「中学受験社会/歴史/下巻」の版間の差分

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〜<big>西洋に学べ</big>〜<br>
[[ファイル:Mutsuhito-Emperor-Meiji-1873.png|thumb|300px|明治天皇]]
江戸府がほろびてから明治時代はじめごろに行われる一連の改革を'''明治維新'''といいます
戊辰戦争のころ、新政府は大名などに対して政治の方針をしめすため、'''五箇条の御誓文'''を、明治天皇より出させた。
 
戊辰戦争のころ、新政府は大名などに対して政治の方針をしめすため、'''五箇条の御誓文'''を、明治天皇よりさせしました。
 
*政治は、会議で広く意見を聞いて政治を行う。
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*知識を外国からも学んでいって、日本国を発展させていこう。
 
このように、あたらしい日本の政治では、なるべくみんなで政治を行おうという政治を行う方針であることを、大名などに示しました。
 
庶民に向けては'''{{ruby|五榜|ごぼう}}の{{ruby|掲示|けいじ}}'''を出したが、内容はキリスト教を禁止したり、一揆を禁止したりと、江戸時代と変わらない内容であった。キリスト教の禁止については、外国からの反発により、1873年には解禁になった。
 
庶民に向けては'''{{ruby|五榜|ごぼう}}の{{ruby|掲示|けいじ}}'''を出しましたが、内容はキリスト教を禁止したり、一揆を禁止したりと、江戸時代と変わらない内容であっ<ref>キリスト教の禁止については、外国からの反発により1873年には解禁になっ廃止されまし。</ref>
1868年、新政府は「江戸」の地名を「東京」に、年号を「明治」にあらためた。1869年に、新政府は東京を首都にした。明治天皇は京都から東京にうつった。
 
1868年、新政府は「江戸」の地名を「東京」に、年号を「明治」にあらためます元号が明治のころを'''明治時代'''といいます。そして、1869年新政府は東京を首都にした。明治天皇は京都から東京にうつり、東京が事実上の首都になりました。
年号が明治の時代を'''明治時代'''という。
幕末から明治時代はじめごろに行われる一連の改革を'''明治維新'''という。
 
=== 廃藩置県 ===
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1869年に、大名のおさめていた土地と人民を政府に返還させました。これを'''版籍奉還'''といいます。しかし、大名の治めていた領地のほとんどは藩としてそのままのこりました。
 
1871年には、すべての藩を廃止し、府県をおきました。そして、府県のトップである府知事や県令には政府の任命した人物がつき、大名は東京に住まわされました。これを{{ruby|'''廃藩置県'''|はいはん ちけん}}といいます。
 
=== 四民平等 ===
江戸時代の身分制度はなくなり、百姓や町民は平民になりました。武士は士族と、公家・大名は華族となりました。平民も苗字を持つことになり、身分を越えて結婚が出来るように自由となり、職業や住所も自由に選べるようになりました。
 
えた・ひにんなどの差別をされていた人たちも平民としてあつかう'''解放令'''が出されました。しかし、差別されていた人々は戸籍に「新平民」と書かれ、仕事や住むところの制限を受けが続き戸籍にも「新平民」と書かれるなどして差別は残り続けました。
 
一方で、士族は名字を持ち刀を差す・代々俸禄(給料)を主君からもらうなどの特権を失いました。そのため、生活が苦しくなったものが多く、慣れない商売を行って失敗してますます生活が苦しくなるということも珍しくありませんでした。そのため、士族たちの新政府への不満が高まっていきました。
 
=== 富国強兵 ===
==== 軍制の改革 ====
政府は、欧米の軍制に習った改革として、1873年に{{ruby|'''徴兵令'''|ちょうへいれい}}を出し、満2020才以上の男子に、3年間兵士になる、{{ruby|兵役|へいえき}}の義務を課しました(徴兵制)。江戸時代までとちがい、徴兵制では農村などの平民にも兵役の義務がかされ、士族・平民の区別なく徴兵をされました。
 
ただし、当初は免除規定がいくつかあって、一家の{{ruby|主|あるじ}}長男徴兵のかわりに代金を払った者などは徴兵を免除されました<ref>免除規定が廃止され、ほぼ全ての2020才以上男子が徴兵されるようになるのは1889年のことでした。</ref>。
 
また、1876年には、軍人や警察官などの特定の職業以外の人が刀を持ち歩くのをやめさせる'''廃刀令'''(はいとうれい)が出されました。徴兵制と廃刀令によって軍事の特権のなくなった士族からは不満がおきました。また、徴兵によって労働力をうばわれるので、農民たちからも反発され、一揆が起こった場所もありました。
 
==== 地租改正 ====
江戸時代の税(年貢)は米などの農産物が中心であり、農作物の不作・凶作などによって税の収入がへるので、政府にとっては不安定な制度でした。
 
このため、政府は税の制度をあらため、地主に現金で税をおさめさせるようにしました。土地の値段(地価)の3%を土地にかかる税である'''地租'''として地主が現金ではらう制度になりました。
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* 官営工場
[[File:上州富岡製糸場之図 PNG.png|thumb|700px|当時の{{ruby|富岡製糸場|とみおか せいしじょう}}]]
工業を近代化するため、政府みずから経営する{{ruby|官営|かんえい}}の工場を建てました。これを官営工場といいます。機械は外国欧米から買いました。工場労働者を育成する技師は、外国も欧米からよびました。
 
このような政府の経営する工場を、官営工場といいます。このような官営工場を手本に、民間の工業を近代化させたので、'''官営模範工場'''ともいいます。代表的な官営模範工場は群馬県の'''富岡製糸場'''があります。富岡製糸場の働き手には、女性が全国からあつめられました。
 
==== 教育制度の改革 ====
1872年に、6才以上の男女に義務教育を受けさせる'''学制'''を出しました。しかし、学校の建設費の負担や授業料の負担が大きいこと、当時の子供は働き手であったので労働力を取られることからも反発がありました。このため、就学率<ref>学校に通っている者の割合のこと。</ref>は低く、実際に学校に通ったのは一部の子どもだけでした。
 
当初の義務教育の制度は、主にフランスを手本にしたものでした。しかし、フランスの制度が、日本にあわない部分もあったので、のちにアメリカの教育制度を取り入れた教育令を1879年に出しました。