「小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代」の版間の差分

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=== 大和政権の政治 ===
:[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり#大和政権|大和政権は5世紀後半から6世紀前半にかけて、日本の「くに」を統一しました]]。しかし、統一前は各地の「くに」の王であったものが、大和政権にしたがって{{ruby|国造|くにのみやつこ}}や{{ruby|県主|あがたぬし}}などといわれる称号<ref>このような称号を{{ruby|姓|かばね}}といいます。「かばね」は、個人に与えられたものではなく、一族全体で称したものです。</ref>のついた豪族となっただけで、大和朝廷との関係はうすいものでした。他方で、{{ruby|大王|おおきみ}}のまわりの朝廷も、{{ruby|臣|おみ}}、{{ruby|連|むらじ}}、{{ruby|伴造|とものみやつこ}}などの様々な称号のついた豪族によってなりたっており、なかでも{{ruby|大臣|おおおみ}}である{{ruby|蘇我|そが}}氏、{{ruby|大連|おおむらじ}}である{{ruby|物部|もののべ}}氏や{{ruby|大伴|おおとも}}氏といった豪族が有力となっており、それらが、きそっていました。
:<span id="渡来人"/>また、このころ、日本は朝鮮半島との間に深い関係がありました。朝鮮半島は、中国に隣接しており高い技術や文化が伝わっていたので、それらを持った人々が多く日本にやってきて、日本に住み着きます。この人々を'''{{ruby|渡来人|とらいじん}}'''といいます</span>。日本に、'''仏教'''が伝わったのもこのころです。はじめは、渡来人たちの宗教として広まり、やがて6世紀のなかば、朝鮮半島南西部にあって親密な関係にある'''{{ruby|百済|くだら}}'''の国王から、{{ruby|大王|おおきみ}}あてに正式に伝わりました。
:前の章で書かれたとおり、[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり#好太王の碑|倭が朝鮮半島の'''{{ruby|高句麗|こうくり}}'''にせめいったことの記録があります。]]日本は、当時、朝鮮半島の南に{{ruby|任那|みまな}}と呼ばれた領土があったのではないかと考えられてもいますが、朝鮮半島南東部の'''{{ruby|新羅|しらぎ}}'''がだんだん勢力を伸ばしてきて、任那を攻めとってしまいます。
:大和政権は、これに兵を送りましたが、任那はとりもどせませんでした。また、地方の豪族たちもしばしば反乱を起こしました。大和政権は、統一にともなって、支配する地域が広がり、そこに住む人々の数も大きくふえたため、たとえば、戦争を行うとか反乱をおさめるために兵士を集めるなど、それまでのような、豪族の連合では問題の解決が難しくなっていました。
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{| class="wikitable" style="width:100%"
|'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】<span id="部民"/>大和政権の国の仕組みと苗字(姓)'''</span><small>
:大和政権は、日本を統一したといっても、それは、豪族の連合であって、国としてのまとまりは弱いものでした。
:このころは、「税」か土地を有する主人と人民の間のやりとりなのかはあいまいで、大和政権が征服した土地の一部を、{{ruby|大王|おおきみ}}の土地として、各地の豪族(国造や県主など)にまかせて、そこからの収穫を都におくるというものでした。このような土地を「{{ruby|屯倉|みやけ}}」と言います。「{{ruby|三宅|みやけ}}」さんという苗字(姓)はこれに由来します。なお、各地の豪族が支配した土地を、「{{ruby|田荘|たどころ}}」と言います。「{{ruby|田所|たどころ}}」という苗字の方もいますね。
