「中学校社会 歴史/戦国時代と安土桃山時代」の版間の差分

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File:Soun Hojo portrait.jpg|{{中付きルビ|2|北条|ほうじょう|早雲|そううん}}(1432〜1519)
File:Saitō Dōsan.jpg|{{Ruby|斎藤道三|さいとうどうさん}}(?〜1556)
File:MotonariMohri Mouri02Motonari.jpg|{{中付きルビ|2|毛利|もうり|元就|もとなり}}(1497〜1571)
File:Portrait of Otomo Sorin.jpg|{{中付きルビ|2|大友|おおとも|宗麟|そうりん}} - 守護大名の一族の出身。
File:Shimazu Takahisa.jpg|{{中付きルビ|2|島津|しまづ|貴久|たかひさ}} - 守護大名の一族の出身。
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(発展的事項、おわり。)
 
 
なお、豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、桶狭間の当時は織田信長の家臣であり、当時の名は 木下藤吉郎(きのした とうきちろう) と名乗っていました。のちの1570年のころに名を変え、木下藤吉郎から羽柴秀吉(はしば ひでよし)に名前を変えています。
 
:※ 中学校では「羽柴秀吉」の名前も習う教科書もあるので、知っておこう。東京書籍の『新しい社会 歴史』平成23年検定版の98ページの本文にも「羽柴秀吉」の語句がある。
 
 
[[File:Map_Japan_Genki1.png|thumb|500px|元亀元年の戦国大名の版図(推定)]]
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信長本人はキリスト教の信者ではなく、信長の狙いは宣教師のもたらす情報などが狙いだとか、あるいは当時に信長と敵対していた仏教勢力への対策などと、一般に言われています。
 
 
* 発展的事項: 信長包囲網(のぶながほういもう)
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(発展的事項「信長包囲網」、おわり。)
 
 
:1570年には、信長に敵対する浅井・朝倉の連合軍と戦争になり姉川の戦いが起きるが、この浅井・朝倉連合軍をやぶる。
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これによって、室町幕府は、ほろんだ。
 
 
* 長篠の戦い
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この1582年の本能寺での一連の事件が'''本能寺の変'''(ほんのうじのへん) です。
 
 
'''信長は、天下統一をしていません。'''
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マスの基準(きじゅん)は、京都で使われていた京枡(きょうます)が全国の基準の枡になった。このような、秀吉が行った検知の改革のことを'''太閤検地'''(たいこう けんち)という。「太閤」(たいこう)とは「関白をやめた人」という意味であり、秀吉のことである。秀吉は関白をやめた後には「太閤」(たいこう)と名乗っていました。
 
 
そして検知の記録によって、田畑の面積や、田の収穫高である'''石高'''(こくだか)、その田畑を耕す農民の名前などが記録される 検地帳(けんちちょう) が作られた。
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検地帳によって耕作者が、はっきりしたので、農民は田畑を持つ権利を認められたが、同時に年貢(ねんぐ)をおさめる義務をおうことになり、土地を勝手に離れる(はなれる)ことができなくなった。
また、これで、かつての荘園のように土地の権利がはっきりしない土地がなくなった。そして公家や寺社などの荘園領主としの権利は完全に否定され、公家などの勢力は衰えた。
 
 
* '''刀狩'''(かたながり)
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*人掃令(ひとばらい れい)
さらに秀吉は1592年に、人々が身分を勝手に変えることを許さなくした。これを人掃令(ひとばらい れい)という。
 
 
*キリスト教の禁止
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1587年にキリスト教の宣教師(せんきょうし)を日本の外へ追放(ついほう)する'''バテレン追放令'''(バテレンついほうれい) を出します。バテレンとは、ポルトガル語で神父を意味する パードレ padre が由来の言葉。 (※ ポルトガル語表記「padre」は、おぼえなくてよい。) しかし南蛮貿易は許可していたこともあり、取り締まりの効果は不十分だった。
 
 
=== 朝鮮出兵 ===
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なぜ秀吉が明への侵略戦争を考えたはじめたかについては、学者でも、まだ理由が解明されていません。仮説(かせつ)は多くありますが、学者の研究途中です。
 
 
なお、20世紀の後の時代の戦争で朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)という戦争がありますが、朝鮮出兵とは別の戦争です。朝鮮戦争は北朝鮮と韓国戦争との戦争です。名前が似ていますが、まちがえないでください。
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戦国時代では、手柄をしめすために敵の将の首を切り取り送るのが一般だったのです。階級の低い敵兵の場合には首ではなく鼻などを切り取っていました。
 
 
 
1598年に日本国内で秀吉が病死し、朝鮮出兵は終わります。
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のちの江戸時代には歌舞伎は演劇となっていき男だけが歌舞伎を行うことになるが、この安土桃山時代には女が歌舞伎踊りをしていた。
 
 
衣服では、小袖(こそで)が普及していった。木綿(もめん)の衣服が、麻にかわって一般的になった。民家の屋根には瓦屋根(かわら やね)の様式が京都などでは増えていった。