「中学校社会 公民/企業の種類・株式会社のしくみ」の版間の差分

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企業の社会的責任に対する出典を追加。ついでにコラム化。長いので範囲外の部分はコラムに。
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このような企業の負う法令順守の義務に加え、 <big>企業の社会的責任</big> といいます。
 
{{コラム||
:(※ 範囲外: )日本では、『企業の社会的責任』を、あたかも、たとえば音楽コンサート開催などの文化事業を企業が主導したりするべきだ等といった論調で使う人もいますが、しかしこの用法は歴史的には明確に間違っており、もともと日本では『企業の社会的責任』とは1960年代の公害問題のときに企業の責任を問う文脈として注目されるようになった用語です<ref>江藤学『標準化教本 世界をつなげる標準化の知識』、日本規格協会、2016年7月29日 初版第1刷、81ページ</ref>。
 
:日本では、『企業の社会的責任』(Corporate Social responsibility、略称:CSR)を、あたかも、たとえば音楽コンサート開催などの文化事業(「メセナ」または「フィランソロピー」といい)を企業が主導したりするべきだ等といった論調で使う人もいますが、しかしこの用法は歴史的には明確に間違っており、もともと日本では『企業の社会的責任』とは1960年代の公害問題のときに企業の責任を問う文脈として注目されるようになった用語です<ref>江藤学『標準化教本 世界をつなげる標準化の知識』、日本規格協会、2016年7月29日 初版第1刷、81ページ</ref>。
また、1970年代の石油危機のさいにも、企業の便乗値上げや買占め・売り惜しみなどを批判する声として、公害や石油危機のこういった企業への批判として、たとい法的責任は問えなくても社会的責任を企業に要求すべきだというような文脈で用いられた表現です。
 
:また、欧米の国際規格であるISO規格の項目ISO 26000 の箇条4でも、『社会的責任』に相当する social responsibility (略称:SR)という用語が定義されていますが、この用語の内容も、法律を守るのはもちろん、たとい合法であっても反倫理的な脱法行為を企業が行わないようにするために「透明性の確保」(transparency トランスペアレンシー)や「説明責任」(accountability アカウンタビリティ)なども加えて企業に要求することで「持続可能な発展」に寄与させることが social responsibility です<ref>江藤学『標準化教本 世界をつなげる標準化の知識』、日本規格協会、2016年7月29日 初版第1刷、82ページ</ref>。なので、まったくメセナとは意味が違います。
:実際、2002年の欧州委員会の報告書「グリーン・ペーパー」では、CSR(企業の社会的責任)とは「社会的、環境的関心事を経営戦略、経営活動の中に組み込むこと」(抜粋)とあります<ref>梅田徹『企業倫理をどう問うか』、日本放送出版協会(NHKブックス)、2006年1月30日 第1刷 発行、65ページ</ref>。このように、環境問題などとの文脈でCSRが語られることも、よくあります<ref>梅田徹『企業倫理をどう問うか』、日本放送出版協会(NHKブックス)、2006年1月30日 第1刷 発行、73ページのページ末の3行</ref>。
 
 
よって『企業の社会的責任』は、利益を目的としない慈善事業(いわゆる寄付、フィランソロピー、メセナ)とは異なります。
:慈善活動などのフィランソロピーの一貫として、CSR活動に取り組むことも可能ですが(たとえばカナダのフィランソロピー・センターによるCSR啓蒙の活動<ref>梅田徹『企業倫理をどう問うか』、日本放送出版協会(NHKブックス)、2006年1月30日 第1刷 発行、65ページ</ref>)、あくまでCSRとはメセナやフィランソロピーは別物です。
 
 
メセナとは、音楽コンクールなどの開催の支援をしたりなどの文化的活動だが、メセナ(フランス語:mécénat)はべつに社会的責任を果たすことではありません。そもそも特定の芸能活動を社会的責任と考えることは、その他の文化活動からすれば不公平であり、音楽コンクールの開催などは、単なる宣伝活動です。
 
寄附行為は、べつに社会的責任を果たすことではありません。企業は既に税金を払っており、国は税金を払わせる以上の金銭の徴収の義務を企業に負わせてはいけません。
 
企業は、短期的には利益だけを追求して活動しますので、なんの用心もしてないと、ともすれば企業は、長期的に企業活動を見た場合に、企業が公害やその他なんらかの人権侵害、あるいは詐欺的な行為などといった社会問題などを引きおこしたりして、社会に害をおよぼす自体にも、なってしまう場合がありかねません。
 