:また、{{ruby|大王|おおきみ}}は、職業別の人民のグループをしたがえていて、屯倉(農地)で働かせたり、ニワトリを飼わせたり、工芸品を作らせたりしました。そこから得られるものも大和朝廷のものとなりました。この人民のグループを「{{ruby|部民|べのたみ}}」と言います。田をたがやす{{ruby|田部|たべ}}、ニワトリを飼う{{ruby|鳥飼部|とりかいべ}}、土器を作る{{ruby|土師部|はじべ}}などさまざまな部民がいました。また、豪族のもとにも同じような、人民のグループがいて、それらの人々は「{{ruby|部曲|かきべ}}」と言われてました<ref><span id="奴婢"/>部民・部曲の他、主人が売り買いすることもある召使いや{{ruby|奴隷|どれい}}のような{{ruby|身分|みぶん}}である、{{ruby|家人|けにん}}や{{ruby|奴婢|ぬひ}}と呼ばれる人々もいました。</ref>。その部民の中に、川の渡し船を職業としたグループがいます。河川を使った水運や大きな橋のない時代に、陸上交通を助けたりもしたでしょう。この部民を「渡部」と書いて「わたべ」「わたなべ」と読みます。きっと、皆さんのだれかの苗字か、知り合いの苗字ですよね。もどっていえば、「田部・多部・田辺」さん、「鳥飼」さんとか「土師」さんとかもいませんか。
:服を作る部民を「服部」といいます。「はっとり」さんですよね。これは、もとは「はとりべ」と呼ばれていて、「はたおり」からきています。
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[[File:Prince Shotoku face.svg|180px|thumb|聖徳太子]]
=== 聖徳太子 ===
:大和の有力な豪族どうしの争いは、まず、大伴氏は政治を失敗して勢力が弱くなります。のこった蘇我氏の{{ruby|蘇我馬子|そが の うまこ}}と物部氏の{{ruby|物部守屋|もののべ の もりや}}は、{{ruby|用明|ようめい}}天皇<ref>聖徳太子の父になります。</ref>の死後、誰を天皇とするかで争います。これは、大和朝廷で仏教を信仰するかという争いでもありました。馬子<ref>歴史では、個人を指すのに、しばしば下の名前だけでさししめすことがあります。</ref>は、仏教をとりいれる立場で守屋はそれに反対する立場でした。馬子は、この争いに勝ち、大きな権力をにぎります。馬子は、次の天皇を自分の思いのままにならないからという理由で殺してしまい、593年、初めて女性の天皇である<span id="推古"/>{{ruby|推古|すいこ}}天皇</span>を即位させます。馬子は女性の天皇だと戦争などの時に不安があるため、おいの{{ruby|厩戸王|うまやどのおう}}を{{ruby|摂政|せっしょう}}とし、政治を補佐させます。これが、'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#聖徳太子(しょうとくたいし)|聖徳太子]]|しょうとくたいし}}'''です<ref name="太子">「聖徳太子」は、死後につけられた名前です。歴史の学習では、「太子」だけで「聖徳太子」をさすことがよくあります。なお、本文中「-天皇」と書いていますが、この時代「天皇」という言葉は、まだありません。この前の節までは、大和政権の長をあらわすのに、その時代に使われていた{{ruby|大王|おおきみ}}という表現をしていましたが、聖徳太子の時代以降は、個々の天皇を個人名として表す必要があるため、「-天皇」という表現とします。</ref>。聖徳太子は摂政の立場で、豪族の集団の政治から、'''天皇中心の政治'''を目指します。また、お寺をつくるなどして、仏教文化をさかんにします。これは、都が{{ruby|飛鳥|あすか}}(奈良県中部)を中心にくりひろげられたので、この時代を「'''飛鳥時代'''」と言います。
:太子<ref name="太子"/>は、仏教の信仰が厚く、また、深く研究していたと伝えられます。摂政となる前、馬子と守屋の戦いでは、仏教方である馬子がわにあって、{{ruby|四天王|してんのう}}の像をほって、勝ったならば寺を作ってまつると祈りました。戦いに勝った結果建てられたのが、現在大阪市にある、四天王寺というお寺です。
