「小学校社会/6学年/歴史編/上巻」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
議論ページで提案したことを実行。ついでに見出しの見直し。 |
わずかに表現変更。 |
||
9 行
[[File:日本の時代の年表.png|450px|thumb|時代の流れ]]
* 時代
** 歴史学習で使う時代の表し方には、まず「時代」があります。これは、「{{ruby|奈良|なら}}時代」「{{ruby|江戸|えど}}時代」などと、大きなことがら(政治の{{Ruby|拠点|きょてん}}が移る,{{Ruby|天皇|てんのう}}が変わるなど)ごとに時代を変えていく表し方です。なお、室町時代のうち1392年までを「{{Ruby|南北朝|なんぼくちょう}}時代」、1467年{{Ruby|以降|いこう}}を「{{Ruby|戦国|せんごく}}時代」ということもあります。
* 西暦
** {{ruby|西暦|せいれき}}は、[[w:イエス・キリスト|イエス・キリスト]]が生まれたとされる年を西暦1年として年を表す表し方です。現在は西暦{{CURRENTYEAR}}年です。
* 世紀
** {{ruby|世紀|せいき}}とは、100年ごとに区切って
== 大昔の{{Ruby|暮|く}}らしとくにづくり ==
348 行
::(現代語{{Ruby|訳|やく}})唐衣の
</div>
384 行
[[File:Daibutsu of Todaiji 3.jpg|thumb|right|300px|東大寺の大仏]]
[[File:Emperor_Shomu.jpg|thumb|聖武天皇]]
8世紀のなかごろ、都では病気が流行し、多くの死者が出たり、さらに、{{ruby|貴族|きぞく}}の{{Ruby|反乱|はんらん}}が起きたり
{{Ruby|仏教|ぶっきょう}}を信じた'''{{ruby|聖武天皇|しょうむてんのう}}'''は、仏教の力を
まず741年に国(今でいう都道府県)ごとに {{ruby|国分寺|こくぶんじ}} を建てさせました。
都には {{ruby|東大寺|とうだいじ}}を建てさせ、そのなかに大仏を作らせました。
[[File:Gyouki_1.jpg|thumb|行基]]
このころ、'''{{ruby|行基|ぎょうき}}'''という{{ruby|僧|そう}}がいました。かれは、{{ruby|渡来人|とらいじん}}の子孫で、{{Ruby|民衆|みんしゅう}}のために用水の池や橋を
しかし、{{Ruby|朝廷|ちょうてい}}は、はじめは、行基の行動をとりしまりました。当時は、{{Ruby|民衆|みんしゅう}}への仏教の布教
朝廷からは、
大仏を作るのは、とても多くの労働力を必要とするので、朝廷には、人々の支持が必要でした。このため、民衆にしたわれていた僧の行基の活動を{{Ruby|認|みと}}めました。
445 行
* 万葉集
和歌をまとめた {{Ruby|万葉集|まんようしゅう}} が759年ごろから{{Ruby|編纂|へんさん}}されま
{{Ruby|貴族|きぞく}}
合計で4500首の歌が
{{clear}}
461 行
他にも、社会の変化で、もはや、{{ruby|公地公民|こうちこうみん}}による昔の政治がうまくいかなくなり、政治のしかたを改める必要もあったのだと思われます。
* {{Ruby|摂関|せっかん}}政治
479 行
'''「この世をば わが世とぞ思{{ruby|ふ|(う)}} {{ruby|望月|もちづき}}の 欠けたることも なしと思{{Ruby|へ|(え)}}ば」'''
(この世は、望月(満月)のように
[[ファイル:Byodoin Phoenix Hall Uji 2009.jpg|300px|thumb|left|平等院鳳凰堂]]
505 行
{{clear}}
ほかにも、歌集である'''{{Ruby|古今和歌集|こきんわかしゅう}}''' や '''{{Ruby|竹取物語|たけとりものがたり}}''' は、かな文字を用いた作品です。
