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文献に当たらない事の一番の問題点は、そもそもメインターゲット読者の中学生~高校生あたりの層のために全く役立ってない事だ。これに尽きる。
「現象主義」と言う用語を科学哲学の本で知ったので、関連する話題に追記。
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少なくとも、現代の量子論などの教科書は、ろくに実験事実との検証をしておらず、教科書を読んでも、一部の実験を除いて実験方法がロクに書かれてない。もっとも、電磁気学の教科書にもその傾向(ろくに教科書で実験方法を説明してない傾向)は強くあるが。
 
 
 
 
科学哲学の本を読んでたら「現象論」という言葉があった。
どういう事かというと、哲学本の著者の解釈とは違うかもしれないけど、学問の世界ではかつて「理論的真実」とされた定説がくつがえされた事例がたびたびあったから、学説を記述するときは、なるべく理論を前提するのを避けて観察結果そのものを記述しようという立場があるらしい。
(ただし、大元の哲学でいう「現象論」や「現象学」・「現象主義」はもっと抽象的・哲学史的な文脈で使われているので、科学哲学的な意味の「現象論」とはニュアンスが若干ちがう。)
 
もっとも、現象論的に記述すれば厳密性が増すといっても、実際には程度問題であり、もし観察結果を第三者に通じるように記述するには共通語としての理論が必要である。たとえば「太陽が東から昇るのを見た」という初等的な実験事実を説明ですら、前提となる理論として、
:「太陽」という星があるという、天文学的な理論の仮定、
:その太陽は、毎日、同じ方向から昇るという仮定(だからこそ「昇る」という表現を使える)、
:東西南北などの方向の概念がある、地理や地学に関する仮定、
など様々な仮定や理論に基づいている。
 
もし、そういった理論的背景となる仮定を用いないければ、太陽をみても単に「私は、なんだか、まぶしい物を見て、それが黄色く見えたように目で感じました」程度のことしか言えない。
 
なので、何らかの学問を現象論的に記述する事で客観性を高めようとする際、実際はその学問分野の理論を念頭に置いている。
(たとえば科学哲学者ノーウッド・ハンソンは「理論と観察とは独立ではない」と述べたと言われている<ref>[http://www.ivis.co.jp/text/201205230606.pdf ページ7]</ref>。)
 
現象論・現象主義にもとづく哲学者は、あえて、比較的に理論的な仮定に依拠する程度を減らそうとする事により、理論の頑強さを強めようとするのが現象論・現象主義的なものを考え方、という事らしい。
 
もちろん、森羅万象を観察だけで記述していたら煩雑なので、ある学問の基礎理論など特に重要な学説だけに限定するなどして現象論的に記述したり研究したりすることで、記述の負担を減らすという、実務的なノウハウが使われているが。
 
 
さて、ある学問を現象論的かつ教育的に記述するのは、実は、その学問が成熟したあとに出来ることである(たとえば高校数学の複素数の分野を考えればわかるように。数学史では、複素数の基礎理論が出来たのは、実はオイラーなどが先に定理的な命題を精査したあとの時代であった)。
 
だから、高校で習う理科は現象主義的であるという事はつまり、実は大学の2~3年あたりで習う程度の古典的な「現代物理」と言われる20世紀初頭の学説よりも、実は高校理科のほうが学問的内容が成熟しており高度なのである。
 
だが残念なことに日本の科学者の多くは、そういう、科学教育における現象主義の必要性を理解してない(つまり、高校理科のほうが大学で習う古典より高度だという事が理解できてないのが大半の科学者である)。いや日本だけでなく、おそらく欧米の科学者も同様だろう。中国韓国の論文を見たことがあるが、東アジア諸国でも日本と同様の傾向であると感じる。
 
フッサールの現象学などを読むまでも無く、実は初等中等教育に、現象学の優れたノウハウが詰め込まれているのである。
 
 
== 日本の教育は三等国 ==