:太子が摂政になった当時、中国では「'''{{ruby|隋|ずい}}'''」が南北に分かれた中国を統一し強力なものとなっていました。[[小学校社会/6学年/歴史編/歴史の始まり#南北|大和朝廷は南の王朝には何度も使者を送っていた]]のですが、北の王朝へは送っておらず様子があまりわかりませんでした。600年太子は隋に使者を送って様子をみさせます('''{{ruby|遣隋使|けんずいし}}''')。使者は、隋からもどって、太子に隋の進んだ政治、特に皇帝に権力がまとまった様子({{ruby|中央集権|ちゅうおうしゅうけん}})を報告します。太子は、深く納得して、豪族たちの争う大和政権の仕組みをかえようととりくみ、以下のようなことをおこないました。
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:::おのおの、解説します。
:::#天皇の{{ruby|部民|べのたみ}}と各地の{{ruby|屯倉|みやけ}}、そして豪族の所有する{{ruby|部曲|かきべ}}」の民と各地の{{ruby|田荘|たどころ}}を廃止する。
:::#:<span id="公地公民"/>大化の改新までは、土地・人民とも、天皇(=大和朝廷=日本)に属するのと、豪族に属するのがあったけれども、すべて、天皇に属するものとするということです。これを、 '''{{Ruby|公地公民|こうちこうみん}}''' といいます。
:::#:簡単にいえば、豪族から土地と人民<ref>{{ruby|家人|けにん}}・{{ruby|奴婢|ぬひ}}といった人々は、そのまま、豪族などのものとされました。</ref>をとりあげたということです。かわって、これらの豪族は朝廷の役人となり、報酬があたえられました。
:::#{{ruby|都|みやこ}}を定め、{{ruby|畿内|きない}}・{{ruby|国司|こくし}}・{{ruby|郡司|ぐんじ}}・{{ruby|関所|せきしょ}}・{{ruby|斥候|せっこう}}・{{ruby|防人|さきもり}}・{{ruby|駅伝|えきでん}}制などの制度を導入し、通行証を作成し、国郡の境界を設定することとする。
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:::#:*{{ruby|都|みやこ}}を定めます。改新前は、朝廷は天皇の住まい周辺に集まったもので、あまり大規模ではありませんでした。天皇中心の政治を行うにあたっては、役人の数もふえ、役所などの規模が大きくなっていきます。そこで、単に天皇の住まいではなく、国全体をおさめる都市として、{{ruby|都|みやこ}}を考えるようになります。大化の改新当初は小規模で、よく移転しましたが、やがて、平城京という大きな都ができ、安定します。
:::#:*{{ruby|畿内|きない}}<ref>「きだい」とも読みます。</ref>は、都近辺の国です。都の政治の影響もあるため、国の中でも特別なあつかいをします。今の日本で「首都圏」のようなものです。現在の奈良県・大阪府・京都府の一部が畿内となります。
:::#:*それまで、<span id="国"/>各地の豪族(国造や県主など)がおさめていた地域を、いくつかにまとめ「'''{{ruby|国|くに}}'''」として朝廷から役人を'''{{ruby|国司|こくし}}'''として送り統治します</span>。それまで、各地をおさめていた豪族は、朝廷の役人である'''{{ruby|郡司|ぐんじ}}'''となって、おさめていた地域で国司を補佐します。
:::#:*関所は、国境におかれて都などを守る拠点となります。また、人は田をたがやしたりする労働力なので、移動は厳しく制限されます。通行証がなければ関所は通られません。
:::#:*各国の状況は{{ruby|斥候|せっこう}}によって、朝廷に報告されます。
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:::#今までの{{ruby|労役|ろうえき}}を廃止して、新たな{{ruby|租税|そぜい}}制度({{Ruby|田|でん}}の{{Ruby|調|ちょう}})をつくる。
