⟶ 1,194行目:
そして1946({{ruby|昭和|しょうわ}}21年11月3日には '''{{Ruby|日本国憲法|にほんこくけんぽう}}''' が制定され、1947年の5月3日に{{ruby|公布|こうふ}}された。日本国憲法では、これまで制限されていた{{Ruby|言論|げんろん}}の自由が{{Ruby|保障|ほしょう}}され、また、男女平等が原則になりました。
 
=== ;戦後の{{Ruby|暮|く}}らし ===
* 買い物
当時、食料は国から配給されていましたが、量が足りず、ほとんどの人は、食べものに{{Ruby|困|こま}}っていたので、都市の人は、鉄道にのって、遠くの農家などに、食べ物を買いにいきました。
1,218 ⟶ 1,205行目:
日本兵として外国に行っていた人や、戦時中に仕事などとして外国に行っていた人たちが、しだいに日本に引き上げてきました。
 
===; 日本国{{ruby|憲法|けんぽう}} ===
[[File:あたらしい憲法の話 三原則.png|thumb|当時の社会科教科書『あたらしい憲法のはなし』での日本国憲法の3原則を表したさし絵。]]
[[File:あたらしい憲法のはなし 戦争放棄.png|thumb|当時の社会科教科書『あたらしい憲法のはなし』での平和主義(戦争放棄)の原則を表したさし絵。]]
1,234 ⟶ 1,221行目:
なお、{{Ruby|天皇|てんのう}}は日本の{{Ruby|象徴|しょうちょう}}とされました。
 
===* 戦後の学校 ===
* 青空教室
{{Ruby|空襲|くうしゅう}}などで、学校の校舎が焼けてしまったので、終戦後には、授業を校庭などで行うことが多くなりました。このような、戦後の屋外での授業のことを '''青空教室''' といいます。
 
1,248 ⟶ 1,234行目:
{{-}}
 
===* 戦後の国際社会 ===
第二次世界大戦後、戦前まで国際社会の平和をめざすための話し合いの場所であった{{Ruby|国際連盟|こくさいれんめい}}が、戦後は、戦時中の連合国を中心とする '''{{Ruby|国際連合|こくさいれんごう}}'''(国連) として作りかえられました。
 
1,294 ⟶ 1,280行目:
しかし{{Ruby|沖縄|おきなわ}}は, 1972年まで, ひきつづきアメリカの統治下におかれることになりました。
 
* 国際連合への日本;戦後の{{Ruby|加盟発展|かめいはってん}}
日本は、独立後も、ソビエト{{Ruby|連邦|れんぽう}}が{{Ruby|加盟|かめい}}に反対していたため、しばらくは国際連合に加盟できませんでした。
 
しかし,1956年に、日本とソビエト連邦との国交が回復したこともあり、ソビエト連邦も日本の国連加盟に反対をしなくなり、1956年に日本は国際連合の加入を{{Ruby|認|みと}}められました。
 
=== 戦後の{{Ruby|発展|はってん}} ===
第二次世界大戦のあと、日本の産業は、工業を中心に成長していき、「もはや戦後ではない」ともいわれました。
 
1,317 ⟶ 1,298行目:
{{clear}}
[[ファイル:BillyMills Crossing Finish Line 1964Olympics.jpg|thumb|250px|東京オリンピック。10,000m走で{{Ruby|優勝|ゆうしょう}}したアメリカの選手]]
* 東京オリンピック・パラリンピックと万国博覧会
アジアで最初のオリンピックが、1964年に東京で開かれました。これは復興の{{Ruby|象徴|しょうちょう}}となったともいわれ、人々に希望をあたえました。また、同じ年に東京で、{{Ruby|障|しょう}}がい者のスポーツ大会である パラリンピック も開かれました。
 
この東京オリンピックのころ、{{Ruby|東海道|とうかいどう}}新幹線が開通しました。
1,339 ⟶ 1,320行目:
 
{{clear}}
=== ;日本の外交 ===
* {{Ruby|朝鮮|ちょうせん}}半島
日本は{{Ruby|韓国|かんこく}}と、1965年に国交を回復しました。しかし、韓国は{{Ruby|島根|しまね}}県にある{{Ruby|竹島|たけしま}}を不法に{{Ruby|占拠|せんきょ}}しています。
1,359 ⟶ 1,340行目:
 
 
== ;おわりに ==
日本は戦後に{{Ruby|奇跡的|きせきてき}}な復興をとげ、非常に平和で豊かな国となりました。
 
1,368 ⟶ 1,349行目:
さて、日本や世界の歴史は中学校や高校でまだまだくわしく学びますが、小学校でならう歴史はここまでです。
 
歴史は、先人の知を学んだうえで、それを通して現代について考えるものでもあります。
 
では、「世界の中の日本」に進み、日本の世界とのかかわりについて学びましょう。「世界の中の日本」は[[小学校社会/6学年/政治・国際編#世界の中の日本|こちら]]です。