「中学校社会 歴史/戦国時代と安土桃山時代」の版間の差分

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→‎信長の台頭: 桶狭間は奇襲ではないのが、21世紀歴史学の有力説。
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戦国時代には各地に大名がおり、多くの大名どうしが争っていた。1560年以降から、まず、{{Ruby|尾張|おわり}} (現在の愛知県西部) の '''織田信長''' が勢力を伸ばし始める。きっかけは、1560年に、尾張が'''桶狭間の戦い'''で{{Ruby|駿河|するが}} (現在の静岡県) の大名である{{中付きルビ|2|今川|いまがわ|義元|よしもと}}の軍に攻めこまれたが、今川義元を織田らの軍が討ち取り、今川義元は死亡する。このため、今川軍は負ける。
 
今川討ち死にのいきさつは、信長軍の兵が少数の軍勢で今川の本陣を奇襲攻撃し、今川義元を討ち取った。
 
:(※ 範囲外: ) 織田軍は桶狭間では奇襲攻撃はしかけてはいない。21世紀の歴史学的には、織田軍は今川の陣営を正面から攻撃したものと思われている<ref>山本博文 著『【東大流】流れをつかかむ すごい!日本史講義』、PHP研究所(出版社名)、2020年5月5日 第1版 第1刷、188ページ</ref>。奇襲説を取ったのは、明治時代の陸軍のようであり、その参考文献として『甫庵信長記』(ほあん しんちょうき)という江戸時代の文献を明治陸軍は参考にしているが、しかしここの『甫庵信長記』(ほあん しんちょうき)は江戸時代初期の娯楽としての歴史読み物であり、史料としての信頼性に欠ける。一方、戦国時代の当時に書かれた『信長公記』(しんちょう こうき)という歴史書には奇襲とは何も書かれておらず<ref>山本博文 著『【東大流】流れをつかかむ すごい!日本史講義』、PHP研究所(出版社名)、2020年5月5日 第1版 第1刷、188ページ</ref>、よって21世紀の歴史学では正面攻撃だというのが有力説である。
 
 
* 発展的事項: 徳川家康の独立