:::#*今までは部民は天皇に、部曲は豪族に、収穫や工芸品などをおさめていたのですが、そのおさめる割合などは決まっていなかったところ、改新ではその内容を決めるというものです。この{{ruby|詔|みことのり}}では、田からの収穫によるものにしかふれていませんが、'''{{Ruby|租庸調|そようちょう}}'''という形にまとめられます。
:::#**'''{{Ruby|租|そ}}'''<span id="租"/>とは、田の収穫量の、約3~10%を、国におさめる税です。
:::#**'''{{Ruby|庸|よう}}'''とは、都に出てきて年10日ほど働くか、布<ref>近代になるまで、糸をつむぎ、{{ruby|布|ぬの}}を織るのは大変な作業で、布・繊維製品は大変高価なものでした。</ref>を納める税です
:::#**'''{{Ruby|調|ちょう}}'''とは、繊維製品または地方の特産物を、国に納める税です。
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:::(現代語{{Ruby|訳|やく}})唐衣のにすがって泣きつく子どもたちを、(防人に出るため)置いてきてしまったなあ。あの子たちには母もいないのに。
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:
{| class="wikitable" style="width:100%"
|'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】「{{ruby|班田収授法|はんでんしゅうじゅのほう}}」と昔の単位({{ruby|尺貫法|しゃっかんほう}})の話'''<small>
:<span id="班田収授"/>「{{ruby|班田収授法|はんでんしゅうじゅのほう}}」によって、「みんな平等に田んぼがもらえるようになったんだ。」と思うかもしれませんが、そう言うものではありませんでした。
:まず、人々は{{ruby|良民|りょうみん}}と{{ruby|賎民|せんみん}}に分けられます。賎民は、朝廷や豊かな貴族や豪族などの[[#奴婢|召使いや奴隷]]です。
:6年ごとに、6歳以上の良民に対して、男性なら2{{ruby|段|たん}}、女性なら、その2/3の田が割り当てられます。この田を、'''{{ruby|区分田|くぶんでん}}'''といいます。
:*「{{ruby|段|たん}}」は「反」とも書きますが、広さの単位です。現在の単位で言うと約12アールです。2段だと、50m四方の田んぼをイメージすればいいかと思います。
:*元々は、1{{ruby|石|こく}}(=約180リットル)の米が取れる広さを1段としていました。1石は1000{{ruby|合|ごう}}<ref>1石=10{{ruby|斗|と}}=100{{ruby|升|しょう}}=1000合</ref>で、当時は、1年を360日で計算していたので、1人1日3合(女性の場合は2合)が必要と考えていたのでしょう。「合」は、今でもお米を炊く時に使いますからみなさんイメージしやすいでしょう。ただ、「1石の米が取れる広さ」といっても決められません。ですから、1段は360{{ruby|歩|ぶ}}とされました。{{ruby|歩|ぶ}}は、1{{ruby|間|けん}}(約1.8m)四方の面積で、「{{ruby|坪|つぼ}}」と同じです。たたみ、2{{ruby|畳|じょう}}分の面積ですね。
:*割り当てられた田から、想定される収穫の3%を税として納めなければなりませんでした。2段なら2石ですから、6{{ruby|升|しょう}}となります。
:つまり、朝廷は、「1年分食べるのに困らない」面積の田と同じ広さの田をわりあて、その分から税を払い残りで生活するようにと言っていることになります。
:これですべてかと言うと、当然そうではありません。役人などは、区分田の他に、役人の位による{{ruby|位田|いでん}}(8〜80{{ruby|町|ちょう}}:1町=10段)、職務による{{ruby|職田|しょくでん}}(2〜40町)が割り当てられ、功績のある物には{{ruby|功田|こうでん}}や{{ruby|賜田|しでん}}が割り当てられました。また、寺や神社には、そこを維持するための{{ruby|寺田|じでん}}・{{ruby|神田|しんでん}}がわりあてられていました。