* その他の文化
[[Image:Miniature Model of HigashiSanjoDono.jpg|thumb|375px|典型的な寝殿造である{{ruby|東三条殿|ひがしさんじょうどの}}の復元{{ruby|模型|もけい}}(
----
1. {{ruby|寝殿|しんでん}}、2. {{ruby|北対|きたのたい}}、3. {{Ruby|細殿|ほそどの}}、4. {{Ruby|東対|ひがしのたい}}、5. {{Ruby|東北対|ひがしきたのたい}}、6. {{ruby|侍所|さむらいどころ}}、7. {{ruby|渡殿|わたどの}}、8. {{Ruby|中門廊|ちゅうもんろう}}、9. {{ruby|釣殿|つりどの}}]]
[[image:Masahiro Abe.jpg|thumb|left|150px|{{Ruby|江戸|えど}}時代の束帯
[[File:十二単です.JPG|thumb|150px|left|十二単、京都{{Ruby|御所|ごしょ}}にて]]
536 ⟶ 533行目:
「源氏物語{{ruby|絵巻|えまき}}」も{{ruby|描|えが}}かれました。
{{ruby|随|ずい}}筆では、貴族である{{ruby|清少納言|せいしょうなごん}}が『枕草子』を記しました。清少納言が
絵画には、日本の風景などを書いた {{ruby|大和絵|やまとえ}} が現れ、寝殿造の{{ruby|屋敷|やしき}}の{{ruby|屏風|びょうぶ}}や ふすま などに描かれました。さきほど紹介した源氏物語絵巻も、大和絵です。
645 ⟶ 642行目:
頼朝の死後、1221年に{{ruby|朝廷|ちょうてい}}は、政治の{{ruby|実権|じっけん}}を武士から取りかえそうとして、幕府をたおせという命令を出しました。
このとき、{{ruby|北条政子|ほうじょうまさこ}}は、武士たちに、「あなたたちに頼朝があたえた
この結果、北条氏の幕府軍と、朝廷の軍との戦争になり、北条氏の側が勝利しました。
773 ⟶ 770行目:
* {{ruby|鉄砲|てっぽう}}
[[ファイル:Arquebus.jpg|thumb|right|300px|種子島{{ruby|火縄銃|ひなわじゅう}}<br>当時の鉄砲は,つつ先から火薬とたまをいれるものでした。なお,たまがとどくきょりは,100mほどだといわれています。]]
1543年に,
このとき, ポルトガル人から'''{{ruby|鉄砲|てっぽう}}'''が日本に伝わりました。それまでの日本では鉄砲は知られておらず, 日本にとっては鉄砲は新しい兵器でした。
やがて日本の各地に鉄砲の情報が広がり、大量に鉄砲が作られるようになりました。
鉄砲が日本に伝わってから
[[File:Franciscus_de_Xabier.jpg|thumb|250px|ザビエル。]]
787 ⟶ 784行目:
そのあと,他の宣教師も,次々と日本にやってきました。
宣教師は,日本とヨーロッパとのあいだの貿易の世話もしたので,大名たち(特に西日本)の中にはキリスト教を保護する者も
このようなことをきっかけに,日本は,ポルトガルやスペインとの貿易を始めました。ポルトガル人・スペイン人の商船が,{{Ruby|九州|きゅうしゅう}}の{{ruby|長崎|ながさき}}や{{ruby|平戸|ひらど}}や,{{ruby|大阪|おおさか}}の{{ruby|堺|さかい}}の港などを{{ruby|訪|おとず}}れて貿易をするようになりました。
;天下統一へ
~'''織田信長・豊臣秀吉・徳川家康'''~
801 ⟶ 798行目:
<!-- ※教育出版の教科書に書いてあります。 -->
{{ruby|戦国|せんごく}}時代には各地に大名がおり,多くの大名どうしが争っていた。1560年{{ruby|以降|いこう}}から,まず,{{ruby|尾張|おわり}}(現在の
