「中学受験社会/歴史/中巻」の版間の差分
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平氏の一族は栄え、 <big><big>「平氏にあらずんば 人にあらず」</big></big> (意味:平氏の一族でなければ、その者は人ではない。) とまで言われるほど、平氏が栄えた。
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清盛は 海の神をまつっている厳島神社(いつくしまじんじゃ) を敬った(うやまった)。厳島神社は、今でいう広島県の瀬戸内海の側にある。
そして厳島神社の神を、平氏一族がまつるべき氏神(うじがみ)とした。
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これらの源氏と平氏との一連の戦いを「源平の戦い」(げんぺいのたたかい)とか「源平合戦」(げんぺいがっせん)とかという。
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義経(よしつね)は頼朝(よりとも)と対立します。
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将軍は、御家人たちの土地の権利を保証する政策をとるかわりに、御家人たちは将軍のために警備をしたり戦争の時には戦うという主従関係(しゅじゅうかんけい)が、この時代の将軍と手下たちとの主従関係である。
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<big>御恩(ごおん)と奉公(ほうこう)</big> という主従関係です。
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「一所懸命」(いっしょけんめい)という言葉があるが、この言葉は、御家人たちが自分たちの領地を守るために命がけで戦う様子から出来た言葉である。
[[ファイル:Hojo Masako.jpg|thumb|200px|北条政子(菊池容斎 画、江戸時代)]]
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3代目将軍の実朝は、1219年に頼家の子である公暁(くぎょう)によって実朝は殺されます。こうして源氏の直系の将軍は3代で絶えます(たえます)。
==== 承久(じょうきゅう)の乱 ====
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文芸では、平氏の繁栄(はんえい)から滅亡(めつぼう)までを書いた<big>『平家物語』</big>(へいけ ものがたり)のように、軍記物が人々の関心をあつまました。
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<big>琵琶法師</big>(びわほうし)という盲目の僧の人物が、琵琶による弾き語りで各地で平家物語などを語り歩いたといいます。当時は、文字の読める人が少なかったのです。
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やがて後醍醐天皇が隠岐(おき)から脱出する。
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1333年、幕府の御家人であった <big>足利尊氏</big>(あしかがたかうじ) は幕府を裏切り、後醍醐天皇と協力し、京都の六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻め落とした。
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=== 足利義満 ===
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1392年の3代将軍の<big>足利義満</big>(あしかが よしみつ)のときに、幕府が政治を主導する形で、南朝を説得し従わせます。
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</gallery>
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=== 産業の発展と社会の変化 ===
==== 産業の発展 ====
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:(さんぎょう)
二毛作が各地に広まった。西日本だけでなく東日本にも二毛作が伝わっていきます。
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==== 応仁の乱の結果 ====
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京都は戦火で焼け野原になる。じっさいに、そのような戦火の焼け野原の光景を歌った和歌が残っている。
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裕福な貴族や商人などは京都から逃げ、戦火の無い地方に、貴族などは移り住むようになりました。そして、京都の文化が、地方に移り住んだものたちによって、地方へと伝わっていきました。
=== 東山文化 ===
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義政が京都の東山(ひがしやま)に '''銀閣'''<ref>銀閣には銀箔(ぎんぱく)は、はられていません。なぜ「銀閣」とよばれるのかはいろいろな説があります。</ref>(ぎんかく) を建てました。
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* 書院造(しょいんづくり)
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:※ 書院造の見やすい画像が無いので、ウィキペディア日本語版や外部サイトなどで書院造りの画像を見て下さい。
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強い軍を作り、領地内をまとめるために、戦乱の時代に対応した、独自の法律を作りました。これを '''分国法'''(ぶんこくほう)といいます。