:これらの土地は広大で、また、日頃の職務を持つ役人や僧侶がたがやすことはできません。そこをたがやしたのは、その役人や寺に属する[[#奴婢|{{ruby|家人|けにん}}や{{ruby|奴婢|ぬひ}}]]といった人たちでした。家人や奴婢にも区分田はわりあてられましたが、良民の1/3で足りることはなかったでしょうから、主人から独立はできませんでした。
:※なお、この単位については、約800年後に大きく見直されます。
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|}</div>
:
:*'''中大兄皇子の外交'''
:*:<span id="遣唐使"/>隋が618年に{{Ruby|唐|とう}}に滅ぼされた後、蘇我蝦夷がまだ大臣の時代、遣隋使につづいて{{Ruby|遣唐使|けんとうし}}が派遣され、皇帝に遠方から来たことで歓迎されました。大化の改新以後も数度にわたって派遣し、唐との親交を深めていました。</span>
:*:このころ、朝鮮半島の情勢が大きく変わります。唐は、勢力を伸ばしている新羅を配下に加え、隋の時代から敵対していた高句麗に対して攻撃しようとしていました。日本は、任那を失ったのちも百済とは親交を深めていたところですが、新羅はさらに勢力を伸ばそうと隣国の百済を唐とともにせめ、660年に百済をほろぼしてしまいます。百済の{{ruby|遺臣|いしん}}<ref>ほろびた国の家臣。</ref>たちは、日本にいた百済王の王子を立てて、百済の復興を望み、日本に支援を願います。朝廷はこれに応じ、約4万人<ref>日本の全人口が約600万人のころです。</ref>の兵を朝鮮半島に送ります。
:*:663年日本・百済連合軍は、唐・新羅連合軍と戦い({{ruby|白村江|はくすきのえ}}の戦い)、約1万人の戦死者をだすほどの惨敗をし、百済から多くの亡命者をひきつれ帰国します。
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:*'''律令制の成立'''
:*:白村江の戦いの敗北は、国の仕組みが遅れていることを自覚させました。唐が強大な理由の一つは、国づくりの基本がしっかりとした法律もとづいているからだと考えた天智天皇は、唐と同じような国づくりを目指して、668年に{{ruby|近江令|おうみりょう}}という法律を決めます。
:*:天智天皇は671年に亡くなり、<span id="壬申の乱"/>翌672年、天智天皇の子{{ruby|大友皇子|おおともの王子}}と弟{{ruby|大海人皇子|おおあまのおうじ}}がはげしく争い({{ruby|壬申|じんしん}}の乱)、大海人皇子が即位し、'''天武天皇'''となります。
:*:天武天皇は、681年、よりよい法律を定めるように命じ、686年天武天皇が亡くなったあとの689年に{{ruby|飛鳥浄御原令|あすかきよみはらりょう}}が完成しました。しかし、飛鳥浄御原令は、役所の仕組みや税の仕組みなどを決めた「{{ruby|令|りょう}}」の部分しかなく、まだ、犯罪の処罰について決めた「{{ruby|律|りつ}}」の部分はありませんでした。
:*:法律の研究はさらに進み、701年に、「律」の部分もそろった '''{{Ruby|大宝律令|たいほうりつりょう}}'''が完成して、しっかりとした法律にもとづく天皇を中心とした国づくりが完成することになります<ref>「'''日本'''」という国の名前は、大宝律令の完成にともない、「倭」に代わって、決められたとも言われています。</ref>。この律令によって、政治を行うことを「'''{{Ruby|律令制|りつりょうせい}}'''」 と言います。
:*:'''律令制の役所'''
:*::「令」によって、朝廷の仕組みが明確になりました。
:*::*政治を行う「{{Ruby|太政官|だじょうかん}}」と、宮中の{{Ruby|祭祀|さいし}}を行う「{{Ruby|神祇官|じんぎかん}}」に分けられます。
:*::*<span id="太政官"/>「太政官」には{{Ruby|太政大臣|だじょうだいじん}}、{{Ruby|左大臣|さだいじん}}、{{Ruby|右大臣|うだいじん}}などがいて重要なことをとりあつかいます。
