「小学校社会/6学年/歴史編/天皇中心の国づくり-飛鳥時代から奈良時代」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
49 行
:'''聖徳太子の改革'''
::*'''{{ruby|冠位十二階|かんいじゅうにかい}}の制'''
::*:603年、太子は朝廷に使えるものを役割の重さにしたがって、12の段階に分け、それを冠の色で見分けられるようにしました。それまでは、臣・連・国造などの称号が多数あってその関係は明確ではなく、また、それは豪族一族に認められたものでしたが、この制度によって、一族ではなく、能力のある個人に役職があたえられることになりました。この、冠位の制度は、「{{ruby|位階|いかい}}<ref name="位階">役人の順番を表したもの。後世には、「正一位、従一位、・・・」と言うように表すようになりました。</ref>」の形となって後世まで引き継がれます。
::*'''{{ruby|十七条|じゅうしちじょう}}の{{ruby|憲法|けんぽう}}'''
::*:役人としてのこころがまえをしるしました。一人で決めないで、みんなで相談して決めることなどが説かれ、また、仏教を信じることなどが決められています。
97 行
:::#天皇の{{ruby|部民|べのたみ}}と各地の{{ruby|屯倉|みやけ}}、そして豪族の所有する{{ruby|部曲|かきべ}}」の民と各地の{{ruby|田荘|たどころ}}を廃止する。
:::#:<span id="公地公民"/>大化の改新までは、土地・人民とも、天皇(=大和朝廷=日本)に属するのと、豪族に属するのがあったけれども、すべて、天皇に属するものとするということです。これを、 '''{{Ruby|公地公民|こうちこうみん}}''' といいます。
:::#:簡単にいえば、豪族から土地と人民<ref>{{ruby|家人|けにん}}・{{ruby|奴婢|ぬひ}}といった人々は、そのまま、豪族などのものとされました。</ref>をとりあげたということです。かわって、これらの豪族は朝廷の役人となり、役人の官位({{ruby|官職|かんしょく}}と{{ruby|位階|いかい}}<ref name="位階"/>)にあわせた報酬があたえられるようになりました。このことで、豪族は、朝廷にしたがうものとなりました。役人には、だれでもなれることになっていましたが、実際になるのは、このようなもともと豪族だった役人の子孫ばかりでした。こののちの時代にかけて、このようにもともと豪族であった中央の役人やその一族を「'''{{ruby|貴族|きぞく}}'''」と呼ぶことにしましょう
:::#{{ruby|都|みやこ}}を定め、{{ruby|畿内|きない}}・{{ruby|国司|こくし}}・{{ruby|郡司|ぐんじ}}・{{ruby|関所|せきしょ}}・{{ruby|斥候|せっこう}}・{{ruby|防人|さきもり}}・{{ruby|駅伝|えきでん}}制などの制度を導入し、通行証を作成し、国郡の境界を設定することとする。
:::#:都と地方の政治についてさだめます。
104 行
:::#:*それまで、<span id="国"/>各地の豪族(国造や県主など)がおさめていた地域を、いくつかにまとめ「'''{{ruby|国|くに}}'''」として朝廷から役人を'''{{ruby|国司|こくし}}'''として送り統治します。それまで、各地をおさめていた豪族は、朝廷の役人である'''{{ruby|郡司|ぐんじ}}'''となって、おさめていた地域で国司を補佐します。
:::#:*関所は、国境におかれて都などを守る拠点となります。また、人は田をたがやしたりする労働力なので、移動は厳しく制限されます。通行証がなければ関所は通られません。
:::#:*各国の状況は{{ruby|斥候|せっこう}}によっが調べて、朝廷に報告されます。
:::#:*九州に大陸からの警備の兵として'''{{ruby|防人|さきもり}}'''がおかれました。
:::#:*日本中の国と都で使者をやり取りするようになったので、街道沿いには、使者が使う馬を何頭も飼って馬を乗りかえたり、夜になったら宿泊したりする「{{ruby|駅|えき}}」を作り、都との連絡が、うまくできるようにした{{ruby|駅伝|えきでん}}制を整備しました。
126 行
|'''【脱線 - 覚えなくてもいい話】「{{ruby|班田収授法|はんでんしゅうじゅのほう}}」と昔の単位({{ruby|尺貫法|しゃっかんほう}})の話'''<small>
:<span id="班田収授"/>「{{ruby|班田収授法|はんでんしゅうじゅのほう}}」によって、「みんな平等に田んぼがもらえるようになったんだ。」と思うかもしれませんが、そう言うものではありませんでした。
:まず、人々は{{ruby|良民|りょうみん}}と{{ruby|賎民|せんみん}}に分けられます。賎民は、朝廷や豊かな貴族や地方豪族などの[[#奴婢|召使いや奴隷]]です。
:6年ごとに、6歳以上の良民に対して、男性なら2{{ruby|段|たん}}、女性なら、その2/3の田が割り当てられます。この田を、'''{{ruby|区分田|くぶんでん}}'''といいます。
:*「{{ruby|段|たん}}」は「反」とも書きますが、広さの単位です。現在の単位で言うと約12アールです。2段だと、50m四方の田んぼをイメージすればいいかと思います。
155 行
:*::*「太政官」の下に、租税を扱う{{Ruby|民部省|みんぶしょう}}、軍事を扱う{{Ruby|兵部省|ひょうぶしょう}}、朝廷の財産を扱う{{Ruby|大蔵省|おおくらしょう}}など専門をあつかう、8個の役所(省)が作られました。
:*::*国司も「太政官」の下にありました。九州は、畿内から遠い一方で大陸とは近かったので、{{Ruby|太宰府|だざいふ}}と言う特別の役所がおかれました。
:*::*役人には、{{Ruby|建前|たてまえ}}はだれでもなれましたが、実際になるのは貴族や役人の子ばかりでした。
<div style="margin:0 2em 0 4em">
{| class="wikitable" style="width:100%"
208 ⟶ 207行目:
{{-}}
[[File:Gyouki Face.jpg.svg|thumb|180px|行基]]
:仏教はもともと、[[#渡来人|渡来人]]が伝え、一族の宗教とし、やがて、天皇をはじめとする貴族支配階級に広がっていったものでした。遣唐使にともなって留学し、帰国して寺を開く僧もふえ、平城京には多くの寺とそこで学ぶ僧が見られるようになりましたが、彼らの多くは仏教を学問としてとらえ、民衆のことを考えることはあまりありませんでした。
:このころ、'''{{ruby|[[小学校社会/6学年/歴史編/人物事典#行基(ぎょうき)|行基]]|ぎょうき}}'''という僧がいました。かれは、渡来人の子孫で、身分を問わず用水の池や橋を造りながら、諸国をまわって教えを説いていたので、多くの人々にしたわれていました<ref>この民衆の生活に深くかかわろうとする教えは、{{Ruby|道昭|どうしょう}}に学びました。道昭は遣唐使で留学し、{{Ruby|玄奘|げんじょう}}に学んでいます。玄奘は、『西遊記』の三蔵法師のモデルになった人です。</ref>。はじめのうちは、当時、民衆への仏教の直接の布教は禁止されており危険な人物と思われ、朝廷は行基の行動をとりしまりました。しかし、民衆や地方豪族の支持を集め、朝廷も危険な行動ではないと理解し、とりしまりをゆるめました。
:こうしたなか、大仏建立には、とても多くの人々の支持と労働力を必要とするので、朝廷は、人々にしたわれていた行基を、日本の仏教の最高峰である'''{{Ruby|大僧正|だいそうじょう}}'''に任じて、大仏建立を主導させました。