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たとえば戦国時代の大名の武田信玄(たけだしんげん)は、『甲州法度次第』(こうしゅうはっとのしだい)という分国法を1547年に作った。主な内容は次のとおりです。
:「武田信玄の許可なく同盟を結ぶことを禁止する」
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* 桶狭間の戦い(おけはざま の たたかい)
[[ファイル:
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戦国時代には各地に大名がおり、多くの大名どうしが争っていた。1560年以降から、まず、尾張(おわり、愛知県にある)の <big>織田信長</big>(おだ のぶなが) が勢力を伸ばし始める。きっかけは、1560年に、<big>桶狭間の戦い</big>(おけはざま の たたかい)で駿河(するが)の大名である今川義元(いまがわ よしもと)の軍に尾張が攻めこまれたが、今川義元を織田らの軍が討ち取り、今川義元は死亡する。このため、今川軍は負ける。
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==== 本能寺の変 ====
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1582年、中国地方へと勢力をひろめるため、織田軍は秀吉などに命じて、中国地方の大名の毛利と戦争をしていました。信長はこれを支援するため中国地方に向かう途中、京都の本能寺に泊まって(とまって)ました。
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=== 朝鮮出兵 ===
国内を統一した秀吉は、つぎに、外国を征服(せいふく)しようとした。そのため、中国大陸、当時は明(みん)という国を征服しようとした。このための足がかりとして、まず朝鮮(ちょうせん)に通行の許可(きょか)や協力などをもとめたが、朝鮮に断られたため、朝鮮との戦争になり、2度にわたって朝鮮に兵をおくって戦争をした。
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朝鮮の民衆も朝鮮軍に協力したが、このため、朝鮮軍だけでなく朝鮮の民衆も戦争に巻き込まれた。
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2回目の出兵では、秀吉は、部下に手柄を証明させるために、敵の耳や鼻を切り取って送ってこい、という命令をだします。
このため日本に多くの朝鮮人・民国人の耳や鼻が送られてきます。
戦国時代では、手柄をしめすために敵の将の首を切り取り送るのが一般だったのです。階級の低い敵兵の場合には首ではなく鼻などを切り取っていました。
1598年に日本国内で秀吉が病死し、朝鮮出兵は終わります。
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{| class="wikitable" style="float:right"
|+ 信長・秀吉・家康の時代
| 織田信長 <br>[[
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| 1534 尾張の大名の子として生まれる || 1537 尾張に農民の子として生まれる || 1542 三河の大名の子として生まれる
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* 絵画
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ふすま絵や屏風絵(びょうぶえ)が発達した。<big>狩野永徳</big>(かのう えいとく) や 狩野山楽(かのう さんらく) などの 狩野派(かのうは) の画家が活躍した。ふすま絵や屏風絵(びょうぶえ)を合わせて障壁画(しょうへきが)という。
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ほかの派の画家では、長谷川等伯(はせがわ とうはく)が有名。
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「カステラ」の由来は、有力な説はポルトガル語でCastelaがスペインのカスティーリャ地方のことだが、カスティーリャ地方のパンケーキという意味でカステラが日本に伝わって、日本語の「カステラ」になったという。 (※ ポルトガル語表記は、おぼえなくてよい。)
* 芸能
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== {{Ruby|江戸|えど}}時代 ==
[[ファイル:Tokugawa Ieyasu2 full.JPG|thumb|300px|徳川家康]]
=== 江戸時代の始まり ===
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1614年、 家康は大坂城へ攻め込みました(大坂冬の陣)。1615年、大坂城が攻め滅ぼされ、豊臣秀頼は自害して豊臣氏は滅亡しました(大坂夏の陣)。こうして、徳川家に対抗する勢力はなくなりました。
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=== 江戸時代初期の政治 ===
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|}
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1635年、3代将軍の'''徳川家光'''のときには武家諸法度に、大名には一年ごとに江戸と領地に半数ずつ住まわせる'''参勤交代'''という決まりが付け加えられました。
また、江戸に大名の妻や子が住まわせられました。
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一方で、参勤交代によって道路などの設備が整い、宿場町も出来ていきました。また、江戸の文化が地方にも広がるきっかけともなりました。
==== 朝廷などの統制 ====