:*::*「太政官」の下に、租税を扱う{{Ruby|民部省|みんぶしょう}}、軍事を扱う{{Ruby|兵部省|ひょうぶしょう}}、朝廷の財産を扱う{{Ruby|大蔵省|おおくらしょう}}など専門をあつかう、8個の役所(省)が作られました。
:*::*国司も「太政官」の下にありました。九州は、畿内から遠い一方で大陸とは近かったので、{{Ruby|太宰府|だざいふ}}と言う特別の役所がおかれました。
:*::*役人には、{{Ruby|建前|たてまえ}}はだれでもなれましたが、実際になるのは貴族や役人の子ばかりでした。
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{| class="wikitable" style="width:100%"
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:また、「旧国名」の一部、たとえば、{{ruby|長門|ながと}}(山口県北部)の「長」をとって、「{{ruby|州|しゅう}}」の字をつけ、別名を「{{ruby|長州|ちょうしゅう}}」とする呼び方もよくされています。
:「旧国名」は、今でも日常的生活でよく使います。地名では、{{ruby|大隅|おおすみ}}半島、{{ruby|信濃|しなの}}川、{{ruby|'''武蔵'''村山|むさしむらやま}}市などがあり、{{ruby|安'''芸'''|あき}}(広島県西部)と{{ruby|伊'''予'''|いよ}}の間の海峡は{{ruby|芸予|げいよ}}海峡といいます。また、サツマイモは{{ruby|薩摩|さつま}}から全国に普及した芋ですし、香川県の名物は{{ruby|讃岐|さぬき}}うどんです。{{ruby|'''紀'''伊|きい}}(和歌山県)と{{ruby|伊'''勢'''|いせ}}を結ぶ鉄道の路線は{{ruby|紀勢|きせい}}本線と言います。身の回りに「旧国名」に関係するものがないか探してみてください。
:また、役人の国司がいた地域を{{ruby|国府|こくふ}}<span id="国府"/>といいますが、これにちなむ地名も全国に見られます。「国府」のついた地名や{{ruby|府中|ふちゅう}}などがそうです。
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|}</div>
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[[Image:yakushiji_toutou_1.jpg|thumb|left|180px|薬師寺東塔]]
:*'''遣唐使の派遣と唐風文化'''
:*:[[#遣唐使|白村江の戦いにまけてからのちの数回の使者の派遣]]もあって、また、遣唐使を派遣するようになりました。遣唐使の中には、長い間留学し、その経験を朝廷で発揮するものもいました。たとえば、{{Ruby|吉備真備|きびのまきび}}は、十数年唐に留学し、多くの書物と楽器や日時計といったものを日本に持ち込み、政治の世界ではその経験をいかして[[#太政官|右大臣]]にまでなりました。また、{{Ruby|阿倍仲麻呂|あべのなかまろ}}は、真備とともに唐に渡って、学問をおさめますが、大変優秀であったため、唐の役人になり出世しました<ref>唐は、国際的な国で、中国人でなくても高位の役人になれました。</ref><ref>仲麻呂は、30年以上唐に滞在し、老齢になって日本に帰国しようと、遣唐使の帰りの船に乗りましたが、難船し船は唐に戻り、結局帰国できず唐の地で亡くなりました。</ref>。
:*:また、唐の建築様式が伝えられ、宮殿や役所、寺院などが唐風に作られました。唐風建築は、現在でも『薬師寺東塔』などに残っており、日本の寺院建築に大きな影響を残しました。
:*<span id="記紀"/>'''歴史書の{{ruby|編纂|へんさん}}'''</span>