1560年に,愛知県にいる織田の領地に,となりの静岡県の{{ruby|今川義元|いまがわよしもと}}がせめこみ、{{ruby|桶狭間|おけはざま}}の戦い が起こりました。
807 ⟶ 804行目:
この戦いで,今川義元を織田らの軍が{{ruby|討|う}}ち取り,今川義元は{{ruby|亡|な}}くなりました。このため,今川軍は命令の{{ruby|系統|けいとう}}がくずれてしまい,敗北しました。
桶狭間の戦い以降,信長は西へと勢力を拡大しました。1568年には,{{ruby|室町幕府|むろまちばくふ}}の{{ruby|足利|あしかが}}氏の一族である{{ruby|足利義昭|あしかがよしあき}}を{{ruby|支援|しえん}}して京都に入
1569年,信長は,キリスト教の{{ruby|宣教師|せんきょうし}}と初めて出会い,かれにキリスト教の布教を許可しました。信長本人はキリスト教の信者ではなく,信長のねらいは宣教師のもたらす情報などがねらい
1571年には, 仏教勢力である{{ruby|延暦寺|えんりゃくじ}}が織田
<!-- ※ 日本文教出版の教科書『日本のあゆみ』で,延暦寺の焼き討ちなどを紹介しています。 -->
853 ⟶ 850行目:
{{-}}
;豊臣秀吉の{{Ruby|台頭|たいとう}}
[[File:Toyotomi_hideyoshi.jpg|thumb|250px|豊臣秀吉。秀吉は,もともと農民でしたが
[[File:Osaka Castle Keep tower of 「A figure of camp screen of the Osaka summer」.jpg|thumb|大阪城]]
信長の死を聞いた'''{{ruby|豊臣秀吉|とよとみひでよし}}'''は,ただちに毛利との停戦をし,そして
その後も,秀吉にさからう大名をつぎつぎとたおし,支配をかためていきました。
863 ⟶ 860行目:
このようにして,しだいに秀吉の地位は高まっていき,信長の領地を受けついでいきました。
1583年に秀吉は,
そのあと,秀吉は各地の大名たちを平定して{{Ruby|従|したが}}えていきました。
892 ⟶ 889行目:
:とりあげた刀は,大仏をつくるためのくぎなどにするから,百姓は仏のめぐみで,この世だけでなく,あの世でも救われるだろう。
</div>
;朝鮮出兵
911 ⟶ 906行目:
* 朝鮮に大きな{{Ruby|被害|ひがい}}をあたえた。
* 戦争でほろんだ明の力も弱まる。
などのことが起こりました。}}
;徳川家康
[[File:Tokugawa_Ieyasu2.JPG|thumb|300px|徳川家康]]
1590年,秀吉の命令によって,家康の領地が関東に移され,{{Ruby|江戸城|えどじょう}}が家康の{{Ruby|拠点|きょてん}}となりました。家康が江戸に移る前は,{{Ruby|三河|みかわ}}(今でいう
豊臣秀吉が{{Ruby|亡|な}}くなると,徳川家康の勢力が強まりました。
926 ⟶ 917行目:
[[File:Sekigaharascreen.jpg|thumb|500px|関ヶ原の戦い<br>絵の右側にいるのが徳川軍。絵の左側にいるのが豊臣軍。]]
1600年、{{Ruby|関ヶ原|せきがはら}}(今の
* {{Ruby|江戸幕府|えどばくふ}}
:1603年,{{Ruby|朝廷|ちょうてい}}から{{Ruby|徳川家康|とくがわいえやす}}は {{Ruby|征夷大将軍|せいいたいしょうぐん}} に任命されました。
:家康は{{Ruby|江戸|えど}}(
* 大阪城をせめる
:1614年 家康により,{{Ruby|豊臣|とよとみ}}氏をほろぼすための戦争を始めました。
そして,この戦
944 ⟶ 935行目:
そのため家康は,日本全国の大名に資金や人手を{{Ruby|提供|ていきょう}}させて,江戸の町を広げる工事をさせました。江戸城を広げる工事も行われました。
{{-}}
|