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|}
==== 身分制度 ====
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秀吉によって進められた身分の区別は江戸幕府によってより一層進みました。江戸時代には身分はほぼ固定化されました。また、身分ごとの社会的役割や仕事が定められました。
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=== 江戸時代初期の外交 ===
==== 朱印船貿易 ====
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徳川家康の時代のころから、東南アジア方面の国々と貿易をしていました。この貿易には、日本の船に幕府の許可を示す'''朱印状'''が必要でした。朱印状を持っている日本の船を朱印船と呼びました。この朱印船による東南アジアとの貿易を'''朱印船貿易'''といいます。キリスト教が禁止されたあとにも、朱印船貿易は続けられました。
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島原・天草一揆のあと、宗門改などが強化され、キリシタンの取り締まりはますます激しくなりました。
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==== 朝鮮との貿易 ====
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九州の有明湾では干拓事業によって農地が広げられました。
===== 新しい農具 =====
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Image:Japanese-hoe-biccyukuwa,katori-city,japan.JPG|thumb|180px|備中ぐわ
Image:Mizuguruma,human power waterwheel,katori-city,japan.JPG|thumb|right|140px|水車(みずぐるま)、踏み車(香取市)
</gallery>
1,108 ⟶ 1,100行目:
銀山
:生野(いくの、兵庫県)の銀山。
銅山
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貨幣をつくるには、材料の金や銀が必要なので、幕府は鉱山を開発しました。
また、貨幣をつくる権利は幕府が独占した。
商業の発達には、交通の発達も必要である。
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{{ruby|樽廻船|たるかいせん}}
:酒はくさりやすいので、素早く運ぶ必要があった。そのためのスピードが早くなる工夫をされた船である。
* 航路
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[[ファイル:Hiroshige le pont Nihonbashi à l'aube.jpg|300px|right|thumb|江戸の日本橋の、ようす。五街道は日本橋が起点。画:歌川広重『東海道五十三次』より。]]
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江戸の日本橋を起点とする幹線道路としての街道が5本あるが、これを'''五街道'''という。
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以上の二本の街道が、五街道への北への方面である。
次に京都方面について、説明する。
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東海道は、もっとも人々の行き来が、さかんだった。
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幕府が管理する飛脚を 継飛脚(つぎひきゃく) という。町人のあいだでは 町飛脚(まちひきゃく) が利用された。
==== 都市の発達 ====
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京都
:天皇の住む皇居(こうきょ)があり、寺社も多い。伝統文化の中心地だった。西陣織(にしじんおり)や清水焼(きよみずやき)などの工芸品(こうげいひん)の産地(さんち)でもある。
4代将軍〜5代将軍のから、幕府は財政が悪化していき、財政のあまり良くない状況が、江戸時代の終わりまでずっと続きます。
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==== 新井白石(あらい はくせき)の改革 ====
[[ファイル:
<big>新井白石</big>(あらい はくせき)は、綱吉のあとの、6代所軍の家宣(いえのぶ)に使え、7代将軍の家継(いえつぐ)に仕えた。
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飢饉(ききん)にそなえ、さつまいもの栽培の研究を、青木昆陽(あおきこんよう)に命じます。
* 目安箱(めやすばこ)
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また、オランダ語を青木昆陽(あおき こんよう)や野呂元丈(のろ げんじょう)たちに学ばせました。
* 上米の制(あげまいのせい)
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凶作でも飢饉(ききん)にならないように、米を蔵(くら)に蓄え(たくわえ)させるという<big>囲い米</big>(かこいまい)の制度を作ります。
ききんで米が不足しているということは年貢による収入も少ないということであり、幕府の財政も少なくなっています。なので、帰農令や囲い米には、財政を安定化させる役割もあります。
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* 発展的事項: ききんの根本的な原因
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:「商人による米の買い占めが悪い」と、ときどき言われるが、商人は売り物である米を買っただけです。べつに、米をぬすんだわけでは、ありません。商人に米を売る人が、いたわけです。現金が必要で、商人に米を売った人がいるわけです。