:*:中国の王朝には、前の王朝までの歴史を{{ruby|編纂|へんさん}}<ref>いろいろな資料を集めて、一つの書物を作ること。</ref>する習慣があります。朝廷は中国をまねて、712年に『'''{{ruby|古事記|こじき}}'''』、720年に『{{ruby|日本書紀|にほんしょき}}』を完成させました。『古事記』には、神話の時代から[[#推古|推古天皇]]にいたるまでのできごとが物語を語るように書かれていて、『日本書紀』には神話の時代から持統天皇までの歴史が、神話時代は元となる資料を比較し、天皇の代になってからは、できごとの起こった順に沿って書かれています。古事記と日本書紀は、あわせて『{{ruby|記紀|きき}}』と言っています。
:*'''万葉集'''
:*:このころになると、日本でも、漢字を使える人たちが相当に増え、そういう人の中から、漢字一文字の音を日本語の音に当てるという工夫が生まれ一般的になってきました。この工夫から、日本語の{{Ruby|詩歌|しいか}}である{{Ruby|和歌|わか}}が文字で記録できるようになりました。こうして記録した和歌をまとめた{{Ruby|万葉集|まんようしゅう}}が759年ごろに{{Ruby|編纂|へんさん}}されました。貴族だけでなく、農民など様々な身分の者が作ったと思われる和歌も{{Ruby|収録|しゅうろく}}されており、合計で4500首の歌が収録されています。このため、当時の庶民の生活の様子がよくわかったりします。
:*:また、このような、漢字で日本語の音を表す工夫を{{Ruby|万葉仮名|まんようがな}}<span id="万葉仮名"/>といい、後世の{{Ruby|仮名|かな}}(ひらがな、カタカナ)の源流となります。
:*'''{{ruby|和同開珎|わどうかいちん}}の{{ruby|鋳造|ちゅうぞう}}'''[[File:Wadōkaichin found at Sūfuku-ji Temple Site TNM front.jpg|thumb|150px|和同開珎(東京国立博物館所蔵)]]
:*:平城京完成前の708年、日本で初めて<ref>それ以前に「'''{{ruby|富本銭|ふほんせん}}'''」という貨幣があったという説がありますが、反対意見も強く決着していません。</ref>の{{ruby|貨幣|かへい}}(お金)「'''{{ruby|和同開珎|わどうかいちん}}'''<ref>{{ruby|珎|ちん}}を「{{ruby|寶|ほう}}(「宝」の旧字体)」の略字とみて「わどうかいほう」と読む説もあります</ref>」が{{ruby|鋳造|ちゅうぞう}}<ref>金属をとかして、型に流しこんで、製品を作ること。</ref>されました。
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=== 仏教の興盛 ===
[[File:Emperor Shomu Face.svg|thumb|180px|聖武天皇]]
:<span id="奈良仏教"/>8世紀のなかごろ、都では病気が流行し、多くの死者が出たり、さらに、貴族の反乱が起きたりしたため、世の中に不安が広がりました。仏教を深く信じた'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#聖武天皇(しょうむてんのう)|聖武天皇]]|しょうむてんのう}}'''は、仏教の力を借りて人々の不安をしずめ、社会を安定させようとしました<ref>仏教に対する、このような考えを{{ruby|鎮護国家|ちんごこっか}}といいます。</ref>
:まず741年に国ごとに{{ruby|国分寺|こくぶんじ}}と{{ruby|国分尼寺|こくぶんにじ}}を建てさせました。そして、都には国分寺の総本山として{{ruby|東大寺|とうだいじ}}を建てさせ、そのなかに銅製の'''大仏'''を作らせました。そのころには、この巨大な仏像(高さ約15m、周囲約70m)を作る金属加工の技術はありましたが、これほど大きな仏像を作った経験はなかったため、建立には苦労をきわめ、752年の完成まで7年かかりました。
{{-}}
[[File:Gyouki Face.jpg.svg|thumb|180px|行基]]
:仏教はもともと、[[#渡来人|渡来人]]が伝え、一族の宗教とし、やがて、天皇をはじめとする貴族階級に広がっていったものでした。遣唐使にともなって留学し、帰国して寺を開く僧もふえ、平城京には多くの寺とそこで学ぶ僧が見られるようになりましたが、彼らの多くは仏教を学問としてとらえ、民衆のことを考えることはあまりありませんでした。