そのような害のある事態を起こさないようにするために、持続可能性のある企業活動をしやすいような制度や経済システムをつくろうという取り組みが、本来の社会的責任の意味です。欧州委員会はすでに2002年の時点で「CSR: 持続可能な発展への企業の貢献」という題名の報告書を出しています<ref>梅田徹『企業倫理をどう問うか』、日本放送出版協会(NHKブックス)、2006年1月30日 第1刷 発行、64ページ</ref>。
2020年の現在、『SDGs』というフレーズで持続可能性(サスティナビリティ)の重要性がうたわれていますが、なにも最近に始まった事ではなく、企業に限定すれば、すでにCSRの一部として行われてきた活動にすぎません。
 
欧米の国際企業の中には、かつて1980年代、生産費を安くするために、海外の工場では、先進国の労働基準法には違反しているような、強制労働のような環境で低賃金の労働をさせたり、あるいは移民を呼び寄せてパスポートを取り上げて、強制労働をさせていたという人身売買のような事例があり、世界的に問題視されました。そのような問題のある強制労働を規制しようというのも、『企業の社会的責任』(CSR)の文脈でよく語られます<ref>梅田徹『企業倫理をどう問うか』、日本放送出版協会(NHKブックス)、2006年1月30日 第1刷 発行、116ページ</ref>。このように、音楽コンサート開催や自前の美術館を持つ事とは、CSRはまったく意味が異なります。
 
1990年代には、途上国の労働現場での児童労働が問題視されました。服飾メーカーやスポーツ用品メーカーが<!-- ナイキ<ref>佐久間健『知りながら害をなすな -優良企業はCSRで生き残る』、ダイヤモンド社、2004年10月15日 第1刷 発行、110ページ</ref>、リーバイス、ギャップ、ラルフ・ローレン、<ref>梅田徹『企業倫理をどう問うか』、日本放送出版協会(NHKブックス)、2006年1月30日 第1刷 発行、116ページ</ref>、アディダス<ref>梅田徹『企業倫理をどう問うか』、日本放送出版協会(NHKブックス)、2006年1月30日 第1刷 発行、118ページ</ref>、 -->、そのような児童労働でマスメディアなどから批判されました<ref>梅田徹『企業倫理をどう問うか』、日本放送出版協会(NHKブックス)、2006年1月30日 第1刷 発行、118ページ</ref><ref>佐久間健『知りながら害をなすな -優良企業はCSRで生き残る』、ダイヤモンド社、2004年10月15日 第1刷 発行、110ページ</ref>。先進国の多国籍企業は、発展途上国に生産を委託している事も多いので、こういった児童労働を防ぐことに強力することも、『企業の社会的責任』の範囲になります<ref>梅田徹『企業倫理をどう問うか』、日本放送出版協会(NHKブックス)、2006年1月30日 第1刷 発行、118ページ</ref><ref>佐久間健『知りながら害をなすな -優良企業はCSRで生き残る』、ダイヤモンド社、2004年10月15日 第1刷 発行、110ページ</ref>。
 
そのほか、違法な労働で生産されたものを輸入しない、不当に安い賃金で働かして生産されたものを輸入しないという、といった'''フェアトレード'''(直訳すると「公平な fair 取引 trade」)も、広い意味では『企業の社会的責任』のための活動のひとつと言えるでしょう<ref>佐久間健『知りながら害をなすな -優良企業はCSRで生き残る』、ダイヤモンド社、2004年10月15日 第1刷 発行、121ページ</ref>。
 
 
そもそも、日本では明治期や大正期から、大企業が病院建設や学校建設などの寄付をするというフィランソロピーの事例はありましたが<ref>梅田徹『企業倫理をどう問うか』、日本放送出版協会(NHKブックス)、2006年1月30日 第1刷 発行、45ページ</ref>、しかし公害などは明治・大正・昭和中期までの時代は放置される傾向だった歴史があるので、フィランソロピーを社会的責任の文脈で述べるのは、やや問題があるでしょう。
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