:商人からすれば金をだして米を買ってきたのですから、買値よりも高く米を売らないと利益が出なくなり、商人が失業(しつぎょう)してしまいます。
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(発展的事項、「ききんの根本的な原因」、おわり。)
==== 天保(てんぽう)のききん ====
将軍・家斉(いえなり)のとき。
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天保の改革は失敗に終わり、たったの2年あまりで終わり、水野忠邦は失脚し、幕府そのものも人々からの信用が下がっていった。
=== 江戸時代の学問 ===
1,566 ⟶ 1,533行目:
* 教育
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百姓や町民などの庶民は、「読み」(日本語の読み)、「書き」(日本語の習字)、「そろばん」(算数のこと)などを<big>寺子屋</big>(てらこや)で学んだ。
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* 医学書『ターヘル・アナトミア』の翻訳(ほんやく)
[[画像:Kaitai shinsyo01.jpg|right|thumb|500px|『解体新書』。扉絵は底本『ターヘル・アナトミア』の扉絵とはまったく異なっている。]]
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18世紀のおわりごろ、オランダの医学書が日本語へと訳(やく)された。翻訳書(ほんやくしょ)を出したのは、小浜藩(おばまはん、今でいう福井県)の医者の<big>杉田玄白</big>(すぎた げんぱく)と、中津藩(なかつはん、今でいう大分県)の医者の<big>前野良沢</big>(まえの りょうたく)の二人がかりである。
1,651 ⟶ 1,618行目:
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* 科学技術
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<big>平賀源内</big>(ひらがげんない)が発電機(はつでんき)の<big>エレキテル</big>を作った。エレキテルでの発電の仕組みは、摩擦(まさつ)によって発電する仕組みである。平賀源内は、ほかにも、寒暖計(かんだんけい)を日本で初めて作っている。
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[[ファイル:Ino Tadataka stamp.jpg|thumb|left|伊能忠敬を描いている切手、1995年発行の切手]]
* 測量(そくりょう)
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<big>伊能忠敬</big>(いのう ただたか)は、日本全国を地図をつくるために細かく調べる測量(そくりょう)する旅をして、正確な日本地図である『大日本沿海輿地全図』(だいにほんえんかい よちぜんず)を作った。
1,674 ⟶ 1,641行目:
ちなみに、江戸時代はじめ頃の大阪や京都を中心とした文化を [[元禄文化]](げんろくぶんか) と言う。元禄とは、この時代の元号が元禄(げんろく)なので。
* 俳句
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<gallery widths="250px" heights="250px">
Image:Van Gogh - Portrait of Pere Tanguy 1887-8.JPG
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1,706 ⟶ 1,672行目:
* 人形浄瑠璃
物語を、三味線などを伴奏にしてリズミカルに節をつけて、あやつり人形をうごかしながら語るという<big>人形浄瑠璃</big>(にんぎょうじょうるり)が元禄期の大阪や京都で、はやりました。
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人形浄瑠璃の脚本家である<big>近松門左衛門</big>(ちかまつ もんざえもん)が有名で、近松の作品には『曽根崎心中』(そねざきしんじゅう)や『国性爺合戦』(こくせんや かっせん)などがあります。
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=== 注 ===
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レザノフの1804よりもさかのぼって、1796年にはイギリスが日本に来ていた。
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1808年にはイギリスの軍艦(ぐんかん)のフェートン号が対立しているオランダ船をとらえるために長崎に侵入し、オランダ商館員を人質(ひとじち)にする事件があった。イギリス側は、薪水(しんすい、「たきぎ」と水のこと)と食料を要求し、これを得たのち、日本から退去(たいきょ)した。これを フェートン号事件(フェートンごう じけん) と言います。
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また、開国に反対の主張をしていた諸藩の武士たちを、幕府は弾圧していき捕らえて処刑などの処罰をしていきます。この鎖国派への弾圧を「安政の大獄」(あんせいのたいごく)と言います。
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のちの1860年、直弼は江戸城の桜田門(さくらだもん)の近くを通っていたときに、「安政の大獄」による弾圧に反対をしていた浪士(ろうし)によって、暗殺されてしまいます。この、井伊直弼が死んだ暗殺事件を「桜田門外の変」(さくらだもんがいの へん)と言います。
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