「小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり」の版間の差分

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:稲作は、まず西日本につたわり、西日本から東日本へと、米作りが広がっていき、東北地方南部にまで広がりました<ref>弥生時代の遺跡は、新潟県北部と千葉県・茨城県を結んだ線より西側で発見されており、弥生時代には東北まで稲作ができる品種がなかったと考えられています。</ref>。
:この時代の農具は、木製や石器です<ref>北部九州の一部では鉄を用いた農具も見つかっています。</ref>。{{ruby|穂|ほ}}から米をとるときに、 {{ruby|石包丁|いしぼうちょう}} が、使われました。
;<span id="むら"/>「むら」の誕生</span>
:米は乾燥させると、長期間保管ができます。米を大量に保管することで、冬など食料となるものが少なくなる時期でも、人々は安定した生活をおくることができます<ref>同じような穀物に、小麦やトウモロコシがあります。小麦は、乾燥した土地を好むので日本の気候にあまり合いませんし、トウモロコシは、まだ日本に伝わっていませんでした。</ref>。米は縄文時代から採集または水田を使わずに栽培されていたことがわかっていますが、水田を作って栽培することで、収穫量が大きく上がります。一方で、土地をならして水田をつくったり、ため池などの水源を確保し水を引く水路を作ったりする作業は少人数でやるのはむずかしいことです。そして、一度作った水田は何年も使い続けないと、また、荒れ地をきりひらいて水田を作ることから始めないといけなくなります。稲作を続けていくために、人々は水田を中心に定住を始めます。米などの農作物が安定して取れることで人口が増えていき、やがて、多くの人々が住む「'''むら'''」ができます<ref>「むら」ということばは、「むらがる・むれる(集まる)」や「むれ(集まったもの)」と関係があると言われています。</ref>。
 
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::*「むら」や「くに」はなぜ大きくなっていかなければならなかったのか。-->
:[[#むら|こうして「むら(村)」ができると]]、村同士のあらそいがしばしば起こりました。その原因は、村と村の間に水源がある時にどちらが使うかというものであったり、不作などで食糧が足りなくなったのでとなりの村をおそって食糧をうばったりしたものだったのでしょう。相手の村に対抗するため、別の村と共同してあらそうことがあったかもしれません。
:強い村が弱い村をしたがえたり、村同士で共同したりして、村はだんだん大きなものとなっていきます。村が大きくなってくると、人の行き来もふえ、道を作ったりしなければならなくなります。<span id="市"/>また、人が集まると、人々は同じ農耕(稲作)ばかりではなく、野菜や果物を作ったり、魚をとったり、カゴなど竹細工や木工品を作ったりと別々のことをやって、それぞれ作った農作物や、とった魚や動物、作ったカゴなど工作品とを交換して生活を豊かにすることができるようになります。こうしたものの交換の場として、'''{{ruby|市|いち}}'''ができます。</span>
:田を耕したり、物を収穫したりする能力は人それぞれです。村の中にも豊かな人とそうでない人の差はできました。さらに、たとえば、広い田を持つ豊かな人は、田を持たない人に収穫の一部を与える代わりに自分の田をたがやさせたり、貧しい人の子どもをもらってきて育て、やはり、自分の農地で使ったりもしたでしょう。村のあらそいで負けた人々が、このような立場になることもあったとも考えられます。このころには、こうした豊かな人たちと、その人たちに支配される人々の差がでてきました。
:村が大きくなるにつれ、ばらばらの人をまとめるリーダーが必要になってきます。リーダーは、ため池・水路や道をつくったり、整備することの指示をしたり、市を開いたり、市でのもめごとをおさめたり(仲裁)、また、他の村とのあらそいでは武器を持って戦ったり、それを指揮したりしたでしょう。このリーダーには、上でのべた豊かな人たちがなったり<ref name="鉄"/>、そのような人の中で能力が高いために人々が押し上げたりしたのでしょう。知識をたくわえ、{{ruby|神|かみ}}の声として伝えて、そのようなリーダーになった人もいたかもしれません。
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:古墳には、いろいろな形のものがあります。円形に{{ruby|盛|も}}り上がった古墳を{{ruby|円墳|えんふん}}と言います。四角く盛り上がった古墳を{{ruby|方墳|ほうふん}} と言います。円墳と方墳があわさったような、かぎ{{ruby|穴|あな}}のような形の古墳を {{ruby|前方後円墳|ぜんぽうこうえんふん}} と言います。大阪府{{ruby|堺|さかい}}市にある {{ruby|大仙|だいせん}}(大山)古墳 は、日本で最大の面積の古墳です。
:弥生時代に比べて古墳時代は、古墳作りのような大規模な事業ができるほど人口が増えます<ref name="人口"/>。これは、大陸から、牛や馬がもちこまれたり<ref name="牛馬">『魏志倭人伝』には、「倭には、馬や牛はいない」と書かれていますので、この時代(古墳時代)に伝わったことがわかります。馬は、漢字の音(昔の中国語の音)で「マ」と発音しますが、それがなまって「うま」となったとされています。</ref>、鉄を製造する技術が普及したためであると考えられています。
:なお、このころ、中国は国内が乱れたため、邪馬台国を書いたような歴史書がとだえ、4世紀の様子はあまり伝わっていません。ただ一方で、<span id="好太王の碑"/>4世紀末から5世紀にかけて朝鮮半島の北部に倭の軍隊がせめいって北部の国({{ruby|高句麗|こうくり}})と戦った</span>ことが、朝鮮半島の石碑<ref>「{{ruby|好太王|こうたいおう}}の碑」といいます。</ref>に残っています。このように、この当時も朝鮮半島とは盛んに行き来がありました。
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;古墳の{{ruby|副葬|ふくそう}}品
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:大和政権は、東西に兵を出して、日本の「くに」を一つにまとめようとします
:5世紀後半に作られたと見られる埼玉県の{{ruby|稲荷山|いなりやま}}古墳から見つかった{{ruby|鉄剣|てっけん}}には、「ワカタケル大王」という名がきざまれた文が発見されました。この文から、この地方の王は、ワカタケル大王に使えていたことがわかります。また、熊本県の {{ruby|江田船山|えだふなやま}}古墳 にも、一部が読めなくなっていましたが、「ワ□□□ル大王」という同じ名の刻まれた鉄刀があり、ワカタケル大王の支配する領域が、関東地方から九州までの広い範囲におよんでいたことがわかります。このことから、大和政権は、5世紀後半から6世紀前半にかけて、日本を統一したのではないかと考えられています。
:<span id="南北"/>5世紀に入ると中国はやや安定し、南北に王朝ができ、より安定した南の王朝に日本が使者を何度も送ったことが記録されており</span>、これを送ったのは大和政権の{{ruby|大王|おおきみ}}(天皇)であろうとされています。
;「くにづくり」についての日本神話
:日本に、文字(漢字)が伝えられたのは、4世紀後半から5世紀前半にかけてであろうとされています。伝説では、朝鮮半島から渡ってきた{{ruby|王仁|わに}}が伝えたとされていますが、その前から、ある程度の読み書きはできていたと考えられますし、1人の伝えたもので、文字が伝わるものでもありません。おそらく、朝鮮半島から、漢字を読み書きできる集団が移住してきて大和朝廷につかえたことの、{{ruby|象徴|しょうちょう}}だと考えられます<ref>実際に、王仁の子孫とされる{{ruby|西文|かわちのふみ}}氏は、朝廷に{{ruby|史|ふひと}}という書記の役職で朝廷につかえます。</ref>。