:このころ、'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#行基(ぎょうき)|行基]]|ぎょうき}}'''という僧がいました。かれは、渡来人の子孫で、身分を問わず用水の池や橋を造りながら、諸国をまわって教えを説いていたので、多くの人々にしたわれていました<ref>この民衆の生活に深くかかわろうとする教えは、{{Ruby|道昭|どうしょう}}に学びました。道昭は遣唐使で留学し、{{Ruby|玄奘|げんじょう}}に学んでいます。玄奘は、『西遊記』の三蔵法師のモデルになった人です。</ref>。はじめのうちは、当時、民衆への仏教の直接の布教は禁止されており危険な人物と思われ、朝廷は行基の行動をとりしまりました。しかし、民衆や地方豪族の支持を集め、朝廷も危険な行動ではないと理解し、とりしまりをゆるめました。
:こうしたなか、大仏建立には、とても多くの人々の支持と労働力を必要とするので、朝廷は、人々にしたわれていた行基を、日本の仏教の最高峰である'''{{Ruby|大僧正|だいそうじょう}}'''に任じて、大仏建立を主導させました。
[[File:Jianzhen (Tōshōdai-ji, 2).jpg|thumb|left|180px|鑑真]]
:遣唐使で唐に向かった多くの日本の僧が学ぶにつれ、唐の僧の中にも日本に興味をいだく者が出てきました。'''{{Ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#鑑真(がんじん)|鑑真]]|がんじん}}'''がそのひとりです。鑑真は、その当時の唐にあって、僧となるものに戒律を与える教えの第一人者で、日本の留学僧の招きに応じ、日本に渡ろうとしましたが、最初は皇帝からの許可が降りず、許可を得てから渡ろうとして、5回も失敗し、6回目にようやく日本に着きました。6回目に日本についたころには、失明していました。鑑真は、奈良に '''{{Ruby|唐招提寺|とうしょうだいじ}}''' を開き,そして多くの日本人の僧を育てました。
{{-}}
=== 律令制のいきづまり ===
:こうして、聖徳太子がはじめ、大化の改新をへて、「天皇中心の国づくり」と言う考えは、律令制で完成するのですが、奈良時代の半ばにはすでにいきづまりを見せていました。
:国は、人々から「税」を集めることで政治を行うことができます。律令制では、「[[#租|租]]」が最も重要な税で、それは、「[[#班田収授|班田収授法]]」でわりあてられた田から得られるものでした。「班田収授法」は、戸籍や土地台帳の整備など実施には大変難しい点があり、畿内以外の全国で実施できたのかはうたがわしいものがあります。地方では、できたとしても[[#国府|国府]]近辺のごく一部ではなかったかと言われています。
:また、班田収授法が実施できた地域でも問題がありました。
:人口が増えると、新たなををわりあてるために新たに土地を{{ruby|開墾|かいこん}}しなければならないのですが、開墾しても朝廷の土地(公地)となるのでは誰も開墾しないと言うことです。
:朝廷は723年に開墾した土地は三世代(自分-子-孫)にわたって私有を認める{{ruby|三世一身法|さんせいっしんのほう}}を出して開墾を勧めますが、それでも十分ではなく<ref>三世代目で、朝廷におさめることになるので、耕作をやめて荒地にもどすようになりました。</ref>、<span id="墾田永年私財法"/>743年{{ruby|墾田永年私財法|こんでんえいねんしざいほう}}が出され、新たに開墾した土地は、税は納めますが自分の土地として売ったり相続したりできることとなりました。
:墾田永年私財法で、積極的に開墾を行なったのは、貴族や大きな寺で、これらが勢力を持って「天皇中心」がゆらいでいくことになります。
== 脚注 ==
以下は学習の参考ですので覚える必要はありません。
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[[Category:社会|しようかつこうしやかい6]]
[[Category:小学校社会|6ねん]]
[[Category:小学校社会 歴史|#4]]